5:Disturbed black
どこをどう走ったか、覚えていない。覚えるのも、思い出すのも、手足をどういう風に動かすのかすらも、考える余裕が無かった。
ああ、そういえば、上履きのまま学校を出ようとして、裏門の手前まで行ってから気づいて、慌てて引き返して靴を履き替えて、そしてもう一度駆け出して、今度は鞄を忘れたことに気づいて、再び上履きに履き替えて、図書室まで鞄を取りに行ったのは覚えている。
いつもなら苛立ってしまうほどの物忘れっぷりだけど、今だけはそんな余裕は無かった。
むしろ感謝していたかもしれない。
一生懸命走っていると、頭の中が白んできて、余計なことは何も考えられなくなってしまう。
今だけは、今だけはそれがいいと思った。
だけど、どれだけ走っても、息は荒くなって苦しくなるのに、肺がキリキリ痛むのとは別の痛みが、胸を締め付ける。
これはきっと、急激な運動に心臓が激しく脈打っているだけだ。きっとそうだ。そうに違いない。
胸が痛いのは走っている所為だ。
普段運動らしいことをほとんどやってない、体格にも恵まれていない、うすのろが元気に走り回ったりなんかしてるから、こんなふうに体が引き裂かれそうな悲鳴を上げているんだ。
なんでこんな馬鹿みたいに全力疾走しているんだろう。ああほんとに馬鹿みたいだ。
なんでこんな苦しいのに、走るのを止めてしまわないのだろう。
なんでこんな無駄なことをしているのだろう。
いやいや、何一人で大急ぎで帰ろうとしているんだ。
今日は図書室で時間を潰してから帰る予定だった筈だ。
ええと、なんでそんなことをしていたんだっけ。
なんで走って帰る羽目になっているんだっけ。
ぼんやりとした頭では、まともに考えられない。
うそだと思う。いいや、嘘だ。そんなことはわかってる。考えるまでもない。
どれくらい、どこをどう、どんな顔をして走ったのかは知らないけど、足が持ち上がらないほど重たくもつれそうになって、ついに足を止めた。
耳がきんきんと音無き音を知覚し、前のめりに倒れそうになる上体を膝に手を付いて踏ん張り、白む視界は意識をも薄らがせようとする手前で目を瞑ってこらえ、顎が外れたかのような口からは意図しないまま荒い呼気が洩れ、いくら肺を動かしても息が苦しくてたまらなかった。
ずっと目を瞑っているのも三半規管がおかしくなりそうで、震える足が体を支えられなくなりそうで、あわてて瞼を開くと、西日で照らされた歩道タイルが視界に飛び込んできて、ちかちかと目に痛かった。
もう立っているのも辛い。どこかで一休みしたほうがいいかもしれない。
辺りを見回してふらふらと当ても無く足を進めると、手近なところに人影のないバス停があった。
雨よけとベンチのあるバス停は、学生利用者が多いためか、広めに場所をとってあるけど、今の時間は人がいないみたいだった。
好都合とばかり、すがりつくようにベンチに腰を落ち着けて背もたれに上体を預けると、胸が大げさに上下するのがわかった。
凹凸の少ない私みたいな体でも、上下するくらいの起伏はわかるものなんだなぁ、なんてどうでもいい事を考えてしまう。
西日がまぶしい。
傍らに鞄を置いて、夕日の赤を照り返すアスファルトから逃げるみたいに天井を見上げて、さらに視界をふさぐように腕で顔を覆う。
夏の入り口に差し掛かるこの季節に、全力疾走をしていたら、全身が蒸れるほどに汗をかく。
でも、ひと気の無いバス停にはいい風が吹き始めて、熱を持った体は徐々に呼吸を整えはじめて冷めていく。
それにしたがって、茹ったような頭の中も、明瞭さを取り戻していく。
足の震えが治まらない。しばらくは立たない方がいいかもしれない。力が入る気がしない。
でも、立ち止まっていると、思い出してしまう。
生徒会室で見てしまった、二人の、あの情景を。
緊張に顔を強張らせたスノオと、怪訝そうな香月の顔。
そして、スノオの「大好き」という言葉。
誰に向けて告げた言葉なのか、そんなものは、相手の名前を言わなくたって解る。
それだけ真剣な顔をしていたし、声だった。あのスノオが、物怖じしないスノオが、唇を震えさせるほど緊張していたのだ。
勝てっこない。
私は、スノオに何一つ敵わないと思っていた。スノオが本気を出したら、何一つ敵わないと思っていた。
でもそれは、誰かに対する気持ちだけは、同じくらいはあったという、私の気持ちの余裕が後ろにあったからこそ認められていたのかもしれない。
誰も私以上に、香月のことを見てはいない。そんな気持ちがあったからこそ、生まれた余裕。だったように思える。
だけど、だけど、そうじゃなかった。実際にはそうではなかった。
私には、言葉にするだけの勇気が無かった。
スノオにはそれがあった。スノオは、それだけの強さがあったんだ。
恋愛は勝ち負けじゃない。そういう風に言う人もいるだろうし、真実、そうなのかもしれない。だけど、私は、
私は、完全に、スノオに……勝てなかった。
「うぅ……うあ、ぁ……」
息を取り戻した口の端からは、いつしか嗚咽が漏れ出していた。
悔しいのだろうか。わからない。
悲しいのだろうか。わからない。
ともすれば怒りか。わからない。
どう喩えればいいのかわからないまま、ただ、感情が抑えきれず、おさえた腕が濡れて零れ落ちるものをとめられないでいた。
どうしようもない気持ちの昂ぶりに、体はどうしようもなく正直に応えて、寂しいバスの停留所で、いつ止むのか解らない涙が止まるのを待つことにした。
どれくらい、そうしていただろうか。
涙が止まるは止まったと思うけど、しゃくりあげるような嗚咽がまだ治まらないような気がする。
目元を押さえる腕がぐっしょりして気持ち悪くなってきた。
放心状態になっているのか、なんだか何も考えたくなくなってきてしまった。
「……あれ、山埜井?」
「え?」
唐突に名前を呼ばれて、変な声で答えてしまう。
ずっと目をふさいでいたのも悪いと思うけど、いきなり声をかけられると心臓に悪い。
そんなことを考えつつ、ようやく腕をどけて、たぶん、おそらく、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていると思う顔を向けてみると、
いつからいたのか、一条君がベンチの近くから私の顔を見下ろしていた。




