1 ラグナー
2月5日。
「おはようございます」
ラクリマは朝食前に「青龍」亭に現れた。彼女は現在、元の住処であるパシエンス修道院に起居している。
「朝食は?」
「私はもういただいてきました」
そういえば、修道院の朝が早いのは、先日厄介になったときにみんな経験済みだった。ラクリマはふと、部屋の隅に積まれた瓶の山に気づいた。
「…なんですか、これ?」
「あ、こ、これですか」
アルトが説明を引き受けた。彼とセリフィアはラストン出身なので、日常的に小魔法が使用できる。それを利用して「はちみつ」を作り出し、売って儲けようということに決めた。何しろ実入りが何もなく、日々生活するだけで金は出ていくばかりなのだ。
「それで、はちみつを作ったときに入れる瓶をロッツさんに調達してもらったんです」
「はちみつですか……」
ラクリマはそう言ってちょっと考えるような顔をした。
一同が1階に降りて朝食をとりだしたころ、カインも現れた。彼はまだ食事していなかったので、一同と同じテーブルに座り、自分にも朝食を注文した。
食事している一同の耳に、前日の捕り物は失敗したらしいという話が入ってきた。
ちっ、失敗しやがって。ヴァイオラは心の中で舌打ちした。
「なんだか彼女……いえ、その、確かに一般人とは思えない身のこなしだったとの話ですけど、でも…もし本当にお兄さんが冤罪だったら……」
相変わらず水だけいただきながらラクリマはだれに言うともなく、周囲の話に合わせてどこからか仕入れてきた噂を披露した。だがだれも答えなかった。暫し沈黙が流れた。
ラクリマは気を取り直し、今度はセリフィアのほうを向いて笑いかけた。
「セリフィアさんのお父様って、サラとラグナーさんのお友達なんですって!? 私、知りませんでした」
セリフィアは顔をあげて「ああ」と答えた。
「ラグナーさんが一度会いたいって言ってましたよ。よかったら今晩にもいらっしゃいませんか? あ、急ぎってわけじゃないですけど…」
ラクリマの台詞を聞いて、セリフィアは珍しくも目に見えて嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、今晩伺うことにしよう。…皆も一緒に来る?」
セリフィアは言いながらGを見た。Gはそれに気づいて顔を上げ、申し訳なさそうに首を振って言った。
「夜は歌うつもりなので…何時になるかわからないし……」Gは向かいの「赤竜」亭で、夜のあいだ歌姫のバイトをすることになっていた。彼女が「遠慮します」と言うと、セリフィアは「そうか……」と黙り込んだ。それから少し間があいたあとで「それでは仕方ないな」と、踏ん切るように口にした。
「道場がひけたあとすぐ、一緒に行きますか?」
「いや」と、セリフィアはラクリマに答えた。「フィルシムにいる間、夜間は働こうと思っているんだ。だから、冒険者ギルドへ登録に行ってからにする。そこで待ち合わせないか」
「わかりました」
ラクリマは自分も働き口を探したいと思った。だが、自分に何ができるだろう? 戦士だったら夜間だけでも警備や護衛の仕事があるだろうが、それは自分には無理だ。Gのように酒場で歌を歌うことも考えられなくはないが、修道院の院長様にご迷惑がかからないとも限らないし……夜間だけでもできる写本の内職とか、ないのかしら……。
「……私も、冒険者ギルドに一緒に行っていいですか」
そんな都合のいい話はないだろうけど聞くだけ聞いてみようと思い、ラクリマはセリフィアに尋ねた。セリフィアは黙ってうなずいた。向こうからカインが「俺も一緒に行かせてください」と申し出た。
ラクリマはカインを見た。カインはすでに朝食を食べ終わり、顔の下半分を覆面で隠していた。そうしていると亡くなったレスタトに生き写しであることも多少は感じないで済んだ。声は相変わらずレスタトそっくりな声だったが……。
(大丈夫……カインさんがいても私は大丈夫だわ…)
ラクリマは胸に手を当て、自分に言い聞かせた。
ヴァイオラはそれらのやりとりを聞きながら、(手に汗して稼ぐのはいいことだ)とゆったり構えていた。全員、いま少し経済観念を身につけてもらわないと困る。
「そう言えば」と、またラクリマが口を開いた。「昨晩、サラとラグナーさんが話しているのをちょっと耳にしたんですけど、お二人で『セロ村にまたハイブが』って仰ってました。セロ村ってハイブが出やすいんですね」
そんなはずないだろう、ハイブはこの世の生物じゃないんだから、と、Gは思ったが、とりたてて口にはしなかった。サラとラグナーという人物がなぜそのような会話をしていたのか、疑問の残るまま朝食を終え、皆で訓練場へ向かった。
道場で受け身の練習をしながら、アルトはふと思った。
(こんなことしてていいんだろうか?)
一旦思ったが最後、疑念はどんどん膨らんでいった。そして、曖昧だったものがゆるやかに、だが明瞭なかたちを取るようになってきた。
(こんな、武器の修練なんかやってていいんだろうか?)
アルトは思った。
(他に活かすべき「才能」が、自分にはあるんじゃないか)
疑念はだんだん確信へと変わりつつあった。とうとう彼は決心した。
(ボクはボクのやり方で行こう。お金を出してくれたGさんには申し訳ないけど……)と、思って一瞬胸が痛んだ。(でも、きっとGさんも許してくれる。ボクがみんなのために役立つには、戦闘技能じゃなくて、・・技能の勉強をしなきゃ。)
自分でも何と思ったか、次の瞬間にはわからなくなっていた。ただ、今この瞬間に別な道を選んだことだけをはっきり認識した。帰り際、アルトは訓練を中途で辞めることを告げ、半金の返済を受けた。
(ごめんなさい、Gさん)
アルトは心で謝った。
(必ず、必ずそのうちに返しますから。今はまだ貸しておいてください。お願いします)
まだこの半金すらGに返すわけには行かなかった。明日から・・技能のために図書館通いをしなければならない。戦闘技能訓練ほどではないにせよ、それもお金のかかることだった。それでも、何を排してでもやらなければならない。強くなるために。アルトはそう心に決めて宿に戻った。
夕刻、セリフィアとカインとラクリマは、朝の打ち合わせどおり冒険者ギルドを訪れた。ギルドは、夜は夜で昼と違ったにぎわいを見せていた。
受付はセリフィアを一瞥した。セリフィアは彼にできる精一杯で愛想笑いをしたが、そのときには向こうの視線は書面に移っていた。
セリフィアがバイトをしようと思い立ったのは、もちろんGに一刻も早く借金を返したいからであったが、それだけでなく、体を動かしているほうが余計なことを考えずに済みそうだからだった。余計なこと……本当のところ、彼は兄のアーベルが心配でならなかった。ユートピア教の調査後行方不明と聞かされて、心配するなというのが無理だ。考えまいとしても、悪いほうへ悪いほうへと考えてしまう。それを何とかしたかった。だから働こうと思った。金は手に入るし、くたくたになれば嫌なことも考えずに済む。一石二鳥だ。
「……があります」
受付の声で、彼は意識を眼前に戻した。「えっ?」と聞き返すと、受付は事務的に繰り返し、彼に二通の書面を見せた。
「その条件だと、この2件です。どちらも日雇いで当日受付。人数の上限はないからやりたい日の夕方に来て下さい」
一つ目は城門の警備だった。城門というより、街の外の警備だ。夜間のモンスターの侵入を防ぐのが目的で、条件は基本給5sp〔sp…銀貨〕、他に何かあった場合に危険手当がつく。「危険ランクD」と書かれていた。
二つ目の仕事は、水路調査だった。二又河およびその水路の調査に随行する。まれに大型怪物に会う危険があるらしい。こちらは基本給がなく、完全歩合制とのことだった。危険ランクは「C」になっていた。
あまり疲弊して訓練に障っては本末転倒になってしまうので、セリフィアは一つ目の城門の警備をやることにした。だいたい水路調査では自分が得意とする長物が使えそうにない。今日はこれからパシエンス修道院へ行くため、明日から始めると受付に告げた。
カインはカインで別な受付にかかっていた。彼はとても丁寧に言葉を選んで希望を申し述べたので、受付の心象もすこぶる良かったらしく、セリフィアが紹介されたと同じ日雇いのほかに、あと2件の勤務先を紹介された。そのうちの一つは地下にある酒場のガードマンだった。1日2gpと、かなり実入りがいい。それだけ揉め事が多いのだろう。いま一つは、市内に住む魔術師の館の警護だった。こちらは1日1gpだが、あまり疲れなくて済みそうだ、と、彼は判断した。どちらを選ぶか迷いながら、実入りのいいほうに手をのばしかけたとき、隣からラクリマの声が耳に入ってきた。
「トーラファン=ファインドールさんと仰るんですね? やります。やらせてください」
カインは一瞬耳を疑った。トーラファン=ファインドールとは、彼の前に出された「館の警護」の募集主だったからだ。
「ではこちらを…」
最初に引き受けようと思った酒場の警備を脇によけて、カインは半ば無意識に館の警護を選んでいた。
彼は同じく受付を済ませたラクリマに話しかけた。
「何か仕事があったんですか?」
ラクリマは嬉しそうに答えた。
「ええ。夜間の写本の手伝いを募集していらっしゃる方が。トーラファン=ファインドールさんと仰るお歳を召した魔術師の方なんですって。パシエンスからも近いですし、歩合制で、短時間でもいいそうなので明日から行こうと思います」
それは話がうますぎる、と、カインは思った。が、ここで論じても始まらないので、
「実は俺もトーラファン=ファインドールという人の館の警護をすることになったんです。一緒に行きましょう」
と、申し入れた。ラクリマは「まあ、偶然ですね」と本心から驚いたようだった。
(偶然かどうかは行ってみればわかるだろう)
カインはそれ以上、何も言わなかった。
3人はそれからパシエンス修道院へ向かった。カインは修道院には用がなかったが、帰り道が同じなので途中まで同道した。
セリフィアはやや緊張の面もちで歩いていた。ラグナーに会うのは数年ぶりだ。彼は自分に初めて冒険を意識させた戦士だった。ラクリマから「会いたいと言っている」と聞かされて、今朝は嬉しかった。自分のことなんか覚えていないかもしれないと思っていたからだ。早く彼に会いたい。期待と不安がないまぜになったようなふわふわとした足取りで、彼は進んだ。
「やあ、よく来てくれた。久しぶりだね。ラストンで会って以来だから…4年ぶりかな」
ラグナーは、驚きと喜びの入り混じったような表情でセリフィアを迎えた。
修道院で、先だってサラと話した部屋の隣室で、彼は待っていた。同じ修道院の部屋でも、彼がいるだけで力強さが感じられるようだ。他の人間は席を外し、今は二人きりだった。
セリフィアは落ち着かなかった。ラグナーに会えて嬉しい。だが何を話したらいいかわからない。喋らないのは失礼にならないだろうか。いや、喋ったら何か失礼なことを言ってしまわないだろうか。
「君のことをラクリマやサラから聞いたときは驚いた。なんせ、死んだと聞かされていたからね。正直落胆したよ。ラストンで最初に君と会ったときのことはよく覚えていたから。さすがルギアの息子、面白いのがいたもんだというのが正直な感想だったからね」
ラグナーは話し始め、セリフィアは一心に聞き取ろうとした。
「で、だ。なぜ俺が君が死んだと思っていたかというと、ルギアからそう聞いたからだ」
セリフィアは一瞬、耳を疑った。親父が、なんだって?
「フィルシム近郊にできたハイブコアの掃討をルギアといっしょにやってね。そのときに聞いた。半年ぐらい前の話だ。そのときのルギアの様子があまりにもおかしかったんで……そうだな、まるで別人のごとく性格が変わっていた。ラストン出身であることは知っていたからあまり深くは聞けなかったけどね。彼は家族全員を失ったと思っていたようだ」
ラグナーの顔が心持ち翳った。話を聞いているセリフィアも辛かった。親父は、俺たちが全員死んだと思っている……今も、どんな気持ちでいるのだろう。それを思うと胸が痛んだ。ラグナーも同じくらい、あるいは本人を目前にしただけ余計に辛いのかもしれなかった。
「当時の彼は、感情を無理矢理押し殺してハイブへの復讐に全霊を注ぐというか……見ていてこちらの胸が痛くなるようだった。以前のルギアを知っているだけにね」
彼はやや固い調子でそう言った。それからセリフィアに目を据えて、
「だが君は生きている。ということはすべてに悲観的に考えなくてもいいということだ。あきらめるな、何に対しても」
セリフィアには彼が何を言いたいのかよくわかった。自分がきっと父親と同じ気持ちでいるだろうと、彼は察して慰めてくれている。その気持ちが嬉しかった。セリフィアは無言のままゆっくりと頷いた。
「よし。じゃあ本題に移ろうか。君に来てもらったのは実は渡したいものがあったからなんだ。これを使ってもらおうと思ってね」
そういって彼が取り出したのは一本の剣だった。彼は続けて、ラクリマから話を聞いたこと、自分も助力したいが妻であるサラが身重のためここから離れられないことを前置きして、
「その代わりといってはなんだがこれを持っていってほしい。魔法がかりの剣だ。サーランド時代からハイブと縁のある剣でね。名をセフィロム・バスター・コンプリートという。ルギアや、サラと出会った冒険で手に入れたものだ」
と、セリフィアの目の前にそれを置いた。
「ハイブと戦うには少しでもいい武器があったほうがいいだろう。あげると言いたいところだが、修道院もなかなか厳しくてね。必要なくなったら持ってきてくれ」
セリフィアは驚きを隠せなかった。魔法の剣は非常に高価なものである。それを預けてくれるというのか。自分もいつ倒れるか知れないし、もしかしたら剣を折ってしまうかもしれないのに……。
「こんな高価なものをお借りするわけにはいきません。それに…」
セリフィアは傍らに目をやった。そこには巨人が振り回してもおかしくないような馬鹿でかい剣と、それに比べれば大人しいが普通のものよりはずっとがっしりして重そうな剣が、2本並んで置かれていた。
「そうだったな、君は両手剣と…その巨大な剣が専門か。…まあ、でも仲間内に1人くらい普通の剣を使う奴がいるだろ? 君が信頼できる人物なら、俺は構わんよ」
咄嗟にGの顔が浮かんだ。
「しかし、必ずお返しできるとも限りません。戦いの中で折ってしまう可能性もあります」
「その時はその時。君は友人の息子だ。剣1本くらい惜しくはないさ。ラクリマも一緒だしね。最悪、君たちが金に困ったときは換金しても構わない。…大丈夫。あとでルギアに払ってもらえばいいだろ? 君の力になれるなら、ルギアもそのくらい何とも思わないよ」
ラグナーは明るく言ってのけた。
「…本当によろしいのでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。ラクリマのこともよろしく頼む。生きて帰ってくるんだぞ。ルギアに会って、小遣い目一杯ふんだくってやれ」
「その時は一発殴ってやるつもりでいます」
「ははは。ほどほどにしてやってくれよ」
ラグナーは笑ったが、すぐまた真剣な面もちになってセリフィアの手に剣を握らせた。
「…フィルシムに戻ったらいつでも会いに来てくれ」
「はい。ありがとうございます。必ず、お返しに戻ります」
セリフィアは立ち上がり、一礼して部屋を出た。
「セリフィアさん」
部屋を出て歩こうとしたところで声がかかった。振り返ると、ここの僧侶でありラグナーの伴侶でもあるサラが立っていた。
「失礼ですが、はちみつを売る予定があるというのは本当ですか」
「ラクリマがもう話したんですか?」
「あの子は私たちには何でも話しますよ」
サラはそう言って笑った。
「もしよかったら、私たちにも売っていただけませんか。はちみつは必需品です。ご存知のように今は非常時で、食糧もすべて高騰しています。はちみつにしても単位当たり10gpもするんですよ。できればそれを半額で、単位当たり5gpくらいで引き取らせていただけると大変ありがたいのですが…。無理にとはいいません。よかったら帰って、みなさんと相談なさってください」
セリフィアは、はちみつの買取の相場がいくらか知らなかったので、ただ肯いた。
「なんだ、まだこんなところで引き留めてるのか?」と、ラグナーが部屋から顔を出した。「だから一緒に部屋にいろって言ったのに」これはサラに言ったらしかった。
「二人のほうが遠慮なく話ができただろう? 大丈夫、私の話はもう済んだから、これ以上お引き留めはしないよ」
サラはいきなりざっくばらんな話しぶりになった。セリフィアが驚いているのに気づき、ちょっとだけ決まり悪そうに笑った。それからラグナーを振り返って、
「ラグナー、彼を送ってあげては?」
「とんでもない…!」セリフィアはあわてて辞退した。「大丈夫です、ひとりで帰れます。」
「そうだな」
と、ラグナーが応じた。
「もう一人前の戦士だ。俺が送る必要はないさ」
幸福な大気がセリフィアを包んだ。父親が失意の底にあることも長兄がユートピア教の手にかかったかもしれないことも母や弟たちがハイブの餌食となっただろうことも、忘れたわけではなかった。だが、今この瞬間だけは幸福感が勝った。世辞も含まれているだろうが、自分が目標としていた戦士に一人前と言われて喜びを止めることはできなかった。
「だがサラが心配だというなら、いつものおまじないをしてやってくれ。よく効くから」
ラグナーの声が言った。
「あれは『おまじない』じゃないって、何度言ってもわからないみたいだね…」サラはラグナーに溜息をついてみせたあとで「ま、いいでしょう」と微笑し、セリフィアを見上げた。
「セリフィアさん、少し屈んでもらえますか」
セリフィアは素直に背を低めた。
「あなたに神の恵みと平安がありますように」
サラはセリフィアの額に接吻し、祝福を与えた。帰る道中も帰ってからも幸福の余韻は続き、彼が頼まれていた「はちみつ」の話を思い出したのは、翌日になってからだった。