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嫁入り峠に君を返しに行く

作者: 奇怪千万
掲載日:2026/03/21

嫁入り峠に君を返しに行く


第1話 久々戸村


妹のスマホが最後に拾った位置情報は、地図の上ではほとんど何も語っていなかった。




山の中腹。県境に近い、細い林道の先。地名は久々戸村。検索しても観光情報はろくに出てこない。宿も店も、まともな施設の記載はない。代わりに出てくるのは、閉鎖された個人ブログ、民俗系掲示板の古い断片、そして誰が書いたのかわからない噂話ばかりだった。




《久々戸の嫁入り峠には、夜に白無垢が歩く》




馬鹿らしい話だと思った。




だが、その村の名前の横に、美緒がいなくなった日付と同じ数字が並んでいるのを見た瞬間、笑えなくなった。




だから俺は、山へ入った。




妹を連れて帰るために。




そのときはまだ、ひとり連れて帰るだけでは終わらないと知らなかった。




山道に入ってから、急に世界の色が鈍くなった気がした。




三月の終わりだというのに、日陰にはまだ冬の気配が残っている。杉林の間を縫うような道は狭く、ガードレールの錆びた支柱が等間隔に並んでいる。カーナビはとっくに役に立たなくなり、スマホの電波も切れたり入ったりを繰り返していた。




運転席の隣には、美緒のリュックが置いてある。




見つかったのは部屋の隅だった。財布も身分証も持っていったくせに、よく使うノートだけが机の上に残っていた。ページをめくると、久々戸村という名が何度かメモされていた。山嫁。嫁入り峠。返す。返される。意味のわからない単語が、走り書きみたいにいくつも並んでいた。




美緒は昔からそうだ。




気になったものはすぐ追う。こっちが心配して止めても、笑って「大丈夫だから」と言って先に行く。




子どもの頃、川に落ちかけた犬を見つけて、躊躇なく護岸を乗り越えたのも美緒だった。俺は怒った。怒りながら引き上げた。あいつは服を泥だらけにしたまま、犬の頭を撫でて泣いていた。




だから、たぶん今回もそういう感じだったのだと思う。




好奇心に火がついた。誰かが助けを求めているように見えた。危ないと思いながら、足が向いた。




問題は、その先が久々戸村だったことだ。




山道の最後のカーブを抜けると、小さな集落が見えた。




谷あいにへばりつくみたいに建つ家々。屋根瓦は古く、煙突の代わりに細い金属の筒が何本か立っている。畑はあるが、人の気配は薄い。電柱はあるのに電線が少ない。時計の針が少しだけ遅い場所、という印象だった。




村の入口には、ひしゃげた木の看板が立っている。




――久々戸村へようこそ。




観光地の看板みたいな書き方なのに、その下へ黒い墨で、小さくこう書き足されていた。




《夜道注意》




注意の内容が雑だ。何に注意しろというのか。




車を降りると、空気が思った以上に冷たかった。山の匂いに混じって、古い水の匂いがする。沢の流れだろうか。遠くで犬が一度だけ吠え、それきり静かになった。




集会所らしき建物の前に、年配の男が立っていた。




六十代半ばくらい。背筋が妙にまっすぐで、灰色の作務衣のような服を着ている。村人、というより、村そのものが人の形をとったような男だった。




「よそからですか」




声は穏やかだった。




俺は頷き、スマホの画面を見せた。美緒の写真だ。大学の入学式のとき、少し照れた顔で写っている。




「この子を探しています。半年前に行方がわからなくなって、その足取りを辿ってきました。この村へ来た可能性が高い」




男は写真を見て、目を細めた。




「お名前は」




「相馬美緒。俺は兄です。相馬恒一」




「そうですか」




男は一拍置き、小さく会釈した。




「斎賀宗一郎です。この村で、少し世話役のようなことをしています」




世話役。便利な言い方だ。




「この子を見たことは」




「ありませんね」




即答だった。




早すぎる。写真を見た時間が短いとかそういうことではない。知らないと言う準備が、最初から整っていた感じだ。




俺は笑わなかった。




「ここが最後の位置情報なんです」




「最近は電波の具合も不安定でして」




「山に入って迷った可能性は?」




「なくはないでしょう。ただ、村の者ならともかく、よそから来た若い方が、こんな場所へ一人で入る理由がありますか」




その問いの立て方自体が妙だった。あるかないかじゃない。実際に来ていたかどうかを知りたいのに、男は理由の話へ逸らしている。




「それを調べに来たんです」




宗一郎は困ったように笑った。




「お気持ちはわかります。ただ、この村には宿もありません。今日はもう日が落ちます。山道は危ない。いったん下へ戻られては」




追い返したいのが透けて見えた。




「戻りません」




俺がそう言うと、宗一郎の表情は変わらないまま、目だけが少し硬くなった。




「なぜです」




「妹がここに来た可能性があるからです」




「可能性、ですね」




「十分です」




しばらく無言があった。




やがて宗一郎は、観念したように小さく息を吐いた。




「空き家が一軒あります。昔、若い夫婦が住んでいた家です。今は誰も使っていない。よろしければ、今夜だけ」




ありがたい申し出のはずなのに、妙に引っかかった。




「助かります」




「夜は出歩かないでください」




宗一郎はそう言って、初めて少しだけ声を低くした。




「特に、峠のほうへは」




空き家は村外れにあった。




小さな木造平屋で、庭先には枯れた紫陽花が並んでいる。戸は立てつけが悪く、鍵も半ば壊れていたが、中は思ったほど荒れていなかった。誰かがたまに掃除しているのか、畳には薄く埃が積もる程度で、布団まで用意されていた。




「親切すぎる」




独り言が漏れる。




こういう場所では、親切は必ず裏返る。




荷物を下ろし、ひとまず家の中を確かめた。六畳が二間。台所。狭い風呂。押し入れの中には古い毛布が何枚か入っている。仏壇はない。写真もない。生活の匂いだけが、きれいに抜け落ちていた。




美緒がここへ来ていたなら、何か残していそうな気もしたが、最初に見た限りではそれらしいものはない。




日が落ちる前に、村を少し歩いた。




人はいた。いるが、妙に視線を逸らされる。畑で作業していた老婆は、こちらに気づいた瞬間、手を止めて家の中へ引っ込んだ。子どもの姿は見えない。若い男が一人、軽トラの荷台を洗っていたが、こちらを見る目に露骨な警戒があった。




よそ者が珍しいのか、それとも俺が歓迎されていないのか。




たぶん両方だろう。




村の中央には小さな社があり、その横に石碑が立っていた。文字は風化して読みにくい。苔を指先で払うと、辛うじて二文字だけ見えた。




嫁入。




その先は削れている。




背後で、足音がした。




振り返ると、二十代半ばくらいの男が立っていた。作業着姿で、目元の鋭い、日に焼けた男だ。




「その石、あんまり触らないほうがいいですよ」




「読むなって?」




「いや、苔で滑るんで」




冗談とも本気ともつかない言い方だった。




「観光ですか」




「妹を探しに来た」




男は俺の顔を一度見て、それから少しだけ表情を和らげた。




「そうですか」




「柏木透真。ここで農協の手伝いみたいなことしてます」




名乗ってから、透真は社のほうを見た。




「あんまり夜に出歩かないでください」




「宗一郎さんにも言われた」




「じゃあ、聞いたほうがいいです」




「何がある」




透真は一瞬だけ迷うような顔をした。




「山が近いんです」




答えになっていない。




「その説明で納得すると思う?」




「しないでしょうね」




透真は苦笑して、石碑から少し離れた。




「でも、理屈で説明しても、たぶんもっと納得できないですよ」




それだけ言って去っていく。




村人の親切はどれも、中途半端で気味が悪かった。




夕方、空き家へ戻ってレトルトを温め、簡単に腹を満たした。美緒のノートを開き、もう一度メモを読み返す。




《山嫁》 《返すんじゃなくて返される》 《社の裏の道》 《白いのを見るな》




最後の一行で、指が止まる。




白いのを見るな。




笑うべきところなのかもしれない。だが、あいつがこういうふざけ方をするのは、半分本気で怯えているときだ。




夜は思った以上に早く来た。




山の村だからだろう。五時を過ぎると一気に暗くなり、七時には外がすっかり夜の底へ沈む。街灯はあるが少なく、あってもぼんやりしている。遠くで沢の音が聞こえた。




布団に入っても寝つけなかった。




物音が気になる。天井の軋み、風の擦れる音、壁の向こうの静けさ。見知らぬ土地で眠れないのは珍しくない。それでも今夜は、ただ眠れないのとは少し違った。




何かを待っているみたいだった。




時計を見る。十一時四十二分。




ふと、障子の向こうに人影が通った気がした。




俺は体を起こし、耳を澄ます。




何も聞こえない。




見間違いかと思ったが、次の瞬間、遠くで鈴のような音がした。




ちりん。




小さく、かすかに。




また鳴る。




ちりん。ちりん。




風鈴とも違う。祭の手鈴にも似ているが、もっと遠く、もっと湿っている。音は一定の間隔で近づいたり遠ざかったりして、やがて一つだけではないと気づいた。




複数だ。




列になって鳴っている。




俺は美緒のノートを思い出した。




《社の裏の道》




布団から抜け出し、懐中電灯を掴む。理性は行くなと言っていた。夜道は危ない。よそ者がうろつけば厄介事になる。だが、妹が本当にここへ来ていたなら、この音を追った可能性は高い。




迷っている時間はなかった。




戸を静かに開ける。




夜気が流れ込んできて、首筋が冷えた。




村は真っ暗だった。家々は寝静まり、灯りはほとんどない。遠くの山の稜線だけが、少しだけ空の色を受けて薄く浮いている。




鈴の音は、社のほうから聞こえていた。




俺は息を潜めて歩く。砂利を踏む音がやけに大きい。社の前を過ぎ、裏手へ回ると、細い山道が一本、闇の中へ延びていた。昼間には気づかなかった道だ。




その先に、白いものが見えた。




一瞬、鳥肌が立つ。




白無垢かと思った。夜の中でだけ浮くような白さだったからだ。




だが近づくと、それは着物ではなく、白いブラウスの上に薄い羽織を重ねた女だった。年の頃は二十前後。黒髪が長く、肩から胸へ流れている。街の若い女なら埋もれてしまうような素朴な顔立ちなのに、この闇の中では妙に目を引いた。




彼女は峠のほうを向いて立っていた。




鈴の音は、もう止んでいる。




「すみません」




俺が声をかけると、女はゆっくり振り返った。




その動きに、なぜか少しだけ遅れがあるように見えた。人間の反応というより、水面に映ったものがあとから揺れる感じに近い。




女は俺を見るなり、ほんのわずかに眉を寄せた。




「よそから来た人」




「妹を探してる」




そう答えると、彼女の表情がもっと硬くなった。




「名前は」




「相馬恒一。妹は相馬美緒」




女は俺の顔をじっと見た。品定めというより、何かと見比べている目だった。




「あなた、明日の朝には帰って」




挨拶より先にそれだった。




「何で」




「妹さんを連れて帰りたいなら」




背中を、冷たい指でなぞられたみたいな感覚が走る。




「知ってるのか」




女は答えない。




俺は一歩近づいた。




「知ってるなら話してくれ。妹はここへ来たんだろ」




女は首を横に振る。




「ここにいると、あなたも見つかる」




「誰に」




「山に」




会話としては最悪だった。意味がわからない。




だが彼女の声は怖がらせるためのものではなく、本気で忠告している音だった。




「妹は生きてるのか」




女は少しだけ目を伏せた。




その沈黙で、ほとんど答えが出てしまった。




「……会ったのか」




「会ってない」




「どっちだ」




「会ってない。でも、いる」




意味不明な返答なのに、嘘をついている感じは薄い。むしろ、この女自身が、はっきり言えない場所に立っているように見えた。




「名前は」




俺が問うと、女は少しだけ間を置いた。




「志乃」




「名字は」




「斎賀」




宗一郎と同じ姓だ。




「妹がどこにいるか知ってるなら、連れて行ってくれ」




志乃はまた首を横に振った。




「だめ」




「何で」




「まだ、あなたが来たって知られてないから」




「知られたら何がある」




「返される」




美緒のノートと同じ言葉だった。




風が吹いた。




その瞬間、志乃の背後の闇の中で、何か白いものが動いた気がした。人の列だったかもしれない。木立の反射だったかもしれない。だが俺が目を凝らしたときには、もう何もない。




志乃はその方向を見て、顔色を変えた。




「帰って」




「まだ話は――」




「お願い」




最初に志乃が見せた感情らしい感情は、それだった。怯えと焦りが混ざった顔。




「明日の朝まで、絶対に外へ出ないで」




そう言い残し、彼女は山道の奥へ走っていった。




追おうとして、一歩遅れた。




どこからか、また鈴の音がしたからだ。




ちりん。 ちりん。 ちりん。




今度は近い。道の先ではなく、背後の闇から聞こえる。




俺は反射的に振り返った。




社のほうへ戻る細い道に、白いものが並んでいた。




一人ではない。二人、三人、四人。白い着物のようなものを着た女たちが、等間隔に立っている。顔は見えない。懐中電灯の光を向けると、その輪郭だけが薄く揺れた。




喉の奥が固まる。




次の瞬間、列は消えていた。




いや、最初からなかったのかもしれない。道の両脇に立つ白木の標識と霧が、そう見えただけなのかもしれない。




だが鈴の音だけは、まだ耳の奥に残っている。




俺は一気に空き家まで戻り、戸を閉めた。鍵の意味は薄いとわかっていても、何度も確かめずにはいられない。




息を整えながら座り込む。




怖かった。




今さら認めるのも癪だが、普通に怖かった。山の夜道だとか、村の因習だとか、そんな言葉では片づかない種類の気味悪さがあった。




それでも、志乃の言葉だけが妙に引っかかる。




《妹さんを連れて帰りたいなら》




あの言い方は、美緒がここにいると知っている人間のものだった。




明日の朝には帰って。




そう言われて、はいそうですかで帰る兄がいるものか。




俺は一睡もできないまま夜をやり過ごした。




空が白みはじめるころ、ようやく遠くで鳥の声がした。朝は本来、人を現実へ引き戻す時間のはずなのに、そのときの俺には、夜の続きを無理やり終わらせに来る残酷なものに見えた。




鏡を見ると、目の下には笑えるくらい濃い隈ができていた。




それでも、帰る気はもうなかった。




朝、戸を開けると、縁側の端に小さな紙包みが置かれていた。




中には握り飯が二つ。




海苔も巻いていない、塩だけの素朴なものだ。まだ少し温かい。




誰が置いたのかは、わざわざ考えるまでもなかった。




その親切が、なぜか昨夜よりもっと厄介に思えた。




誰かが敵意だけで動いているなら楽だ。疑って、戦えばいい。 でも、追い返しながら食べ物を置くような相手は、単純な敵役になってくれない。




俺は一つを口に押し込みながら、社の裏道を見た。




昼の山道は、昨夜の不穏さが嘘みたいに普通だった。




普通であることが、逆に薄気味悪い。




とにかく志乃をもう一度探す必要がある。




美緒を連れて帰るために。




俺はそう思い込もうとした。




その時点ではまだ、それだけが目的だった。




第2話 山に近い娘


朝のあいだ、俺はほとんど村じゅうを歩いた。




見回りではない。落ち着かないのだ。空き家へ戻っても、美緒のノートの文字と、昨夜峠で見た白い列が頭の中で交互に蘇る。じっと座っていれば、ろくでもない想像ばかり膨らみそうだった。




村の端には、もう使われていないらしい校舎があった。二階建ての木造で、窓ガラスの半分が曇っている。校庭には錆びた鉄棒と、片方だけ鎖の切れたブランコ。子どもの声が聞こえない村だとは思っていたが、こうして形だけ残ったものを見ると、静けさの正体が少しだけ具体的になる。




美緒が小学生のころ、近所の公園でブランコから飛び降りる遊びにやたらはまっていたことを思い出した。着地に失敗して膝を擦りむき、それでもまた乗る。俺が怒ると、へらへら笑って「一回うまくいくまで」と言った。




あいつは昔から、そういうところがある。危ないことだとわかっていても、気になったら確かめるまで引かない。




その性格を、俺は何度も止めようとしてきた。




両親がいなくなってからは特にだ。兄である前に、保護者みたいな顔をしてしまう。うるさいと言われ、過保護だと笑われ、それでも結局、何かあったら助けるのは自分しかいないと思い込んできた。




だから今回も、責めたい気持ちはある。なんで一人で来た。なんで相談しない。なんでこんな場所へ。




だが責めるより先に、見つけなければならない。生きているうちに。ちゃんと叱れるうちに。




校舎の裏手へ回ると、井戸があった。蓋はされているが、誰かが最近触ったらしく、縄の先だけ妙に新しい。そこで、背中に視線を感じた。




振り向くと、老婆が立っていた。いつの間に現れたのか、杖もつかずに、細い体をまっすぐこちらへ向けている。皺の深い顔に感情はあまりない。




「相馬さんとこの」




いきなりそう言われ、喉が詰まりかけた。




「妹を探しに来た兄さん」




「……知ってるのか」




老婆は答えず、校舎の窓を見上げた。




「昔は、子どもがもっといた」




話を逸らしたように見えたが、たぶん違う。この村では、たいていの返答が少しだけ斜めから飛んでくる。




「ここも、笑い声がしてた」




「今はしない」




「返したから」




その言葉に、胃が重くなる。




「誰を」




「いろいろ」




老婆はようやく俺を見た。濁った目なのに、妙にはっきり視線が合う。




「白いのに名前を呼ばれても、返事しないほうがいいよ」




昨夜、志乃にも似たようなことを言われた。




「妹はここに来たのか」




「よく歩く子だったね」




「見たのか」




「よく歩く子は、見つかりやすい」




またそれだ。見つかる。返される。近い。久々戸村では、重要なことほど曖昧な言葉で包まれる。




「どこへ行った」




老婆は井戸を指さした。




「下じゃないよ」




言わなくてもわかっている。だが次の一言は、わかっていても嫌だった。




「上」




山のほうを顎でしゃくり、老婆はそれだけ言って歩き去った。呼び止めようとしても、もうこちらを見ない。




校舎の窓に、白い影が一瞬だけ映った気がした。




振り向く。もちろん誰もいない。




それでも、村の中で美緒の痕跡を追っているはずなのに、気づけば何度も山のほうを見てしまう自分がいた。




山は近い。




村の誰もがそう言う。




たぶんそれは距離の話ではない。




なのに、その意味を本当に理解するのは、まだ少し先だった。




朝の久々戸村は、夜よりずっと静かだった。




夜は少なくとも沢の音や風の擦れる音がある。だが朝は、人の生活音までが妙に遠慮深い。どの家にも人はいるはずなのに、戸が開く音も、台所の鍋が鳴る音も、必要最小限しか外へ漏れてこない。




村全体が、他所者に耳を貸さないよう息を潜めているようだった。




握り飯を食べ終えたあと、俺は社の裏道へ向かった。




昨夜と同じ道なのに、昼間に見ると拍子抜けするほど普通だ。細い山道。両脇に杉。ところどころ土が崩れ、苔のついた石が見えている。歩きやすくはないが、入れないほどではない。




志乃の足跡が残っていないかと思ったが、昨夜の湿り気も朝日でかなり飛んでいた。




しばらく登ると、小さな水場が現れた。




岩肌から細く水が落ち、苔むした石組みの溜まりへ流れ込んでいる。傍らに古い木桶が一つ。誰かが使っているらしく、桶の縁だけは新しく濡れていた。




そこに、志乃がいた。




昨夜の白さは消えていて、昼の彼女はずいぶん年相応に見えた。濃紺のカーディガンに薄い色のスカート。山の村の娘らしい地味な格好なのに、なぜかこの場所では水そのものみたいに目立つ。




彼女は俺を見ても驚かなかった。




「来ると思った」




「追い返したかったんじゃないのか」




「思ったことと、来るかどうかは別だから」




正論めいているのが腹立たしい。




「妹はどこだ」




単刀直入に聞くと、志乃は木桶を水場へ置いたまま、少しだけ目を伏せた。




「知らない」




「昨夜は“いる”って言った」




「いる、とは思う」




「会ったことは」




「ない」




曖昧だらけだ。




「何でそんな言い方になる」




志乃は水面を見た。




「この村には、ちゃんと見えるものばかりじゃないから」




またそういうことを言う。




俺は苛立ちを飲み込み、できるだけ平坦な声を出した。




「俺は理屈の通る話がしたい」




「私もしたい」




「なら――」




「でも、理屈だけだと、たぶんここでは足りない」




その返しで、怒鳴る気が少し失せた。




志乃は木桶を持ち上げようとしたが、縁が濡れていて手を滑らせた。反射的に俺が支える。指先がかすかに触れた。




冷たい、と思った。




山の水を触ったあとの手なら当然の温度だろうに、その冷たさだけが妙に印象に残った。




「悪い」




「ううん」




志乃は小さく礼を言い、桶を抱え直した。




「家まで運ぶ」




「いい」




「重いだろ」




「慣れてる」




「俺は慣れてないことでも持つ」




なぜそんな言い方をしたのか自分でもよくわからなかったが、志乃は少しだけ笑った。




「変な人」




「昨日から何回も言われてる気がする」




「じゃあ変なんだと思う」




その会話の軽さが、昨夜の志乃と同じ人物とは思えないくらい普通だった。




彼女の家は村の端、山裾に近い場所にあった。




古いが手入れの行き届いた木造家屋で、庭先に白い椿が咲いている。門柱は低く、玄関の上には注連縄みたいな細い縄が張られていた。神社というほどではないが、普通の家とも少し違う。




「ここ、ひとりで住んでるのか」




「いまは」




「親は」




志乃は一瞬だけ黙り込んだ。




「もういない」




その声色で、それ以上訊けなくなった。




「昨夜、握り飯を置いたの、おまえだろ」




桶を渡しながら言うと、志乃は目を瞬かせた。




「食べた?」




「食べた」




「おいしかった?」




「普通に」




「よかった」




なぜか、そこで会話が途切れた。




門のところで立ち尽くしていると、志乃は少し困った顔をする。




「帰らないの」




「帰らない」




「どうして」




「妹を探してるから」




「それだけ?」




変な聞き方だった。




「今はな」




俺がそう答えると、志乃は小さく息を吐いた。




「じゃあ、今日の日が暮れるまで」




「何が」




「見ないでいられるなら、少しは長くここにいられる」




また意味のわからないことを言う。




「何を見るなって」




「白いの」




美緒のノートと同じだった。




俺は思わず真顔になる。




「妹のノートにも書いてあった」




志乃の表情が凍る。




「ノート?」




「あいつの部屋に残ってた。山嫁とか嫁入り峠とか、いろいろメモしてた。おまえ、その言葉を知ってるな」




志乃は口を開きかけて閉じる。




「……知ってる」




「何だ、それは」




「村の昔話みたいなもの」




「昔話で人が消えるのか」




「昔話だから、人が消えるのかもしれない」




ここまで来ると禅問答だ。




「少なくとも、おまえは何か知ってる」




「知ってる」




「話せ」




「話したら、帰れなくなる」




その言い方に、今度は少し違う意味の引っかかりを覚えた。




帰れなくなるのは、俺か。それとも志乃自身か。




「帰る気はない」




そう言ってしまうと、志乃はひどく疲れた顔をした。




「そういう人、嫌い」




「初対面の男に言うには率直すぎるな」




「嫌いって言ったほうが、近づかないでしょ」




「近づかないでほしいのか」




志乃は答えない。




だが、その沈黙は昨夜と少し違った。ただ追い払いたいだけではない何かが混ざっている気がした。




「また来る」




俺が言うと、志乃は小さく首を振った。




「来ないで」




「妹が見つかるまで」




「来ないで」




「見つける」




ほとんど意地の張り合いみたいだった。




志乃は諦めたように目を伏せる。




「……社の裏道は、夕方までに戻って」




「それは助言か」




「警告」




そう言い切ったあとで、志乃は少しだけためらい、つけ足した。




「今日の山は、昨日より近いから」





第3話 普通だった夜


昼のあいだ、俺は村を歩き回った。




美緒の手がかりを探すためだ。空き家、蔵、社、道沿いの小さな祠。どれも勝手に入るわけにはいかないが、表から見える範囲でも何か見つからないかと目を凝らした。




その途中で、透真にまた会った。




軽トラの横で段ボールを整理していた男は、俺を見ると眉を上げた。




「まだいた」




「いたら悪いのか」




「悪くはないですけど、勇気あるなとは思う」




「勇気じゃなくて執念だ」




透真は苦笑した。




「それ、ここじゃあんまり褒め言葉にならないですよ」




「おまえ、村の人間のくせに、ちょいちょい外側の喋り方するな」




「一回、下の町で働いてたことがあるんで」




意外だった。




「戻ってきたのか」




「戻された、のほうが近いかも」




軽く言ったが、その目は笑っていない。




俺はそこで話題を変えた。




「斎賀志乃って、どういう立場なんだ」




透真の手が止まる。




「宗一郎さんの親戚だよ」




「それだけじゃないだろ」




「なんでそう思うんです」




「村の空気が変わる。あいつの話になると」




透真は段ボールの角を指で押し潰しながら、しばらく黙っていた。




「相馬さん」




「何だ」




「妹さんを探すだけなら、志乃さんに近づかないほうが早い」




「何で」




「村が一番嫌がるから」




「じゃあ近づく」




俺が即答すると、透真は本気で嫌そうな顔をした。




「そういうところですよ」




「褒めてないな」




「全然」




少しだけ間が空く。




透真は周囲を見てから、声を潜めた。




「社の裏に、閉じた蔵がある。昔の祭具とか、帳面とか、そういうのが入ってるって話です。鍵は宗一郎さんが持ってる」




「おまえ、言っていいのか」




「よくはないです」




「何で教える」




透真は段ボールを積みながら、低い声で言った。




「外の人が来ると、少しだけ空気が動くから」




それは協力なのか、利用なのか、まだ判断がつかなかった。




夕方、俺はまた社のほうへ行った。




志乃の警告を守るつもりはなかったが、日が暮れる前には戻るという条件だけは、何となく守ったほうがいい気がした。




社の裏手へ回ると、昨日よりはっきり道が見えた。少し登った場所に、確かに小さな蔵がある。板戸は古び、錠前には新しい錆が浮いていた。人の出入りは少なそうだが、完全に放置されてもいない。




周囲を見回したとき、背後で草を踏む音がした。




志乃だ。




「ほんとに来た」




「来ない理由がない」




「あるよ」




「昨日から何回も聞いてる」




志乃は蔵を見て、露骨に嫌そうな顔をした。




「ここ、嫌い」




「何がある」




「昔のもの」




「曖昧だな」




「昔のものって、だいたい曖昧でしょ」




その言い方に少しだけ笑いそうになった。




「笑ってる場合じゃないよ」




志乃はそれを見逃さなかったらしい。




「ここには、見たくないものが残るから」




「おまえも見たくないものがあるのか」




「いっぱいある」




その返事は思ったよりまっすぐだった。




俺は蔵の扉に手をかけた。鍵はかかっている。




「開けたい?」




志乃が問う。




「できれば」




「開いたら、たぶん引き返せなくなる」




「今さらだな」




志乃は目を細めた。




「そういうところ、ほんとによくない」




言いながらも、彼女はスカートのポケットから小さな鍵を取り出した。




俺は黙る。




「持ってるのかよ」




「掃除を頼まれることがあるから」




「村で一番大事そうな蔵の鍵を、こんな若い娘に?」




「若い娘だから、かも」




意味深だが、今はそこを掘る場面じゃない。




志乃は鍵を握ったまま、俺を見た。




「開けたら、少しだけ」




「何が」




「私のこと、嫌いになってくれる?」




その言葉に、すぐ返事が出なかった。




嫌いになる材料が何か入っているのか。それとも、自分自身が関わっているからか。




俺が黙っていると、志乃は自嘲するように笑った。




「やっぱり変な顔する」




そして、鍵を差し込む。




錠前が重く鳴り、蔵の戸が少しだけ開いた。




中は暗く、ひどく黴くさかった。古い木箱、祭具、紙束。天井近くに細い光が差し込んで、埃だけがゆっくり浮いている。




懐中電灯を向けると、奥の棚に古い帳面が並んでいた。年号入りの札がついている。




明治。大正。昭和。




「村の記録?」




「たぶん」




志乃の声は固い。




俺は一番新しい帳面を引き抜いた。平成十五年。中を開くと、祭礼の支出だの寄付だの、いかにも村の帳簿らしい記述が並ぶ。数ページ飛ばすと、筆圧の強い文字が急に現れた。




《山嫁之儀 執行》




俺の呼吸が止まる。




その下に、人名があった。




斎賀紬。二十。




日付は今から十七年前。




「これ……」




「母の名前」




志乃が言った。




俺は振り返った。




彼女の顔は、思っていたよりずっと静かだった。恐れているというより、何度も同じ傷をなぞられた人間の静けさだ。




「母さんも、返された」




返された。




その言葉が、帳面の文字よりも重く落ちてくる。




ページをめくる。さらに前。さらに前。斎賀の姓が何度も現れる。紬。澄江。千代。みな若い年齢で、山嫁之儀の欄に記されている。




「家系なのか」




「たぶん」




志乃は蔵の入口に立ったまま、奥へ入ってこない。




「うちの女は、ずっとそうだったみたい」




「おまえも?」




志乃は否定しなかった。




その沈黙が何より明確だった。




「馬鹿げてる」




思わず口に出る。




「令和だぞ」




志乃は少しだけ笑った。




「村の時間って、そういうので進まないから」




俺は帳面を閉じた。怒りが先に立つ。因習だの伝承だの、そういうものに若い女の人生が食われているなら、ぶち壊してやるしかない。単純な話だ。




だが志乃は、俺の怒りに救われた顔をしなかった。




むしろ、ひどく疲れたように俺を見ている。




「だから帰ってって言ったのに」




「おまえを置いて帰れるわけないだろ」




その言葉は反射だった。




言ってから、自分でも少し驚く。




まだ何も知らない。妹も見つけていない。目の前の女を助ける義理が、どこまであるのかも曖昧だ。




それでも口が勝手にそう動いた。




志乃の目が、かすかに揺れる。




「優しくしないで」




「優しくしてるつもりはない」




「じゃあ、残酷」




その返しがあまりに静かで、俺は一瞬言葉を失った。




蔵の奥で、ことり、と小さな音がした。




二人とも振り向く。




木箱の陰から、白い紙が一枚、風もないのに滑り落ちてきた。




懐中電灯の光を向ける。古い半紙だった。墨が滲んでいる。




拾い上げると、そこには女の名前が並んでいた。




斎賀紬。斎賀澄江。斎賀千代。斎賀志乃。




志乃の名だけ、まだ薄く、書きかけだった。




背筋が冷える。




「……何だこれ」




志乃は一歩後ずさった。




「見せて」




俺が紙を差し出すと、彼女は受け取ろうとして、途中で手を止めた。




その指先が震えている。




「もう、だめ」




「何が」




「早くなる」




「何がだ」




志乃は答えず、蔵の外を見た。




その横顔の血の気が引いていく。




「閉めて」




「まだ――」




「閉めて!」




あまりにも強い声だったので、反射的に帳面を抱えたまま外へ出る。志乃が戸を閉め、鍵をかける。その一連の動きがひどく急いでいて、何かを中へ封じているようにしか見えない。




「何なんだよ」




志乃は答えず、山道の下のほうを睨んだ。




つられて見る。




道の先、木立のあいだに、白いものが二つ三つ揺れていた。




昼なのに。




人の袖みたいだった。




次の瞬間には見えなくなる。だが確かにいた。昨夜の列と同じ白さだ。




「帰って」




志乃は掠れた声で言った。




「今すぐ社の前まで戻って。振り返らないで」




「おまえは」




「あとで行く」




「一人で残す気はない」




「お願いだから」




志乃は俺の袖を掴んだ。




今度の冷たさは、はっきりと怖かった。人の体温じゃない。




「私を助けるとか、そういうのじゃなくて」




彼女は俺を見た。




「あなたがまだ、ちゃんと人のほうにいるうちに」




意味がわからない。わからないが、昨夜からの薄気味悪さが全部つながっていく感じがあった。




山に見つかる。 返される。 白いのを見るな。




俺は舌打ちしたい衝動をこらえ、志乃の手首を取った。




「一緒に戻る」




「……頑固」




「褒め言葉だと思うことにする」




志乃は困ったように目を細め、それでも振りほどかなかった。




二人で山道を下る。




途中、何度か白い気配が木立の隙間を横切った気がした。だが懐中電灯を向けるわけにもいかず、ただ足を速めるしかない。




社の前まで戻ったところで、ようやく志乃は少しだけ力を抜いた。




「……今日はもう、山に行かないで」




「おまえは」




「家にいる」




「また来る」




志乃は嫌そうな顔をする。




「だから、来ないでって」




「妹が見つかるまで」




「見つかったら?」




その質問は、なぜかすぐに答えられなかった。




美緒を見つける。その先のことは、久々戸村へ来る前には考えていなかったからだ。




俺が黙ると、志乃は少しだけ寂しそうに笑った。




「そういう顔する」




「何だそれ」




「自分でもわかってない顔」




そう言って、彼女は社の裏道へ戻っていった。




俺はその背中を見送りながら、手のひらに残った冷たさをしばらく振り払えなかった。




夜、空き家の戸を閉めたあとも、蔵で見た紙のことが頭から離れなかった。




斎賀志乃。




その名前が、過去の花嫁たちと同じ欄に並んでいた。




まだ書きかけだった。つまり、儀式は終わっていない。これから起きるのだ。




怒りと同じくらい、別の感情がじわじわ広がっていた。




放っておけない。




美緒を探す。それが第一だったはずなのに、昼の光の下で桶を抱えていた志乃の姿が、頭の片隅に居座っている。嫌いになってくれる、なんて言葉をさらっと口にする女を、どうしたら放って帰れる。




自分の中で何かが動き出しているのを感じた。




そしてそれは、たぶんあまり良い動き方ではなかった。




その夜は鈴の音がしなかった。




その代わり、夢を見た。




白無垢の女が列をなし、山道を登っていく夢だ。

誰も顔を上げない。

足元だけが見える。白足袋。濡れた裾。泥に沈む草履。


列のいちばん後ろを歩く女だけが、ふいにこちらを振り返る。




志乃だった。




彼女は何も言わない。




ただ、口の形だけでこう言った。




《まだ見つけないで》




目が覚めたとき、障子の隙間から白い朝の光が差していた。




朝が来るたび、ここでは一つずつ何かが手遅れになっていく気がした。





第4話 消えた妹のノート


朝から雨だった。




山の村の雨は、街の雨より音が多い。屋根を打つ音、樋を流れる音、遠くの沢が急に太る音、濡れた木々がこすれる音。空き家に座っていると、家そのものが大きな太鼓になったみたいに響く。




こんな日に動くべきじゃない、と普通なら思う。




だが久々戸村に来てから、普通なら、という基準はあまり役に立たなかった。




むしろ雨の日ほど、誰かの痕跡は残る。




俺は合羽を羽織り、社の近くから村の外れまで、昨日より広く歩いた。軒先に置かれた長靴の泥のつき方、倉庫の開閉跡、軽トラのタイヤ痕。美緒の行動パターンを思い出しながら、あいつが興味を持ちそうな場所を当たる。




美緒は、誰かに隠されているなら助けを求める痕跡を残す。そういう性格だ。




そして昼前、蔵の裏手の土塀の隙間に、それを見つけた。




赤い糸だった。




美緒がよくノートに挟んでいた、細い刺繍糸の切れ端。たまたま同じ色だと言われればそれまでだ。だが俺には見間違えようがない。高校のとき、あいつはしおり代わりに赤い糸を本へ挟む癖があった。なくした、なくしたと騒いで、俺の部屋からも何度か出てきた。




土にまみれた糸を拾い上げた瞬間、背後で戸が鳴った。




振り返る。蔵の向こう、小さな土間口が半ば開いている。




昨日は気づかなかった。




屋根の低い離れのような建物で、普段は使われていないらしく、戸の隙間には雨水が流れ込んでいた。




中へ入る。




薄暗い土間の匂い。古い藁。木箱。壁際に、女物の草履が何足か並んでいる。そのさらに奥に、小さな部屋があった。




畳の上に、ノートが落ちていた。




俺はほとんど走るように近づいた。




表紙を見た瞬間、喉の奥がひくりと鳴る。美緒の字で、名前が書いてある。




ページをめくる。中身は途中まで読んでいたノートの続きだった。




《斎賀の家のこと、たぶん当たり》 《山嫁は生贄じゃなくて、もっと近い》 《返すんじゃなくて、最初からあっちのものに戻す感じ》 《志乃さんは知ってる》 《でも、知ってるっていうより、もう巻き込まれてる》




そこまではまだ落ち着いた筆跡だった。




次のページから乱れている。




《見られた》 《白い足》 《社の裏はだめ》 《兄さんなら止めるだろうけど、たぶん私が行かないと》 《志乃さんを置いていけない》




ページの端が濡れて、インクが滲んでいた。




最後のページだけ、ほとんど殴り書きだった。




《もし兄さんが来たら、帰ってって言って》 《山が近い》 《私まで返されたら困る》




そこで終わっている。




胸の奥が冷えた。




志乃を置いていけない。




その一文が引っかかった。美緒は志乃と接触していた。しかもただ知っている程度ではない。置いていけない、と書くくらいには、相手の事情へ踏み込んでいる。




「何してるんですか」




入口で声がした。




透真だった。




俺はノートを握ったまま振り返る。




「これ、美緒のだ」




透真は無言で近づき、ノートの表紙を見て眉をひそめた。




「見つけたの、ここで?」




「そうだ。妹はこの場所にいた」




「……まずいな」




「何が」




「ここ、花嫁役の支度場みたいな場所なんです」




さらっと言うな。




「つまり?」




「昔、山嫁の前に女の人を待たせてた部屋だって聞いたことがある。今は使ってないはずだけど」




使っていない部屋に、なぜ美緒のノートが落ちている。




透真は唇を噛み、しばらく考えてから言った。




「宗一郎さんに知られる前に、出ましょう」




「おまえ、宗一郎側じゃないのか」




「側っていう言い方をされると困るけど、少なくとも今は、あなたの妹さんがいたって話が広がるとまずい」




「何で」




「帰れなくなるからですよ」




またその言葉だった。




雨脚が強くなる。土間の外では、灰色の水煙が揺れている。




透真はノートを奪うでもなく、ただ早く出ろという目をしていた。




俺は頷き、ノートをリュックへ入れる。




外へ出たところで、社の方向から人の声が聞こえた。宗一郎だ。誰かと話している。こっちへ近づいてくる。




透真が舌打ちする。




「こっち」




半ば引っ張られるように裏手の細道へ入る。雨でぬかるんだ道を抜け、畑の脇へ出たところでようやく足を止めた。




透真は息を整えながら、低い声で言う。




「相馬さん、もう村の中だけ探しててもだめかもしれない」




「何が言いたい」




「美緒さん、たぶん山に近づいてる」




「近づいてるって」




「見つかってるかもしれない」




見つかる。見つける。返される。




曖昧な言葉ばかりで、輪郭がつかめない。




「ちゃんと説明しろ」




透真は濡れた前髪を払った。




「この村では、花嫁役に近い人間ほど、山に“見つけられやすい”って言われてるんです。志乃さんはもともとそういう立場だった。そこに外から来た美緒さんが首を突っ込んだ。しかも志乃さんに関わった。だから」




「だから何だ」




「もう、普通の行方不明じゃない」




その言い方は、非現実を認めろと言っているのと同じだった。




俺は苛立ちを隠さなかった。




「おまえらは何なんだよ。昔話みたいな言い回しでごまかして、肝心なことは何も言わない」




透真は言い返さない。




ただ、雨の向こうを見たまま、小さく言う。




「俺だって、全部わかってるわけじゃないんです」




その声に、ほんの少しだけ本音が混じっていた。




「でも、志乃さんが今度の花嫁役なのは本当です」




「いつだ」




「満月の夜」




「あと何日だ」




「五日」




短い。




五日で、美緒を見つけて、志乃の事情もどうにかして、村を出る? 無茶だ。だが無茶かどうかで引き返せる場所は、もう過ぎている。




「志乃はどこだ」




「たぶん家か、社」




「会いに行く」




透真は一瞬だけ迷った顔をした。




「……今日の雨、あんまり良くない」




「雨に縁起の良し悪しがあるのか」




「ここだとある」




「知るか」




俺はそのまま歩き出した。




透真は追ってこなかった。




志乃の家へ行くと、門は閉まっていた。




玄関先に立って声をかける。返事はない。もう一度呼ぶ。三度目で、ようやく戸が少しだけ開いた。




志乃がいた。




顔色が悪い。髪も少し濡れている。部屋着の上に羽織を引っ掛けただけの格好で、いつもよりずっと弱って見えた。




「どうした」




「……何が」




「顔色」




「平気」




平気な顔ではなかった。




俺は無理やり戸を広げようとして、志乃に睨まれた。




「入らないで」




「おまえ、熱あるだろ」




「ない」




「嘘つくの下手だな」




一歩踏み込む。志乃は後ずさったが、止めきれなかった。




家の中は薄暗く、薬草のような匂いがした。座敷の一角に布団が敷かれ、そのそばに白い布が何枚か積まれている。妙な光景だった。看病のための布にも見えるし、祭具にも見える。




「何だこれ」




「出てって」




「妹のノートを見つけた」




その一言で、志乃の動きが止まった。




「支度場みたいな部屋にあった」




「……見たんだ」




「おまえのことも書いてあった」




志乃は目を閉じる。




「会ったのか、美緒に」




「会ってない」




「またそれか」




「でも、声は聞いた」




その答えに、俺の怒りは少しだけ沈んだ。




声。




つまり美緒は生きているか、あるいはそう思わせる何かがそこにある。




「どこだ」




志乃は首を振る。




「言えない」




「言えないじゃ済まない」




「言ったら、あなたも行く」




「行くに決まってる」




「だから言えない」




堂々巡りだった。




だが今日は、志乃の様子が違う。いつもの拒絶に棘がない。むしろ、何かに急かされながら俺を遠ざけているように見える。




「その顔、何だよ」




「どの顔」




「今にも倒れそうな顔」




志乃は少しだけ笑った。




「今日は、山が近いから」




またその言い方だ。




「意味の通る日本語で頼む」




志乃は壁に手をつき、小さく息を吐いた。




「……花嫁が近づくと、山のほうも近づくの」




「何だそれ」




「よく見えるようになる。よく聞こえるようになる。体が重くなる。呼ばれる」




最後の一言だけ、声が少し震えた。




「だから、今日は来てほしくなかった」




「来た」




「うん」




「でも、来てよかった」




ついそう言ってしまうと、志乃はわずかに目を見開いた。




「何で」




「おまえが一人で苦しんでる顔を見ないで済んだから」




それはほとんど告白みたいな響きになってしまって、自分で少し後悔した。




志乃はしばらく黙り込み、やがて目を逸らした。




「優しくしないでって言ったのに」




「何回言われてもやめるつもりはない」




「最悪」




「知ってる」




そのやり取りのあと、家の中の空気が少しだけ変わった。張り詰めていたものが、ほんのわずかに緩む。




志乃は布団の端に座り込み、俺は少し離れた場所に腰を下ろした。




しばらく雨の音だけが続く。




「美緒は、生きてると思う」




やがて志乃が言った。




「でも、村の中にいるとは限らない」




「山か」




「村と山のあいだ」




また曖昧だ。だが今日は、その曖昧さを責める気になれなかった。




「おまえは美緒を助けたいのか」




「助けたいよ」




「じゃあ何で黙る」




志乃は自分の手を見る。指先が、やはり少し冷たそうだ。




「一人助ける方法と、二人助ける方法が、違うから」




「どう違う」




「美緒さんだけなら、外へ押し戻せるかもしれない」




「志乃、おまえは」




彼女は笑った。




それは諦めが先に立つ笑いだった。




「私は、もう遅いかもしれない」




腹の底が冷える。




「勝手に決めるな」




「決めてない」




「じゃあそんな顔するな」




志乃は黙った。




言い過ぎたと思ったが、引っ込める気にはなれなかった。




そのとき、家の外で、鈴の音がした。




ちりん。




志乃が顔を上げる。




雨音の中でもはっきりわかる。昨夜聞いたのと同じ湿った音だ。




ちりん。ちりん。




今度は近い。門の外あたりから聞こえる。




俺が立ち上がると、志乃が鋭く言った。




「だめ」




「外に誰かいる」




「見ちゃだめ」




「そんなわけ――」




「お願い!」




あまりに切迫した声だったので、足が止まる。




それでも耳は勝手に外の音を拾ってしまう。鈴。衣擦れ。雨を踏む草履の音。複数の足音が、門の前で揃って止まった気がした。




志乃は唇を噛み、布団の脇に置いてあった白布を一枚掴んだ。




「電気、消して」




「何で」




「早く」




俺は言われるままに照明を落とした。昼の薄明かりだけが障子越しに残る。




鈴の音が、ぴたりと止んだ。




その沈黙が一番気味悪かった。




次の瞬間、障子に人影が映った。




一つではない。女の細い影が、いくつも並んでいる。顔は見えない。首の角度だけが不自然に揃っていた。




背中を汗が伝う。




志乃は白布を両手で握り締めたまま、ほとんど息をしていないみたいに静かだった。




影はしばらく動かず、やがて一つだけ、ゆっくりとこちらへ近づいた。




障子の向こう、紙一枚を隔てた場所に立つ。




その輪郭が、すっと顔を傾ける。




俺は思わず目を凝らした。




見てはだめだとわかっていても、人間は禁じられると見ようとする、どうしようもない生き物だ。




その瞬間、志乃が俺の目を覆った。




冷たい掌だった。




「見ないで」




耳元で囁く声も冷たい。




障子の外で、ちりん、と鈴が一度だけ鳴った。




そして、影が一斉に遠ざかる。




足音。雨。衣擦れ。




やがて全部が薄れていき、最後には雨音だけが残った。




志乃の手が、ゆっくり離れる。




俺はしばらく何も言えなかった。




「今の、何だ」




「花嫁たち」




「……本気で言ってる?」




「うん」




「死んだ花嫁ってことか」




志乃は答えなかった。




答えないのが答えだった。




俺は壁に手をついて息を整える。怖い。馬鹿みたいに怖い。だが、それ以上に頭にくる。




「そんなもんが本当にいるなら、なおさらおまえを置いていけるか」




志乃はその言葉に、ほんの少しだけ苦しそうな顔をした。




「だから、優しくしないで」




「何で」




「行けなくなるから」




その声の小ささが、逆に胸を打った。




行けなくなる。




それはつまり、志乃自身も本当は行きたくないのだ。




俺はようやく、そこへ触れた気がした。




志乃は山へ返る器なんかじゃない。ただの、二十歳の女だ。




普通に生きたいかどうかを、口に出すことすら許されずに育っただけの。




「美緒を助ける」




俺は言った。




「おまえも助ける」




志乃はすぐには返事をしなかった。




やがて、小さく首を振る。




「……二つ目はいらない」




「いる」




「いらない」




「いる」




言い合いになっているのに、なぜか少しだけ可笑しかった。




志乃は困ったように笑う。




「ほんとに頑固」




「昨日も聞いた」




「じゃあ、そうなんだよ」




その笑顔が、初めてちゃんと年相応に見えた。




俺はたぶん、その瞬間に半分負けていたのだと思う。




その日の夕方、空き家へ戻ると、玄関先にまた小さな紙包みが置かれていた。




中身は干した山菜だった。見たことのない細い葉と、湯をかければ戻りそうな茸。メモはない。だが、こんなことをする相手に心当たりは一人しかいない。




俺は紙包みを手にしたまま少し考え、結局、鍋に湯を沸かした。インスタントの出汁しかないが、ないよりはましだ。山菜を戻し、残っていた豆腐を切り、味噌を溶く。




料理と呼べるほどのものではない。だが、湯気が立つと空き家の冷え方が少しだけ弱まった。




戸口の向こうで足音がしたのは、その直後だった。




開けると、志乃が立っていた。昼よりも少しだけ表情が固い。自分で来ておいて、来たことを後悔しているみたいな顔だ。




「何」




「おまえだろ、これ置いたの」




紙包みを見せると、志乃は一瞬だけ視線を逸らした。




「……そう」




「礼は言う」




「いらない」




「じゃあ文句を言う」




志乃が怪訝そうに眉を寄せる。




「うまいかどうかわからない食材を、説明書もなしに置いていくな」




その返しに、志乃は思わず吹き出した。




「食べたことないの」




「街育ちを舐めるな」




「偉そうに言うことじゃないよ」




少しだけ空気がゆるむ。俺は戸を半分開けた。




「入るか」




志乃はすぐには動かなかった。




「……よくない」




「何が」




「こういうの」




たぶん、村の目のことを言っているのだろう。若い女が夜に男の空き家へ入る。よそ者が来ている時点で十分にまずいのに、その相手が斎賀志乃ならなおさらだ。




「なら、戸は開けたままでいい」




俺がそう言うと、志乃は少し考え、それから小さく頷いた。




座敷に入ってきた志乃は、鍋の湯気を見るなり目を丸くした。




「ほんとに使ったんだ」




「使わないともったいないだろ」




「美味しくできるの」




「そこは今から判明する」




食卓代わりの小さな卓袱台に椀を二つ置いた。志乃は座る位置に迷った末、戸口に近い側へ腰を下ろす。逃げ道を確保している感じが少し可笑しい。




「食べる」




「……少し」




志乃が箸を取る仕草は、どこか行儀がよかった。育ちがいいのではなく、音を立てないよう気をつけてきた人間の所作に見える。




一口飲んで、志乃は目を細めた。




「しょっぱい」




「だろうな」




「でも、ちゃんと美味しい」




「フォローが雑だな」




それでも嬉しかった。




しばらく二人で黙って椀をつついた。古い家の座敷に湯気が立ち、窓の外では風が杉を鳴らしている。変な状況なのに、不思議と落ち着いた。




「外、出たことあるのか」




俺が訊くと、志乃は首を横に振った。




「下の町までなら」




「それ、外っていうには近すぎるな」




「恒一は?」




「県外に出たことくらいなら」




「海は」




「ある」




志乃はそこで初めて、はっきり興味を見せた。




「どんな匂い?」




質問が子どもみたいで、少しだけ胸が痛む。




「塩の匂い。あと、夏は日焼け止めの匂いもする」




「変なの」




「人が多いとそうなる」




「波の音は大きい?」




「夜の沢より大きい」




志乃はしばらく何かを想像するように黙っていた。




「見てみたい」




とても小さい声だった。




俺は反射的に言いそうになった。連れていく、と。




だがその約束の重さを、今の俺はまだ正しく引き受けられない気がして、飲み込んだ。




その代わりに、少しだけ遠回りに言う。




「見たほうがいい」




志乃が顔を上げる。




「恒一、そういうこと平気で言う」




「平気じゃない」




「じゃあ、なおさら言わないで」




言葉は拒絶なのに、声は拒絶になりきれていなかった。




椀の中身を食べ終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。開けたままにしていた戸口の向こう、夜の色がじわじわと濃くなる。




志乃が席を立つ。




「帰る」




「送る」




「いらない」




「暗いだろ」




「慣れてる」




「その言い方、だいたい危ない」




そう言いながらも、俺はそれ以上強くは出なかった。戸口まで見送る。




志乃は庭へ降りる前に、ふと振り返った。




「今日、少しだけ」




「何」




「普通だった」




その一言に、返事が遅れた。




普通。




この村で、その言葉はたぶん願いに近い。




「また、しょっぱいの作る」




俺がそう言うと、志乃は夜の中で少しだけ笑った。




「今度はもう少しましなの」




言い残して、細い背中が闇へ溶ける。




その夜、鈴の音は鳴らなかった。




代わりに、空き家の冷えた座敷には、誰かが食べたあとの椀が二つ並んでいた。たったそれだけのことなのに、この村に居座る理由が、これまでよりずっと重く増えてしまった気がした。




妹を探すだけのつもりで村へ来たのに、目の前の女が笑うと、それだけで少し救われた気分になる。




そういうのは、だいたいろくな始まり方じゃない。




外の雨は、夕方まで止まなかった。





第5話 花嫁の家系


雨上がりの朝、村は昨日までより少しだけ濃い匂いをしていた。




濡れた土。杉の皮。苔。古い木の軒に染みこんだ水。山の匂いが一晩で膨らんで、村全体の輪郭を曖昧にしている。




空き家を出ると、庭先に小さな泥の足跡があった。




裸足ではない。白足袋のように見える細い跡だ。二つ、三つ、縁側の手前まで来て、そこから先だけが消えている。




見なかったことにしたい光景だが、そうもいかない。




しゃがんで指を当てる。泥は乾き始めていた。昨夜のうちについたものだろう。




つまり、あの花嫁たちは、志乃の家の前だけでなく俺のいた空き家の前にも来ていた。




「歓迎が丁寧すぎる」




独り言が漏れる。




そして、その丁寧さは今朝のうちにもう一つ増えた。




玄関の脇に、細い白い紙垂が結ばれていたのだ。




神社で見るような紙飾りだが、こんな個人宅の戸口につける意味がわからない。村人の嫌がらせか、宗一郎の警告か、それとももっと別の何かか。




指で触れかけて、やめる。




昨日の志乃の手の冷たさと、《見ちゃだめ》という声が思い出されたからだ。




今日は最初から志乃の家へ行くつもりだった。




だが門の前まで来ると、思ったより足が重い。会いたい、という動機が美緒探しだけではなくなっている自覚が、自分で自分を少し気味悪くさせる。




門は開いていた。




庭に入ると、志乃は縁側で椿の落ちた花を拾っていた。今日は顔色が少し戻っている。白いブラウスに深い緑のカーディガン。髪はひとつに結んでいた。




「来ると思った」




昨日も似たようなことを言われた気がする。




「予知能力でもあるのか」




「ない。でも、頑固だから」




言い返しようがない。




志乃は拾った椿を小さな籠へ入れ、俺を見た。




「門に触った?」




「触ってない」




「よかった」




「よくないものがついてるのか」




「そういう日もある」




曖昧な回答に少し慣れてきている自分が嫌だった。




「話がある」




俺がそう言うと、志乃は籠を抱えたまま静かに頷いた。




家の裏手には小さな畑があった。山菜と葱と、名前のわからない青菜が植わっている。そこなら村道から見えにくい。俺たちは軒下の低い縁石へ腰を下ろした。




「おまえの母親のこと、蔵の帳面で見た」




志乃は少しだけ息を止めた。




「斎賀紬」




「うん」




「何歳で返された」




「二十」




「おまえと同じだな」




志乃は土を見たまま、小さく笑った。




「そういうふうに決まってるから」




俺は舌打ちしたくなるのをこらえた。




「いつからだ」




「わからない。少なくとも曾祖母の代にはもう」




「ずっと斎賀の女が?」




「たぶん。村では、うちの家を“山に近い家”って呼ぶ」




「近いって何だ」




「花嫁が出る家ってこと」




それを、さらっと言う。




怒りより先に、目の前の女の諦めが胸に刺さった。




「おまえ、自分が何を言ってるかわかってるか」




「わかってるよ」




「わかってるなら、そんな顔で言うな」




志乃は少し驚いたように顔を上げた。




「どんな顔」




「仕方ないって顔」




沈黙。




遠くで鶏の鳴き声がした。こんな村にも鶏はいるらしい。妙に現実的な音だった。




「仕方ないって思わないと、やってられないから」




やがて志乃が言う。




「子どもの頃からずっとそう言われてきた。二十まで生きられたら十分だって。山に返るのは役目だって。そうやって育つと、自分の未来を欲しがるほうが、わがままみたいになる」




声は淡々としていたが、その中身は淡々としていいものじゃなかった。




俺は何か言おうとして、適切な言葉が出てこない。




慰める言葉なんて大抵安い。特に、こんなふうに他人の人生を削る理屈が何世代も続いている場所ではなおさらだ。




「俺は、おまえがそれでいいと思えない」




結局、そんな幼稚なことしか言えなかった。




志乃は少しだけ笑った。




「そういうの、優しいと思う?」




「思ってない」




「じゃあ何」




「腹が立ってるだけだ」




「何に」




「村にも、おまえにも」




そこまで言って、自分でも少しだけ驚いた。




志乃はもっと驚いた顔をしていた。




「私にも?」




「勝手に諦めてるから」




「諦めてない」




「じゃあ」




「……諦めたふりをしてるだけ」




その一言が、ひどく重かった。




志乃は籠の中の椿を指でいじる。




「ほんとは、こわいよ」




初めて聞く本音だった。




「山に返るとか、役目とか、そういう言葉でずっと固めてきたけど、ほんとは普通に嫌だ。痛いのも、苦しいのも、消えるのも嫌。……でも、そう言ったら、誰も困る顔しかしない」




俺は唇を噛んだ。




「なら、帰ればいい」




「どこに」




「下の町でも、県外でも、どこでもあるだろ」




志乃は首を横に振る。




「ないよ」




「探せば――」




「帰る場所って、急には生まれない」




その返しは鋭かった。外の人間が、いかにも言いそうなことを綺麗に切り落とされた気分になる。




俺はしばらく黙っていた。




志乃も何も言わない。




やがて、俺は息を吐いた。




「じゃあ、作る」




志乃がこちらを見る。




「何を」




「帰る場所」




自分でも乱暴だと思う。だが、いま引き下がるほうがよほど嫌だった。




「帰りたいなら、俺が連れて行く」




言った瞬間、志乃の目が揺れた。




何か言いかけて、飲み込む。




「無理だよ」




「やってみないとわからない」




「そういうの、映画みたい」




「映像の仕事してるからな」




俺がそう返すと、志乃はとうとう吹き出した。




ほんの一瞬だけだったが、その笑い方は普通の娘そのものだった。花嫁でも器でもなく、ただ二十歳の女が可笑しいことを言われて笑っている顔。




その顔を見たとき、胸の奥で何かが音を立てた。




放っておけないとか、助けたいとか、そういう言葉では足りない何かだ。






第6話 花嫁としてではなく


その日の夕方、志乃は庭の椿を片づけながら、珍しく自分から昔の話をした。




「子どものころ、村の子に言われたことがある」




縁側の板目を見つめたまま、ぽつりと。




「おまえは嫁に行くんじゃなくて、返されるんだって」




俺は何も言わなかった。下手な相槌が、どれも安く聞こえそうだったからだ。




「意味がよくわからなくて、母さんに聞いたの。そしたら、泣きそうな顔で怒られた。聞いちゃだめって」




志乃は乾いた笑いを漏らす。




「聞いちゃだめって言われると、ずっと残るんだよね」




それはよくわかる。人間は禁じられた言葉ほど、胸の奥で勝手に育てる。




「母親は、どんな人だった」




俺が訊くと、志乃は少し驚いた顔をした。誰もその聞き方をしないのかもしれない。みんな“返された花嫁”としては語っても、“どんな人”としては訊かないのだろう。




「……よく笑う人だった」




考えるように、ゆっくり言葉を選ぶ。




「庭で洗濯物を干しながら、よく歌ってた。そんなに上手くなかったけど」




「何の歌」




「古いドラマの主題歌とか。私が知らないのばっかり」




志乃は少しだけ目を細めた。




「でも、歌ってるときだけ、村の人じゃないみたいだった」




その一言がひどく痛かった。




村の人じゃないみたい。




つまりそれ以外のときは、いつも村に縛られて見えていたのだ。




「母さん、返される前の日に、私の髪を梳いてくれた」




志乃は部屋へ戻り、小さな木箱を持ってきた。中から出したのは古い木の櫛だった。使い込まれて艶が出ている。




「これだけ、残ってる」




俺はそれを受け取らず、手元で見せてもらうだけにした。そんな気がしたのだ。勝手に触れるには少し個人的すぎるものに見えたから。




「みんな、返された女の人のことを、花嫁って呼ぶでしょ」




志乃が言う。




「でも、母さんは歌ってたし、洗濯物の乾きが悪いと怒ってたし、私の前髪を切りすぎて笑ってた。そういう人だったのに、村の中じゃ全部なくなって、花嫁だけになる」




木櫛を箱へ戻す指先が少し震えていた。




「私もそうなるのかなって思うと、嫌だった」




その“嫌だった”は、ここまで聞いたどの言葉よりも素直だった。




俺は息を吐く。




「なら、そうさせない」




志乃がこちらを見る。




「おまえのこと、花嫁じゃなくて、おまえとして覚える」




「何それ」




「たとえば、しょっぱい味噌汁に文句言うやつとか」




志乃は一瞬、呆れたような顔をしてから、小さく笑った。




「それ、全然きれいじゃない」




「きれいじゃなくていいだろ」




「……うん」




彼女は頷いた。




「きれいじゃないほうが、忘れられなさそう」




その答えがあまりに静かで、あまりに切実だったので、胸の奥がじわりと熱くなった。




この女は、自分が誰かの記憶から“花嫁”としてしか残らないことを、ずっと恐れてきたのだ。




なら俺が覚える。




そう思った瞬間、それはもう助けるとか保護するとか、そういう範囲を越えていた。




まずいな、と思う。




思ったが、もう少し遅かった。




「志乃」




名前を呼ぶと、彼女はまだ笑いの残る顔でこちらを見た。




「何」




「美緒を見つけたら、次はおまえだ」




志乃の笑みが少しだけ薄れた。




「私、いらないって言った」




「聞いてない」




「ほんとに頑固」




「それも聞き飽きた」




そう言い合う時間が、ひどく穏やかで怖かった。




穏やかであるほど、この先壊れるときの音が大きくなる。




その日の夕方、美緒の姿を見た。




見た、と思った。




村の外れ、古い石段の下。薄い灰色のパーカー、肩までの髪、歩き方。間違えようがない。美緒だった。




「美緒!」




呼びながら走る。




だが距離が縮まらない。石段を駆け下りたはずなのに、気づくと同じ場所へ戻っている。前には確かに美緒がいるのに、霧みたいに輪郭が曖昧だ。




「兄さん」




振り向いた顔は、泣きそうだった。




「帰って」




「おまえ、どこにいる!」




「もう、あんまり時間ない」




「どこだよ!」




美緒は首を振る。




「志乃さんを、ひとりにしないで」




その瞬間、景色がぶれた。




石段の上に立っていたのは、宗一郎だった。




「どうされました」




いつの間にか夕暮れが落ちかけている。石段の下に美緒の姿はない。




俺は呼吸を乱したまま、宗一郎を睨んだ。




「今、ここに妹がいた」




「そうですか」




信じていない顔ではない。むしろ、知っていて何も言わない顔だ。




「何を知ってる」




宗一郎は石段をゆっくり下りてきた。




「若い人は、呼ばれやすい」




「またそれか」




「ここまで来ると、現実的な言い回しばかりでも不親切でしょう」




この男は、心底腹が立つくらい落ち着いていた。




「美緒はどこだ」




「相馬さん」




宗一郎は俺の問いに答えず、静かな声で言った。




「村には、長く留まらないほうがいい。特に、志乃に近づくのは」




「それを決めるのは俺だ」




「決められるうちは、そう思えるでしょう」




その物言いは、まるで俺の選択肢が時間切れになることを知っているようだった。




「おまえら、志乃をどうするつもりだ」




宗一郎は少しだけ目を細めた。




「どうするも何も、あの子はあの子の役目を果たすだけです」




「役目?」




「村が村であるために必要なことです」




言葉の端に、欠片も罪悪感がない。




「狂ってる」




「村の外から見れば、そうでしょう」




「外とか中とかの問題じゃない」




宗一郎は首を横に振る。




「そういうことを言う人は、決まって共同体を持たない」




その一言に、なぜか少しだけ言葉を失った。こっちの事情を見透かされた感じがしたからだ。




両親が早くにいなくなってから、美緒と俺は、世間一般でいう共同体の外側にいる時間のほうが長かった。




だからといって、こいつの言い分が正しくなるわけじゃない。




「志乃は人間だ」




俺がそう言うと、宗一郎はしばらく黙った。




やがて、ひどく穏やかな声で返す。




「ええ。だからこそ、返せるのです」




その言葉が、本気で気持ち悪かった。




宗一郎は会釈して去っていく。




俺はしばらく石段の下に立ち尽くした。




美緒の幻の言葉だけが残る。




《志乃さんを、ひとりにしないで》




その夜、久々戸村は妙に明るかった。




月が大きい。満月まであと少しだと、目で見てわかるくらいに。




そして俺は、その白さを前より嫌だとは思わなくなっている自分に気づいて、少しだけ寒気がした。







第7話 終電に乗りたかった


満月まで四日。




日数が具体的になると、恐怖も少しだけ現実的な形を取り始める。




村へ来てからの数日は、ずっと霧の中でもがいている感覚だった。だが今は違う。少なくとも、何かが起きる期限だけは見えている。




問題は、その期限までに美緒を見つけ、志乃の“花嫁”を止められるのかどうかだった。




朝から、志乃と話し合った。




話し合いというより、俺が一方的に押して、志乃が渋々ついてくる形に近い。




「村の外へ出る道は何本ある」




「車道は一つ。昔の山道が二つ」




「山道は使えるか」




「昼なら、たぶん」




「たぶんばっかりだな」




「山相手に断言できる人、たぶんいない」




「またたぶん」




そう言うと、志乃は少しだけ笑った。




笑えるうちに、少しでも普通のことを決めておきたかった。




空き家の座敷にノートと地図を広げる。美緒の失踪ルート、村の配置、社、蔵、志乃の家、嫁入り峠。線を引くたび、頭の中の混乱が少しだけ整っていく。




「美緒が最後にいた可能性が高いのは、支度場か、社の裏か、峠の手前」




「峠の向こうは」




「行かないで」




「何で」




「向こうは、戻りにくい」




戻りにくい。




この村では何でも距離や地形の話みたいに言う。だが実際は、もっと別の意味を含んでいるのだろう。




「おまえ、美緒がどこに近いか本当はわかってるんじゃないか」




志乃は視線を逸らした。




「……山に近い」




「だからどこだ」




「社の裏のさらに奥」




「昨日、そこへ行かなかったのは」




「連れていきたくなかったから」




ようやく、少しだけはっきりした答えが出た。




「今日行く」




志乃は嫌そうな顔をした。




「だから、行きたくないって顔するな」




「してる?」




「顔に書いてある」




それは昨日の仕返しだったのだが、志乃は本気で少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。




「ほんとに、覚えるんだね」




「言われたことは、だいたい覚える」




「嫌なところだけ?」




「おまえのはわりと全部」




口をついて出たその言葉で、座敷の空気が少し変わる。




自分でも、あ、と思った。




志乃は固まっていた。




「……そういうの、ずるい」




「何が」




「わかってないなら、なおさら」




わかっていない、か。




いや、たぶんもう半分くらいはわかっている。自分が志乃を妹探しのための案内役としてではなく、一人の女として意識し始めていることくらい。




だが、それを言葉にした途端、いろんなものが一気に壊れそうだった。




「今は美緒が先だ」




誤魔化すようにそう言うと、志乃は少しだけ寂しそうに笑った。




「うん」




その顔を見たとき、胸の奥で鈍い罪悪感が動いた。




社の裏道を、今日はさらに奥まで進んだ。




志乃が前を歩き、俺が少し後ろにつく。山は昨日までより静かだった。鳥の声が少なく、風もあまり吹かない。静けさは安全の印ではなく、むしろ何かが息を潜めている時のそれに近い。




途中、古い鳥居が倒れかけたまま道の脇へ埋もれていた。注連縄は腐り、木肌には白い紙片が何枚も貼りついている。




「ここから先、あんまり喋らないで」




志乃が言う。




「何で」




「声で気づかれる」




「誰に」




「山に」




もうその問いを重ねるのは半分諦めていた。




道はやがて細くなり、人ひとり分ほどの幅しかなくなる。足元は湿って滑りやすい。しばらく進んだところで、志乃が立ち止まった。




そこには小さな社があった。




村の中央の社とは別だ。山の中に隠すように建てられた祠で、屋根は低く、正面の格子戸は半ば壊れている。中に御神体らしいものは見えない。代わりに、白い布と古い簪がいくつも供えられていた。




「何だここ」




「山嫁の見送り場」




喉がきしむ。




簪の一つが、ひどく新しく見えた。




「これ、誰のだ」




志乃は答えなかった。




その代わり、祠の脇の地面を指さす。




泥の上に、小さな靴跡があった。




スニーカーの底。女物のサイズ。昨日か一昨日についたような浅い跡。




美緒だ。




俺は反射的に前へ出ようとして、志乃に腕を掴まれた。




「待って」




「何だ」




「その先、呼ばれてる」




「美緒がか」




「違う。あなたが」




意味がわからない。だが、その直後、確かに名前を呼ばれた気がした。




恒一。




低く、近い声。




美緒ではない。志乃でもない。誰の声ともつかないのに、俺の名だとはっきりわかる呼ばれ方だった。




背中にぞくりと冷たいものが走る。




「戻る」




志乃が言う。




「今日はここまで」




「ふざけるな、痕跡がある」




「だからだよ」




珍しく声が強い。




「ここで焦ると、ほんとに見つかる」




俺は苛立ちを押し隠せなかった。




「美緒がこの先にいるかもしれないのに?」




「いるかもしれない。でも、あなたが今ここで踏み込んだら、二人とも持っていかれる」




「そんなもの、信じろって?」




志乃は俺をまっすぐ見た。




「信じなくていい。でも、私を信じて」




その一言は、ずるかった。




理屈じゃなく、相手そのものを信じろと言われると、引けなくなる。




俺は舌打ちし、祠を睨んだまま一歩下がった。




「明日また来る」




「……うん」




「おまえも来る」




「うん」




志乃の返事は小さかったが、嫌だとは言わなかった。




それだけで、ほんの少し救われた気分になる自分がすでに危ない。




戻り道の途中、雨が降り出した。




最初は細かい霧雨だったのに、あっという間に本降りになる。山の雨は切り替わりが速い。俺たちは倒木のそばの大きな岩陰へ駆け込んだ。




肩が触れる距離に志乃がいる。




濡れた髪が頬に張りつき、呼吸が少し速い。こんな状況で美しいとか思うなよ、と自分に言い聞かせるが、無理だった。むしろ、濡れたまま平気な顔をしているのが余計にまずい。




志乃は俺の視線に気づいたのか、少しだけ顔を逸らした。




「……何」




「いや」




「何もない顔じゃない」




「言ったら怒るだろ」




「たぶん」




それでも聞き返してくるあたり、志乃も少しだけおかしくなっている気がした。




「おまえ、普通に笑うと年相応だなって」




言ってしまった。




数秒、志乃は固まる。




「ほんとにそういうこと言う」




「だから怒るって言った」




「怒ってない」




「じゃあ」




「困ってる」




それはたぶん、こちらも同じだった。




雨音が岩を叩き、俺たちの沈黙を埋める。




そのとき、志乃の腕に黒っぽい痕が浮いているのに気づいた。




袖口の下、手首から少し上。蔓が巻きつくような、細い痣だ。




「何だそれ」




俺が指すと、志乃は反射的に袖を引いた。




「何でもない」




「嘘」




「平気」




「平気って顔じゃない」




「今日はそればっかり」




弱く笑いながらも、志乃は隠しきれなかった。痣は少しずつ濃くなっているように見える。山に近づくほど、体へ何かが出ているのだとしたら、時間がないのは明らかだ。




「痛むのか」




「たまに」




「たまに、って」




「呼ばれるとき」




俺は息を止める。




呼ばれる。 山嫁。器。返される。 全部が具体的な体の異変へつながった瞬間、怒りと焦りが一気に増した。




「志乃」




呼ぶと、彼女はゆっくりこちらを見る。




「何」




「俺は、おまえを置いて帰らない」




雨音の中でも、その言葉だけは妙にはっきり聞こえた。




志乃の喉が小さく動く。




「そういうこと、簡単に言わないで」




「簡単じゃない」




「じゃあ、なおさらだめ」




「何で」




「行けなくなるから」




またその言葉だった。




俺は志乃の腕を取った。痣を避けて、手首の少し下を掴む。




「じゃあ行くな」




言ってから、自分でも息を呑んだ。




志乃は目を見開いていた。




「……それ、ずるい」




「知ってる」




「ほんとに、最低」




「褒め言葉じゃないのも知ってる」




志乃は俺の手を振り払わなかった。




その代わり、泣きそうな顔で少しだけ笑った。




「こんなときに、そういう顔する人だと思わなかった」




「俺も」




そこで、たぶん限界だった。




志乃が目を伏せた、その瞬間に唇が触れた。




自分からいったのか、志乃が少しだけ顔を上げたのか、その境目はわからない。ただ、濡れた雨の匂いと、冷たい呼吸だけが近くにあった。




短い、ひどく下手なキスだった。




唇が離れたあと、二人ともすぐには動けなかった。




「……最悪」




最初にそう言ったのは志乃だった。




「知ってる」




「こういうの、だめなのに」




「知ってる」




「ほんとにわかってる?」




「半分くらい」




志乃は泣きそうに笑った。




その瞬間、山の奥で鈴が鳴った。




ちりん。




一度だけ。けれど、今まででいちばんはっきりと。




志乃の顔色が変わる。




「早まった」




「何が」




「返す夜が」




背筋が冷える。




「何でそうなる」




志乃は痣の浮いた腕を押さえ、掠れた声で言った。




「花嫁が恋をすると、山は待ってくれない」




その言葉は、あまりに因習じみていて、だからこそひどく現実的だった。




俺たちは互いの顔を見たまま、しばらく動けなかった。




恋をした瞬間に破滅へ近づくなんて、安っぽい悲劇みたいだ。




だが現実は、安っぽいものほどよく刺さる。




雨はまだ止んでいなかった。




そのまま別れるのは危なかった。山道はぬかるみ、あたりは急速に暗くなっていく。結局、志乃を一人で帰すわけにもいかず、俺たちは空き家まで戻った。




玄関へ入るなり、志乃は濡れた袖を押さえて少しだけ息を吐いた。雨で冷えたのか、それとも腕の痣が痛むのか、顔色はまた白い。




「タオル」




俺が押し入れを探ると、志乃は首を振った。




「自分でやる」




「知ってる。でも今の顔で言われても説得力がない」




半ば無理やりタオルを渡す。志乃は文句を言いかけて、やめた。言い返す元気がないのだろう。




居間にやかんをかける。湯が沸くまでの沈黙が妙に長かった。さっきまで唇が触れていた相手と、何事もなかったみたいに同じ部屋へいるのだから当然だ。




「お茶でいいか」




「うん」




湯気の立つ湯呑みを二つ並べる。志乃は濡れた髪を拭きながら、卓袱台の向こうに座った。濡れた前髪の隙間から覗く目が、どこか落ち着かない。




「さっきのこと」




俺が口を開くと、志乃はすぐに遮った。




「言わなくていい」




「でも」




「言葉にしたら、もっと本当になる」




その台詞は、ずるいのか正直なのか、判断しづらかった。




「もう十分本当だろ」




俺がそう返すと、志乃は湯呑みを持つ手を止めた。




「……やめて」




「何を」




「そういう顔で言うの」




自分がどんな顔をしているのかはわからない。たぶん、かなりひどいのだろう。




志乃はしばらく黙り込み、それから小さく言った。




「もし、何もなかったら」




「何もって」




「山嫁とか、この村のこととか、そういうの」




言いながら、視線を湯気へ落とす。




「何がしたかったと思う?」




質問の向きが逆だった。普通なら、したかったことがあるから逃げたいと思うのだろうに、志乃はまず“もし何もなかったら”を仮定してからでないと、自分の望みを口にできない。




「おまえが答えるんじゃないのか」




「答え方、忘れた」




その言い方は冗談じゃなかった。




俺は少し考える。




「海を見に行く」




志乃が目を瞬かせる。




「……それ、さっきの続きじゃん」




「じゃあ映画館」




「見たいのある?」




「ない」




「じゃあ喫茶店」




「似合わない」




「夜のコンビニで肉まん買う」




そこで、志乃は少しだけ笑った。




「それ、いい」




「そうだろ」




「変に高い夢じゃないのがいい」




「高い夢から叶える必要はない」




志乃は湯呑みを両手で包み込み、しばらくその温かさを確かめていた。




「私ね」




ぽつりと言う。




「夜に、終電に乗ってみたかった」




予想よりずっと小さな願いだった。




「立ったまま、眠そうな人たちに混ざって、知らない駅をいくつも通り過ぎるの」




「何で」




「ちゃんと、どこへでも行けそうだから」




その言葉に、返事が詰まった。




志乃は笑う。




「変かな」




「変じゃない」




「じゃあ覚えといて」




「何を」




「私、終電に乗りたかったって」




まっすぐ見られて、心臓が嫌な音を立てた。




覚えておいて。




それは、ほとんど遺言の言い方だった。




「そういうの、今言うなよ」




俺が低く言うと、志乃は少しだけ目を伏せた。




「今しか、言えない気がした」




外で風が鳴る。障子が小さく震えた。




同時に、窓の外を白い影が横切った。




俺が立ち上がるより先に、志乃が息を呑む。




「来てる」




さっきの鈴は止んでいたのに、今度は足音も音もない。ただ、窓の向こうを何か白いものがゆっくり通り過ぎていく。提灯の灯りに照らされた着物の裾みたいに。




「見ないで」




志乃が言う。




「またそれか」




「今夜は特にだめ」




特に、の意味を問い返す間もなかった。




障子の桟に、外から細い指が一本だけかかったからだ。




白く、長い、女の指。人のものより少しだけ節が目立たず、紙で切った影みたいな輪郭をしている。




喉が冷える。




指はしばらくそこに留まり、やがてするすると外れて消えた。




そのあとに残ったのは、湿った冷気だけだ。




志乃は湯呑みを置き、震える手を膝の上で握り合わせた。




「ごめん」




「何で謝る」




「近づけたから」




俺はしばらく黙っていた。




もう綺麗事を言う段階ではない。近づいた。間違いなく。村の因習にも、山の怪異にも、そして志乃自身にも。




それでも、いまさら後ろへは退けなかった。




「志乃」




「何」




「明日、美緒を見つける」




「うん」




「そのあと、おまえも連れていく」




「……無理だよ」




「それでも言う」




志乃は俺を見つめたまま、何も答えなかった。




沈黙のあと、ほんの少しだけ頷いたように見えた。




その夜、志乃は帰らなかった。帰せなかったと言ったほうが近い。白い影が家の周りを何度か巡り、夜半を過ぎるまで消えなかったからだ。




仕方なく、座敷の端と端に布団を敷いた。灯りは消さず、障子から少し離れて横になる。




「眠れる?」




暗くなりきらない天井を見たまま訊くと、志乃は小さく笑った。




「眠れたら、たぶんかなり図太い」




「だな」




しばらく間があき、志乃がまた言う。




「恒一」




「ん」




「終電のこと、忘れないで」




胸の奥がきしんだ。




「忘れない」




「うん」




それきり会話は途切れた。




障子の向こうで白い気配が一度だけ立ち止まり、やがて遠ざかる。古い家の隙間風が足元を撫でた。




眠れないまま、夜が少しずつ朝へ削られていく。




もし明日を越えたら、もう戻れないところまで行く。




たぶん二人とも、そのことだけはわかっていた。






第8話 山の中の妹


満月まで、二日。




時間が急に歪んだみたいだった。




昨日まで五日あったはずなのに、もう二日しかない。祠の前で見た美緒の足跡、志乃の腕の痣、雨の中のキス、その直後に響いた鈴。どれもが現実感を削っていくのに、期限だけはやけにはっきりしている。




俺は朝から透真を呼び出した。




社の裏手、誰も来ない石段の途中。透真は寝不足らしい顔をして現れ、俺の顔を見るなり眉をひそめた。




「その顔、ろくなことしてないですね」




「失礼だな」




「当たってるでしょ」




言い返せなかったのが腹立たしい。




「満月まで二日って、本当か」




「たぶん」




「たぶん禁止」




「この村でそれ禁止したら会話が成立しないですよ」




透真はため息をついた。




「でも、早まってる感じはあります。昨夜、村の年寄りが集まってた。宗一郎さんも、もう準備に入る顔してた」




「準備って」




「花嫁の」




その言葉だけで、胃のあたりが冷たくなる。




「美緒はどこだ」




透真はすぐには答えなかった。




「見た人がいるんです」




「誰が」




「うちの叔母。昨日の朝方、社の裏のさらに奥で、若い女の子を見たって。ぼんやり歩いてて、呼んでも振り返らなかったって」




「美緒だ」




「たぶん」




またそれだが、今は責める余裕がない。




「連れ戻せないのか」




「一人なら無理です」




「じゃあ二人なら」




「志乃さんがいれば、あるいは」




俺は透真を睨んだ。




「でも志乃さんを山に近づけるのは危ない。近づけないと美緒さんに届かない。最悪の二択ですよ」




そう言いながら、透真の顔には本気の苛立ちがあった。村側の人間でありながら、この状況を呑んでいない。そこだけは信用できた。




「外へ出る道は?」




「車道は宗一郎さんが見張ってる。山道の一つは崩れてる。もう一つは……」




「何だ」




「嫁入り峠に繋がってる」




遠回しにもほどがある。




「そこしかないのか」




「美緒さんだけなら、夜が落ちる前に下ろせるかもしれない」




「美緒だけ?」




「志乃さんは難しい」




その答えは予想していたのに、実際に言われると頭に血が上る。




「何で」




「もう、山の側が志乃さんを離したがらない」




人間が口にすると滑稽なくらい迷信めいた文なのに、この村ではそれが現実の説明になってしまう。




「じゃあ奪う」




俺がそう言うと、透真は疲れた顔で笑った。




「相馬さん、たぶん向いてますよ、この村」




「褒めるな」




「褒めてないです」




結局、俺たちはその日の夕方、三人で動くことにした。志乃が案内役、美緒を見つけて、日が沈む前に山道へ入る。最短で村を抜ける。




単純な作戦だ。単純な作戦ほど失敗しやすいという予感だけは、最初からあった。




志乃は計画を聞いて、最初は首を縦に振らなかった。




「だめ」




その一言だけで、頑として動かない。




「何がだめだ」




「全部」




「全部って便利な日本語だな」




「便利だから使ってる」




空き家の座敷で睨み合う。透真は少し離れた場所で、完全に巻き込まれ事故の顔をしていた。




「美緒は山に近づいてるんだろ」




俺が言う。




「今しかない」




志乃は唇を噛んだ。




「美緒さんだけなら、押し戻せるかもしれない」




「その先を言え」




「……私まで行くと、返す側が気づく」




「返す側って誰だ」




「村と、山」




「だからまとめるな」




声が少し強くなる。志乃は肩を震わせた。




そこでようやく、自分も相当追い詰められていると気づく。




透真が間に入った。




「相馬さん」




「悪い」




志乃は首を横に振る。




「ううん」




でもその顔には、別の諦めが浮かんでいた。




「本当はね、美緒さんだけ外へ出せるなら、それでいいって思ってる」




俺は息を止める。




「私はもともと、そうなる役目だから」




「またその話か」




「だってそうでしょ」




「そうじゃない」




「何で言い切れるの」




その問いは鋭かった。俺は、一瞬だけ言葉に詰まる。




根拠なんてない。ただ、役目という言葉で他人の人生を閉じるのが我慢ならないだけだ。




「言い切る」




結局そうしか返せない。




志乃は目を伏せる。




「……ほんとに、ずるい」




「知ってる」




「自分の言葉で、人を動かせるって思ってる顔してる」




そこまで言われると、たしかに反論しづらい。




だが次の瞬間、志乃は自分でその言葉を打ち消すように首を振った。




「でも、それでも動いちゃうのがもっとずるい」




小さくそう言って、俺を見た。




「行く」




それが決定だった。




夕方前、三人で山へ入った。




空は薄曇りで、昨日までの雨がまだ葉先に残っている。道は湿っているが、歩けないほどではない。志乃が先頭、俺が中ほど、透真が最後尾。誰も余計なことは話さなかった。




祠を越え、さらに奥へ入る。




そこから先はもう道と呼べるほど整っていない。踏み跡があるだけだ。木々のあいだから、ところどころ白い布切れが吊られているのが見えた。目印なのか、供物なのか、どちらにせよ気味が悪い。




「止まって」




志乃が小声で言った。




前方の斜面に、小さな影が見えた。




人だ。




しゃがみ込むようにして座っている。灰色のパーカー。肩までの髪。




「美緒」




俺は叫びそうになるのをこらえた。




志乃が手で制する。




「まだ」




美緒はこっちを見ていない。斜面の向こう、何もない空間をじっと見つめている。




透真が低く言う。




「呼んだら走るかも」




「走れる状態に見えるか」




俺の声も低い。




美緒の背中は、ひどく細く見えた。半年前より痩せているようにも思える。だが距離のせいか、それとも別の何かのせいか、輪郭が少しだけぼやけていた。




志乃がゆっくり前へ出る。




「美緒さん」




反応がない。




もう一度、少しだけ近づいて呼ぶ。




「美緒さん」




今度は、肩がぴくりと動いた。




ゆっくり振り返る。




顔は美緒だった。




だが目だけが、焦点の合わない水面みたいに揺れていた。




「……志乃さん」




声は掠れている。




俺はたまらず一歩前へ出た。




「美緒!」




その瞬間、美緒の表情が崩れた。怯えと安堵が一緒になったような顔。




「兄さん」




走ろうとしたのか、立ち上がりかけてよろめく。俺は斜面を駆け上がり、その体を抱えた。軽い。信じたくないくらい軽かった。




「何やってんだよ」




「……ごめん」




「何でこんな」




「違うの、兄さん。私」




美緒は俺の腕の中で震えていた。




「志乃さん、置いていけない」




その言葉が、また心臓を刺した。




「今はいい、戻るぞ」




「戻れない」




「戻る」




言い切ったその瞬間、山の奥で鈴が鳴った。




ちりん。




一つではない。いくつもだ。列をなして近づいてくる音。




志乃の顔色が変わる。




「早い」




透真が舌打ちした。




「見つかった」




「走れるか」




俺が美緒に問うと、彼女は頷いた。だが足元はおぼつかない。




「透真、美緒を先に」




「おい、相馬さん」




「先に下ろせ」




言いながら、自分でもその意味に気づいていた。




美緒だけなら、外へ押し戻せるかもしれない。




では、そのとき志乃は。




志乃が首を振る。




「だめ。私も行く」




「行くに決まってる」




「そうじゃない」




彼女は腕の痣を押さえ、苦しそうに息を吐いた。




「私が先頭だと、道が山のほうへ寄る」




「は?」




「近いから」




またその説明だ。だが今は意味の輪郭が見え始めている。




志乃がいると、村からの脱出路そのものが歪むのかもしれない。




透真が低く言う。




「美緒さんだけなら、俺が下の林道まで連れていける」




「志乃は」




「……難しい」




美緒が俺の腕を掴んだ。




「兄さん」




その目は、昔のままの美緒だった。




「私、走れる」




「知ってる」




「でも兄さん、志乃さん置いていけないって顔してる」




図星だった。




「兄さん、私のことは大丈夫」




「そんなわけあるか」




「あるよ」




美緒は泣きそうに笑う。




「私、兄さんの妹だもん」




この状況でそんなことを言うなよ、と怒鳴りたくなった。




透真が周囲を見回す。鈴の音は確実に近づいている。




「決めてください」




急かす声が珍しく強かった。




選択肢は、ひどいほどはっきりしていた。




美緒を優先するか。 志乃を手放さないか。




どちらも選べば、たぶん破綻する。




だが何もしなければ、もっと酷い。




俺は歯を食いしばった。




「透真」




「はい」




「美緒を連れて先に下りろ」




美緒が何か言いかける。




俺はその肩を掴んだ。




「聞け。おまえは下へ行け。警察でも誰でも呼べ。久々戸村のこと全部話せ」




「兄さんは」




「あとで行く」




嘘だった。たぶん自分でもわかっていた。




美緒もわかっていたと思う。




それでも、彼女は泣くのをこらえながら頷いた。




「……絶対」




「行く」




また嘘を重ねる。




透真が美緒の腕を引く。




「走れますか」




「走る」




二人が斜面を下り始める。鈴の音は、その背中ではなく、こっちへ寄ってきていた。




つまり狙いは最初から一つだ。




志乃がふらつく。




俺はその肩を支えた。




「おまえも行く」




「もう無理かも」




「無理じゃない」




「だって」




志乃は苦しそうに笑った。




「私、あなたとキスしちゃったし」




こんな状況で、そんな台詞を投げるな。




胸が痛いくらい締まる。




「だから余計に置いていけるか」




志乃は俺を見た。




その目に、初めてはっきりと情が浮いた。諦めでも義務でもない、もっと個人的で、もっと危険な感情。




「……ほんとに、最悪」




「今さらだ」




鈴の音がすぐ近くで鳴る。




俺たちは嫁入り峠のほうへ走った。




後ろを見れば、たぶん白い列がいる。




だが振り返る余裕はなかった。






第9話 逃げきれない道


峠へ抜ける山道は、最初の数分だけ普通だった。ぬかるみ、倒れた枝、息の切れる斜面。現実の苦しさの範囲に収まっている。




ところが、五分も走らないうちに透真が低く舌打ちした。




「またここだ」




前方の道脇に、小さな石の地蔵が立っていた。首が欠け、赤い前掛けだけがやけに新しい。俺も見覚えがある。さっき通った。




「そんなはず」




「ありますよ、この村じゃ」




透真の声が荒い。美緒の腕を支えながら、辺りを見回している。




志乃が肩で息をしながら言う。




「道が寄ってる」




「どこに」




「山に」




その説明を今さら笑う気にはなれなかった。実際、道の左右の木々がさっきより近い。見間違いではなく、山肌が少しずつこちらへ畳まれてくるみたいだった。




「別の道へ」




俺が言うと、透真は頷き、斜面を横切る獣道のような細い踏み跡へ入った。枯葉が深く積もり、足首まで沈む。美緒は歯を食いしばってついてくるが、明らかに限界に近い。




「休むか」




「休んだらだめ」




美緒が即答した。




「今は歩ける」




昔からそうだ。強がるときほど、変にまっすぐな目をする。




「兄さん」




息を切らしながら、それでも笑おうとしていた。




「私、馬鹿だった」




「知ってる」




「ひど」




「あとで叱る」




「生きてたらね」




その言い方が気に入らず、俺は美緒の肩を引き寄せた。




「生きてる前提で喋れ」




美緒は少しだけ眉を下げた。




「兄さん、ずっとそうだよね」




「何が」




「前提を決めるの」




反論しかけて、できなかった。たしかに俺はいつもそうしてきた。守る、助ける、連れて帰る。先に結論を決めて、そのための手段を後から探す。




それでうまくいったこともある。だが今夜は、その癖が自分を破滅へ押しているのかもしれない。




しばらく進むと、小さな炭焼き小屋の跡に出た。屋根は半分落ちているが、雨と風をしのぐには十分だ。透真が中を確かめ、手招きする。




「少しだけ」




俺たちはそこで息を整えた。




外では鈴が鳴り続けている。遠いようでいて、消えない。一定の間隔で近づき、また離れ、まるでこっちの焦りを測って遊んでいるようだった。




美緒は壁にもたれて座り込む。志乃は入口の近くに膝をつき、胸元を押さえている。腕の痣は肩を越え、首筋の下まで黒く細い蔓のように伸びていた。




「見せろ」




俺が言うと、志乃は小さく首を振った。




「見せたら、もっと焦る」




「もう十分焦ってる」




「そうだよね」




弱く笑ったその顔に、血の気がない。




透真が低い声で言う。




「このまま四人で動くのはきついです」




「わかってる」




「川沿いの細道なら、下まで抜けられるかもしれない。けど一度に大勢は無理だ」




つまりまたそこへ戻る。




美緒だけなら出せる。 志乃は難しい。




美緒が膝を抱えたまま、俺と志乃を交互に見た。




「私ね」




突然言う。




「最初は、記事のネタみたいなつもりだった」




俺は黙って聞いた。




「山嫁の話を見つけて、変な村があるって思って、ちょっと調べようって。兄さんに言ったら止めるのわかってたから、黙って来た」




「だろうな」




「でも、志乃さんに会ったら、笑えなくなった」




美緒は志乃を見る。




「普通に優しいし、普通に疲れた顔してるし、普通にしょっぱいって言うし」




そこで志乃が少しだけ顔をしかめた。




「それ、何の情報」




「大事な情報」




美緒は泣きそうに笑った。




「だから私、兄さんが来たら、絶対同じ顔するって思った」




その言葉はひどく正確で、言い返せなかった。




透真が外を窺いながら、小さく言う。




「決めてください」




沈黙が落ちる。




外では白い裾が木々のあいだをかすめる気配がした。姿を見なくてもわかる。囲まれつつある。




「兄さん」




美緒が俺の袖を掴む。




「私は透真さんと行く」




「……」




「ちゃんと行く。逃げる。泣いても喚いても、走る」




「おまえ」




「でも兄さんは」




そこで美緒は一度だけ大きく息を吸った。




「志乃さんを置いていけないでしょ」




図星を突かれた胸の痛みは、もう怒りには変わらなかった。




ただ、情けないほど静かに沈むだけだ。




「……おまえを優先しない兄で悪いな」




そう言うと、美緒は首を横に振った。




「違う」




泣きそうな顔のまま、はっきりと。




「兄さん、私のことはずっと優先してきたよ。だから今、そうじゃない顔をしてるの、わかる」




その言葉は優しくて、残酷だった。




美緒はたぶん、俺が初めて“兄としての正解”から外れようとしていることを見抜いていた。




志乃が掠れた声で言う。




「だめ。そんなふうに言わせないで」




「でも本当です」




美緒は静かに続けた。




「私がここで兄さんを連れて帰っても、兄さん一生後悔する。あとで絶対、私のせいじゃないって顔して、でもずっと自分で腐る」




「美緒」




「そういうの嫌だもん」




妹らしい、あまりにも身勝手で、あまりにもまっすぐな愛情だった。




俺はしばらく何も言えなかった。




外の鈴が一段近づく。時間切れだ。




透真が立ち上がる。




「川沿いに降ります。下まで出られたら、朝までに警察でも何でも呼ぶ」




「信用していいのか」




思わずそう言うと、透真は苦く笑った。




「よくないですけど、いまは他にいないでしょ」




たしかにそうだった。




俺は美緒の前にしゃがみ込む。




「聞け」




「うん」




「絶対に止まるな。透真と離れるな。下へ出たら、俺たちのこと全部話せ」




「うん」




「信じてもらえなくても話せ」




「うん」




「あと」




そこだけ、少し詰まった。




「生きろ」




美緒は目を潤ませながら笑った。




「それ、志乃さんにも言ってあげて」




透真が美緒の肩を抱く。二人が小屋の裏から川沿いへ降りていくのを、俺は最後まで見送れなかった。見送ったら、本当に選んだと認めることになる気がしたからだ。




志乃が壁へ寄りかかる。




「……最低だね」




「何が」




「こんなときに、少しうれしい」




その本音が痛いほどきれいで、俺は目を閉じた。




「俺もだよ」




言ってから、笑うしかなかった。ひどい状況だ。兄としては失格に近い。なのに、胸のどこかが静かに定まってしまっている。




もう戻れない。




たぶんこの時点で、心のほうは先に決めていた。




外の鈴が止む。代わりに、白い気配が小屋の前に並ぶのがわかった。




「行くぞ」




俺は志乃を抱き上げた。




「歩ける」




「知ってる。でも今は運ぶ」




「頑固」




「それも知ってる」




白い影のあいだを抜け、村へ戻る。

峠を越えられないなら、いったん戻るしかない。宗一郎も村も、明日で終わらせる。


そう決めるしかなかった。




夜はまだ落ちきっていないのに、久々戸村へ戻ったときには、どの家の戸口にも白い紙垂が下がっていた。




まるで村じゅうが、もう明日の準備を始めているみたいだった。






第10話 返される夜


満月の夜は、信じたくないほどきれいだった。




山の輪郭が刃物みたいに冴え、谷あいの村を白く洗っている。空気は冷たいのに澄んでいて、息を吸うたび肺の奥が痛む。こんな夜に人は神様を作るのだろうと思った。




怖いから。きれいすぎるから。自分の手で説明できないものに、名前をつけたくなるから。




だが久々戸村が作ったのは、神ではなく怪異だった。




そのことを、今夜ようやく確信した。




逃走が失敗してから、村の空気は完全に変わった。




誰も止めに来ない。代わりに、誰もが見ていた。




朝、井戸端にいた女たちは俺を見て口を閉ざし、畑の老人たちは鍬を止めたまま視線だけを寄越した。子どもの気配は相変わらずない。飼い犬だけが、家の陰から低く唸る。久々戸村という共同体がひとつの目玉になって、よそ者をじっと観察しているみたいだった。




それでも一つだけ、妙に静かな場所があった。




志乃の家だ。




白い紙垂が門や軒先に増え、庭の椿は掃き清められている。まるで祝いの支度みたいなのに、明るさが一切ない。めでたさを抜き取られた婚礼の形だけが残っている。




午前のうちに、村の女たちが何人もやって来た。年齢はまちまちだが、全員が薄い色の着物に前掛けをしている。誰も声を荒げない。誰も志乃へ優しくしない。ただ当然の作業のように、白無垢の箱や布や櫛や簪を家の中へ運び込む。




俺は縁側からそれを見ていた。追い返そうと思えばできたかもしれない。だがそうしなかったのは、いや、できなかったのは、志乃自身が何も言わなかったからだ。




拒みもしない。 受け入れているわけでもない。




ただ、座敷の奥でまっすぐ座っていた。




そこへ宗一郎が来た。




あの男は昨夜よりさらに静かな顔をしていた。白い装束ではなく、濃い色の羽織袴に着替えている。祭礼の主催者というより、喪主に近い雰囲気だった。




「お話しを」




俺に向けた言葉なのか、志乃に向けた言葉なのか曖昧なまま座敷へ上がる。




俺は立ったまま睨んだ。




「話すことはない」




「あるでしょう」




宗一郎は少しも怯まない。




「今夜で終わります。だからこそ、最後に言葉を整えておくべきです」




「終わらせない」




「終わります」




即答だった。




「あなたが何を望もうと、あの子が何を恐れようと、もうその段階は過ぎた。山は待たない」




この男の言う“山”は便利すぎる。村の暴力も、怪異も、先祖の罪も、全部その一語へ押し込めてしまえるからだ。




「待たないようにしたのはおまえらだろ」




俺が言うと、宗一郎は初めて少しだけ目を細めた。




「そうかもしれません」




意外な返答だった。




だがそのあとに続いた言葉で、結局何も救われないとわかる。




「最初は、たぶん人間が始めたことです。飢饉があって、崩落があって、疫病があって、村は理由を欲しがった。ひとりを返した翌年に災いが止んだなら、誰だってそこへ意味を見ます」




「だから続けた」




「続けた」




「馬鹿げてる」




「ええ」




宗一郎は淡々と頷いた。




「馬鹿げていますよ。だが、馬鹿げたことを百年繰り返せば、いつしか本当になる」




その理屈はあまりに気味が悪く、同時に気味が悪いほど筋が通っていた。




因習は最初から神の命令だったわけじゃない。




人間が始めた。怖さを押しつけるために。説明のつかない災いを、誰か一人の体へ引き受けさせるために。




そして長く続けるうちに、本当に何かが育ってしまった。




そういうことか。




「志乃はそのための器じゃない」




「あなたにはそうでしょう」




「おまえには違うのか」




宗一郎は志乃を見た。その視線に、ほんの少しだけ本物の痛みが混ざった気がした。




「私にとっても、あの子は斎賀志乃です」




「じゃあ何で」




「それでも村を先にするからです」




その一言で、もう話すことはなくなった。




宗一郎は自分が何を犠牲にしているのか知っている。知ったうえで選んでいる。だから厄介なのだ。単純な悪人ならまだ憎みやすい。こいつは、自分の中の人間を半分殺しながら共同体を生かしている。




志乃が静かに口を開いた。




「叔父さん」




宗一郎の肩がわずかに動く。




叔父さん。 それが二人の本来の距離だったのかと、今さら思う。




「私、怖い」




その言葉に、座敷の空気が止まった。




宗一郎も、運び込まれていた白布を畳んでいた女たちも、一瞬だけ手を止めた。




志乃は膝の上で指を組んだまま、宗一郎を見ていた。




「役目とか、村とか、そういうのじゃなくて、普通に怖い」




声は震えている。けれど目は逸らさない。




「痛いのも、苦しいのも、消えるのも嫌」




誰も何も言わない。




たぶんこの村で、その本音は長いあいだ口にされてこなかった。みんな知っていたはずなのに、誰も音にしなかったのだ。




宗一郎はしばらく黙り、やがてひどく静かな声で答えた。




「知っています」




その一言が、逆に残酷だった。




知っていて、やる。




知っていて、やめない。




それが共同体の正体だ。




俺はもう、それ以上待たなかった。




「今夜、奪う」




宗一郎の視線が俺へ移る。




「できません」




「やってみる」




「相馬さん」




宗一郎は初めて少しだけ疲れた顔をした。




「あなたは一人の女を救いたい。妹も救いたい。わかる。だが人は、そんなに多くを同時に守れません」




「知るか」




「知らないまま突っ込むから、破滅する」




「だったら破滅でいい」




その言葉に、自分で少しだけ驚いた。




驚いたが、嘘ではなかった。




宗一郎は俺を見つめ、ふっと短く息を吐いた。




「それが若さです」




「年を取ったら、おまえみたいになるのか」




「ええ。なるべくなら、ならないほうがいい」




どこまでも腹の立つ人間だった。




宗一郎は立ち上がり、女たちへ目配せする。




「支度を」




それで会話は終わった。




夕方、志乃は白無垢を着せられた。




誰が準備したのかはわからない。村の女たちだろう。彼女たちは黙って志乃の髪を結い、白い打掛を重ね、帯を締めた。泣く者もいない。慰める者もいない。ただ手順をなぞるように、若い女を花嫁の形へ仕立てていく。




その光景を見たとき、こみ上げた怒りは奇妙に静かだった。




暴れ出すほどではない。 むしろ、壊す順番を頭の中で静かに並べ替える種類の怒りだ。




志乃は一言も文句を言わなかった。




ただ、白無垢の裾から覗く指先だけが、わずかに震えていた。そこにだけ、年相応の怯えが残っていた。




俺は支度場の外で待っていた。




扉が開き、志乃が出てくる。




白無垢は似合っていた。似合ってしまうのが腹立たしい。土地に馴染みすぎる。まるで最初からそういうふうに作られた人形みたいで、だから余計に嫌だった。




志乃は俺を見ると、ほんの少しだけ笑った。




「変な顔」




「そりゃするだろ」




「似合わない?」




「似合う」




即答すると、彼女は目を伏せた。




「そう言われるの、うれしくない」




「知ってる」




「じゃあ言わないで」




「嘘はつけない」




志乃は困ったように笑う。




「ほんとに、最後までそうなんだ」




最後まで。




その言い方に、奥歯が軋んだ。




「最後にしない」




「するつもりでしょ」




「違う」




「顔に書いてある」




「おまえ、それ好きだな」




少しだけ空気が緩んだ。だが次の瞬間には、外で鈴が鳴り始める。




花嫁行列だ。




村の女たちが白い提灯を持ち、男たちが黙って道を空ける。老人も若者も、誰も祝わない。ただ、何度も繰り返してきた手順を今日もなぞるだけだ。




子どもの姿は最後まで見えなかった。




子どもに見せるものではないと、さすがにわかっているのかもしれない。




宗一郎は先頭近くに立ち、神職めいた白装束を着ていた。滑稽なくらい似合っていて、腹が立つ。




「志乃」




俺は彼女の手首を掴んだ。




「行くぞ」




「今?」




「今しかない」




志乃の目が揺れる。




「……美緒さんは」




「透真と一緒に下ろした」




「ほんとに?」




「たぶんもう村の外だ」




たぶんと言うと、志乃は少しだけ笑った。




「うつった」




「うるさい」




俺はその手を引き、支度場の裏口へ回る。だが一歩踏み出したところで、道の先に白い影が並んだ。




花嫁たちだ。




今夜の白さは、これまでよりはっきりしている。顔のない女たちが、道を塞ぐように立っていた。白無垢。濡れた裾。泥。鈴。




志乃が息を呑む。




「だめ」




「どけ」




叫んでも、影は動かない。




次の瞬間、背後で宗一郎の声がした。




「相馬さん」




振り返る。提灯の灯りを背にして、村人たちがこちらを見ていた。




「ここまでですよ」




「ふざけるな」




「もう、個人の感情で動かせる段階ではありません」




「個人の感情で人を殺すつもりのやつがよく言う」




宗一郎は眉一つ動かさない。




「殺すのではなく、返すのです」




「同じだ」




「違います」




「どこが」




「返された者たちは、この村を守ってきた」




言い切るその顔に、俺は本気で吐き気を覚えた。




「守ってきたんじゃない。縛られてきただけだ」




宗一郎の背後で、村人の一人がわずかに顔をしかめた。だが誰も何も言わない。沈黙そのものが共同体だった。




「志乃」




俺は手を離さず言った。




「行くぞ」




志乃は俺を見て、そして宗一郎を見る。




その一瞬の迷いで、俺はわかった。




彼女の中にはまだ村がある。憎んでいても、捨てきれない部分がある。家族も歴代も全部ここにいるのだから当然だ。




だが、だからこそ今切らなければ、一生切れない。




俺は志乃を引き寄せ、そのまま白い列へ突っ込んだ。




影は実体があるのかないのか曖昧で、肩に触れた瞬間、水を割るみたいな冷たさが走る。鈴が一斉に鳴った。




ちりん、ちりん、ちりん。




頭の奥まで響く。




村人たちの叫び。宗一郎の低い声。誰かが俺の腕を掴もうとして、でも掴みきれない。志乃が何か叫んでいる。




気づけば、嫁入り峠の手前まで走っていた。




月は真上近くにある。峠の向こうには、闇ではなく、もっと白い何かが広がっていた。




霧とも、光ともつかない裂け目。




あれが、山の側だ。




理屈では説明できない。だが見ればわかる。ここから向こうは、人の地形ではない。




宗一郎が追いついた。




「やめなさい!」




初めて、あの男が声を荒らげた。




「志乃を離せ!」




「ふざけるな!」




俺も怒鳴り返す。




背後では村人たちが足を止めていた。峠より先へは出られないのか、それとも出たくないのか。




志乃の呼吸が荒い。白無垢の袖の下、痣は首筋近くまで伸びていた。




「恒一」




初めて、俺の名前をまっすぐ呼ばれた。




「……だめ」




「何が」




「もう、半分……向こう」




言われなくてもわかる。彼女の手が、さっきから冷たいどころではなく、霜みたいに感覚を奪ってくる。




「戻す」




「無理」




「無理じゃない」




「お願いだから、聞いて」




志乃は泣きそうな顔で笑った。




「ここで離せば、あなただけは戻れる」




その瞬間、全部が止まった気がした。




風も、鈴も、村人の息遣いも。




宗一郎が何か言っている。聞こえない。 志乃だけが見える。




離せば、おまえだけは向こうへ行く。




離さなければ、俺も引かれる。




それが最後の選択だった。




背後から、美緒の声がした。




「兄さん!」




振り返る。峠の下、美緒がいた。透真に支えられながら、泣きながらこっちを見ている。




「兄さん、だめ!」




志乃も叫ぶ。




「離して!」




俺は二人の声を聞きながら、なぜか妙に静かだった。




ここまで来て、ようやくわかる。




助けるつもりだった。




連れて帰るつもりだった。




妹も、志乃も。




でも最後に俺が選ぶのは、きっと正しい帰還ではない。




「今さら」




自分の声が、ひどく静かに聞こえた。




「今さら、おまえだけ返せるか」




志乃の目が大きく見開かれる。




「恒一――」




その先は聞こえなかった。




足元の地面が裂けるように崩れ、白い霧が一気に噴き上がったからだ。




誰かの悲鳴。鈴の乱れた音。宗一郎の怒声。美緒の泣き声。




それら全部が遠ざかる中で、俺はただ志乃の手だけを握っていた。




白い向こうへ、二人で落ちていった。




その瞬間だけ、不思議と怖くなかった。






第11話 峠の向こう


落ちた、と思った。




だが痛みはなかった。




あるのは、ひどく長い白さだけだ。霧の中を沈んでいるのか、空の中を歩いているのかもわからない。上も下もない場所で、ただ志乃の手だけがたしかだった。




「……恒一」




声が近い。




見ると、志乃は白無垢のまま立っていた。いや、立っているという表現も正しくない。地面は見えない。なのに二人とも倒れずにいる。




「生きてるのか」




自分で訊いて、妙な気分になった。




志乃は少しだけ困った顔をする。




「わかんない」




それが正直な答えだろう。




周囲には、白い布のようなものが無数に揺れていた。近づくと、それは人の影だった。顔のない女たち。歴代の花嫁たちなのかもしれない。けれどもう恐怖はなかった。こちらを引きずり込む敵意というより、通り過ぎる風景に近い。




志乃が自分の腕を見る。




痣は消えていた。




「……なくなってる」




「よかったな」




「よくないでしょ」




「そうかも」




こんな状況で軽口が出るのだから、人間の神経は案外しぶとい。




遠くで、鈴の音が一度だけ鳴った。




振り向くと、霧の向こうに村が見えた気がした。いや、久々戸村ではなく、その前の村、その前の前の村、もっと昔の山裾の集落まで、折り重なって見える。そこを、白無垢の列が何度も何度も歩いていく。




「ここが、山の中?」




俺が言うと、志乃は首を傾げた。




「山の中っていうより……」




少し考え、言葉を探す。




「返されたものが、ちゃんと行き先を持てなかった場所、なのかも」




それはつまり、神ではなく、未練と供物の溜まり場だ。




久々戸村はそこへ何代も命を流し込み、いつの間にか神様のつもりで扱っていた。




馬鹿げている。




馬鹿げているが、現に俺たちはここにいる。




歩き出すと、白さの中に少しずつ輪郭が現れた。




古い山道。朽ちた鳥居。石垣。どれも現実の山のコピーみたいで、微妙にずれている。木々の枝先には白い紙片ではなく、誰かの結った髪紐や簪が揺れていた。供え物なのか、取り残された個人の欠片なのか、もう区別がつかない。




「恒一」




志乃が小さく呼ぶ。




少し先に、女が立っていた。




年齢は志乃より上に見える。着物は白ではなく、どこにでもありそうな木綿の柄物だ。顔立ちが志乃によく似ていた。




俺は息を呑む。




志乃は立ち尽くした。




「……母さん」




女は何も言わない。




だが笑った。




庭で歌いながら洗濯物を干していたかもしれない人の、ひどく普通の笑い方だった。




志乃が一歩前へ出る。




「ごめん」




その言葉が、誰に向けたものだったのかはわからない。母へか、村へか、自分自身へか。




女はなおも黙ったまま、志乃の髪へ手を伸ばした。




触れたのかどうかはわからない。けれど次の瞬間、志乃の乱れていた髪が、ほんの少しだけ整ったように見えた。




女の姿は、白さへ溶けて消えた。




志乃は動けずにいた。




「いまの……」




「わからない」




俺が答える。




わからないことばかりだ。だが少なくとも、ここはただ苦しみだけの場所ではないらしい。返されたもののなかには、痛みだけでなく、切り取られた日常も残っている。




それが救いなのかどうかはわからない。それでも、志乃が少しだけ泣きそうに笑ったのを見て、悪い場所ばかりではないのかもしれないと思った。




「恒一」




また名前を呼ばれる。




「後悔してる?」




その問いは、予想していたより静かに届いた。




後悔。




美緒を残した。人の世界を捨てた。妹を泣かせた。戻れるかどうかもわからない。




まともに数えれば、後悔だらけだ。




それでも、俺はすぐに答えた。




「してない」




志乃の瞳が揺れる。




「私は、してるかもしれない」




「何を」




「連れてきたこと」




「おまえが連れてきたんじゃない」




「でも、止められなかった」




「俺が勝手に来た」




「そうだけど」




志乃は少し笑う。




「そういうの、最後までほんとにずるい」




俺も笑った。




「おまえ、そればっかりだな」




「だってほんとなんだもん」




白い空間の向こうで、風のように花嫁たちがすれ違っていく。そのなかに紛れて、もう顔のわからない誰かたちがこちらを見ている気がした。




恨みでも、祝福でもない。ただ、同じ場所へ来た者を見る目だ。




志乃が言う。




「たぶん、もう戻れない」




「だろうな」




「こわい?」




少し考えてから、頷く。




「少し」




「私は、あんまり」




「何で」




「一人じゃないから」




その一言で、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。




破滅という言葉は外側から見ると派手だが、内側にいる当人からすると、案外こういう静かな確認なのかもしれない。




戻れない。 でも、一人ではない。




その秤で後者を選んだ時点で、たぶん恋は完成してしまっている。




「歩くか」




俺が言うと、志乃は少し驚いたあと、小さく笑った。




「どこへ」




「さあな」




「適当」




「道がない場所で道を聞くな」




志乃はその冗談に、今度はちゃんと声を出して笑った。




その笑い方を、俺はたぶん忘れない。




もしこの先、時間というものがここにもあるなら、その最初の音として覚えていると思う。




少し歩いた先で、白い空の裂け目みたいな場所が開けた。そこからだけ、向こう側の世界がかすかに見えた。




嫁入り峠だった。




霧の向こうに、村人たちの姿はもうない。ただ、峠の石碑と、折れた木々と、月光だけが薄く見える。時間がこちらより遅いのか、早いのかもわからない。




その縁に、宗一郎が一人立っていた。




生身ではないのかもしれない。輪郭が少しだけ薄い。けれど顔ははっきり見えた。




「志乃」




呼ぶ声は、初めて年相応に老いていた。




志乃が息を止める。




宗一郎は峠の向こうに立ったまま、しばらく言葉を探しているようだった。




「……すまなかった」




やっと出たのは、それだけだった。




志乃の表情が揺れる。




「今さらだよ」




「そうだな」




宗一郎は苦く笑った。




「今さらだ」




そのまま彼は、それ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。叔父としても、村の長としても、中途半端なまま年だけ取った男の顔だった。




志乃はしばらく見つめ、それから小さく頭を下げた。




許したわけではない。赦せるとも思っていないだろう。 それでも、完全に憎みきれない相手なのだ。




宗一郎の輪郭はやがて月光に薄れ、峠の縁ごと見えなくなった。




「……終わったのかな」




志乃が呟く。




「少なくとも、同じじゃなくなった」




俺が答えると、彼女は頷いた。




たぶん、それで十分だった。




白い霧のなかを、二人で歩き出した。




背後で鈴の音が遠ざかる。




振り返らなかった。




振り返ればまだ村が見えるかもしれない。美緒の泣き声が聞こえるかもしれない。だが、もうそれを選ばないと決めたのは自分だ。




俺たちはただ並んで歩いた。




白無垢の袖と、黒い上着の裾が、同じ歩幅で揺れていた。






最終話 霧の向こうの二人


それから三か月後、久々戸村は半ば廃村のようになった。




新聞に載るほどの事件にはならなかった。




山間部の小集落で、伝統行事の夜に土砂崩れがあった。若い男女二名が行方不明。そんな程度の扱いだ。警察は入ったが、深くは踏み込まない。村人は口を揃えて、事故だと言った。宗一郎もそう言った。透真だけが、最後まで何も言わなかった。




美緒は生きていた。




最初の一週間はほとんど眠れず、熱を出し、起きては兄の名前を呼んだ。下の町の病院で点滴を受け、退院してからも、しばらくは山の匂いがするだけで吐いた。




それでも、時間は人間を少しずつ現実へ戻す。




大学は休学した。兄の失踪届も出した。事情聴取も受けた。誰も本当の話を信じないし、信じられても困るような内容だった。




花嫁の列。山に返される娘。白い裂け目。兄が選んだ最後。




そんなものを言葉にしたところで、まともな場所ではただの錯乱だ。




だから美緒は、多くを語らなかった。




ただ、透真にだけは一度訊いた。




「村はこれで変わると思う?」




山を下りたあと、町外れの喫茶店でのことだ。透真は砂糖の入っていないコーヒーを飲みながら、しばらく黙っていた。




「変わるというより、持たなくなるでしょうね」




「持たなくなる?」




「続ける理由が消えたし、続けるための顔も潰れた。宗一郎さんはまだ立ってますけど、あの人一人で村全部の嘘を支えられる年じゃない」




透真はカップの縁を見つめたまま続けた。




「それに、みんな少しは見たんですよ。あの夜、峠で。口にはしなくても、もう前と同じ顔ではいられない」




「……兄は無駄死にじゃなかったってこと?」




そう訊いた自分の声が、少し尖っていた。透真は目を上げる。




「無駄かどうかは、残った側が決めることじゃないですか」




答えとしてはずるかったが、たぶん正しい。




「俺は、相馬さんがああするの、わかる気もしました」




「わかりたくない」




美緒がそう言うと、透真は小さく笑った。




「でしょうね」




少し間を置いてから、彼はつけ足した。




「でも、志乃さんを一人で返したら、あの人たぶん一生壊れてた」




その言葉だけは、美緒も否定できなかった。




兄はそういう人間だ。ずっと知っている。守ると決めたら、過剰なくらい抱え込む。自分まで沈むとわかっていても、最後の最後で手を離せない。




馬鹿だと思う。




だが、その馬鹿さ加減に、妹として何度も救われてもきたのだ。




春の終わりに一度だけ、美緒は嫁入り峠へ戻った。




警察にも村にも止められたが、関係なかった。兄をあのまま置いて日常へ戻れるほど器用じゃない。相馬家の人間は昔から、そのへんが少し壊れている。




久々戸村は静かだった。




人が減ったせいか、前よりさらに音が少ない。畑には手が入らず、社のしめ縄も半ば朽ちている。宗一郎は見かけなかった。透真だけが道の端で一度、軽く会釈したが、引き留めなかった。




嫁入り峠の手前まで来る。




昼なのに、ここだけ少し薄暗い。風が通るたび木々が鳴る。あの夜ほどではないが、相変わらず山は近かった。




美緒はしばらく黙って立っていた。




兄が最後に何を選んだのか、もうわかっている。




助けるつもりだったはずだ。




連れて帰るつもりだったはずだ。




それでも最後には、帰ることより一緒にいることを選んだ。




それを責める資格が自分にあるのか、美緒にはわからない。




ただ、羨ましいとは思った。




兄がそこまで誰かを好きになったことを、妹として少しだけ誇らしく思ってしまう自分がいる。どうしようもなく複雑で、どうしようもなく家族だった。




霧が出てきた。




薄く、山肌をなぞる程度の白さだ。何気なく視線を上げた、そのとき。




尾根道の向こうに、人影が見えた。




一人ではない。




白無垢の女と、黒い上着の男。




二人は並んで歩いていた。振り返らない。手を繋いでいるようにも見えるし、ただ肩が近いだけにも見える。距離のせいで細部はわからない。




でも、美緒にはわかった。




兄だ。




そして、その隣は志乃だ。




喉が熱くなる。泣くつもりはなかったのに、視界が滲む。




「……兄さん」




呼んでも、二人は振り返らない。




振り返れないのかもしれないし、振り返らないことを選んだのかもしれない。どちらでもよかった。




美緒は袖で目元を拭い、小さく笑った。




「ほんとに、馬鹿」




責めるようでいて、責めきれない言い方だった。




霧が深くなる。




二人の輪郭は、すぐに白さの中へ溶けた。




あとに残ったのは、山を渡る風の音だけだ。




美緒はしばらくその場に立ち尽くし、やがて踵を返した。




振り返らなかった。




もういないからではない。




いるとわかったからだ。




返されたのは花嫁だけじゃない。




兄もまた、愛したものの側へ還っていったのだ。




その背中は、もう人間の世界へ戻るつもりのない、ひどく静かな幸福に見えた。

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