6-5
ちょろちょろと水の流れる音が聞こえる。どこかの雨どいが壊れているのかもしれない。
でもそれが聞こえるということは、雨はもう止んでいるのかもしれない。
さっきまで……少し眠っていたから、それよりも前までは、雨の音と、息遣いだけしか聞こえなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。携帯を取りに行くのも億劫で、結果的に辺りを目だけで見回すだけに留まった。
暗いなぁ。よく見えない。壁に時計がかかっているのが辛うじて見えるけど、時間まではわからない。
溜息をつくと、弛緩した体中にようやく重みが戻ってきたように思えて、呼吸するのが少し辛かった。
胸より少し上、涙が出そうなくらい平らな部分よりも少し上の鎖骨に近いところに、手が乗っているからだ。
頭を少し動かして、すぐ隣に目を向ける。
自分のものではない体臭のするベッドに体を投げ出したまま、すぐ隣には同じ匂いのする男性が寝ている。
安堵しているのか、疲れてしまったのか、その寝息は規則正しく、私の手を包み込んだまま胸の上に乗せた手は、まるで壊れ物を扱うみたいに優しい。
初めて見る寝顔は、いつも見る顔よりもいくら幼く見える。涙の筋さえ無ければ、もう少しは可愛らしく見えたかもしれない。
まあ、酷い顔をしているのは、どちらかといえば私のほうだろうから、この際顔に色々と口をつけるのはやめておこう。
どうもうまく頭が働かないみたいで、最低限の理性的な部分だけがやっと自分を覚醒させているみたいな感じで、処理しきれないことは自動的にシャットダウンしている。
だからとても澄み渡ってるようで、もやがかったみたいなもどかしさが胸元につかえている。
とりあえず、おきなくては。と、上体を起こしてみる。
手をやんわりとほどいて、あまり力の入らない下半身を助けるため両手で体を支える。
半身を起こすと、ネジが外れたみたいに腰や首が前のめりに倒れそうになる。
はだけた服がごわごわと絡み付いて動きづらい。
さすがに気持ち悪いので、ブラを付け直して、ブラウスのボタンを付け直す。
ボタンが上二つほどちぎれていたみたいで、留められなかった。
手が震える。うまく力が入らない。
握りこぶしを作って開くのを繰り返して、なんとか力が入ることを確かめる。
帰らなきゃ……
ぼんやりとそれだけを思い出す。それ以外は、何を考えていたのか、よく思い出せない。
考えるのは後にしよう。
でも、そうだな。顔洗いたい。
涙とか鼻水だとか唾液だとかでべたべたして気持ち悪い。
溜息がもれる。深呼吸のつもりだったけど、気分があまり乗らないからだろうか。
足がちゃんと動くか解らなかったけど、ベッドから足を下ろしてみると、問題ないみたいだった。
足元にはパンツとスカートが落ちていた。
溜息が洩れる。息を呑んだつもりだったけど、肺が疲れていたからだろうか。
前かがみになってパンツを穿き直して、スカートに足を通す。
立ち上がってみるとふらふらしたが、歩けないほど前後不覚というほどでもない。
ただ歩くのは少しつらい。
重い日みたいにお腹がじくじく痛むし、足の付け根辺りがぬるぬるして歩くたびに気持ち悪い。
吐き気にも似た憂鬱な気分が脳裏を過ぎる。はやく洗面所に行ったほうがいいかもしれない。
洗面所で簡単に洗顔を済ます。本当はシャワーを浴びて体中を洗い流したかった。
けど、ここでシャワーを借りるのは、いやだ。
鏡の中の私の顔は、思ったよりもひどかった。
目は腫れぼったくて半分しか開いてない瞼のせいで、目つきが悪く見える。
髪もめちゃくちゃで、まさに寝起きといって差し障り無いほどだ。
涙が浮かびそうになる。とりあえずもう一回顔を洗っておこう。
リビングに戻ると、開けっ放しの寝室のドアの向こうに、まだベッドのふくらみを確認できた。
数秒だけそれを眺めて、辺りを見回す。
洗面所から洩れる明りと、台所周りの非常灯の明りだけなのでほとんど解らないが、広さは感じる。
こんなところに一人で暮らしているのだから、きっとお金持ちなのかもしれない。
でも、広いせいなのかもしれないけど、あまり生活感は感じられない。
溜息が洩れる。少し呆れていたのかもしれない。
靴下を履き忘れた裸足のままぺたぺたとフローリングを歩き回り、ダイニングキッチンの明りをなんとか見つけてつける。
家族で使っている我が家の大明神に勝るとも劣らない大きめの冷蔵庫に一礼してから中をあさる。
別にお腹がすいているわけではない。いや、お腹はすいているけど、何か食べる気分ではない。
溜息が洩れる。冷凍庫は予想していた通り、レンジでチンするだけのお手軽な品がたくさん入っているのに、メインの冷蔵庫本体にはほとんど物が入っていない。
スポーツドリンクなどの飲み物と使いかけのお豆腐、あとはなんだろう。よくわからない。食べかけの出前っぽいピザとかよく解らないものがあるくらいだ。
ちょっと臭ってきているから、捨てたほうがいいと思う。
野菜室には、たまねぎやキャベツ、ピーマンといった、比較的長持ちするものくらいしかない。ニンジンがないのはなんでだろう。
でもまったくないよりかはいいと思う。
冷蔵庫の扉を閉めて、少し考える。
乾物類はどこだろう。と、近くのチェストを見るとすぐにわかった。調味料なんかと一緒くたにされていて、ちょっとだらしないけど、使い勝手はよさそうだ。
溜息が洩れる。考え込むつもりが、大げさになってしまったみたいだ。
再び冷蔵庫に手を伸ばし、とりあえずお豆腐と野菜を取り出す。
まな板とボウル、それからバットを台所に広げて、包丁を出す。切れ味は……あんまりよくなさそう。
たまねぎを薄く千切りにしてボウルに移し水にさらしておき、お豆腐はペーパータオルで水気を取ってバットに移しておく。
キャベツとピーマンは一口サイズに切って、ほどほどに油を抜いたツナ缶、固形コンソメと一緒に水を張った鍋に放り込んで煮込む。
ボウルをもう一つ出して、水を切った豆腐を潰し入れて粉チーズ、ワカメのふりかけと卵、醤油を入れて片栗粉を繋ぎに粘りが出るまで混ぜ合わせる。
皮を剥いたジャガイモを数個水にくぐらせてラップでくるみレンジで柔らかくなるまで温める。
フライパンを取り出して、ベーコンを焼く。ついでにさきほど練った豆腐も焦げ目がつくまでよく焼く。
ジャガイモを潰して、細かく刻んだベーコンを入れて、たまねぎを塩もみしてそれも一緒に入れ、マヨネーズで混ぜ合わせる。
味を見ながらコショウで味を調える。まずは一品。
焼き上がった豆腐をキャベツピーマンを煮込んだ鍋に入れて、野菜に火が通ったら塩コショウで薄めに味をつけて少し水気がなくなるまでよく煮込む。
片付けながらここまでこなして、20分ほど経っていた。
ことことと蓋をした鍋が湯気を洩らすのを眺めながら、もう何度目かの溜息をつく。
ポテトサラダのボウルにラップをかぶせて、ぼんやりと考える。
自分は何をやっているのだろう。
私は、哀れに思っているのだろうか。
自分自身を? それとも、彼を?
それは解らなかったけど……ほぼ無心になって料理に打ち込んでいるひと時だけは、妙に満ち足りていたとも思う。
彼は……一条君は、ずっと、謝っていた。
部屋まで連れて来た時までは、まだ自分の家の傘を貸すことを思いついたという、ただそれだけだった。
でも、私が『明日ちゃんと返すね』と言ったあと、一条君はとても苦しそうな顔をして、私を強く抱き締めて、それから……
乱暴にベッドに押し倒されて、訳もわからないままキスされて……それから……
嵐が吹き荒れたみたいに、耳に熱い息がかかって、一条君のにおいで噎せそうになって、何度かその胸板を殴りつけてた気もする。
その後は、あんまり覚えていない。
ただ、我を取り戻した一条君は、それからずっと泣きながら私に謝っていたのを覚えている。
ずっと、私のことが好きだった。こんなことはするつもりはなかった。二人を応援するつもりだった。ずっと諦めるつもりだった。
ぜんぶ手遅れなのに、それが解っているから、どうしようもなかったんだと思う。
それから、二人とも疲れて眠っちゃって……
涙が滲みそうになった。誰のためのものだろう。
きっと一条君を哀れむべきじゃないのだと思う。だけど、あまりにもみじめに、床に頭をぶつけながら謝り続ける姿に、同情する気持ちがあったのも事実だ。
どうするべきなのだろうか。これからどうすればいいのだろうか。
頭を抱えそうになり、鍋が吹き零れるのを慌てて止める。
もういいかもしれない。あとは冷めるにつれて味がしみることだろう。
こんなときまで食べ物のことを考えている。今の私は本当に混乱しているのかもしれない。
ダメだ。もうここにはいられない。
帰りたい。自分の家に、帰って、何もかも忘れてしまいたい。
溢れるものが抑えきれず、その場に崩れ落ちて動けなくなってしまう前に、足を引き摺るみたいに寝室に行き、
床に散らばった靴下と鞄を手にとって、足早に部屋を出た。
下着がぐちゃぐちゃと湿っているのが、吐きそうなくらい気持ち悪かった。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。
6:末
7月中に終わるといったが、すまん、ありゃ嘘だった。
もう少しだけお付き合いくださいませ。




