団扇女は、そよと扇ぐ
そよと吹く風のごとく、柔らかに優しく扇がねばならぬ。注意事項はただ一つだけ。
蛍子が団扇女になった夏、受けた注意はただそれだけだった。
団扇女とは、よくよく奇妙な名である。蛍子も最初はその名に馴れず戸惑ったものだ。
深夜、日が変わった頃に客の枕元に座る。そしてただ団扇で風を送る。それだけの仕事なのである。
客がどのように依頼をしてくるのか、詳しいことを蛍子は知らない。ただ青白い顔をした女将が今宵どこそこへ行けと命じるのを遵守するだけである。
仲間は十数名ほどいた。いずれも若い、17、8歳ほどの娘ばかりだ。
ただ客の枕元で、団扇を静かに扇ぎ続けるだけ。これほど楽な仕事はない。特に17、8歳の娘にとっては魅力的な仕事であると見え、団扇女の数は日に増え続けていた。
客先は、風の通りも悪い一軒家、マンションの一室。客は眠る老人、男、女、子供。
畳の上で眠るものもあった、立派なベッドも、煎餅のような布団で眠るものも。
みな額にうっすら汗など浮かべて眠っている。
盆が近づいても気温も下がらぬ。ただただ熱帯夜だ。風も流れない夜は、蒸し暑い粘液が張り付いているよう。
眠る人から吐き出される生ぬるい息が、空気をますます暑くしているのかもしれぬ。
例えばこんな夜がある。
蛍子は藍色の浴衣に身を包んで、大きな団扇を手にする。
目の前でこんこん眠るのは若い女だ。健康的な小麦色の肌に汗の玉が浮かんでいる。
彼女の足下に置かれた扇風機は壊れている。
時折寝ぼけた女が足先でスイッチをまさぐるが、それはかちかち乾いた音をたてるだけで動く気配もない。
蛍子は無言を守って、そよと風を送る。一度、二度。柔らかな風だ。
この団扇が生み出す風は優しくそして涼しい。浴衣の袖を片手で押さえ、魚の尾のように優しく団扇を揺らす。そのたびに、冷たい風がふわり吹く。
乱雑に吹けばどうなるのか。好奇心が沸かないわけでもなかったが、働くにあたってきつく戒められている”そよと扇ぐこと”を破る勇気が蛍子にはなかった。
幾度か扇げば、自然の風など吹かない夜だというのに女の周りにだけ優しい風が吹く。その風に乗り、枕元に置かれた蚊取り線香が緑色の煙を窓辺に運んだ。
女はやがて心地良さげに布団の真ん中に沈む。
それを見て、蛍子は心底嬉しくなるのである。
夕立の降る夜もあった。コンチキコンチキと、祭りの煩い夜もあった。決まっているのは、蒸し暑い夜であることだけだ。
扇ぎながら蛍子は考えることがある。
果たして秋が来て冬が来れば、この仕事はどうなるのだろう。冷え込む季節、団扇は無用の長物としてうち捨てられる。そして団扇女は、どうなってしまうのだろう。
窓の外、黒い夜を眺めてそんな感慨に耽ることもある。
幾度目かの夜。蛍子は黄色の浴衣を纏っていた。
目の前に眠るのは皺の刻まれた老人だ。乾いた口からは酒の香りがする。
彼は緩んだ蚊帳の中で眠っていた。蛍子は静かに蚊帳をめくり、その隅に座った。
老人は深く眠っているらしい。畳の上に敷かれた、柔らかい布団の上である。
今日もまた風が吹かぬ。じわりと蒸し暑い。その中に、酒の香りだけが漂う。
いやだな。と蛍子は素直に思った。眠る客が団扇女に気付くことはまず、ない。しかし酒の眠りは浅い眠りだ。目覚めて目が合えば、気まずいに違い無い。
念のため数歩分、離れ蛍子は団扇を扇いだ。
扇ぐうちに老人の寝息は深くなる。玉のような汗が浮かんで、首に刻まれたしわに吸い込まれて消えた。
はたしてこの老人はいくつくらいなのであろうか。興味深く、蛍子はそっと顔を覗き込む……と。
「あら」
つい、と黄金の光が目の前を走った。それは、小さな蛍である。
ぴかり、ぴかりと黄金の色を放って、蛍は部屋の中を飛ぶ。
おいで、と蛍子は手を休めず思う。蛍の名を持つ蛍子は、その小さな昆虫を愛していた。
(おいで、こっちに)
蛍子の願いが通じたのか、蛍はついついと音をたてて彼女に近づく。一匹では無い。二匹、三匹、その数は増え続ける。
だいたいにおいて夜は静かなものである。
特に夏の夜は冬の夜とはちがう、重苦しい静けさがある。
その沈黙が破られた……蛍の光によって、である。
(蚊帳の中なのに)
蛍子の心は恐怖に震えた。
窓は開いてはいない。さらに蚊帳の中、はたして蛍はどこから入ってきたのか。
気がつけば、蚊帳の中には数十匹の蛍が右往左往と飛び回っているのである。
蚊帳の中は一面、光である。黄金の風が巻き起こる。蛍子は扇ぐことを忘れてぽかんと固まった。
このような話を聞いたことがある。
女の隠れる几帳に蛍を投げ込んで、女の影を浮かび上がらせる話である。几帳には、女の長い髪の毛までしっかり映っただろう。蛍の光はそれほどに、強い。
(お客さんが、起きちゃう)
慌てて見れば光に照らされて、眠る老人の布団に彼の影が落ちる。蛍子の扇ぐ団扇の影も映る。
しかし。
(……ああ)
蛍子はため息を吐いた。
柔らかな布団の上、畳の上、周囲を探っても蛍子の影だけがない。振り返れば、蚊帳にも彼女の影だけが映らない。
大きな団扇はぱたりと落ちて、蛍子は天を仰ぐ。そこに一匹、巨大な蝶が飛んでいた。
「扇ぐのをお止めだね。全く使えない子」
蝶は口をきいた。
「夏が過ぎれば死んでしまうお前に、せめてものお情けをかけてやったと言うに、仲間がお前を救いに来てしまったよ」
蛍の大群は蝶を追い払うべく、飛び回る。
「どうせ、今宵しか生きられぬ娘。哀れな子」
蝶は高く笑って蚊帳の隙間から逃げ出していく。振り返ったその顔は、団扇女をまとめる、あの青白い女将のものによく似ていた。
昨夜はなんとも寝苦しい夜であった。
加藤老人は首筋に溜まった汗を腕で拭いながら起き上がる。
毎年毎年盆が過ぎてもまだ暑い。いつまで暑いのだろう、と老人は心の中で愚痴った。
それでも寝入りばなはまだ多少涼しかったように思われるのだが……と、布団を持ち上げた彼はふと動きを止める。
「団扇?」
加藤老人の布団から、古びた団扇が滑り落ちた。青葉に蛍が舞う絵が描かれた、大きな団扇である。
その隣、畳と布団の隙間に小さな虫の死骸を見つけて加藤老人は眉を寄せた。
団扇ですくい上げてみれば、それは蛍の死骸である。
かさかさに乾いたその死骸を、老人は窓まで運ぶ。そして勢いを付けて外に投げ捨てた。
そよとふく朝の風に乗って、それはいずこかへ運ばれる。
その風には、かすかに秋の香りが混じりはじめていたようである。