序.出港
寂れた廃港の風景にわざわざ用意されたような古びた漁船が、明かりもつけずにひっそりと船着き場を漂っていた。深い闇をたたえた海は穏やかだったが、かすかに吹き付ける風は冷たく、陰気な夜を際だたせている。
わずかに降る雪が、照らす物なくさびしげに踊っている……それは、この地方における初雪であったが、感心を向ける者は、船内の二人を含め誰一人としていない。
ふっ、と一瞬だけ暗い船室の中にライターの明かりが満ち、すぐに消えた。タバコの明かりにぼんやりと輪郭の見える若い男の風貌は、明らかに漁師のものではない。無精髭を生やした精悍な顔にやや鋭すぎる目が光っている。日の当たらない世界に身を置いている男の目であった。
男がふうっと煙を吐き出して表情を緩めるが、その束の間の安らぎはどたどたという足音で一瞬にかき消された。
嵐にあおられたように、船がゆらゆらと前後に揺れ、男は舌打ちをした。
「チャン、お前はこの船を沈める気か!」
「来ませんよ、リー兄貴」
中華料理屋の店員を思わせる小太りの男が、雪だるまのようになった体を震わせながら船内へと入ってきた。雪を辺りにまき散らすのを見て、リーと呼ばれた男はやれやれと首を横に振った。どうしてこんな奴を連れてきたのかと言いたげな苦い表情をしている。
「分かりきった事をぬかすな」
闇の中でリーがチャンを睨みつけるが、夜目が利かないチャンは、気付かず呑気に雪を払い落としている。つくづく役に立たないやつだ、とリーは口の中でつぶやいた。夜目が利くことは船乗りの基本的な資質である。レーダーなどの探知機が発展した現代においてもそれは変わらない。
リーの目には、不平ヅラでもごもごと口を動かしているチャンの姿がはっきりと見えている。全く、荷物以下の存在だ、と航海中もロクに役立たなかった相棒の顔を、リーは一方的に睨み続けていた。
「約束の時間まではあと十分ある」
「半分はもらっているんだから、トンズラしても良いんじゃないですか」
「半分貰っているからこそ、だ。わざわざ日本まで出張って来たんだ。もう半金もらわなけりゃ割りにあわん」
「律儀だねえ、兄貴は。そもそも金をもらった時点で知らん顔してりゃいいのに」
ふん、とリーは鼻で笑った。運び屋の世界は律儀でなければ生きていけないのだ。ほんの少しだけ、と荷物をごまかそうとして鮫の餌になった同業者を、リーは幾らでも知っている。
「どんな奴が来るんでしょうね。どうせロクな奴じゃないんでしょうけど」
「俺たちが言える立場か」
「ヤクザか何かでしょうかねえ、わざわざ日本からコッチに行くなんて」
「さあな」
リー達の仕事は、隣の国日本へ、一攫千金を夢見る連中を送り出してやる……平たく言えば、密入国させることである。一昔前は休む暇もないほど仕事があり、一年のほとんどを海の上ですごすほどだった。中国の水上警察や海上保安庁の船に追われるのは日常茶飯事である。
しかし、近頃は仕事がめっきり減ってしまった。近頃は日本よりも御国の方が景気は良いらしく、危険を冒してまで日本へ密入国しようとする者はほとんどいない。なにせ、金持ち連中が大手を振って日本へ買い物旅行に行く始末なのだ。運び屋に仕事のあろうはずがない。
いっそまた漁師に戻ろうか、とリーが自宅のボロアパートで憂鬱に寝転んでいた矢先に、裏の世界を巡り巡ってリーに舞い込んできた仕事が、「ある日本人を上海まで送り届ける」というものであった。
仕事の小ささに初めリーは辞退しかけたものの、その報酬額が内容に比べはるかに大きい事を知り慌てて引き受けたのだった。
その前金として渡された半額は、仕事を持ちかけてきた暗黒街の顔役への借金返済と、ガソリンその他もろもろの準備に消えてしまった。残りの半額が手に入れなければ当分は無一文で過ごすことになってしまう。
リーはタバコを揉み消すと、吸い殻が溜まりにたまった足下に投げ捨てた。航海の間は一切掃除をしない、ツキも一緒に逃がしてしまうから、というのが、リーのゲンかつぎの一つであった。
「日本人は時間に正確なはずなんだがな」
半ば独り言のようにリーがつぶやく。
「密航者も正確ですかねえ」
「それもそうだな」
リーは適当にチャンをあしらいつつ、またタバコに火をつけた。
是非にも依頼者には来てもらわなくてはならない。あわよくば半金以上の経費をせびる為にも。
遅れたことを口実に料金を割り増しで請求するのも悪くないか。キャンセル料をせしめられるだろうかとリーが思いを巡らせていた時だった。遠くから、聞き覚えのある忌まわしい音が聞こえてきたのは。
「ねえ、兄貴。俺腹が減ったよ」
「うるさい、黙ってろ」
チャンを無視してリーは耳をすませる。雪の降る音さえ聞こえて来そうな静寂の中、聞き間違えようのない忌まわしい音……パトカーのサイレンが近づいてきた。
たまたま通りかかっただけであればいいが、というリーの思いは、だんだんと近づいてくる音にあっさりと裏切られる。ようやくサイレンの音が耳に達したのか、チャンがあたふたと体を動かしはじめた。
「兄貴、どうしよう!」
「この闇の中だ。そう見つかるはずはないが」
リーはタバコを地面に落とし、足で揉み消した。日本の漁船にカモフラージュしてあるものの、わざわざこんな廃港に警察が出張ってきたのだ。自分達が目的であるに決まっている。リーが鍵をひねると、息切れのような音を発しながらエンジンが動き出した。
「ヤバイっすよ、兄貴」
「やばいかどうかは俺が判断する」
リーの脳裏に、なぜ見つかったのかという疑問がよぎる。これまで一度も見つかった事のない場所だ。
「人の姿もなかったが」
たとえこの状況で捕まったとしても、銃や麻薬などのまずい荷物は積んでいないから、せいぜい不法入国で済んでしまうはずだ。面倒な事にはなるが、とりあえず生死に関わることではない。
「俺たちみたいなのを追っていられるほど暇でもなかろうに」
日本の警察のくそ真面目さもここまで来たか、とリーは苦い顔をした。中国の下っ端警官のように適当にやっていればいいのものを。この国では警官に対する賄賂の類は一切通じない。よほど給料が良いのだろう、とリーは皮肉に考えた。
俺もこの国で警官になろうか、などと考えているうちに、いよいよサイレンの音が近づいてくる。リーは鋭く舌打ちをしつつハンドルに手をかけた。
「くそっ、しょうがない、キャンセル料をせしめる算段をするか。そっちの方が楽だ」
時間に遅れたのは向こうなのだから、後からクレームが来ても言い訳は立つ。逃した半金は痛かったが、捕まった上に手ぶらで強制送還されるよりはマシだ、というリーの判断だった。
レバーを操作してエンジンをかけると、たちまち海面に水しぶきが上がり、船が岸から離れ出した。
「あばよ、日本。ったく、とんだくたびれもうけだ! 俺のボロ船とテメエの国と、どっちが沈むのが早いか競争だ!」
悪態でもつかなければやってられない気分だ。ここまで来る手間を考えれば、上海ガニでも密猟していたほうがましだった。
「くそったれ、今度来るときは大金持ちになって、お巡りなんか這いつくばらせてやる、その後は……」
リーがハンドルを切りながら思いつく限りに悪口を並べ立てていたときだった。どすんという衝撃が急に船に伝わり、リーは思わず舌をかんでしまった。
「なんだ!」
船は、陸から船を見えにくくするために岸壁から二メートルほどの近さでて航行していた。誰かが飛び移ってきたのか、という疑問がリーには浮かんでいたが、すぐにその考えを否定した。いくら岸から飛び乗れる近さとはいえ、すでに三十キロ近いスピードが出ていたのである。乗り移れるはずはなかった……のだが。リーがハンドルを握ったまま振り返ると、船の後部に黒いなにかがにうずくまっていた。
「誰だ!」
リーが叫ぶと同時に、チャンが懐中電灯で黒い人影を照らす……二人は、明かりの先に見える物に目を見張った。
そこに居たのは、リュックを背負った一人の少女であった。乗り込む際に打ち付けたのか、お尻をしきりに撫でている。
「ぎりぎりセーフね。届かずに落ちてたら、そのまま溺れちゃうところだった」
ある程度日本語を理解できるリーは、少女の言葉を聞いて再び驚いた。どうやらこの少女がリーの待っていた客らしい。
目の前で座り込んでいる少女は、どう見積もっても十五、六才という若さであった。かなりの大金を払って密出国をしようとするような人間とはとても思えない。
「ああ、危なかった」
少女が岸に目をやったのに釣られてリーもその方向を見ると、そこには二台のパトカーが止まっていた。警官達が降りたってわらわらと騒いでいる。にわかには信じられないことだったが、、パトカーが追っていたのはこの少女だったらしい。
改めて少女の顔を見ると、懐中電灯の明かりに照らされて額の汗が眩しく光っていた。服装はまるで色気のない、青いジャージの上下という出で立ちだった。
リーの好みよりだいぶ太めの、少し凛々しすぎる眉の下で、瞳がきらきらと輝いている。血の上った頬はやや日に焼けすぎているようだが、すっきりとした輪郭には似つかわしい物だ。もう少し身なりに気遣えば化けるのではないか、という感想をリーは抱いていた。
「置いていかれるかと思いました」
片言の中国語で、少女が話しかけてくる。頭を振るわせて雪を払うと、短く整えた髪がさらりと揺れた。
「あんたが……」
「私が依頼した瀬川明日那です。上海までよろしくお願いしますね」
まるでタクシーにでも乗り込んだような気軽な物言いだった……依頼者の名前だけはリーも聞いていたのだが、アスナという風変わりな名前が男なのか女なのかは判断できなかったのである。
どうして身元照会のための写真が無かったのか、今になってリーは理由を知った。こんな子供が頼んできたと知ったら、いたずらか何かだと思ったに違いない。
「……ああ、よろしく。ところで、警察に追われていたのはお前か?」
「そうみたいですね」
とぼけているつもりなのか、少女はにこりと笑ってみせる。嫌味のない良い笑みだった。こういう少女の表情がリーは嫌いでは無かったが、好みと商売とは別の問題である。
「約束の金はちゃんと用意してあるんだろうな」
「ええ、もちろん」
リーは表情を変えないままほっと息をついた。たとえ犯罪者だろうと子供であろうと、金さえ用意していれば客として文句はない。少女がパンパンに荷物の詰まったリュックを探り始めるのを、リーは舵をとりながらちらちらと見つめていた。
(あれだけの荷物をしょって、よくここまで飛べたもんだ)
しばらく少女が荷物を探った後に取り出したのは、現金の束ではなく、貯金通帳とカードであった。
「この中に入っています」
「なんだと、なぜ現金を持ってこなかった!」
と、チャンが凄んで見せるのを、まるで身じろぎもせず受け流して、少女は白い息を吐き出した。
「現金を渡すと、そのまま海へ捨てられることも考えられます。この銀行に預けてあるお金を引き出すためには、私を無事銀行へ連れていかなきゃなりません。一応言っておきますけど、このカードは指紋認証ですから。まさか指を切って持って行く訳にもいかないでしょう?」
少女はそこまで中国語で一息に言い切った。何度も練習したような、芝居めいたのその口調がリーにはおかしかったが、それを割り引いても、少女の言い放ったことのしたたかさにリーは舌を巻いた。
(この年で、黒幇……中国の黒社会に渡りをつけるだけのことはある)
その経緯は、下っ端のリーは知る由もなかったが。
(末恐ろしい奴だ、俺の国にもなかなかこんな子はいねえや)
リーはふふんと笑いつつ、岩場を避けて右に舵を切った。あたりに船の気配もなく、レーダーに影のひとつも無い。パトカーから海上保安庁に連絡が行くことだけが心配だったが、とりあえず無事に出航できそうだ。
「じゃあ、私は寝かせてもらいますね。何日かかるか知らないけど……ちょっと疲れちゃった」
呆気にとられているチャンを尻目に、少女はさっさとリュックから寝袋を取り出すと、さっさとその中に潜り込み、船室の片隅に寝そべった。いきなり見知らぬ中国人の船に乗り込んだとは思えない度胸だ。少なくとも、ぬるま湯のような環境で育った日本人の少女とは夢にも思えない。
「妙なガキですね」
チャンが耳打ちしてくるのを無視して、リーは明日那へ声をかけた。もうすこし、この少女の事を知って起きたいという欲求がリーに浮かんでいる。
「何をしに中国へ行くんだ?」
「世界旅行。あちこちを巡るの……」
半ば眠っているような声で少女が答える。世界旅行か、とリーは苦笑した。警察に見送られ、密輸船で出発する世界旅行とは。
「旅行者が、何で警察に追われていたんだ」
リーが愉快そうに口にしたのだが、その表情は少女の返答を聞くとその凍り付いてしまった。
「……人を、殺したから」
「なっ」
たった今まで少女が見せていた、明るく活発なイメージからは到底想像もつかない回答に、数々の修羅場をくぐり抜け、多少のことには慣れているはずのリーが、声を詰まらせてしまった。
「……いったい、どうして?」
返事は無い。見ると、少女はすでに寝息を立て始めているようだった。それが狸寝入りなのかリーには分からなかったが……あえて、もう一度聞いてみようという気にはならなかった。
ともあれ、この少女が、半端な爆発物以上に危険な存在であることは明らかであった。
「兄貴ぃ~」
「情けない声をだすな。いざとなったら二人がかりでノシてしまえばいい」
この少女の言うことが真実であったとしても、大の大人が二人がかりで適わない相手とは思えない。最悪の場合、ロープで縛り付けて丁重に上海まで送りとどけてしまえばいいのである。
(……とはいえ、やっかいな荷物を載せちまったな)
すやすやと眠る少女を、二人はしばらく無言のまま見下ろしていた。暗く静かな海を船は静かに進んでいく。世界旅行の船出にはもっとも似つかわしくない海を。
……岸には、二台のパトカーが止まっている。警官達がしきりに無線で連絡を取り合い、慌ただしく動いている中、コートを羽織った若い刑事が、離れゆく船を何時までも見つめていた……
そして、半年の時が経過する。冬の気配はとうに溶けさり、東南アジアの国・タムでは長い夏が始まろうとしていた。