6:Terrestrial Cross
いつもより随分と早く家を出た。
それというのも、いつもより早く目が覚めてしまったからだ。
原因は何だろう。考えたってきっとわからない。心当たりになりそうなものが、あんまりない。
いつもだったら気にも留めていないことだったかもしれない。だけど、今朝の寝起きが思った以上に爽やかだったのは、意外だった。
あまりにも爽やかだったため、朝食も少し凝ったものになってしまった。
といっても、お味噌汁は前日の夜中からお弁当のおかずと一緒に準備はしておいたし、手を加えたといっても一品増やしただけに過ぎないのだけど。
今日の朝食は、お味噌汁と、しらす入り厚焼き玉子、炒めたピーマンとシーチキンをマヨネーズで和えたサラダ、付け合せに味付け海苔とトマトを半分。
ご飯とあわせても、そんなに多いわけじゃないと思うけど、一人の食事としては十分だと思う。
余った分は夕飯に転用するか、夜勤の母が片付けるだろう。
不規則な生活をしている母のことを思うと、心配になるけど、私の作ったおかずの残りを冷蔵庫に入れておくとよく食べてくれるので、食に関してはたぶん、大丈夫だと思う。
中学ぐらいからだろうか。生活時間の合わない母とは、同じ屋根の下で生活しているのに、ほとんど顔を合わせることが無い。
会えばそれなりに喋る事はあるし、会う時間が無くても書置きやお小遣いのたびに交換日記のような会話をしていることに慣れてしまったせいか、おかずを多めに作って冷蔵庫に保存しておいて、それを母が食べるという奇妙な生活サイクルが続いている。
両親共働きなのだから、家に一人居るのは仕方ないとは思う。今では、それなりに慣れてしまっているので、こういう状況になっているのも両親の愛故なのだと思えてしまう。
ちなみにまったく触れていなかったけど、父は単身赴任中で、今は遠くに居るらしい。詳しいことは知らないが、たまにメールや便りが来る。
話がわき道に逸れてしまったけど、とにかく、今朝は気持ちよく目覚めてしまった。そのことがちょっと納得いかなかった。
……もっと、胸につかえて思い悩んで、悩んで悩み疲れて、それでいつの間にか眠って、寝不足のまま最悪な気分で目が覚める。
そんな予感がしたのだけど……
昨日の私は、熱めのお風呂に浸かって、ぐちゃぐちゃだった顔や気分を洗い流して、お風呂上りに砂糖とミルクをたっぷり使ったアイスコーヒーをぼんやりと飲んだら、湿った髪をドライヤーで乾かして、少しだけぼんやりして、アイスコーヒーを淹れ直して、お味噌汁とお弁当の準備をして、歯を磨いて少し勉強して、そのままうつらうつらと舟をこぎ始めたから、勉強机から這うようにベッドに移ってそのまま寝てしまった。
他にも色々あった気がするけど、夕飯を手早く済ませた後は、何にも考えていなかったように思う。
悪い予感はしていた。何も考えないようにしていたのは、考えるのが怖かったから。
そしてそれは、寝るときになったら、一斉に襲い掛かってくると思っていた。
夜中に真っ暗な布団の中で一人。そんな時、自分はきっと世界一弱くなる。
そんなときに目を閉じると、色んなよくないことが頭の中に浮かんでしまうものなのだ。
ましてや、私はその日に、想像もしていなかったほど見たくない光景を見てしまったのだから。
考えない筈はなかったし、今だって思い出したくはない。
でも、どうしてこんなにさっぱりと眠って、起きて、こうして一人でさっさと登校してしまっているのだろうか。
ひどくショックを受けたように思えて、実はそこまで大事に思っていないとか?
いやいや、それはない。
でも……よく考えると、仕方ないかもなぁとも思ってしまう。
香月は誰もが認める秀才だし、ちょっと融通は利かないけど、それは良識をわきまえてるからだと思うし、なんだかんだ言っても優しい。
スノオだって、人に好かれるし、ちょっとやんちゃで成績は芳しくないけど、頭の回転が早くて細かいことにも気が回る、じつは頭がとてもいいんじゃないかってくらい人のことをよく考えてる。
私なんかが傍にいるのがおかしいくらい、二人ともすごい人なんだ。だから、この二人が好きあったとしても、きっとそれは不自然なんかじゃない。
ああ、たぶん私はきっと、納得してしまってるんだと思う。
廊下を歩きながらぼんやりと考えていたことが、結論に至ってしまう。
昨日の夜中の間中、ずっと考えないようにしていたのは、あまりにもすんなりと納得してしまうことが怖かったのかもしれない。
納得……納得か。どこまで認めてしまっていいのだろう。それはわからない。
入り込む余地は無いのかもしれない。こんなことを考えるのは筋が違うかもしれないし、後で出すほうが悪いのかもしれない。
だけど、納得してしまうほど、素敵な組み合わせと思う反面で、私は、孤独に、異議を立てる。
そして、思わず逃げ出してしまったけど、昨日の二人はどうなってしまったのか。それがとても気がかりだった。
訊くべきなのだろうか。いや、そんなことを訊く理由は、どう捻出する?
だって私は本来、あの場に居るべきではなかったはずだ。どう訊けばいいのだろう。香月にスノオに……
「はろー、コハ!」
「えっ?」
早朝、人通りもまばらな廊下で、唐突に名前を呼んできたのは、噂の人物ことスノオだった。
この時間に出会うと思っていなかった私は、思わず口をぼんやりあけたまま肺腑から息が洩れる勢いのままだらしない声を上げてしまった。
「はやいねー。この時間なら、誰も居ないかと思ったのにさー」
「……う、うん、スノオも早いね」
「まぁね、ちょっと寝付けなくてさ。徹夜しちゃった」
疲れたように苦笑するスノオの目許は充血しているみたいだった。本当に睡眠不足みたい……だけど、本当にそれだけなのかな。
お化粧で隠してるけど、ちょっと目の周りが腫れているようにも見える。気のせいかな。
「……なにかあったの?」
「んー、ちょっと夢見が悪くってねー。いやー、まいったよねー。おちおちトイレにもいけねーの」
けらけらと笑うスノオの声はいつもと変わらないように聞こえるけど、私は疑ってかかっているためなのか、それが空々しく流そうとしているように感じられた。
「大丈夫なの?」
「んー、平気平気、どうせ授業中寝るだろうし」
「ほんとに?」
私が食い下がるように、隣を歩くスノオの顔を見つめると、一瞬だけひどく傷ついたように眉をひそめたように見えたけど、すぐ顔をそらして、
「……コハは、心配性だなー」
紅茶色のクセがかった髪がスノオの表情を隠す。けらけらという空々しい笑いが、むなしく廊下に響く。
結局、教室に着くまで、スノオは顔を合わせてはくれなかった。
私の問いにスノオは最後まで、大丈夫とは言わなかった。
それがひどく気がかりで、いつの間にか私は、スノオの手を握って教室の敷居を渡っていた。




