8 冷たい雨
彼女は神殿の中にいるようだった。
(……パシエンスじゃない。セロ村の神殿だわ)
内陣を見てそう判断した。自分は今、祭壇の前に立っているのだと思った。神殿の中は、どことなく暗かった。
背後で音がして、彼女は振り返った。ハイブの顔をしたダグが扉の前に立っていた。臓腑がぎゅっと搾り上げられるような感覚に襲われた。逃げなければ。
パシエンスでは内陣に向かって右の翼に扉があった。彼女は思わずそちらへ向かった。前に扉が見えた。(やっぱり)と思ったとき、それがゆっくりと開いて、だれかが入ってきた。
(ヴァイオラさん!)
そのまま駆け寄ろうとした。と、ヴァイオラの美しい顔がどろりと溶けて、中からハイブの顔が現れた。叫ぼうとしたが声が出なかった。彼女は声ならぬ悲鳴をあげ、逆方向に走ろうとした。向こうの扉からGが現れた。予想に違わず、その白い顔もどろりと溶けて、ハイブの姿になった。迫りくるハイブたちから逃れたくて、出口がないとわかっていながら彼女は後陣に駆けこんだ。
唐突に、目の前にヴィセロが現れた。鬼のような顔をしてこう言った。
「あなたがたが呪いの元凶です! 滅びなさい!」
右手に持った聖水を彼女目掛けて浴びせかけた。冷水なのに熱く、皮膚が爛れた臭いがした。そこから自分が溶けていくようだった。
朝露の、しずくに濡れた感触で、ラクリマは目を覚ました。
(夢……)
心臓がまだ早鐘のように鼓動を打っていた。周りに音が聞こえやしないかと不安になるほど激しかった。
体が冷え切っていた。少量の食事を摂ると、彼女はぼんやりと歩き出した。火の始末も野営跡の始末も必要なく、一人でいては何もすることがなかったからだ。毎朝欠かさずにあげていたお祈りを忘れていることにも気づかず、目前の風景だけを意識しながら、黙々と歩き続けた。
歩き続けているうちにアカマツの植生は抜けたようだった。本能から、彼女は安堵した。しばらくして何がなし見覚えのある場所に出た。
そこは昨日、アルトが最初に見つけた、一つ目の戦闘の跡だった。近隣の大気中にはまだ、ここを見つけたときの皆の失望と悲しみとが残っているような気がした。
突如として昨夕の光景が甦った。次々に倒れる仲間たち。血と、叫びと、空気を切り裂く鈍い音と、神の創りしものとは思えぬ彼らの面貌と――。
「…う………」
彼女は膝を折った。その場に蹲って泣いた。
なぜ彼らは死ななければならなかったのか。そんな不遜な疑問が頭をもたげた。
もし、彼が………もし、彼女が………ならば、なぜ神は……………。
(なぜですか……なぜずっと沈黙しているんですか…!)
声には出さなかったが、神を呪ったも同然だった。責められるべきは自分の無力である。そうとわかっていて尚、抑えることはできなかった。「沈黙」が、ゆるし難い罪科に思えた。
胸が痛い。痛くて、息ができなくなりそうだ。
ふと、賛美歌の一節を思い出した。
思うなかれ、灼熱の苦難が降り注ぐ中
たとえ稲妻、雷鳴が脅かし
沈鬱な天候がおまえの不安を駆り立てても
決して神に見放されたと思うなかれ
「神は、もっとも大きな艱難の中でも常におられる……」
彼女は残りの一節を口ずさんだ。少し心が安らいだ。そういえば朝の祈りを忘れていたと気づき、その場で祈念を捧げた。涙を払った。
(セロ村へ戻らなきゃ)
今、自分にできることを全うせねばならない。伝えなければ。ハイブ化していたダグたちのことを、その場所の情報を、そして……仲間たちの最期を。生き残った者がなすべきは、伝えることである。彼女はしっかり立ち上がり、再び村へ向かって歩き出した。ただ、悲しみを止めることはできなかった。
1月22日、同刻。
ロビィたちの隊商が出立した。
ヴァイオラは新たに2通の手紙を書いて預けた。1通はガラナーク神殿宛に、レスタト=エンドーヴァー死亡に関する報告書で、当のレスタトが生前スチュアーに託してあった他の2通の書簡と同封させてもらった。
もう1通はフィルシムの神殿に宛てたものだった。昨夕の顛末と、任務終了の旨とをしたためた。協力すべき相手が死んだので、ヴァイオラと、生きていればラクリマも、神殿から受けた任務は終了したことになる。もういつクダヒに帰ってもいいはずだった。だが、こうなった以上、まだ戻るわけにはいかなかった。
ロビィたちを見送ってから、ヴァイオラは一人でジェイ=リードの家を訪ねた。2、3度ノックをした。やっとだれかが扉に近づいてくる気配がした。が、扉は開かなかった。中から陰鬱な声がした。
「帰ってくれ」
それきりだった。ヴァイオラは仕方なく神官として悔やみの言葉を述べ、宿で彼女を待っている仲間の元へ戻った。
一同はラクリマを探しに森へ分け入った。
昼を過ぎてもまだラクリマは見つからなかった。
(もしや奇跡を願ったのは彼女……?)
まさかと思いつつも、何度か疑った。その疑いを幾たびか振り払ったあとで、ロッツが「あっちから音が」と、ちょうど進行方向を指して言った。一同は足を速めた。
向こうもこちらの近づく音に気づいたのか、足音がぴたりと止まって動かなくなった。
(どうかハイブではありませんように)
目で確認できるところまでたどり着いた。一同の目に、泣きべそをかいているラクリマが映った。
「ラクリマさん!」
「よかった!」
「生きてたんだ!」
皆が口々に喜んで駆け寄ってくるのをラクリマは見た。夢でも見ているのかと思った。ごしごしと目をこすったが、目の前の情景は消えなかった。
(あれはだれ?)
死んだはずの仲間たちが近づいてくる。でも、と、思った。あのひとたちはホンモノじゃない、だってみんなは死んでしまったんだから――!
「いやああぁ!」
再び恐怖に捕らわれ、ラクリマは悲鳴を上げた。
「来ないでぇええ!!」
元来た道を逃げだした。
ヴァイオラはおもむろにボーラを取り出し、投げた。びょうと空を切る音がしたかと思うや、ラクリマは転倒していた。足に絡まった何かを外そうと、起きあがろうとした。だが、半身を起こしたところで、恐怖でその場に縛られたようになった。死んだ仲間の顔をした人々が、自分を取り囲んでいたからだ。
ヴァイオラは他の皆を手振りで制して、静かにラクリマのそばに跪いた。
怯えきって声も出ない相手を前に、厳しい顔をしてゆっくりと言葉を紡いだ。
「ラッキー、レスターがデスウィッシュを使った」
デスウィッシュ、と、聞いて、ラクリマの顔に微かに反応が現れたのをヴァイオラは見逃さなかった。表情は依然として硬かったが、警戒はややゆるんだようだ。ヴァイオラは茫然としている彼女の足から丁寧にボーラを外してやった。
ラクリマはそれでも言葉を発せず、目を泳がせて「わからない」というようにヴァイオラを見た。実際、わからなかった。デスウィッシュが何であるかはおぼろげながら理解できる。だがそれと、目の前に現れた仲間の顔した人々との関係が、どうにもつながらなかった。ヴァイオラは再び口を開いた。
「レスターが私たちを、村に生還させたんだ」
レスターがデスウィッシュを使って、ヴァイオラたちを生還させた……
ラクリマの中でようやく事実が形をなした。
刹那、烈しい悔悛が彼女を襲った。自分だけ異なる岐路を選んでしまったのだと、もう他のだれとも共に歩くことはできないのだと、咄嗟に実感した。なぜなら自分はみんなをおいて逃げたのだから。レスタトのように自らを犠牲にすることもなく、ただ己れだけ助からんがために振る舞ったのだから。
内なる声が聞こえた。
(お前は仲間を見捨てて逃げた卑怯者。神に祈る資格もない)
同時に哀しみが突き上げて、毒でも受けたかのように胸が灼けた。レスタトの魂は消滅したのだ。その最期の空漠さが耐えられなかった。
「あ…あぁあああああ……!」
ラクリマが激しく泣くのを、皆は黙って見守った。
しばらくして、アルトがふいに空を見上げる仕草をした。ついでGが、ロッツが、空を見上げた。冷たい雨が彼らの上に降り出していた。徐々に、それは勢いを強めていった。
「……行こう」
ヴァイオラはラクリマの肩に手を置いた。
夜、セロ村に帰り着いても雨はまだ降り続いていた。
昨日より幾ばくか落ち着いた様子で、ヴァイオラは再び風呂を沸かして欲しいとガギーソンに頼んだ。ガギーソンはこの日も何も言わずに、言われたまま風呂を沸かした。気の立った冒険者の扱いは、心得ていた。
エリリアが飛び込んできた。「ジェイが…ジェイが出ていってしまった……!」彼女はそう言って泣き崩れた。「フィルシムへ行ってもっと強くなるって。ハイブになったお父さんを、自分の手で殺すんだって……!」
だれも慰めの言葉をかけられなかった。だれ一人、そんな余裕のある者はいなかった。
ラクリマの中では鎮魂歌が鳴っていた。フレーズのひとつが、いつまでも彼女の頭から去らなかった。
この日こそ涙の日。




