7:Wait for the T.T.L.S.
ざらざらと雨音が窓ガラスを掻き鳴らしている。
蒸し暑さを覚えるのは、もうそろそろ梅雨入りだからだろう。
自分の部屋が自分の部屋でないみたいな違和感を覚えるのは、自分自身が本調子じゃないからなのだと思う。
人間、どんなに努力したところで一秒前の自分に戻ることは出来ない。過ぎ去っていく現象を後から書き換えたりすることは出来ない。
常に変化していることは、意識しても認識できるものではないのかもしれないし、その必要もないのかもしれない。
でも時々、自分自身の変化を強く認識してしまう瞬間というものはあるわけで……
自分が変わるということは、価値観が変わるということだと思う。
私にとって無価値だったものが、次の瞬間には高騰して、私にとって掛け替えのないものが、次の瞬間にはゴミに成り下がる。
この世界は気の持ちようが半分以上なのかもしれないと思うと、自分の身の回りのものが、実はほぼ無価値に過ぎないのではないかと疑心暗鬼になってしまう。
今の生活も、学生という身分も、自分自身すら……
気分が悪くなってきた。
のそりと体を引き摺るみたいにトイレへと足を伸ばす。
両足が鉛にでもなったみたいに重い。
酷い倦怠感で、背筋を伸ばすのもだるくて、呼吸しようと肺に空気を取り込んでも、もやみたいな息苦しさが拭えず、体中に見えない針金が絡みついたみたいに緩慢で、何もかも気分が乗らない。
トイレから出ると、洗面所で口の中をゆすぐ。黄ばんだ気味の悪いのが少し出ただけで、特に何も吐き出せなかったが、胃の腑にはまだ何か残っているような気がする。
おかしいな。昨日の夜から、吐き出すものは全て吐き出して、今まで何も食べてないのに、お腹の中にまだ何かあるというのだろうか。
体がだるいのは、きっと昨日の夜から何も摂っていないからだろうけど……何も食べる気が起きない。
お腹がくうと空しげに鳴くのに、何か食べたいとはちっとも思わなくて、何もないだけが頭の中を埋め尽くして、今という時間を悪戯に浪費している。
今はそれをするしかないと思うし、何もないと思うほうが、はるかに楽だった。
喉がちりちりと乾く気がする。胃液を吐いたせいか、喉がざらざらと焼けるような感覚がある。
何も食べる気はしないけれど、何か、体に入れなくては、本当に何も出来なくなってしまう。
這うようにして台所に向かう。
今が何時なのかよくわからない。窓を見るともう明るい。もう朝なのだろうか、天気が悪いので朝なのか昼なのかわからない。
食器洗い乾燥機の中を、いつもの習慣で確認してしまう。
一人分の茶碗、皿、それからおかずを詰め込んでいたタッパー、コンテナがいくつか。
夕飯のおかずは、作る量にもよるけど、基本的に二人分を二食作ることにしている。
できるだけメニューが被らないよう作って入るけど、素材や調理法によっては保存が利かないものも出てくる。
そんな端数が出た場合は、私が翌日に処理するか、応用の利くものはお弁当のおかずに流用したりもしていた。
当然、私みたいな半端な学生が作るものには限界があるので、品数が足りないときは冷凍食品のお世話にもなる。
食器洗浄機に鎮座しているコンテナの類は、そういった作り置きの残骸というわけだ。
そしてそれは、今日のお弁当に使うはずだったものだ。
なぜそれが既にここにあるかといえば、昨日の晩、私が寝た後に帰宅した筈の母親がレンジで温めて食べたのだろう。
昨日は夕飯を用意することが出来なかったので、母は一昨日と同じメニューを夕飯にしたことになる。
少し悪い気もしたが、傷む前に食べてくれたことは素直に嬉しかった。
自分の作ったものを捨てざるを得ないのは、悲しい。
食器類が既に乾いているのを確認して、いつもの習慣でそれらを食器棚などに片付けてしまう。
いつもより体が重くて、思うように動けなくて、ぐるぐる空腹を訴えるお腹がうるさくて、イライラしてしまう。
息が重い。
冷蔵庫を開ける。
料理をする気分にはとてもなれない。
特売で買ったバナナがまだ残っていた。
1リットル入りの牛乳パックと一緒に引っ張り出し、台所に広げてコップも取り出す。
いつもと力加減が違って、コップに注ぐ手が震えてこぼしそうになる。
白い液体が、昨日のお風呂場で体を洗っていたときのことを思い出させて、嫌な気分になったが、構わずコップを手に無理やりあおる。
喉が鳴る。自分が思っていた以上に、体は水分を欲していたみたいだ。
生臭い。気持ち悪い。
異様に臭う。賞味期限はまだ大丈夫だった筈なのに、最悪な気分になる。
バナナを一本もぎ取って乱暴に口にねじ込む。
雑に咀嚼して、飲み込む。それを数度。
「ぐっ、かっ……っ!」
喉が異物感を訴え、食道に入ったものを逆流させようと膨れ上がる。
息が詰まって、体に力が入らなくなる。
思わずシンクの淵に手をかけるけど、その拍子に牛乳パックをぶつけて倒してしまう。
注ぎ口の開いたままだった牛乳パックが不細工な音を立てて白い液体をフローリングにぶちまける。
「……っ、あ、は……」
飲み込む動きを何度も繰り返して、異物感が喉の奥を流れていくのを感じると、ようやく息ができるようになった。
開いた口から漏れた息が生臭くて、嫌だった。
溜息が洩れる。
雑巾を取り出して、屈みこみ、フローリングにこぼした牛乳を拭う。
空になった牛乳パックを流し台において、拭き掃除を再開する。
あらかた拭き終えると、膝立ちのまま辺りを見回す。もう汚れはないだろうか。
「……う、ぶっ!」
手に持った雑巾がたっぷり牛乳を吸ったせいだろうか。それとも辺りに牛乳を撒き散らしたせいだろうか。
喉に再びせり上がる感覚を覚え、慌てて流し台に向かって顔を伸ばす。
ぼろぼろと流動食みたいなものが喉の奥から押し流されてくる。
ああ、せっかく食べたのに、勿体無いな。
体は痙攣するほどだったのに、頭の奥は異様に冷静なままだった。
呼気が酸味を帯びて気分が悪かったので、コップに水を注いで軽くゆすいだ。
スポーツブラにも少しかかったかもしれない。
そういえばずっと下着のままだった。
……溜息が洩れる。
力の入らない体を引き摺って、自分の部屋に戻ることにした。
学校は休んだ。連絡をする気力もなかった。というより、時間の感覚がないので、まだ休んだことになったのかもわからない。
……シャワーを浴びよう。
替えの下着を用意して、部屋を出る。
昨日から数えて四度目のシャワーだったと思う。
何度洗っても、においが取れないような気がして、つい何度も浴びてしまう。
今月の水道料金が心配だ。
洗面所で自分の顔を見ると、酷い顔をしていた。昨日よりひどいのではないだろうか。
何度もシャワーを浴びにきているのに、そのたびに酷くなっている気がする。
やだなぁ。
そう思いはするけど、もうどうでもいいという気持ちのほうが勝ってしまって、荒れたままの髪がごわごわと気持ち悪かった。
思わず溜息が洩れるのも無視して、臭う気がするスポーツブラに手をかけたところで、
唐突に、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に、といっても時間の感覚なんてないのだけど、平日の誰もいないはずの家にお客さんなんて珍しい。
と思ったけど、宗教勧誘とかそういう類のものだったらどうしよう。
新聞は取ってないし、その関係の営業員かもしれないし、もしかしたら牛乳配達の業者かもしれない。
いずれにせよ、今の私は来客に対応できるような状態ではない。色々な意味で。
それに、面倒だし……居留守を使ってしまおう。
そう、思っていた。
「小羽、居るんだろう?」
聞き覚えのある声が聞こえて、脱ぎかけた手が止まった。




