ストーカーは誰だ?
カラン……
都会の喧騒から遠く離れた、とある街外れ。ひっそりと佇むオーセンティックバーの扉の鈴が軽やかな音を立てた。
薄暗い照明の中、滑り込むように入って来た一人の女性は、迷うことのない足取りで進み、カウンターの一番奥の席へと腰を下ろした。
重厚な一枚板のカウンターに、バーテンダーが手際よくチャームを差し出し、穏やかに声をかける。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「ジン・フィズを。ジンは、タンカレーNo.10でお願いします。」
「畏まりました。」
女性はメニューに目を通すことすら見せず、流れるように答えた。その落ち着いた声音は、この一杯が女性にとっての『いつもの選択』であることを雄弁に物語っていた。
カラン……
バーテンダーがシェイカーを取り出し、氷を落とす涼やかな音が店内に響き渡る。
「こちらへは出張ですか?」
女性の喋り方――この土地の方言とは明らかに異なる洗練されたイントネーションに気付き、マスターがさりげなく水を向けた。
「いえ、気ままな一人旅です。」
女性は小さく微笑み、それ以上の会話を拒むように視線をグラスへと戻した。
カラン……
数分後、扉の鈴が再び軽やかな音を立てた。
薄暗い照明の中、スーツ姿の男性は、店内を一度だけ、品定めするように見渡し、女性とは正反対の位置、カウンターの一番手前にある席へと腰掛けた。
重厚な一枚板のカウンターに、バーテンダーが手際よくチャームを差し出し、穏やかに声をかける。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
男性は、まるで最初から決まっていた答えを暗記していたかのように、平然と言った。
「ジン・フィズ。ジンは、タンカレーNo.10で。」
バーテンダーの手が一瞬、不自然に止まった。
男性の声に、バーテンダーは微かな既視感を覚える。
イントネーションだ。先程の女性と同じ、この土地のものではない、独特の響き。
更に、先程の女性が指定した銘柄と寸分違わないカクテル、ジンの指定。偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
「……畏まりました。」
異様な空気が流れる中、女性は視線を上げようとはしなかった。ただ、結露したグラスの縁に触れていた女性の指先が、わずかに、ピクリと動いた。
しばらくして、手前の席の男性がバーテンダーを呼び止めた。男性から何かを渡されたバーテンダーは、困惑を隠せない足取りのまま女性へと近づき、声を潜めて告げた。
「あちらのお客様からです。」
差し出されたのは、一枚の折り畳まれた紙だった。しかし、受け取った掌には、紙切れとは思えない妙な重みが伝わってくる。
女性がそれを開いた。現れたのは――婚姻届だった。押印、証人、そして届出日の欄以外は、全てボールペンの黒いインクで埋め尽くされている。女性の名前、住所、生年月日、本籍、父母の名前、続柄、婚姻後の姓、新しい本籍地。どれも女性自身が書いた覚えのない物だったが、恐ろしい事に、その筆跡は女性自身の字に酷似していた。
女性は喉の奥で、小さな悲鳴をそっと飲み込んだ。
気遣わしげに見守っていたバーテンダーが、低い声で尋ねる。
「……お知り合いですか?」
「……初対面です……」
女性はバーテンダーの質問に蚊の鳴くような小声で答えると、婚姻届の裏面に向けて、懐から取り出した万年筆で、何も見ずにスラスラと何かを書き込み始めた。一切の淀みなく、恐ろしいほどの速度で紡がれていく赤い文字と線。緑色の、婚姻届の注意書きの上を埋め尽くす勢いで、赤インクの文字と線が描かれる。迷いのない筆致で裏面を埋め尽くすと、女性は丁寧に紙を閉じ、バーテンダーにだけ聞こえる声で静かに囁いた。
「拳で返してあげて。」
バーテンダーは一瞬目を見開いたが、女性の瞳の奥にある拒絶の光を読み取り、深く頷いた。彼は折りたたまれた婚姻届を、己の拳の甲へとそっと乗せる。
そして、何食わぬ顔で男性の席へと歩み寄った。
「あちらのお客様からです。」
次の瞬間、バーテンダーの拳が、乗せられた婚姻届と一体になって男性の顔面へと炸裂した。
まるで映画の効果音のような乾いた音が店内に響き渡る。衝撃で椅子が派手にひっくり返り、男性は床へと無様に倒れ込んだ。
ひらひらと宙を舞う婚姻届は、まるで狙い澄ましたかのように、仰向けになった男性の胸の上にふわりと落ちた。
「……以後、他のお客様への迷惑行為は、お控えください。」
バーテンダーは息一つ乱さず、冷徹に言い放った。
男性は顔を歪め、呻き声を上げながら這い起きた。そして胸元の紙をひったくるようにして裏返した瞬間、彼の顔から文字通り血の気が引いた。
婚姻届の裏面には、狂気的なまでの細密画のような家系図が、びっしりと描き込まれていた。
男性の両親、兄弟姉妹、その配偶者と子供、祖父母、曾祖父母。それだけではない。男性の現在の妻の家族、妻の兄弟姉妹の配偶者と子供。更には全員の住所、電話番号、メールアドレスまでもが完全に網羅されている。
そして――男性の妻の名前の横には、本来、夫である男性へと伸びるべき線とは逆の方向にも不自然に伸びる、一本の赤い線が引かれていた。その線の先にあるのは、見知らぬ男性の名前。つまり、妻の不倫相手だ。
恐ろしいのはそれだけではない。その不倫相手の男性の横には別の女性の名前があり、そこからさらに子供へと線が伸びている。住所、電話番号、メールアドレスまで完全に網羅された、見知らぬ『三人家族』の不都合な相関図が、そこに完成していた。
自分の妻が、よその幸せな家庭に寄生している。その不都合な真実が、鮮血のような赤で残酷に証明されていた。
男性の喉が、ひゅっと空気を吸い込む音を立てた。
「……なんで……なんで妻の……名前から……別の男性に線が……?」
ただならぬ様子にバーテンダーも思わず覗き込み、その紙面に刻まれた異常な情報量に、男性と同じように顔を青ざめさせた。
カラン……
女性は、氷の溶ける音を聞きながら微笑んでいた。
「大変でしたよ。そこまで調べるのは。」
男性が弾かれたように顔を上げる。
女性は優しく、柔らかく、しかし一切の温度を持たない美しい笑みを湛えたまま言葉を続けた。
「あなたが、私の事を調べるよりも――遥かに、ね。」
その声には、怒りも、自慢気な響きもなかった。ただ、決定的な事実を淡々と告げるだけのように静かだった。
「ひっ……!」
男性は短い悲鳴を上げると、震える手で財布から一万円札を一枚引っ張り出し、乱暴にカウンターへと叩きつけた。お釣りを待つ余裕など、今の彼には一秒たりとも残されていない。
カラン、カラン、カラン……
男性は殆ど転がるような足取りで、勢いよくドアを開け、狂ったように店を飛び出していった。
激しく揺れる扉の鈴が、いつまでも震えながら鳴り響いている。
バーテンダーは、真っ青になったままその場から動けずにいた。
自分が殴り飛ばしたのは、単なるストーカー気質の迷惑客のつもりだった。だが今、自分が決して『触れてはいけない深淵』に触れてしまったのだと、本能が悟っていた。
女性は、逃げ出した男性の背中を追うことも、バーテンダーの怯えを含んだ視線に気づく事もなく、ただ静かに手元のグラスを傾けた。
カラン……
氷がひとつ、小さく音を立てて底へ沈む。女性の横顔に浮かぶ笑顔は、どこまでも優しく穏やかで――だからこそ、底知れない冷たさを孕んでいた。
「初対面……では、無かったのですか……?」
バーテンダーが、震える声を絞り出す。
「『直接会う』のは、初めてでしたよ。」
カラン……
女性は残りのジン・フィズを美しく飲み干すと、硬直しているバーテンダーへとまっすぐな笑顔を向けた。
「『次』は……そうね。ディサローノ・アマレットをロックでお願いします。『山瀬淳二』さん。」
女性は、名乗ってもいないバーテンダーのフルネームを呼んだ。
ディサローノ・アマレット。それは『真実の愛』を意味し、画家の切ない片思いの逸話から生まれたリキュール。
今、バーテンダー――山瀬淳二へと向けられたその完璧な笑顔は、単なる次のオーダーを伝えるためのものなのか? いや、次の『標的』を決めたという合図なのだろうか?
~Fin~




