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2.長距離選手

 空気の澄んだ昼下がりだったからか、陽の光がすべてを素通りして地上のすべてを焼き尽くすようだった。絶え間なく南から吹く季節風が、水田に並ぶ青い稲を通り抜けてわずかに冷たくなっているのがせめてもの救いである。

 赤道にほど近いタムの日差しは強い。特にこの日は、自分の国の暑さに慣れている者でさえ耐え難いほどだ。

「こんな日に仕事なんてバカみたいだな」

 グニャグニャにふやけた紙たばこを吸いながら、男が黄色い歯を見せた。笑うと目尻の皺が目立つ、赤茶けた肌の中年の男で、木箱が積まれたトラックに寄りかかるように腰を下ろしていた。

 トラックの車体は赤い土で塗りたくった粘土細工のように汚れきっていたが、IZUSUと刻まれたエンブレムだけが、文字の下からひっきりなしに漏れる蒸気に洗われ、輝いている。

「はやく母ちゃんのところに帰りてえな」

 日陰に座っていても裸の上半身は汗にまみれている。男は火の消えたタバコを足下に落とすと、ポケットからしわくちゃになった紙箱を取り出した。

 指先で中身を探り、さらにひっくり返して、箱の中には空気とタバコくず以外に何もないことを確認すると、男はチッと舌打ちして箱を放り捨てた。

「まだかよう、修理が終わるのはよ」

「うるさいなあ、少しは手伝ったらどうなんだ」

 トラックの下から生えている足が返事をする。そのくぐもって聞こえる声は中年の男のものにそっくりだったが、中年の男にはない若さと力強さにあふれている。

「俺はトラックの修理なんてできねえ」

「いい気なもんだ。こいつが直らなかったら飯の食い上げだよ」

「ニホンの車は壊れないんじゃなかったのか」

「ろくに整備もしないで十年も乗っていれば、壊れちゃうに決まってる」

「ちがいないねえ。おまえのお袋みてえなもんだ」

「人のこと言えるのかい」

 きわどい冗談に男たちは爆笑した。よくあるトラブル、どうにかなろう。そんなのんびりした空気が二人の間には流れていた。

 ゆったりとした時間が過ぎていく。カチャカチャと金具を動かす音だけが熱い空気を振わせていたはずだったのだが、ふと、男は奇妙な音が遠くから聞こえてくるのに気がついた。

「……うん?」

 ずし、ずしという重低音は、まるで象の足音のようである。街の歩道を象が我が物顔に歩いている国である。足音はめずらしくないが。半ば眠りこけていた中年の男が顔を上げた。その横で、車体の下に潜っていた男が這い出そうと身をよじっていたが、それにも気づかず、道の先を見つめている。

「なあ、交代しようぜ。僕だって修理の仕方は良く分からないよ……おじさん、聞いてるのか?」

 這い出した男は幾分若い年格好だったが、日に焼けているのは変わりない。立ち上がり、土まみれになったシャツとズボンをパンパンと叩くと、むっとした表情で中年の男に詰め寄った。

「どうしたんだよ、交代だ。このままじゃ今日中にアンプヤーンに帰り着かない」

「おい、あれを見ろよ」

 若い男は、髪についた土を払いながら指さされた方向に目をこらした。若い男の目に飛び込んできた物は、にわかには信じがたい物だった。

 二人がうっすら上る陽炎の先に見ているのは、麦わら帽子を被った一人の少女であった。少女は背丈よりも大きいリュックを背負いながら、かなりの速さで近づいてくる。

といって、手を振り足を上げて走っているようには見えない。ただひたすらに「歩いて」いるのであったが、その早さは遠目に見ても異様で、もし二人が競歩という競技の事を知っていれば、その選手だと勘違いしたかもしれない。

「もしかして、あの子は」

 片手を目の上にかざして、近づいてくる者を探っていた若い男が、その正体に気がついて上ずった声をあげる。それに応じて中年の男が首を横に振った。

「まさか。あの子と別れたのは、まだ日が真上にあった頃だぞ」

若い男が空を見上げるが、まだほとんど日は傾いていない。

「今は、ざっと二時ぐらいかな」

「そうだろう? ここいらはバスもろくに通っていないはずなんだが……この短時間でここまでたどり着くのは、ムリだ」

 二人が少女と初めて出会い、そしてすぐに別れたのは、二人がタムの首都、バンコラの外れにある市場で仕入れを終え、帰途につき始めてすぐのことであった。大きな荷物を背負って歩く少女に、二人はトラックから声をかけたのである。

「ねえ、君! どこまで行くの? ずいぶん重そうだがけど、乗っていくか?」

「旅行か、この熱いのに物好きだな」

心からの親切で二人は少女に向けて呼びかけると、少女はにっこりと笑って返事をした。

「ありがとう、でも私、歩くのが好きだから」

「そうか、じゃあ頑張れよ!」

 軽く手を振ってくる少女を背に、二人の乗ったトラックは帰り道を進んでいったものである。変わった子だな、という印象は持ったものの、ただそれだけの出会いのはずであった。

「ここからバンコラまで二十キロはあるぞ。計ったわけじゃないが」

「二十キロ……?」

 その距離を、少女はあれだけの荷物を背負って二時間ほどで歩いてきたことになる。

ふと見ると、女の子が足を止めたようだった。よく見ると、二人の方に向けて手を振っているようだった。

「向こうも気づいたな」

「しかし、体力のある子だなあ」

 割合に平凡な感想を、若い男が漏らした直後のことだった。突然、少女の後ろに砂煙が上がる。まるで爆発したような舞い上がり方であった。

「地雷でも踏んだのか!」

 と、中年の男が思わず叫んだほどである。

 砂煙は少女を追うようにどんどん舞い上がっていく。まるで、地中を猛スピードで突き進む怪物に追いかけられているようだったが、常にその先を少女は進んでいく。

 人間の足とは思えないほどの早さだった。少女が駆けてくる姿は、二人がいつの日かテレビで目にした、飛行機に積むようなエンジンでかっ飛ばす、車の競争を連想させた。

「ど、どうしよう叔父さん」

「べつにどうしなくでもいいだろう」

 と言う中年の男の声も、おどおどしたものになっている。男は、腕にすがりつく甥をよそに、空のポケットをしきりにたたいて、先ほど捨てたはずのタバコの箱を探し始めた。

 少女と二人の間には、アンプヤーン端から端までの距離はありそうだったが、少女はあっという間に二人の前までたどり着いた。少女は、二人の前方で、両足を前に出すように、地面を削りながら達止まった。

「三十二秒……くらい」

「どの位の距離が?」

「いや、分からないけどとにかく速い」

 二人が目の前に立ち止まった少女を呆然と見ていると、目の前で軽く息をつく少女は、二人に向けてまぶしく笑って見せた。黄金色に実った水田の真ん中に立つのが似合うような、太陽のような笑みを持つ少女だった。

「さわてぃーくらっ! また会いましたね!」

「サワディークラッ……」

 ぼそりと青年がつぶやくタム語のあいさつは、少女のつたないタム言よりもぎこちないものだった。

 麦わら帽子を脱ぐと、ポニーテールにした豊かな髪が露わになる。

少女は、男達と肩をならべるほどの長身だった。てかてかと光る妙な素材でできた、作業着のような青い上着とおそろいの生地のズボンをはいている。

 トラックから声をかけた時には気がつかなかったが、少女はその妙なズボン越しにも分かるほど足が長かった。タム国民の常で、足の長い女は村にも掃いて捨てるほどいるが、それに比べてもかなり長いようだ。

「どうしたんですか? トラックが止まったのかな」

「ああ、見ての通りさ。それよりも姉ちゃん。あんた、もしかして、バンコラから歩いてきたのか」

 まさかな、そんなわけないよな、と二人は言い合っていたが、

「そうですよ~」

という、少女のあっけらかんとした答えに、二人は思わずのけぞってしまった。

「う、うそだろう。昼に俺たちが君の前を通りかかってから、二時間くらいしか経っていないのに」

「私、嘘は嫌いです」

 少女は額に汗を浮かべているものの、あまり疲れた様子はない。わずかに肩を上下させているだけだ。仮にここまで歩いてきた事が嘘だとしても、重そうなリュックを背負ってあれだけの速さで走ってきたというのに。

男達は身内同士らしく、ほとんど同時に息をのんだ。

「この車、壊れちゃったんですね。日本車なのに……修理できそうですか?」

 二人は少女の言葉に我に返った。日はまだ高いが、トラックが直らなければここに放置しておかなければならない。商品は主に雑貨なので腐ったりする心配はないが、品物が盗まれる心配をしなければならないし、第一、アンプヤーンまで歩いて帰らなくてはならない。

「五分五分……いや、四分六ってところかな」

「叔父さんが直せる可能性?」

「いや、お前が直せる見込みなんだが」

「冗談言うなって、僕にはトラックなんて直せそうにないよ。さっきも適当にいじくっていただけだ」

 少女は首をわずかに傾げて二人のやりとりを聞いていたが、すぐに少女は顔を上げて明るく告げた。

「良かったら、私がどこかで修理屋さんを呼んできましょうか?」

 少女の思いがけない申し出に、二人はまた顔を見合わせた。

「いや、そんなことはしなくてもいいんだ。直らなければ、最悪ここに置いておいておくといういう手もあるし、明日誰かに直してもらえばいいんだ。今からじゃ日が暮れちまう」

「僕たちの村がここからは一番近いんだが、あと十キロはあるからね」

「何ていう村ですか? 方角は?」

「アンプヤーンだ。ずっとこの道を道なりに行けばたどり着く」

 そういって若い男が指し示す方角を、少女はじっと見つめていたが、やがて担いでいた緑色のリュックを地面に降ろした。

一抱えほどもあるそのリュックは、鉄のかたまりでも入っているのか、ずしりと音を立てて地面に落ちた。

「リュックの底に穴が空かないのが不思議だ」

 と、若い男が隣の男に耳打ちをする。

「おじさん達、お名前を聞かせて貰っていいですか?」

「俺はワンディー。こっちは甥のサマルだ」

「私は瀬川明日那って言います。セガワ・アスナ」

「変な名前だ。どこから来たの?」

「日本からです」 

ふたりは戸惑いながらも、少女が差し出す手を握り返した。足の強さから想像していたよりも、ずっと手は華奢であった。

「店の場所はすぐにわかりますか?……そうですか。じゃあ、ひとっ走り行ってきますね」

「おい、あまり走らなくても」

二人が声をかける間もなく、少女は村の方向へ駆けだした。瞬間、間欠泉が吹き出したかのように砂煙が上がり、二人は顔を手で覆って咳をした。砂が風に散ったときには、明日那の姿は遙か彼方にあった。

リュックを背負っていた時よりも遥かに早く明日那は駆けている。それは、当たり前のことであったが、それにしても明日那の速さは常軌を逸していた。

 後に残された二人は、ただ呆然と消えていく明日那の後ろ姿を見送っている。

「今年のオリンピックはバンコラだったか? 何かの選手だろう、あの子」

「いや、たしか今年はロンドンのはずだよ」

「ロンドンって何処だ」

「アメリカじゃないかな、多分……」

 二人を照らす日差しが、少女の行き先にはまっすぐに伸びた水田がどこまでも続いている。その先の空を覆いつくす黒雲を見て、ワンディーたちはほっと顔を見合わせた。スコールは涼しい風を運んでくれる。

「あの娘は濡れちゃうだろうな」

「なあに、濡れたほうが涼しくなるだろうさ、それにしても」

 ワンディーが言葉を切るころには、アスナと名乗った少女の姿は見えなくなっている。

「虎のように走る少女だ……」

「虎が走るのを見たことあるの?」

「大昔に、な」

 少女が巻き起こしたかのように、一陣の湿り気のある風が吹く。

 そして、トラックの助手先に乗せられた少女が雨を伴って舞い戻ってきたのは、それから一時間を少し過ぎた後のことであった。


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