みなものかがみ
ミホシが生まれた里は旅人に忘れられた里だった。街道沿いにあるわけでもなく、旅人をひきつけるような珍しいものもない、平凡な里だ。
が、年に一度そんな里がにぎわうことがあった。霊験あらたかな水の宮の巫女長が、いつの頃からかかの里を参るようになったのだ。
なんでも、巫女長と言葉を交わした者は迷いや憂いが晴れ、自分の歩んでいくべき人生の道を見出せるのだという。
救いを求める人々が巫女長にひとめ会おうと集まってくる。
ミホシは思う。
水の宮の巫女は、人々の心の曇りを自らの心に鏡のように移し取り、清めるという。
だったら巫女たちの心の曇りは、誰が清めるのだろう。
もし、自分に心の曇りを清める力があるのなら、自分も巫女になりたい。そして、人々だけではなく巫女の心の曇りも清めたい。
巫女長はいつもの年と同じ日にやってきた。
ミホシは人々の幾重にもなった輪をかきわけ、ついに巫女長と対面することができた。
ミホシは巫女長に臆せずに言った。
「巫女長さま、私も巫女になれますか?」
水の宮の巫女見習いの娘たちには、一人ひとりそれぞれの物語がある。類まれな才を見出され、何千人もの志願者の中からわずか数人しか選ばれない娘たちは、ある意味、幸運に恵まれている。
しかし、15才で生まれた里を離れ、一生を水の宮で過ごして水神に仕えることを運命づけられた娘たちは、失うものも多かった。
何百年に一人の逸材と望まれて宮入りしたキサラが失ったのは、幼なじみのヨダカとの何ものにも代えられない絆だった。
そのヨダカが、里長の娘を伴侶として選んだと風の噂で伝え聞いた時、キサラは思ってしまったのだ。
「私の目に裏切り者のヨダカの姿がふれないよう、 彼をこの世から消して欲しい」
もちろん、自らが手を下したのではない。
キサラは思っただけ。
それからまもなく、里から文が届いた。
ヨダカは水場に水をくみに行って足を滑らせ水面に落ち、それきり浮かんでこなかった。
キサラにだけは分かった。偶然ではない、水神が自分の暗い望みをかなえたのだ。
その日から、キサラは巫女として水神に祈りを捧げることができなくなってしまった。
時は流れる。
キサラと仲の良かった巫女見習いの娘が、ある日キサラに言った。
「私、生まれた里に帰る。私には巫女の才がなかったの」
彼女だけではなく、キサラと同じ時期に宮入りした娘たちは、ある者は巫女になり、ある者は自分の才に見切りをつけ、新たな人生を歩み始めていた。
いつの間にかキサラは取り残されていた。
明くる朝、キサラはいつものように目を覚ました。
霧の深い蒸し暑い朝だった。キサラは泉に向かった。
朝、泉の水面に向かって祈りを捧げること、それは水の巫女としての務めだった。
水の巫女は、人々の心から移し取った曇りでくすんだ自身の心を水面に映し、一つひとつ清めていくのだ。
あの日以来、キサラはその務めを放棄していた。
怖かったのだ。祈りを捧げても、祈りが水神に届かなければ、本当に巫女としての力を失ったことになる。
自分の巫女の力は、ヨダカを殺めるためだけに在ったことになってしまう。
今までは恐れていたが、そろそろ自分も見切りをつけなければならないと覚悟した。もし、本当に巫女としての力を失っていたら、泉の水面に身を投げよう。そう決めた。
泉の水面の前に立ち、呼吸を整え、少しずつ息を深くしていく。心の中に静かな水面が思い浮かび、キサラは自分が水神の足元に一歩近づいたのを感じた。
長らく唱えていなかった祈りの文句を口にしようと唇を開く。
「……キサラ?」
後ろから声をかけられ、キサラは祈りを中断して振り返った。
「やっぱりキサラだ。元気だったか?」
それは見知った顔だった。忘れるはずのない懐かしい表情だった。
「ヨダカ? どうしてこんな所に?」
あまりにも昔と変わらないその姿に、キサラがやっと言えたのは、その一言だけ。
「俺だって水の宮参りをすることもあるよ。ついでに水の宮で巫女修行をしている幼なじみに会ってもいいと思うけど」
ヨダカは照れくさそうに笑いながら答えた。ヨダカは本心を包み隠すのが巧みでない、不器用な人だった。キサラに会いに来たのに間違いなかった。
キサラの心の奥に小さな、しかし暖かな明かりが灯った。生まれた里では、二人はこうして肩を並べて色々なことを話した。凍っていたはずの、変わらない二人だけの時間が流れる。
「巫女の修行は大変なんだろ」
自分を気遣ってくれる目はこんな色をしていたのかと、キサラは思った。なんて優しい色なのだろう。
「それはそうだけど、でも選んだのは自分だから」
そう、気遣ってくれるのは嬉しい。でも、選んだのは自分。
「たまには顔を見せに来てほしい。いつでも俺が水の宮まで来られるわけじゃないし」
「どこに行けばヨダカに会える?」
ヨダカはキサラの肩に自分の肩をぶつけて小突こうとした。それは二人の間に通じるしぐさだった。が、ヨダカの肩はキサラに触れることなく、すり抜けてしまうのだった。
やはり、ヨダカはこの世の者ではない。
キサラは息を飲み、ヨダカは決まり悪そうに笑って言う。
「決まってるだろ、俺たちの生まれた里に来れば会えるよ」
キサラの目尻に涙がにじんだ。
「でも、里には帰れない。帰れるわけがないじゃない」
自分の罪が、重かった。
ヨダカがキサラの肩に手を伸ばそうとして、途中で手を止めた。すり抜けるのが判っていたからだろう。ヨダカは自分の気持ちを言葉に託した。
「キサラ、巫女の道をあきらめないで。この先キサラが巫女としてやれることは、きっと、たくさんある。それを伝えたくて会いに来たんだ」
憎い仇にわざわざ遠くから会いに来る者があるだろうか。
キサラは自分の胸のつかえが溶けていくのを感じていた。
「じゃ、今度は私から会いに行くから。来年の今日、ヨダカに会いに行く。さ来年も、その次の年も、毎年、私たちの里に会いに行くから」
「元気なキサラが見たい。それが俺の望みなんだ。忘れないでほしい」
キサラの頬を涙がつたう。
「忘れない。元気でいるから。ずっと。いつまでも」
キサラに向かってヨダカがうなずいた。ヨダカの姿はそのまま霧の中に溶けていった。
キサラは巫女になりたいという娘の瞳をみつめた。
その瞳の中には今まで見たこともない強い輝きがあった。きっと自分の才を見出した巫女も、自分に同じ物を見たのだろう。
同時にキサラは、娘の顔に懐かしい面影もまた、見出していた。
キサラは娘に巫女長としての言葉を告げた。
「巫女になることで失うものもある。もし、あなたがそれに耐えられたならば、われら水の宮の巫女はすべて、あなたを喜んで迎え入れるでしょう」
キサラは祈らずにいられなかった。
行末にどんな災いがあったとしても、乗り越えていける力がこの娘に宿っているように。
それは、大切な幼なじみの忘れ形見への祝福だった。
――終