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滝行のように思うことがある。
俺にとっての勉学、或は日課ともなっているロードワークや筋トレなど、明確な目的地の定まっていない諸々の鍛錬とも言うべきものは、そう思える。
修行僧が邪念を払うため、或は願掛けとして行う、滝に打たれながら経典を読むという作業。
肉体にストレスを与えて精神の統一を図るという意味では、似ているかもしれない。
形のある答えなど無い。脳裏に像が無いからこそ、過酷であるし、いつでもやめられる。
いつでも簡単に諦められる。そこには勝敗などという雑念が存在しないからだ。
それならば、日に数時間単位で肉体的ストレスを課している俺は、そこまで雑念に捕らわれているということになる。
心当たりは無くもない。
多感な時期といわれる年代に生きていれば、我が身を惑わす事象はいくらでもあるだろう。
しかしそれらの多くは、自分が頑なでさえなければ、受け入れてもなんら問題ない雑念である筈だった。
自身に課した誓いさえなければ、俺はもう少し自由で居られたかもしれない。
だが、それを曲げるのは、自分自身が許せない。そうでなければ、自分で居られなくなる。
そうでなければ、一歩も前に進めなくなってしまっている。
それほどまでに、自分というものは、その誓いによって支えられている。
だからこそ、ここ数日……いや、もっというならここ数年の苦悩は、俺自身を覆してしまいそうなものだ。
多くを学び、多様性を身に着けている筈なのに、俺はいつからこんなに、不器用になってしまっていたのだろうか。
「香月……香月?」
すぐ傍から自分を呼ぶ声がして、ふと我に返る。
いつの間にか物思いに耽っていたようだ。
「大丈夫? まだ眠い?」
「……平気だ。ちょっと考え事してた」
心配そうにこちらの表情を窺う姿に、いわれの無い罪悪感を覚えそうになり、考えるより先に言葉が出ていた。
脊髄にでも刻まれているのか、傍らを歩く小羽の悲しげな顔を一刻も早く和らげるよう、思考が推移していた。
「そっか。また難しいことでも考えてたんでしょ?」
「そうでもない。シンプルなことでも、悩むことはある」
「ああー……そうなの?」
「……そうだな。たとえば、食後にデザートがあるとどう思う?」
登校中、お互いに違う教室に向かうまで一緒に廊下を歩く短い時間。
ここ数日は、本当に余計な話をすることが増えたように思う。
「うーん、それは嬉しいけど……ちょっと気にしちゃうなぁ」
考えるような仕草の後に、小羽は苦笑いを洩らす。
背の低い小羽だが、歳相応の発育をこなしていればそれなりにふくよかに見えるかもしれない。
だが、実年齢よりいくらか低く見られることの多い小羽は、食生活を心配する程度には痩せている。
この質問を用意する手前から、太ることを気にするほどでもないように見えるのだが、そこはそれ、複雑な乙女心という自分には何年経っても理解できない領域なのだろう。
「そういうことだ」
「うん、そういうことかぁ」
どこか満足げに嘆息する小羽の歩調に合わせて、ゆっくりと廊下を歩く。
実に内容の無い話だと思う。
だが、それでも不快とは感じない。
時間の許す限り、彼女の望む限り、共通の時間をもつということに頓着はしないと思う。
だがそれも、決して長い時間ではない。わかっている。自分の都合だということも。
小羽は、俺の都合を曲げることを好しとはしないだろう。
俺のために無理もするだろう。今までの行動を見ればわかることだ。
だからこそ、定められた短い時間を、長く持とうと思うのだろう。
わがままな話だ。だが、それも不快には感じない。たとえそのわがままが自分自身のものであろうとも。
「おーはよー、お二人さん!」
そして、小羽のクラスに近付いてくると、お決まりのタイミングで闖入者が後ろからやってくる。
「ああ、おはよう、厳島」
「まーったくもー、ぶれないねーカズッちゃん」
紅茶色の髪をくゆらせて長身をぴしりと反らせるように佇む姿は、美人というよりかは凛々しい部類に入る。
スカート丈を間違えてるかのように錯覚するほど長い足は小羽と比べるべくもないが、姿勢のよさに反してその口調はなんともくだけていて人懐こい。
「おはよ、スノオ」
「あー、やっぱコハは癒されるわー」
「もう、馬鹿にしてるでしょ?」
「んなことないってば」
むくれる小羽に対して、厳島は歯を見せて笑うと、颯爽と俺たちを追い越していく。
ん、いつもと何か違うな。
そう思ったのは小羽も同じようで、小首をかしげてその後姿に声をかける。
「あれ、一緒に行かないの?」
「んーやめとくー」
いつもなら、小羽とであった次の瞬間には、小羽を押し潰す勢いで抱きついて、そのまま教室まで引っ張り込むくらいの勢いが、今日の厳島からは感じられず、どこか気だるげな返答と共に半身で振り向く姿は、しかしいつも通りのいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「だってさー、最近のお二人さん、なんかいい雰囲気なんだもん。こりゃ、お邪魔かなーってさ」
「え……?」
交互に指差す厳島の動きにつられて、小羽がこちらを見上げてくる。
その顔、長い前髪で目立たない大きな瞳と目が合うと、途端に白い頬が紅潮する。
そういう顔をされると、どう扱っていいか困る。
「……もうっ、スノオ!」
「あら、ほんとにお邪魔だったかなー」
すべるように教室に入り込む厳島には、小羽の怒声など聞こえていないかのようだった。
後に残された俺と小羽はというと、小羽が足を止めたままなので、俺も動けないでいた。
「……えっと、その、スノオも変なこと言うよね」
「……あいつはいつも、だいたいおかしいだろ」
たぶん、俺も小羽も、そんなことが言いたいんじゃないと思う。
思うのだが、それ以上言葉が出てこない。気まずい沈黙が続く。
そうこうしているうちに、何人かの生徒が俺と小羽を追い越していった。
いつまでもこうしているのはいけないだろう。
「それじゃ、俺は先に行く。病み上がりだから、気をつけてな」
「うん……あとがと、香月」
無理やりにでも足を進める俺のほうにむけて、はにかんだような笑み浮かべる小羽の顔は、まだ赤いままだった。




