3.夜
ふわあ、とあくびをすると、涼しい夜気が体を通り抜けていった。
「いい夜だなあ」
木造の、一階部分がないタムの伝統的な家を支える柱に寄りかかって、明日那は夜空を見上げていた。
涼しく湿気を防いでくれるこの家の造りは、日本古代の高床式倉庫に似ているという、ガイドブック程度の知識はあったものの、これほど効果があるなんて、と明日那は感心していた。
「久しぶりに屋根付きの家で寝られるし、本当にいい夜……」
しみじみと明日那が口にする。長い旅の中で、明日那は独り言が癖になっていた。
アンプヤーンの村には、日本の街中のように電灯の一つも無かったが、満月の下では十分に明るい。
明日那が月の明るさを初めて知ったのは、日本を出て二日目、船の甲板に寝そべって月を見上げた時であった。
ゆらゆらと揺れる船の上で冴えた月の光を浴び、冴え冴えとしたその光にかき消されることもなく輝く星々を目にした感動を、明日那は生涯忘れないだろう。
「リーさん達は元気にしているかな」
自分を上海まで送り届けてくれた、少し顔が怖いが意外と親切だった人々の事を明日那は思い出す。
船旅は、日本を出てすぐは順調だったものの、外海は想像以上に波が荒く、高波にあおられて船が転覆しそうな瞬間が何度となくあったものだ。
「しっかり捕まっていろよ!」
「はい!」
リーさんの船を操る腕と、その力強い声がどんなに励みになったことか、と、明日那は目の前に壁のような波が迫ってきた時の光景を思い返していた。
(リーさんは、顔色一つ崩さなかったな。それなのに……)
「本当に大丈夫なのか? ただでさえ女の一人旅は危険なのに」
別れる際になると、リーは強面の顔を崩して心配げに言ったものである。その後ろですっかりやせ細ったチャンは涙ぐんでいた。
明日那の渡した大金を手に、今頃は中華料理の店でも開いているかもしれないな、と明日那はぼんやり考えた。船旅の際、二人はしきりに足を洗うか、などと話していたからである。
明日那は、リーの包丁さばきと、チャンが中華鍋を振るう姿を想像してくすりと笑った。
「……こういう星が見れるだけでも、日本を飛び出した甲斐があるってものね」
「ここに居たのか、アスナ」
背後からの声に明日那が振り返ると、そこには昼間に知り合ったサマルという青年の姿があった。
「ふうん、今夜は満月か。良い夜だな」
「はい」
明日那は横に並んで立つサマルに心から感謝していた。宿のない郊外を歩くときは、いつも寝袋を使って野宿をしているのだが、今日はひょんな事からこの青年の家にお世話になる事になった。
応急修理が済み、アンプヤーンに着く頃には日が暮れていた。
「サマルの家なら大丈夫だ、嫁さんもいるしな。もし襲われたら大声を出せばいい。こいつは嫁の尻に敷かれてるから」
「余計なことを言うなよ!」
トラックから荷物を降ろす手伝いをしていた明日那に、サマルの叔父であるワンディーが笑いながら言ったものである。顔を真っ赤にして反論するサマルとワンディーのやりとりを、明日那はほほえましく眺めていたものだ。
「情けは人のためならず、ね」
ぽつりと明日那が日本語でつぶやいた。
「うん? なんだいそれは?」
「良いことをすれば自分にも返ってくる、という意味の日本のことわざです」
「へえ、良い言葉だなあ。タムには情けをかけて船を叩く、って言葉があるけど、意味はまるっきり逆だ」
(そんな言葉が有っても、サマルさんは親切にしてくれている)
アンプヤーンは典型的なタムの農村といった小さな村だったが、それでも、東南アジア全体に広がる経済成長の余波のようなものが押し寄せている。鉄筋作りの無個性な家がぽつぽつ建っているのを見て明日那は軽い失望を覚えていたが、嬉しいことにサマルの住む家は伝統的な高床式の家であった。
「ボロい家で悪いがな」
「いいえ、そんなことないです!」
自分の家を。他の鉄筋の家と比べて気恥ずかしそうに笑うサマルに、明日那はまじめな顔で答えた。
「その国の気候にあった家が一番ですよ。今まで何カ国か回ったけど……無理に今風の家を建てたらすぐに痛んじゃうでしょう? それに、涼しくて気持ちが良いし」
「そう言ってくれるとありがたい」
サマルは奥さんと子供との三人暮らしである。いかにもタム女性というような、優しげだが芯の強そうな奥さんのシリヤと、元気が形をとったようなタリムに迎えられて、和気藹々とした夕食の中、明日那は言いようもない懐かしさを感じていた。
……それは、もう日本では二度と味わう事のできない感情だったのである。
やや眉を曇らせる明日那に気づいた風もなく、サマルが明日那に笑いかけてくる。
「晩飯は旨かったか」
「うん。ちょっと……いや、かなり辛かったですけど」
明日那は軽く舌を出して見せた。いまだに少しひりひりする舌が紅くなっているのを見せつけるように。
「そうだろう。俺の嫁さんの料理はタムで一番だからな」
「はい」
今のところ、と注釈をつければ、確かにシリヤが作ったトムヤムクンは、タムに入国してから食べた中で一番の料理であった。強い辛みと酸味が調和したその味は、つけあわせのジャガイモの素朴な味にひどく合い、一日中歩き回った体にしみるほど美味しかった。
「お世辞でもうれしいぞ」
「そんな事ないですよ」
「父さん、なにやってるの!」
いつ、家の入り口であるはしごから降りてきたのか、タリムがサマルへしがみついた。五歳だというタリムは、年齢よりも少し幼く見える。
「おいおい、まだ起きていたのか」
「お姉ちゃんとでーと?」
「バカなことを言うな」
サマルがあわてて息子の言葉を打ち消した。その狼狽ぶりに明日那はくすっと笑った。奥さんのシリヤは美人で気立ても良かったが、いかにも気が強そうである。
「どこでこんな子を引っかけてきたの?」
と、初めこそサマルに詰めよったものの、ワンディーと明日那が慌てて事情を説明すると、「ああ、そうだったの」と、すぐに優しく笑みを投げかけてくれたものである。
サマルはがっしりとした肩に息子をのせた。きゃっきゃ、と笑うのを見て明日那も頬に笑みを浮かべる。
「そういえば……今日は家に泊まるとして、これからはどうするんだ? 良かったらしばらくウチに居てもいいんだぞ。あんまり長く居てもらっても困るが」
その率直な物言いが明日那にはかえって嬉しかったが、その好意に甘えるつもりは明日那には無かった。
「折角ですけど、まだ色々と行きたい所がありますので。明日の朝には出発します」
「おいおい、そんなことを言わないでくれよ。まだ全然礼をしていないんだ。それに、息子に走り方を教えてほしいし」
「教えるほどたいした物じゃないですよ」
「あんな速く走る人間を俺は見たことがない。日本人ってのはみんな足が速いのか?」
「どうかなあ」
明日那は曖昧に笑ってみせる。実のところ、明日那は自分の脚力が人並み以上のものになっているのを自覚してはいたが、それはあらゆる物から逃走する手段でしかない事も知っている。
「……無我夢中で走れば、誰だって速くなりますよ」
足の豆がつぶれ、指の骨が折れてしまうほどに。それでも、日本にいた頃の私は走り続けていた……あの、忌まわしい記憶を忘れてしまうために……
ずきり、と明日那の脳裡に痛みが走った。……少し顔をしかめるだけで、その胸の痛みを受け流すことのできる程度に、明日那は一年前の悪夢と折り合いをつけることができている。
「そりゃそうだな」
ははは、とサマルが笑うのに、明日那はかすかにこわばった笑みを返した。それを、サマルの頭の上に顎をのせた小さな顔が、怪訝そうに見つめているのに明日那は気がついていた。
明日那は、顔に蜘蛛か何かがまとわりついたのを払うように、ブンと首を振った。日本での事は、もう忘れよう。今は今の事だけを楽しもう。そう決めたのはずいぶん前の事ではなかったか。
「走り方の基本くらいは教えてあげるわ。明日は早起きしなきゃね」
今度こそ、明日那は笑うことができた。
家に戻るために梯子を昇るとき、明日那はまた夜空を見上げた。星が綺麗に見えるうちは、私は大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながら。