6-4
文庫本の読みづらさに気づいて本を閉じると、もう西日の明かりもほとんど見えなくなっていた。
今日は夜から雨が降るという話だったので、西明かりはかなり弱かったけど、それにしたってもう遅い時間であることは確かだ。
いつかのひと気のないバス停には、頼りなげな街灯が心細い明りを灯し、私は一人で雨避け越しに洩れる光を頼りに文庫本に目を落としていたのだけど、もう文字を読むのも辛いくらい暗くなってしまった。
ぼんやりと視界の先を埋めるのは、ぽつぽつと明りのつきはじめた町並みと、その向こうの分厚い雲に覆われた赤黒い空。
まだかなぁ。と口をついてでそうになるのをこらえる。
待ち人は、まだこない。前もって約束でも取り付けていれば、こんな寂しいところで待つことも無かったのだろうけど、個人的な用事で部活を休ませてしまうわけにも行かないので、大人しく愚直に待ってみるしかない。
このバス停なら必ずやってくる。とは限らないけど、彼の帰宅路がこの間と同じなら、まず間違いなくこのバス停を利用するはずだ。
でもさすがに、一般生徒の下校時刻から一人も利用しないバス停で一人文庫本を読んで時間をすごすのは、心細くてめげそうになる。
頼みの綱である読書も、暗くなってしまっては無意味だ。どうしよう。もう少し待ってこなかったら、帰ってしまおうか。
いや、それでは本当にここまで待った意味がなくなってしまう。何のために予定を一日ずらしたのかわからなくなってしまう。
これからやることを考えると、どうしてもその前に色々とこなしておくべきことがあるように思えてならないのである。
私は、スノオからエールを貰った。スノオが話してくれたこと、スノオが自分の気持ちに素直になったこと、そしてスノオが行動したこと。
それは私達三人の関係を壊してしまうかもしれないことだったのかもしれないけど、スノオはきっと全部理解したうえで行動して、そしてきっと、どうなるかわかっててそうしたのだ。
スノオは自分から傷つくべくして傷ついた。でもそうしなくちゃ、スッキリしないからだと……たぶん、スノオ風に言ったらそうなるんだろう。
きっとスノオには、信念を通すという気持ちが勝ったのだと思う。偽らざる気持ちを、私たちにぶつけることが何よりも誇り高いと思えたのかもしれない。
強く思っている気持ちに素直になって、お互いにちゃんと言わなければ伝わらない。
だからきっと、私と香月の関係をいつも、もどかしく思っていたのかもしれない。
そしてスノオは、私に打ち明けてくれた。それは全てが気持ちのいい言葉ばかりではなかったけど、私を身近に思ってくれているからこそ話せたことだと思うし、はにかんだ顔で迂闊に口に出した言葉は、安堵の現われだと思う。
私も同じ気持ちだった。
だからこそ、スノオが口にしなかった言葉を、私はなんとなく感じ取ったのだと思う。
次は私の番だと。
もはや迷うことは無いと思う。ずっと昔から、私の気持ちは決まっていた……と思う。
正しいかそうでないかは、わからないけれど、私がそうしたいと思う気持ちは、嘘ではない。
だから私は決めた。
ちゃんと、言葉にして、香月に伝えなければならない。
でもその前に──
「あれ……山埜井?」
ふと考え事に耽っていたらしい思考を中断して、待ちわびていた人物の登場に心が上ずるのを感じる。
ベンチから立ち上がって、傍らに置いてあった紙袋を手に取る。
「遅かったね、一条君」
「ああ……部活普通にでたから。っつか、山埜井はなんで? 帰りこっちだっけ?」
「ううん、今日はちょっと待ち合わせ。もう済んだけど」
「へぇ……あれ、他に誰かいたの?」
「一条君しかいないよ」
どうもピンときていない一条君に少しだけ意地悪な言い回しをしてみるけど、すぐに気づいたみたいで、一条君は大げさに自分を指差した。
「俺!? なんで? なんかしたっけ、俺?」
「うん、何かされた」
「え、あ、ちょ、ちょっちまって! 俺、全然覚えないんだけど! 何マジで、俺そんな悪いことやったっけな……」
狼狽する一条君がなんだか面白いので、ついつい煽ってしまうけど、本当に悩み始めてしまったので、ガマンできなくなって、手に持った紙袋を一条君に差し出す。
「はいこれ、昨日と、それから今日もありがとう。これはそのお礼」
「……はい? あ、これ……あの店のパン」
差し出されるままに受け取った紙袋が、先日一条君に貰ったパンと同じ場所で購入したものであると気づいたらしい。
私の言ったことに対してはイマイチわかっていないみたいだけど、パンを貰って一条君はそれなりに満足してくれたみたいだ。
明日何が起こってもいいように、私は今日出来ることは、やっておこうと思った。
明日は香月にちゃんと私の気持ちを伝えなくてはならない。そう決めた。
だから、その前に、色々と私を助けてくれた一条君には、一言お礼を言っておきたかった。
昨日は醜態を晒してしまったし、今日はスノオと話すきっかけをくれた。
細かな気遣いというか、そういうつもりは本人にはないのかもしれないけど、私個人としては、かなり救われた。
だから、私に出来ることはやっておこうと考えたのだ。
「よ、よくわからんけど、俺別に山埜井におかしなことしてないってこと?」
「うん、助けてもらったら、これはその……ほんのお礼、かな。たいしたお礼じゃないかもだけど……」
「いや、すっげえ嬉しい。パン大好き」
子供みたいに笑う一条君は、なんだかちょっと可愛いかもしれない。
「あ、また半分こする? えーと」
「なんでそうなるの。それはお礼って言ったでしょう?」
「えーでもなー」
照れくさそうに肩をすくめる一条君が食い下がろうとすると、途端に辺りが急に騒がしくなった。
思わず身を硬くするほどの音が、雨音と気づくのが遅れたのは、雨よけを穿つ音が会話を途切れさせるのに十分過ぎるほど大きかったのと、あまりにも唐突だったからだろう。
「うわ、すごいな……」
あたりを見回す一条君に釣られて私も周囲を見回すと、早くももやが立つほど雨脚はその激しさを物語っていた。
足元に飛沫が及ぶのに気をとられて、思わず足元に視線を落としたところで、致命的なことに気がつく。
そういえば、傘を持ってくるのを忘れた。
ゆらゆらとした微震にも似た浮遊感は、大型車両特有の乗車感覚だと思う。
久し振りに乗るバスの後部座席の感覚に居心地の悪さはあったけれど、言い知れないワクワク感みたいなものもあった。
結局、あの後、雨脚も弱くならないまま一条君の乗るバスがやってきたため、私も家のすぐ近くの停留所まで乗ることにした。
とはいっても、そこから先のことは考えていないので、バスで移動するまでの間に雨脚が弱くなってくれるのを願うことにする。
我ながら肝心なところで抜けている。
「へぇ、ちゃんと仲直りできてよかったなぁ」
「うん、だからきっかけをくれた一条君には感謝しなきゃ」
「それ、目の前で言われると照れるんだけど……」
バスの中にひと気は無くて、一条君にはスノオとの事を掻い摘んで話した。
やっぱりちょっと勘違いしているみたいだったけど、スノオとより親密になったとは思うので、これはもうこれでいいような気もする。
「でもさ、なんでいきなり待ってたりしたの? 別に今日じゃなくて、明日でも学校で一言言ってくれるだけでもよかったわけだし……そもそも、そんな別にお礼とか言われるほどの事やっちゃいないと思うよ、俺」
「あー……そう、なのかな。でも、したいと思ったし、それに……」
「それに?」
一条君は少し照れたみたいだけど、私が言いよどんだことは、きっとそれ以上に恥ずかしいと思う。
でも、一条君にはお礼がてら、ちゃんと話してみるほうがいいかもしれない。
思えば、一条君にはずっと心配をかけてきてしまったみたいだし、それに、誰かに聞いてもらっていたほうが、私も後に引けなくなって、決心が揺らがないと思う。
ひとつ深呼吸をして、呼吸を整える。
「ええと、明日は、香月に……その、大事な話があるから、その前にちゃんとお世話になった人にお礼とかしておきたいなぁって……ヘンかな?」
「え、じゃあ……告白? しちゃうの?」
一条君にも私の決意は意外だったのか、声が上ずる。
はっきりと言葉にされると、本当に恥ずかしい。
でも、はっきりと、そうと決めた以上は、それを否定するわけには行かないので、精一杯、首肯で応じる。
「そっかー……やっぱり、山埜井はそうなんじゃないかと思ってたんだよなー」
誰ともなく呟いて、一条君は視線を外して窓の外を眺め始める。
景色を見ているらしいその横顔は、どこかもっと遠くを眺めているような気がして、ちょっと声をかけるのははばかられた。
もっとこう、からかわれるかと思ったけど、なんだか噛み締めるみたいに受け止められて、ちょっと意外だった。
そうしてしばらく沈黙が続くと、バスの低いエンジン音と、次の停留所の音声案内、観光案内などのアナウンスがたまに沈黙を破るくらいになる。
他に聞こえるといえば、相変わらず夕闇を曇らせる雨脚の勢いは衰えることが無く、この分では私が下車するまでにやむことはなさそうだ。
どうしようか……そんなことをぼんやり考えてるうちに、もう下りる停留所まで近付いてきた。
もともと私の家は学校からそれほど離れていない。徒歩で通学しているので、下校ルートから外れたバス停を使ったとしてもそれほど長い乗車にはならない。
なんだか少し名残惜しいかもしれない。
そう思ってなんとなく一条君のほうへ視線を移すと、ちょうど一条君も視線を移したところみたいで、また窓の外を眺めていた。
あれ、それじゃつまり、ついさっきまではどこを見ていたのだろう。別の窓かな。それとも、まさか私を見ていたのだろうか。
そんなことは無いと思うけど……第一、私に面白みのあるところなんて無いだろうし。
そんなくだらないことを考えているうちに、下りる予定の停留所がアナウンスされたので、停止ボタンを押した。
「それじゃ、また明日……一条君、本当にありがとうね」
「……ああ、頑張ってな」
バスが停車し、席を立つ私を見送るかたちの一条君は、どこか困ったように笑った。
乗車賃を支払ってバスを降りる。
あいかわらず酷い雨だ。走ったほうがいいかもしれない。
そう考えて、駆け出そうとする私の手を誰かがいきなりつよく掴んだ。
「え?」
ざらざらという、南国に振るスコールみたいに激しい雨の中で、体が強張るのを感じる。
手を握っていた相手の顔を見て、私は思わず声を上げた。
「一条、くん?」
「ごめん」
「え、なんで?」
ざらざらと雨が体を穿つ。濡れないようバスに乗ったはずなのに、既に無意味になるくらい激しい降り方をしている。
だというのに、一条君の声が異様に鮮明に聞こえた。
そして、私の疑問に答えが来るよりも先に、一条君は私の手を引いて駆け出していた。
チャプター6はもう一話入ります。無計画ですいません。




