6-3
どうやら自分でも気づかないほど慌てて追いかけていたらしい。
トイレに着く頃には、軽く体温が上がっていた。
教室からトイレなんてほんのすぐで、慌てて走って向かうようなところではないし、そもそも催してもいない。
幸い、といっていいのか。トイレの中に先客は一人しかいなかった。
「スノオ」
鏡の前でどこか遠くを見るように佇んでいた親友の名前を呼ぶと、弾かれたように振り向いた顔は予想外と書いてあるみたいだった。
ちらりと、自分の顔を鏡で窺うと、苦笑いを浮かべていた。ああ、なんて気遣わしげな顔をしているんだろう。
やっぱり自分の顔は好きになれない。
「なんか……疲れてるみたいだね。バイト遅かったの?」
「んー、そうじゃないけど……なんつーのかな……」
悩ましげに眉をハの字にするスノオは、それだけならちょっといいところのお嬢さんみたいに可憐な表情なのに、後ろ頭をぽりぽりと掻くような仕草がそれにそぐわない。
「……一条君がさ。仲直りすればって。そんなんじゃないのにね」
「ッハハ、あいつも思い込み激しいトコあるからなー」
私がよそよそしい言い方をしたからだろうか。
スノオの笑い声は、どこか空々しい。
それにさっきから、会話が空回っているみたいな違和感がある。
こんなことを話しにここまで来たんじゃないのに。
私は、何をしに来たのか。それをもう一度心の中で反芻しつつ、一つ深呼吸をする。
「あのさ、スノオ──」
昨日は。といいかけて、口ごもる。ちがう、そうじゃない。
気になることだけど、それを訊きに来たんじゃない。
「スノオ、ホントは何かあったんじゃない? どうして、その……泣いてるの?」
うまく言葉に出来なかった気がする。というか、そのままだ。でもたぶん、これでいい。
もともと私に、遠まわしだとか、オブラートに包むだとか、そういう高等な会話スキルは無い。
「あはは、んー、なんていったらいいかな……コハにはあんまり関係ないけど……」
ごまかすように視線を泳がせながら、照れ隠しのようにはにかんでみせるけど、すぐにスノオは唇を引き結んで真顔に戻る。
私がそんなに心配そうな顔をしているように見えたのか、それとも違うのか。
スノオは何かを決意したように表情を消して、まっすぐと私の顔を見据えてきた。
あ、この真面目な顔には覚えがある。
昨日の出来事が脳裏をよぎる。
ああ、だから違う。そういうことをいちいち思い出さなくていい。
「……関係なくなんか、ないな。ねぇコハ。たぶん怒るだろうけど、真剣に聴いて」
いつもよりいくらかテンポを落として、まっすぐ向けてくるスノオの言葉は、どきりとするくらいはっきりと聞こえて、その真剣さが伝わるだけに聞いているこちらも緊張してしまう。
こんな風に喋るスノオの姿は本当に綺麗だと思ってしまう。いつもかなり綺麗だと思うけど、不真面目さを取り除いたスノオの魅力は本物だと思う。
気おされるまま、考えるより先に首肯で応えてしまうほど、スノオの言葉には力があった。
「あたしね、昨日……カズキに、好きって言っちゃった」
「え……」
「最低だよね。コハとカズキのこと、知ってたのにさ。コハがカズキを、カズキがコハを、どう思ってるか、知ってたのに……知ってて、言ったんだ。言いたかった。我慢できなかった……」
「え、あ……ええと」
どう答えていいかわからなかった。ただ、口が開いて、間抜けな声が洩れてしまっただけで、言葉にならなかった。
知っている。知っているし、それとこれとは関係ないと思って考えないようにしていたことだし、だからこそそれとこれが頭の隅と現状でぶつかって、頭の中の理解が遅れてしまって、早い話が混乱している。
「言わなくても答えなんてわかりきってたし、そんなことしてもコハに心配させるだけだし、嫌われるかもだし……いいことなんて何にも無いってわかってたのにさ。馬鹿、やっちゃったよ」
肩が震えている。足が震えている。私のじゃなくて、スノオの。あのスノオの体が震えている。
私のほうに伸ばしかけた手が途中で下りて、水道場の縁に体を預ける形で支え、でもそのままスノオの体が崩れ落ちてしまいそうで、私は思わず、顔を覆おうとしたスノオの手を取っていた。
はっと顔を向けるスノオの目許には涙が溜まっていた。
「……ぜんぜん、ダメだ、あたし。ここ、あたし、もっと悪い奴になってやる筈だったんだ……」
「スノオ、ちょっと落ち着いて……」
「だってさ、コハもカズキも大好きだし……だから、ずっと、ガマンしたりしてたのに……これじゃ、台無し」
「……もういいから」
何も言葉にならないと思った。何を訊いていいかわからないし、何を聴いていいかわからなかった。
だから、少し背の高いスノオの肩を抱いて引き寄せた。
私の貧相な胸では足りないだろうけど、スノオは私の肩に顔をうずめて静かに嗚咽を洩らした。
それから、少しだけゆっくりと話をした。
詳しく聞いた事はなかったけど、スノオの家庭は現在母子家庭で、スノオは小さな頃から多忙な母親のもとで暮らしていたらしい。
スノオの母親はもともと由緒正しい古い家の出だったのだが、いわゆる不肖の子を宿してしまい実家を勘当されてしまった。
言葉にしてしまうとかなり問題のありそうな母親だが、真実はもっと込み入った事情があって、旦那さんはほぼ面識の無い人で、スノオを身ごもった当初はかなり絶望感もあったという話だ。
面識があまり無いというのは、その、まぁ、つまり……合意ではなかったという意味であり、当時短大生だったスノオのお母さんはショックもありしばらく休学を余儀なくされ、さらに妊娠が発覚してからは実家のほうでも大騒動になり、結局中退という形になったそうだ。
旦那さんとなるべきだった人は、姿をくらましたため、母親は両親から当然のように堕胎を勧められ、その存在を否定されようとしていたし、それが母親にとって最も傷のつかない結論であると理解していたらしい。
だが、スノオを身篭って、その存在を感じるたび、母親には別の考えが芽生えていき、決断はついにくだされなかった。
その結果、母親はスノオを身篭ったまま家を飛び出して、一人でスノオを育てることを決意したという。
初めてその話を聴かされたスノオは、さすがにショックで、自分の中に母親を傷つけた男の血が混じっている事、多くの人間に望まれずに生まれた命であるという考えから塞ぎ込んでしまう事もあったようだけど、それもすぐに乗り越えて、多くの憎しみや虚無感を抱えながらもそれを上回る愛情を母親から受けたからこそ自分が生まれたと思っているという。
だからこそスノオは母親のつけてくれた名前が気に入っているし、自分の存在を否定した家の名前で呼ばれるより、愛の形状とも言うべき名前で呼ばれることを喜ぶ。
だからこそ、母親のように頑なでひた向きな人が好きなのだという。
人に感情を向けるのが不器用で、愛想が無いように見えるけど、ひた向きで実直な清廉さのある香月に惹かれたのは、そんな母親のような強い信念を感じた……のかもしれない、という話だった。
──でも、
「でも、振られちゃった」
まるで憑き物が落ちたみたいにあっけらかんとした笑みを浮かべて、スノオはネイルの色調を変えた報告と同じくらいの気楽さで話を切り上げた。
「振られたって……そ、それだけ?」
「いや、だけっていうか……けっこう、大事じゃない?」
「う、うん、大事だと思うけど……だったら、そんなサッパリしてるのおかしいんじゃないかな……」
なんだか報告を受けた私のほうが気が重くなっている気がする。
「そうなんだろうけど、最初から断られるって解ってたしー、コハに喋ったらなんか、変な話だけどこれから怒られたりするんだとしても、スッキリしちゃったっていうかさ」
「怒ったりしない……それに、嫌ったりもしないよ。スノオと香月なら、全然ヘンじゃないと思うし」
言いよどむ私の言葉に、スノオは泣き腫らした目を意外そうに見開いたあと、照れくさそうに頬を染める。
「コハさぁ、そういうのよくないよ。あたしはもう終わったの。ヒクツになんのダメー」
意地悪そうに眉を吊り上げて、ガッと両手で顔をつかまれて身動きが取れなくなる。
「うぎゅう……ひょ、ひょっと。ひゃべて」
そのままぐにぐにと顔の肉をもみくちゃにされて、言葉もまともに喋れなくなる。
反論の余地も残さないとでも言いたげだ。
「こういうのは、『スノオのバカー、だいっきらい!』くらい言ってもいいんだって。ていうか、言ってくれなきゃ罪悪感あるの!」
「うぐぐ……ヒュノオのはがー!」
「あっはは、もっと言っていいよー」
「ひぇも、ひはいっへいうのは、ちょっと……もう、やめてよもう」
ようやくスノオのもみくちゃ攻撃から開放されて、頬がダルダルになった気がする。
鏡で確認してみると、見事に頬の周辺がおたふく風邪みたいになってて、子供っぽい顔がなおさら子供っぽくなっていた。
少しは加減してほしい。と、恨みがましい目を鏡越しにスノオに向けると、スノオはなんだか寂しげに笑っていた。
「……コハが友達で、よかった」
ぽつりと呟くように洩らした言葉は、口に出すつもりは無かったのだろう。言ったすぐ後に私より顔を赤くして目をそらした仕草が、なんだか大人っぽい見た目に反して可愛らしくて、
恨み言を言い損ねてしまった。




