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動揺が無かったかといえば、否だろう。普通は空気の重さも手伝って、すぐにでも逃げ出してしまいたくもなるだろう。
ただ、自分がそうせず、ただ黙って佇んでいたのは、精神的余裕が無かったのもあるが、つまるところ、
取り乱すほどの動揺を覚えなかったからなのだろう。
目の前には、真剣な眼差しのまま見据えてくる友人が、初めて見る緊張した顔をしている。
冗談の多い彼女だが、ことここに至ってまで冗談を言うとは考えにくい。おそらくは、本気なのだろう。
だがそれを疑ってしまうのは、彼女の日ごろの行いに加え、あまりに突飛だったからだ。
自分の耳が腐っているのでなければ、彼女は、厳島小雪は確かに、俺に向かって好きといった。
自分の認識が間違っていなければ、それは告白というものだ。
しかしそれをわざわざ反芻して尚も疑ってしまうのは、彼女の日ごろの行いに加え、あまりに覚えが無いからだ。
そこまで彼女に好かれるようなことをしただろうか。否だと思う。
むしろ自分は、彼女に嫌われていると思っていた。否、嫌われていないにしても、好かれてはいないだろうと考えていた。
厳島との接点は、ほとんど無かったように思う。会っても、口げんかのような会話しかした記憶が無い。
そのどこに好かれる要素があったのか、疑問は尽きないが、それでも……それをそのまま言ってしまうのは、さすがにダメだろう。
面倒だな。
口元が歪むのを感じて、口元をタオルで拭う仕草で隠す。
真剣に事に及んでいるかもしれない相手に見せるべき顔ではない。
誠実には真摯に応える義務があるはずだ。
ここで曖昧に受け答えることはできない。
だが、どう応えたものだろう。
好意を向けられることに対して、俺は不得手だ。少なくとも、こうして面と向かって好意を告げられたことは一度も無い。
それを気にしないわけではないが、だからといって想定していたわけでもない。
むしろ、今まではそういった精神的余裕が無かった。考える余地すら無かった。
しかしながら、結論そのものは最初から決まっていた。
どう小器用に考えたところで、自分は人一人を責任をもって愛する資格は無いと考えている。
未熟でしかない自分には、恋人や伴侶という存在は、過ぎたるものだ。
しかしそれをどう言葉にしていいのか、それがわからない。
眉間が力むのをこらえることが出来ない。
嫌なのか? そうじゃない。どうすれば伝わるのか。それがわからないのだ。
「……もういいよ、カズキ」
「なに?」
軽く笑んだような柔らかい口調。
いつからだろう、視線を外していたらしい。厳島のほうへ向き直ると、いつにまにか困ったような笑みを浮かべていた。
「そんな顔されちゃ、嫌でもわかるよ。アンタ、ホント不器用だね」
口の端を吊り上げて、鷹揚に笑う。
これまでの数分間を帳消しにするようなその笑いかたは、どこか自嘲するようなものがあった。
「まて、何か勘違いしてるだろう」
「んー、勘違いなのかな? でも、あたしの望む答えは、絶対返ってこないよね? そうでしょ?」
「……ちゃんと、答える」
噛み締めるように、言葉をつむぐ。慎重に言ったつもりだが、気が重くなる。
厳島は意外そうにこちらを見つめていたが、ふたたび困ったように笑うと、大きく深呼吸をした。
「いいよ。ちゃんと聞かせて」
勝気な笑みが、どこか悲壮に見えるのは、厳島にとって俺の考えなんて聞くまでも無くわかっているからなのか。
さすがにそこまではわからない。
心臓が鼓動を早める。口が重く感じる。眉間に皺がよるのがわかる。
考えなくても、これから一人の友人を傷つけることを思えば、口が重くなるのもわかる。
どう答えたものかわからなかったのは、たぶん、どう答えても彼女を傷つけることがわかっていたからなのかもしれない。
「……すまん、厳島。俺は、お前と同じ気持ちは持てない」
「うん……知ってた」
正面から見据える厳島の顔が曇りを見せ始めると、その顔が前髪で隠れて見えにくくなる。
俺にとっては、小羽の親友であり、友人としてはそれほど親交のあるほうではない……筈だったのだが、胸を締め付けるような苦しさが自分の声を上ずらせている。
それは即ち、自分にとって厳島小雪という人物が、自分の思っていた以上に大きかったということなのだろう。
悪し様に思えるはずが無い。厳島は、小羽の親友なのだ。それを傷つけていいはずが無い。
どれだけの罵詈雑言を受けても、今の自分に言い返すことはできない。
俺がもう少し信念を持っていれば、非情にもなれたのだろうが、今の自分にこれ以上の言葉はつむぎ出せない。
「っはは! わかってたつもりだったけど、ハッキリ言われると、ちょっとキツいなぁ……」
浮かべた笑みは、しかし力なく、ゆっくりとした足取りで近寄る厳島に、俺は今度こそどう声をかけていいかわからなかった。
何も言うべきではない。今何を言っても、慰めにもならないし、何か言えばそれだけで傷つけてしまいそうで、口が動かなかった。
紅茶色の癖がかった長い髪が揺れる。伸ばした握り拳が、俺の胸を軽く打った。
「これでわかったでしょ。言わなきゃわかんない事ってのも、あるんだよ」
「厳島、お前……」
震える声が触れた手から伝わる。まさか、こいつ、それを言うためにこんなことをしたとでもいうのだろうか。
だが、冗談交じりには思えなかった。だったら、どうしてそんなことを言うのか。厳島は、何を思って今こんなことを言うのだろうか。
「……ばーか」
軽く打った胸に更に拳を突き入れられて、少し息が詰まる。
その隙に厳島は俺を抜き去って、耳元に湿った声で呟いて、そのまま生徒会室から出て行った。
最後のほうはほとんど駆け足だったのか、足音はすぐに聞こえなくなった。
俺はというと、突かれた胸元を押さえていただけで、何も出来ずにいた。
触れたまま押されただけなので、痛みは無かった。痛みを感じる筈もなかったのだが、触れられた場所が異様に痛む気がした。
「ふーむ、やれやれ、生徒の為の事を話し合う場所で、生徒を泣かせるとは、なかなかいい根性だね」
どれだけぼんやりしていたかは、自分でもよくわからなかったが、それほど長い時間ではないと、その言葉から汲み取ることは出来た。
声の主が神出鬼没なのはもはや慣れていたので、驚きは無かったが、苦い顔をしてしまうのは、決まりの悪いところを見られてしまったからだろう。
生徒会室の戸にもたれかかって文庫本を読みふける黒髪の美女の姿は、この世の者とは思えぬほど異質な存在感だったが、同時にここまでデタラメな人物は我が校の生徒会長こと長篠宮亜尋を置いて他にいない。
「見てたんですか」
「いや、聞いてただけだよ。さすがにあの空気の中、堂々と入っていける神経ではないよ」
文庫本に視線を落としたままどこかシニカルに口の端を歪める表情は、どこか意地悪そうで見てて気分のいいものではない。
「それよりいいのかな。女の子が泣いて出て行ったのなら、追いかけるのが青春というものじゃないか?」
「……俺には高尚過ぎてわかりません。それに、もう、話せることは無いですよ」
「そうかい」
短く答えると、会長は文庫本を閉じて、その角を手でもてあそびつつ、何事かを思案するようにぽんと手に打ち付ける。
そして珍しく俺のほうへ向き直ると、
「男と女では涙の価値は同じなんだろうかね。ま、それはどうでもいいが、男は女ほど容易に泣けはしない。逆に言えば、私のような女でも簡単に泣けるということだ。ここは、笑うところだよ」
「……は、はぁ」
曖昧に答える俺の反応を楽しむかのように、会長は喉をくくっと鳴らして笑う。意外にも無邪気に笑うところを見てしまうと、この人も十代の高校生なのだと再認識する。
「今日はもう帰りなさい、宇野津君」
「は?」
「今は機嫌がいいんだよ。落し物が見つかったのでね。だから、君一人くらい居なくても、気にならない」
「……はぁ」
あまりにもその笑みが珍しかったためだろうか。
言われるままに俺は、荷物をまとめて帰り支度を始めてしまった。
何をしに来たんだろう。いつもよりも念入りにストレッチをして、ぎしぎしと疲労を訴える四肢を引き摺るようにして、俺は生徒会室を後にした。
一応、補足しておきますが、香月と小雪の告白シーンで聞き耳を立てていたのは会長と小羽ですが、
会長と小羽は、ニアミスしただけで接触しては居ません。
会長がいくら気配を断つ達人だとはいっても、一緒に居たら気づかれちゃいます。
小羽は足早に撤退してしまったので、すぐあとに会長がやってきたと解釈していただけると嬉しいです。そこまでちゃんと説明できていればよかったのですが、わかりにくくてすいません。




