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5 魔術師は語る

「申し訳ありませんが、警護の方にお支払いする額面は決まっておりますので…」

 トーラファンの館で、フィーファリカは(クリスタルスタチューであるにもかかわらず)申し訳なさそうにセリフィアに告げた。

「館を警護していただくのは構いませんが、お二人で1金貨(gp)ということになります。それでよろしければ…」

 セリフィアはカインを見た。彼が「構わない」と言ったので、変な話だが「警護させてもらう」ことにした。とにかく彼は体を動かしていたかった。父のこと、兄のこと、それから自分の抱える負債のこと、それらの悩みにばかり捕らわれるのを避けたかった。

「よろしくお願いします」

 セリフィアとカインは持ち場を打ち合わせ、それぞれ警護を始めた。

 図書室ではラクリマが本を選んでいた。

 と、背後で扉が開いて、この館の主が入ってきた。

「昨日は来なかったが……」

 トーラファンは彼女の近くの椅子に腰掛け、話しかけてきた。

「すみませんでした。昨日は、友人が無実の罪で捕まってしまって、大変だったんです」

 ラクリマは素直に詫びた。トーラファンはふむと口にしたあと、

「何か事件に巻き込まれているのか?」

「ユートピア教の……あっ、いえその……」

 ユートピア教のことを話していいのかわからず、ラクリマは遅まきながら口を濁した。トーラファンはまた少し黙ってラクリマの顔を眺めていたが、

「よかったらここに泊まりますか? 遅くに帰るのが危ないなら、泊まっていってかまいませんよ」

と、尋ねてきた。

(なんて親切な方なんだろう)

 ラクリマはそう思って礼を言ったが、「仲間に相談しないと心配しますので」と答を保留した。トーラファンはフィーファリカにあとで返答するように言ったあとで、本棚をざっと見渡して「これとこれをお願いしよう」と数冊を引き抜いた。あとでわかったことだが、それらは古の聖人たちの伝記もので、ラクリマにも馴染みのある内容だった。おかげで楽に写本を進めることができた。

(もしかしてやりやすいのを選んでくださったのかしら……)

 休憩がてら、彼女はカインとセリフィアに会いにいった。先刻のトーラファンの申し出を口にすると、二人とも渋い顔になった。

「何があるかわからないから、宿に帰ったほうがいい」というのが二人共通の意見だったので、ラクリマは素直にそれに従い、フィーファリカに断りを告げた。





 2月9日。

 日中は何事もなく過ぎた。

 夜、ロッツが帰ってきて、「やっと売り込めました」とはちみつの販路の確保を報告した。

 報告を聞いたあとでセリフィアが、

「俺が作っているはちみつの一部を、パシエンス修道院に寄付したい」

と、言い出した。彼は皆に──とりわけヴァイオラに──向かって許しを乞うように聞いた。

「構わないだろうか…?」

「好きにおし」

 ヴァイオラは答えた。確かにはちみつを売る話を持ち出したのはヴァイオラだが、あとのことは自分の裁量でやってもらうつもりだった。

 セリフィアはアルトと相談し、どのくらいパシエンスに寄付するかを決めた。今度、ラグナーさんかサラさんに会ったら、申し出よう。そう決めた途端、少し心が晴れた気がした。





 2月10日。

 夕刻、ヴァイオラはスルフト村村長からの返書を受け取った。封がされており、内容まではわからなかった。このまま自分たちが運ぶことになりそうだな、と、思いながら、念のために彼女は隊商ギルドを訪れた。ドルトンの隊商のスケジュールを聞くためだった。

 隊商ギルドの前には、真新しい馬車が置いてあった。どこのだれが今時分こんな立派な馬車を仕立てられるのだろう。ヴァイオラはとくと眺めてから入り口をくぐった。先だって訪れたときとは違う顔の女性が受付に座っていた。

 ドルトンたちは近々戻ってくる予定になっていた。彼らが次にセロ村に行くのは、おそらくひと月後だろう。やはり今回は自分たちだけでセロ村に向かうことになりそうだ、と、ヴァイオラは思った。

 ふと思いついて「表に立派な馬車がありましたが、どなたのですか」と尋ねてみた。

「ああ、あれはエステラお嬢さんのですね。今、お尋ねだったセロ村行きの馬車になる予定です」

 受付はすらすらと答えた。

「エステラさん!? それは、彼女ご自身で隊商を…?」

「まぁ、表向きは。何でも亡き恋人の遺志を継がれたいとのことで。でもここだけの話、お嬢さんは経験がなくてお一人じゃ無理なので、老商人のミットルジュ爺さんがつくことになってます。一度は引退された方なんですけどね」

「そのお爺さんと彼女だけですか?」

「あとはまぁ、お店の若い衆が二人くらい、勉強と、お嬢さんの面倒を見るのにつけられると聞いています。それと隊商ギルドから護衛を一人、つけますけど」

 受付はここで言葉を切って、まじまじとヴァイオラの顔を眺めた。

「あなたはもしやロビィさんの遺品を届けてくれた方ですか?」

「ええ」

「あなたがそうですか…。エステラお嬢さんはあなたに…あなた方に、なのかしら…セロ村までの護衛をお願いしたいようなことを仰ってましたよ」

「そうでしたか。彼女たちはいつ出発に…?」

「ドルトンさんたちが戻られてからですね」

 二人の脇を、男が挨拶しながら通りすぎた。受付は、彼に顔を振り向け、「お疲れさま」と声をかけてからヴァイオラに視線を戻した。

「セロ村に関してはドルトンさんたちのほうが古参ですから。ドルトンさんの許可を得てからでなければ出発できませんので」

「……ペンとインクをお借りしていいですか」

 ヴァイオラはそう言って携帯していた羊皮紙を取り出し、エステラ嬢宛てに手紙をしたためた。「ロビィさんの遺志を継がれるとお聞きしました。もし時間があればお話を。『青龍』亭におります。ヴァイオラ」。

 手紙を渡してもらえないかと頼むと、受付の彼女は快く引き受けてくれた。

「今日はいらっしゃいませんが、明日は必ずいらっしゃると思いますよ」

 そう保証してもらって、ヴァイオラは宿に帰った。



 「青龍」亭の一階は相変わらず噂話の宝庫だった。この夕方は、グリフォンライダーであったモリフェン=アナシソス卿の話題でもちきりだった。

 それらの噂によれば、モリフェン卿には近頃、ユートピア教と関係があるのではないかとの疑いが持たれていたが、卿本人は一切関わりがなく、実は関わりがあったのはその妻ハラナス=リューレタリアのほうだった。ハラナスはモリフェンとの冷え切った夫婦関係に嫌気が差し、なんらかの救いを求めてユートピア教に入信したらしい。そこまではまだよかったが、ユートピア教に貢ぐため、家財道具を全部売り払った挙句に多額の借金まで拵えて、かなりの金額を寄進したらしかった。

 事が発覚した今夕、この奥方は夫モリフェンの手で殺され、モリフェン自身は責任を取って騎士を辞任、その後自害して果てた。一人娘のシャロリナは行方不明とのことだった。

 一同はこの話を聞いてもさほど心を動かされなかった。ただ、ラクリマだけは違うようだった。特にシャロリナが行方不明と聞いて、彼女の気持ちは沈んだ。

「あ、あの、迷宮のことについて調べたんですけど」

 部屋に戻ってから、アルトはラクリマの気を逸らそうとして、みんなの前で大きな声で言った。

「ああ、調べてくれたの。それでどうだった?」

 ヴァイオラが即座に反応した。アルトはセリフィアやGが近くに寄るのを待ってから話し出した。

「3つの迷宮の由来はバラバラで、お互いに関係なさそうでした。共通していたのは、地勢でしょうか」

「地勢?」

「ええ、どれもカートの入れるような森、もしくは低地のすぐそばにあります」

「カート……」

 そういえば最初に出会ったユートピア教教徒、ディライト兄弟はカートでハイブコアを運んでいたな、と、Gは思い出した。

「セロ村のやつとエイトナイトカーニバルの迷宮との間にも、関係がないの? 実はずっと地下でつながってる、とか…」

 「ええ」と、アルトは答えた。「ボクもそれをちょっと考えたんですが、そういうことはないみたいですね。あとは、内部の地図は手に入りませんでした。結局、これくらいしかわからなかったんですけど…」

 アルトは最後のほうを申し訳なさそうに述べた。

 なかなか詳しい調査というものは難しそうだった。だが、とりあえずユートピア教によるコアの播種先は、地勢で選ばれているらしいことが察せられた。





 2月11日。

 夕刻、皆が仕事に出払ったあとで、エステラ嬢が宿に尋ねてきた。部屋にはヴァイオラとアルトだけが残っていた。ちょうどアルトの手わざの稽古が終わって、(……ちびには向いてないのかも)とヴァイオラが考えていたところだった。

 ヴァイオラは彼女を部屋に招き入れ、椅子を勧めた。エステラ嬢は育ちの良さを感じさせる振る舞いで、二人に挨拶し、腰掛けた。

「先日はどうも。ギルドで聞きましたが、ロビィさんの遺志を継がれるそうですね」

「はい。彼の成し遂げようとしたことを、私がやり遂げようと思います」

 エステラ嬢はそう前置いてから、セロ村までの警護をお願いできませんかと申し入れてきた。

「どのみち私たちも一週間くらいしたらセロ村へ戻る予定です。ですから往きは問題ありません。ただ、村のほうで常駐を頼まれているので、復りは別なパーティに頼まなければだめでしょうね。それでもよろしければ、喜んで引き受けさせていただきますよ」

 ヴァイオラの丁寧な返答に、エステラ嬢の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます。ただ……あなた方にとって満足できるような金額をお支払いできないかもしれません。こちらからお聞きしたいのですが、お幾らぐらいだったら引き受けていただけますか?」

「仲間と相談しないとなんともお答えできませんが、ロビィさんには私たちもひとかたならずお世話になりました。ですから、破格でお引き受けするつもりです」

「ありがとうございます」

 エステラ嬢は深々と頭を下げた。それから、まだドルトンたちが帰っておらず許可を得ていないこと、許可を得てから出発するため、出発日は20日前後になりそうなことを説明したあとで、「またあらためて、正式に依頼しに伺います」と言って去っていった。

 ヴァイオラだけでなく、同席していたアルトも彼女の意気には動かされるものがあった。

(もっと……もっと他人の役に立つような自分になりたい)

 アルトはエステラの後ろ姿を胸に呼び返しながら、その思いを新たにした。



 この日はロッツが再びぼろぼろになって帰ってきた。何か拙い事態があったらしく、

「申し訳ありやせん。はちみつを売れなくなってしまいました」

と、アルトに散々謝った。アルトは、

「ロッツさんの身の安全の方が大事ですよ」

と言って彼を慰めた。

 金策とは、思うように捗らないものだな、と、アルトは思った。





 2月12日。

 ヴァイオラは夕食の席でみんなにエステラ嬢の話をした。

「破格で引き受けるつもりだから、その気でいて」

 カインはこの強硬なやり方にやや不満を抱いたが、他のメンバーが至極当然な表情で話を受け入れているので、何を言うのもやめた。あとから、ロビィの隊商との関わりを、アルトに説明してもらった。

 この日から、トーラファンのところでの写本にカインも参加することにした。警備はセリフィアに任せておけばいい。ラクリマはあまり仕事が速くないようだし、少しでも稼ぎを得ておこうと考えてフィーファリカに希望を伝えたところ、許可が下りた。それで、カインも図書室でデスクワークに携わることになった。





 2月13日。

 夜、ラクリマたちがトーラファンの館へ行くと、いつもと違って、館の主トーラファン=ファインドールそのひとが出迎えた。彼はラクリマに告げた。

「明日は必ず来てください」

「わかりました。必ず伺います」

 ラクリマは取りたてて何を疑うでもなく、あっさりと約束した。お付きの二人は顔を見合わせた。





 2月14日。

 明日が満月であることを思い出し、ラクリマは夕方になってGにムーンフラワーを処方した。ムーンフラワー──月花草とは薬草の一種で、満月期に獣人たちが月の魔力にあてられる、そのときに精神や身体に起こる変調を抑えるらしかった。これから3日間、この処方をしなければならない。今ある薬草は、セロ村のキャスリーンに分けてもらったもので、この薬草の効用について教えてくれたのもキャスリーンだった。

 処方が済んで、ラクリマはカインとセリフィアと一緒にトーラファンの館へ向かった。

 満月ということで、セリフィアにも変化が起きていた。明るく元気に、白い歯を見せて「やあ」と笑うような爽やか青年に変身してしまったのだ。要するに「躁状態」である。カインが驚いているのを見て、ラクリマとアルトは満月になるとこういう変化があると、宿で彼に説明したが、それにしてもあまりにいつもと違うのでカインは慣れない様子だった。

 館では、昨夜と同じようにトーラファン本人が3人を出迎えた。ラクリマに「今日はいつもの仕事はしなくていい。先にこれだけ支払っておこう」と1gpを手渡した。

「君はこちらに。いろいろと話を聞かせてほしい」

 トーラファンがラクリマをどこかへ連れて行こうとするので、カインは、

「彼女に何をするつもりですか」

と、それを遮ろうとした。

「話をするだけだ。別に何も危害を加えたりはしないから安心したまえ」

「話って何の話です」

 カインはどうしても猜疑心を拭えず、なおもトーラファンに迫った。

「話は話だ。今までどう過ごしていたか、聞かせてほしいのだ。さ、こちらへ」

「俺たちも一緒じゃいけないんですかぁ?」

 いつもより数段明るい声で、セリフィアが口を挟んだ。

 トーラファンはセリフィアを振り返った。突如、彼の目が活き活きと輝きはじめた。

「面白い。実に面白い」

 セリフィアをためつすがめつしたあとで、「君の話も聞きたいな」と言い出した。ラクリマを向いて、逆に彼のほうから、

「別に秘密の話をするわけでもない。他の人も一緒で構わないかね?」

と、尋ねてきた。

「ええ、私は構いません」

 トーラファンは3人を応接室へ案内した。フィーファリカにお茶とお菓子を出させて落ち着いたところで、彼はラクリマに「そのホーリーシンボルを貸してみなさい」と言った。ラクリマは素直に応じた。

 それは直径3~4センチのまるい鉄製の聖章で、表面は、よくあるようにエオリス女神のシンボルである七芒星が描かれていた。裏面は上部にやや小さい円、その中に再び七芒星があり、円の両脇には対称な二枚の翼が彫り込まれている。それらの翼の先端が交差する下に、古めかしい様式で「108」と小さな数字が刻まれていた。

(そんな簡単に渡して大丈夫なのか?)

 そばで見ているカインはハラハラのしどおしだった。

「ああ、やはり……調律がまだのようだ。もったいない……」

 トーラファンはホーリーシンボルの裏面を見て、訳のわからない台詞を連発した。

「ふむ、もともとは個人用に作られていても、使用時に調律をしないとちゃんと作動しないか……ならば……ふむ、やはりこれだな。ここをこうすれば……」

 何やら細工してから、彼はホーリーシンボルをラクリマに返して寄越した。

「これでいい。つけてみなさい」

 相変わらずカインがハラハラしているその横で、ラクリマは遠慮なくそれを首に提げた。

「あ…」

 瞬間、ひと月前の満月の晩に感じたと同じ印象に、彼女は満たされた。普段よりも余分な呪文を覚えられそうだと、根拠もないのに思った。

「わかっただろう。それはラクリマ、君のために作られたものだ。運命に導かれて君の元に来たのだろう」

 何が運命なのかよく飲み込めないうちから、トーラファンは「そもそも運命とは…」と「運命論」を開陳しはじめた。


 ひととおり「運命論」を論じたあとで──もちろん3人には半分も理解できなかった──トーラファンはセリフィアに目を向けた。

「それにしても珍しい」

「何が珍しいんですか?」

「こんなに魔力の強い人間は珍しい。おそらく出生に秘密があるのだろう」

 セリフィアは吃驚して反論した。

「魔力!? 俺は魔術はからっきしなんですよ? ラストンに生まれながら魔法を使う才能が全然なかった。それで戦士になったんだ。魔力があれば今ごろ魔術師になってますよ」

「いやいや、そうではない」

 トーラファンはセリフィアから目を離さぬまま続けて言った。

「魔力というのは、別に魔術師でなくともだれの身にも備わっているものなのだ。そっちの戦士にも、多少は魔力がある。今晩はそういうことがよく見える晩だ。そもそも魔力とは…」

 それから半刻ほど「魔力論」の講義が展開された。総じてちんぷんかんぷんだったが、要は「魔力は多かれ少なかれだれの身にも備わっているもの」で、「魔術師はその力を行使する術を持っている者であり、必ずしも身に備わる魔力が多い者というわけではない」ということが言いたいらしかった。

「で、彼は普通の人間なのに、魔力が強いというわけですか?」

 カインの質問にトーラファンは答えて言った。

「うむ。普通の人間、というには語弊があるかもしれん」

「俺の両親は普通の人間でしたよ!? 俺の兄弟だって!」

 セリフィアの反論を無視してトーラファンは断言した。

「君の父親か母親か、どちらかが人間じゃないのだろう」

 セリフィアは本心から驚いた。これまで自分は普通の人間だと思って生きてきたのだ。片親が人間ではないだとか、そんなことは考えたこともなかった。では俺の兄弟たちも…?


 「あの…」大人しく話を聞いていたラクリマがトーラファンに話しかけた。「院長様と古いご友人だとお聞きしましたが、私のこともご存じだったんですか?」

「昔から知っておる。君が小さいころからな」

「じゃあもしかして、私のお母さんのことも…?」

 ラクリマは言いながら、自分でも妙なことを聞いているなと思った。これまで自分がだれの子であるかとか、母親はどこにいるのかとか、そういったことは疑問に思ったことすらなかった。ここにきて初めて、興味が湧いたようであった。

 トーラファンは他の二人に目を走らせ、「彼らの前で話してもいいのかね?」と聞いてきた。「え? ええ…」とラクリマが特に考えずに肯定すると、待っていたとばかりに喋りだした。

「クレマンが教えていないということは、内緒にしておきたいということかも知れないが」と、パシエンスの院長の名を呼び捨てに、前置きをしてから、「12年前、ハーヴェイ=バッカスという男が私のところへ幼い子どもを連れてきた。それが君だ。ハーヴェイはそのときもう一人、男の子も連れていたが、そちらは自分で育てるといって、君だけを私の手許に残していったのだ」と、一気に喋った。

「預かったはよかったが、すぐにおかしなことに気づいた。感情がまるでないようなのだ。あわててパシエンス修道院に相談に行った。クレマンとは以前からのつきあいでな」

 ラクリマには初耳だった。トーラファンはお構いなしに話を続けた。

「クレマンが言うには、精神の成長が何らかの理由で閉ざされているのだろうということだった。二人がかりであれこれやってな、半年くらいしてやっと君も子どもらしい感情を表すようになった。それ以来、修道院に預けて育ててもらったのだ」


(…私が聞かされていた話とは違う……)


 ラクリマはぼんやりと院長の顔を思い浮かべながら考えていた。自分は5歳のときに、修道院の門前で迷子になっていたのだと、彼女は聞かされていた。そういえば修道院より前の記憶はまるでなかったが、そのことを変に思ったこともなければ、院長の話を疑ったことなど一度もなかった。

「感情がないってどういうことですか」

 黙って聞いていたカインがとうとうたまらず口を挟んだ。

「感情に乏しいとか、そういうことですか?」

「いや、乏しいとか薄いとか、そういう次元ではなかった。あれは『情動がなかった』と言っていいだろう」

「彼女も……その、彼女もただの人間じゃない、と…?」

 先ほどのセリフィアの例を念頭に、カインは重ねて尋ねた。トーラファンはそれに軽く答えた。


「人間だよ。生物学上は」


 後半の限定条件が気になって、彼はもっと話を聞きたいと思ったが、トーラファンが「生まれの話はこのくらいでいいだろう。それよりもこれまでの話をいろいろと聞かせてくれ」とラクリマに話をさせるように仕向けたので、それもできなくなってしまった。


 トーラファンは、ラクリマにいろいろ話させただけでなく、彼自身の話もいろいろと語って聞かせた。実は話好きの好々爺で、自分の過去の話、信念、魔術論から政治論、はては時間空間といった世界観、異世界の話までとりとめなく語った。

 そのうちの過去の話からわかったことだが、どうやら彼は昔、ラストンで働いていたらしかった。何の仕事をしていたかについては言葉を濁してしまい、あまり表だった仕事ではなかったらしいと察せられた。

 ラクリマのホーリーシンボルについても再度触れることがあり、それがラストンの人間があつらえたものだと教えてくれた。ただ、だれが作ったかについては、トーラファン自身は知っているようだったが、結局教えてくれなかった。

 時間論の話をしているときに、ラクリマの耳にこんな言葉が残った。


「過去に干渉してはならない。未来は一定ではない。過去に手を加えれば、未来は違ったものとなるであろう」


 何の文脈で言われたものかはすぐに忘れてしまったが、なぜかこの文節だけは心に残った。

 夜も更けてきたのでお暇すると3人が断ると、トーラファンは「ちょっと待っていたまえ」と言ってどこかへ出ていった。さほど時間をかけずに戻ってきた彼は、ラクリマにひとつの指輪を渡した。

「これも君のために作られたものだ」

 それは銀製の甲丸リングで、表一面に美しい紋様が彫り込まれていた。ただの紋様と見えたそれは、実はルーン文字らしかった。

「はめてみるがいい」

 ラクリマは指輪をはめた。サイズはぴったりだった。と、何かに守られているような安らぎを、一瞬ながら感じとった。彼女はトーラファンを仰ぎ見た。その表情を汲んでか、彼はうなずいて「護りの指輪だ」と口にした。

「聖章と指輪は決して手放してはならない。それらは君たちをきっと助けてくれる」

 トーラファンはラクリマを門まで送りがてら言い聞かせた。彼は門のそばで、些か別れがたいように見送っていたが、次にラクリマが振り返ったときにはもう姿がなかった。

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