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 5-2



 辺りの気温が低い気がした。

 たぶん、泣いていたからだと思う。なんでか、泣いてると体温が上がる。なんでなんだろう。

 とてもどうでもいいことだとは思うけど、こういうどうでもいいことを考えてしまうくらいには混乱していた。

「一、条くん……なん、で……?」

 横隔膜が痙攣でも起こしているのか、涙を流した余韻のおかげでうまく言葉がつむげない。

 そして、いつの間にかそこに居た一条君に顔を向けるのが辛い。

 今の私は確実に酷い顔をしている。汗だくになるまで走って、そのまま泣きじゃくって、汗と涙と鼻水でくしゃぐしゃな筈だ。

「あ、えーと……俺、バスだから」

 どこか気まずそうな顔で一条君は視線を外す。

 私の顔、そんなひどいのかな。だんだん恥ずかしくなってきた。

 何のリアクションも無いまま思わず俯いてしまう。

 会話が途切れてしまったおかげで、気まずい空気はさらに重さを増した気がする。

 正直、誰とも喋られそうにない。

 今の気分で何を喋ったらいいのか、さっぱり思いつかない。思いつかないし、考えたくない。

 何も考えず、しばらくボーっとして、暗くなってきたら帰ろう。

 肉体的にも精神的にも疲れてしまったみたいで、お風呂に入って寝たい気持ちだった。

 一人で居たいのに、それがとても寂しくて、やりきれない。

 そんなことを考えていると、ふと座っているベンチのすぐ隣に誰か腰掛ける気配がして、ぎしりと軋む音がした。

 思わず隣を見ると、案の定、一条君が隣を陣取っていた。

「あ、あの……?」

「言ったろ、バスだって」

「あ……」

 そういえばここはバス停だった。でも、あんまり人も居ない静かなこのバス停にホントにバスなんて来るんだろうか。

 いや、バス停だから来るんだろうけど、あまりに閑散としていて、なんとなく廃線になったのではないかと疑ってしまう。

 そんなことより、私の察しの悪さだ。今しがた聞いたことを既に忘れていた。というか、理解していなかった。

 ここまで頭の回転が悪くなっていたとは、驚きだ。

 でも、正直、一人で居たい。この空気は気まずい。ここに居続けるのはたぶん、私もそうだけど一条君だってそうだろう。

 帰ろうかな……ああ、帰って熱いシャワーでも浴びて……ぼんやり髪を乾かして、ぽかぽかしたまま寝てしまいたい。

 でも、家まで歩くの、だるいなぁ。全力疾走の疲れはさすがにもうないけど、膝が笑ってしまいそうなくらい力が入らない。

 情けないなぁ。全部、身から出たサビなのに、そのサビを拭うこともできない。

 でも、ここにずっと居るのは、一条君も気分が悪いだろうし、早いところ退散したほうがいいかもしれない。

 考えるのも億劫になって、そう結論付けると、さて立とうと手と膝に力を込める。

「腹減らない?」

「え?」

 いきなり話しかけられて、手足から力が抜けてしまう。

 話の流れも何もあったものじゃない。いきなり何を言ってるんだろう。

 でも、確かにお腹は空いているかもしれない。

「実はさ、部活早引けしてきたんだよね」

「……はぁ」

 なんだか、話に脈絡が無い。一つ前の台詞との繋がりがわからない。

 私の思考能力が低下しているため、整合性が見当たらないのか、それとも単純につながりの無い話なのか、それすらもわからない。

「でまぁ、なんていうか、その理由が、これ」

 そういって取り出したのは麻色の紙袋。いきなりそれだけ出されても、何のことかわからないのだけど、袋からはほんのり香ばしい匂いがする。

「あの、話が見えないんだけど」

「近くにあるパン屋でさ。うまいんだけど、早く店閉めちゃうからさ……あ、俺サッカー部じゃん? 部活終わってから行くといつもしまってんのよ。だから、早引け。オーケー?」

「あ、ああ……おーけー」

 やっと話が見えてきた。ニッと笑う一条君につられて、思わず同じ言葉で返してしまった。

「うん、で、腹減ってない?」

「……ちょっとだけ」

「よかった」

 私が答え終えるよりも早く、一条君は袋の中からがさごそとナイロンでパッケージングされたパンを取り出してよこした。

 手にとってみると、心なし暖かい気がした。

 楕円の飾り気の無いシンプルな形状をした、キツネ色の焼き目がなんとも食欲をそそるけど、一目しただけではどんなパンなのかわからない。

 一条君のほうへ視線を戻すと、一条君も紙袋からパンを取り出していた。こちらは丸型で頭に小さな穴が開いている。

 ああ、ここで食べるんだ。

 男らしくかぶりつく一条君に倣って、私も貰ったパンにかじり付く。

「実は目移りして、結局二つとも買ったんだけど、正解だったなぁ」

「じゃあ……悪いことしちゃったね」

「また寄る楽しみが増えたって考えればチャラだよ」

「……そっか」

 二人してもさもさと、パンにかぶりつきながらの会話は、あんまり行儀がいいとは言えないかもしれないけど。

 それでも、私はいつの間にか泣いていたことを忘れて、パンを頬張っていた。

 貰ったパンはどうやらジャムパンのようで、苺の果肉がごろごろと残っているジャムが甘酸っぱくて、とても食べやすい。

「一条君、ひょっとして甘党?」

「んー、かもなぁ。菓子パン好きだし」

「唇にクリーム付いてる」

「え、マジで?」

 一条君のパンはクリームアンパンらしく、たっぷりのつぶあんとホイップクリームが入っている。

 縦に大きいためか、そのままたべるとクリームが溢れて口の周りに付いてしまうんだろう。

 指で拭おうとする一条君を見て、はたと思い立って、スカートのポケットをまさぐる。

「あ、待って、ティッシュ持ってる」

「おお、サンキュ」

 顔を向ける一条君と、ポケットティッシュを取り出してそのまま直接口を拭おうと手を伸ばしかけて、目が合う。

 あれ、なんだか、変だ。

「……え、と」

「ん、悪い」

 体が硬直する私のことなど気にすることも無く、一条君は私の手からティッシュを取って乱雑に口の周りを拭う。

 いや、もっと丁寧でも……と思いかけて、ようやく自分が何をしようとしていたのか思い出して、体中が熱くなる。

 いやいやいや、いやいやいや、いきなり何をしでかすところだったのだろう。

「ん、どしたの?」

「……なんでも、ない」

 顔が合わせられない。なんだろう。すごく恥ずかしい。完全に無意識だったのが、本当に恥ずかしい。

 訝しげな顔をする一条君は気づいていないのだろうけど、私はそれどころじゃない。

 ああもう、こういうときに卒なく行動できれば格好が付くのだろうけど、私はつくづくそういうことに免疫がない。

 そうこう考えていると、重々しいエンジン音が近付いてきた。

 どうやら廃線ではなかったらしい。ちゃんとバスはやってきた。

 一条君が紙袋を折りたたんで立ち上がる。

「……あのさ、山埜井」

 バスが停まる。空気の抜けるような音と共に、乗車口が開く。

 私を見下ろす一条君が困ったような笑みを浮かべる。あんまり見ない表情だ。

「何があったか知らないけど、せっかく綺麗な目してるんだから……その、そんな腫らしてると勿体無いよ」

「……え?」

「そんじゃ、また明日な」

 何を言っているのかよくわからなかったけど、最後にニカッと明るい笑みで言われてしまうと、頷くしかなくなってしまう。

 そうして一条君はさっさとバスに乗って行ってしまった。

 その十秒後くらいに、一条君の言った意味を反芻して、意味を悟る。

 どうやら、心配させてしまったみたいだ。

 夕陽はそろそろ紫色になりつつある。ようやく涼しくなり始めた。けど、

 家に帰るまでの数十分ほど、私の顔は熱いままだった。



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