1:Innocent cross
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この世にはどれだけの思いが在るのだろう。
人の数だけそれは在る。そんな風に簡単な置き換えで、全てが解る訳じゃない。
どれだけ言葉を尽くしたって、たとえば万の言葉を用いて美辞麗句を並べ立てたって、思いが形状になることはないし、仮にそうなったとしても自分なんかにそれを解りきれるとは思えない。
でも、それにしたって、誰かが誰かの思いを慮ってしまうのは、もしかしたら他人の痛みが見えてしまうような奇特な人なのかもしれないし……
それでなくたって、人を心配したり、客観的に誰かの立場に立ってみたりすることは、誰だって行うことだと思う。
難しいことだけど、同じような思いを持ちたいんだと思う。
自分がまだまだ幼かった頃によく聞いた『十人十色、皆違って皆いい』という言葉はあっても、喜びは共有できたほうがいい。
十人十色という言葉は、個性を尊重するいい言葉のように教えられたような気がしたけれど……
よくよく考えてみれば、誰かと違うということは、誰かと解り合えないということなのだと思う。
だから、文字や言葉で意思疎通のできる人間同士ですら、勘違いやすれ違いが起こってしまう。
自分達はひょっとして、お互いのことをちっとも解ってはいないのではないだろうか。
もしかしたら自分達は、お互いのことを解っているつもりで、実は宛ても違う方角へ交差しているだけなんじゃないだろうか。
それは少し、いやかなり、やだな……
四月後半。二年生に進級し、クラス替えで落ち着かなかった教室の雰囲気も少し和らいで来る頃だろうか。
世間のことはよくわからないけど、私のクラスでも既にいくつかの塊、集まり……なんていうのかな、気の合う集まりみたいなものが生まれつつあるように思える。
とはいっても、一年生の頃から変わらず進級した集まりがほとんどだと思う。詳しくは知らないけど。
こんな不安定な言い方をするのも、私があまり交友関係に積極的じゃないからだろう。
人間関係って難しい。
思わず洩れそうになる溜息を、俯き加減にこらえる。
ふと、廊下を並んで歩くお隣さんの横顔を盗み見る。
小柄な私からすれば、背の高いその人は、必然的に見上げる形となる。
学年が上がって、また身長差が広がったかもしれない。私はちっさいままなのに、この人だけ勝手に大きくなったみたいで納得いかない。
昔は目線が同じくらいだったのに、今はすぐ横を見ると肩がある。
こういう風に違いに気づくと、この人との付き合いも長くなったのだと思ってしまう。
顎は細いけど、頬は薄い小麦色で血色は良くて、きれいに切り揃えた髪は染毛の欠片も匂わせないくらいの黒髪。
野暮ったいメガネがちょっと重たい印象だけど、それでも不健康そうに見えないのは、体格に見合った肉付きを維持しているからだろうか。
目元は厳格そうだけど、たまに笑うと柔らかく目じりが下がるのを知っていると、かえって愛嬌があるように見える。
周りの人からすると、冷たそうで生真面目で融通が利かなくてどこか枯れてるってところだけど、そこまで言われるほど老けても疲れても見えないし、むしろだらしないよりかはよっぽど良い。
……なんて思ってしまうのは、たぶん、まぁ、身内贔屓なんだろうなぁ。
と、あまりにぼんやりと眺めていたせいか、盗み見ていた筈のその目と視線が重なっていた。
「どうした?」
「あ、いや……」
なんだかずっと見つめていたのに今更気づいて、気恥ずかしくなってしまう。
何か、理由を探さないと……
「ええと……なんか」
「なんだよ?」
「……また、身長伸びた?」
一度俯いて、もう一度見上げる。言いながら、思うのは、何気に首が疲れる。
図らずとも咄嗟に口を付いて出たのは、今日最初に思ったことだった。のだけど、
「昨日も同じこと言ってたな。一日で、そんな伸びたか?」
昨日も同じことを言った気がする。たぶん間違いない。思いのほか首が疲れるのだから、多分、同じことを言ったと思う。
しかし、この人の言い方もおかしい。一日で身長が伸びたかどうかは置いといて、見た目で違いがわかるほど変わってはいないと思う。
だというのに、わざわざ訊いて来るのは、ヘンじゃないのか。
「昨日どれくらいだったのか、もう覚えてないよ」
「じゃあ、小羽が縮んだのかもな」
「……そ、それは困る」
いかにも眠そうに鼻を鳴らす。多分、冗談のつもりなのだろうけど、表情くらいはからかい顔で言ってくれないと、あんまり笑えない。
それともわりと本気でそう思っているのだろうか。
いやいや、彼に限って、そんなことは思っても言わない……と思う。
「おーはよー、コハ。あと、カズキも」
指摘された自分の身長について、そろそろ本気で悩み始めようと思ったところで、後ろから声がした。
それぞれ名前を呼ばれたため、私も香月も振り返る。
私のことをコハと呼ぶのは、今のところ一人しか居ない。
「ああ、おはよう、厳島」
「あー、名前で良いってば、毎回言うけど」
どんくさい私よりも先に香月がむっつり顔のままで挨拶を返す。無愛想に見えるけど、よくみると口元はちゃんと緩んでいる。
彼とは反対に人懐こい笑みを浮かべるのは、私のクラスメイトで友達の厳島小雪。
「おはよ、スノオ」
「うん、うん、これよこれ、これ見本。ねーカズッちゃん、これが模範解答。オーケー?」
「朝から元気だな、お前」
香月に遅れまいと短く手早く挨拶したつもりだったけど、目ざといのかどうなのか、抱きつく勢いで捕まってしまった。
確かに朝から元気いっぱいで少し当てられそうな感じだけど、香月のほうはにべもない。
ちなみに「小雪」と書いて「スノオ」と読む。変わった名前だけど、本人は気に入っているらしい。
「アンタは、ちょっと元気っぽくしたほうがいいんじゃないの? 根暗に見えちゃうよ?」
「ほっとけ」
「あー、かわいくない。相方はこんなに可愛いのに、なんでこうなっちゃったんだろーねぇ、ねぇコハ」
「う、うーん……」
正直言って、スノオの言いたいこともわからなくはない。
学校指定の鞄を片手に後ろから抱きついたままぶーたれているスノオからすれば、全身上から下まで糊が利いたみたいに真面目くさった香月は、あまり面白い人間ではないのかもしれない。
ただまぁ、毎朝こういうふうに、なんだかんだで話をするっていうことは、それほどお互い悪く思ってはいないと見てもいいのかな。
それに、私だって、香月にもう少しくだけた所を前に出してもいいとは思う。
無愛想に見える香月だけど、ユーモアがないわけでも、人付き合いが悪いというわけでもない。
それどころか、クラス委員に選抜されたり、生徒会に入ったりと、学校行事にも積極的に加わっている。むしろ社交的だ。
スノオは私のほうを正当化するみたいな言い方をするけど、どちらかというと私のほうが内向的で人付き合いは悪いほうだと思う。
「おい、あんまりベタベタするなよ」
「あらあら、妬いちゃったのカズッちゃん?」
「……小羽が潰れる」
「まーたまたー、苦しい言い訳しちゃってー」
ちょっとむっとした様な香月に、スノオは私に抱きついたまま背を向けるように距離をとる。
「おい、イツ──」
「はいはい、続きは放課後ねー。あたしらこっちだからー」
「あ、ちょっと、スノオ……」
制止する香月を振り切るように、スノオは私を教室に引っ張り込む。
いつの間にか、私のクラスについていたようだ。
得意げに笑うスノオに、香月はしばらく仰ぐように手を彷徨わせていたけど、すぐに肩をすくめ自分のクラスへと歩いていった。
進級して、香月は別のクラスになった。
一年生の頃ほど、気楽に会いにいける距離ではなくなってしまったことには、少し寂しさはあるけど、こうして毎朝一緒に登校できているだけで、前とそれほど違いはないと思う。
少なくとも、私は、そう思っている。
「ったく、さっさと言えばいいのに……」
頭の真上から、ちょっと恨みがましいような声が聞こえてくる。
スノオにしては珍しいトーンの声だったように思う。
「ていうか、いい加減、離してよスノオ」
「んー……いいじゃん、もうしばらくこのままでさー」
「もう……」
鞄を持ったまま、私を押さえ込むように頭に顎を乗せて更に強く抱き締めて、ぶんぶんと体を揺する。
そのたびにスノオの頭から垂れ下がる、すこしくたびれたみたいな紅茶色の髪が私の頬をくすぐる。
キレイだなぁ、スノオの髪は。
染毛したと言っていたけど、こんな風にキレイに染められるのだろうか。
私も……と思って、やめる。
きっと私には似合わない。
今まで私は、そういう、いわゆる自分を磨く努力に手をつけたことは、ほとんどない。
こういうのが許されるのは、もっと向上心の高い……スノオみたいに、バイタリティのあるタイプの人間だけなんだと思う。
というか……
「もう、やめてよ。首疲れるよ!」
「えっへへ、やーだ!」
今日は朝から、首が寝違えそうだ。
作中であまり触れていませんが、登場人物の名前はそれぞれ
山埜井小羽
宇野津香月
厳島小雪
となっております。一部DQNネームっぽいものもありますが、そのエピソードもそのうち書くかもしれません。
……書かないかもしれません。