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背徳聖女は今日も魔獣を討つ。皇子妃にはなりません  作者: 麦色 ろっこ


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エピソード91 雪解けのあと

 胸に押し留められていた、鬱々とした思考の澱が振り払われていくような心地だった……。


 ——焦燥感、それに不安から解き放たれ、命の息吹きが満ち溢れた、この世界。


 そこに再び戻ってこれた……そんな気がした。

 力を取り戻しながら、同時に歌うことでその力を解放する。


 クラウス卿を覆い尽くしていた分厚い氷が、パキッと音を立ててひび割れた。


 それに続き、パラパラと手足から氷の欠片が剥がれ落ちていき、薄く残った氷の膜も——まるで初雪のように優しく溶けた。

 

 彼はずっと意識を失っていたのだろうか……?

 いっそ、そうなら目の前の出来事に心を痛めたり、自分を苛んだりせずにすんだだろう。


「クラウス卿……」


 氷の下の彼の翠の瞳は、てっきり閉じられていると思っていた。

 だけど、見開かれていた……。


 ずっと意識を保ったまま、全てを目にしていたのだろうか?


 氷の鎧を脱いで、体温を取り戻したかに見える彼は、そのまま瞼を閉じた。


 眉間に苦悩の痕が一瞬刻まれ、深い吐息が吐かれた。


 そして次の瞬間再び目を見開いた彼は、じっとわたしの顔を見つめた。


 その瞳は、わたしの姿を捉えて離さないようにも見えるし、別の誰かの面影を捉えようとしているようにも見える。


 焦点が定まらないのだろうか?

 もしや、凍傷で目を傷めた……?


「あの……大丈夫ですか? 痛いところはありませんか?」


 そう訊ねるのに、沈黙したまま彼がこちらを見つめる眼差しが、なぜか胸に刺さるようで、痛みすら感じる。


 落ち着かない……。


「クラウス卿……。喋れますか——?」


「悪い……。話せる——。心配をかけた……」

 

 クラウス卿の冷え切った手のひらを、頬に押し当てられ、心臓が跳ね上がった……。


 きっと冷たすぎて、わたしの心臓も驚いたのだろう。


 よかった……。

 彼はちゃんと意識もあるようだ。

 それに、身体にも問題はないようだし。


 なにより、彼が生きている——。

 ただそのことをエリタス神に感謝したいと思った……。


「生きていてくれてよかった……です。あなたともう二度とこんな風に話せないかと思ったら——」


 感情で胸いっぱいで、押し黙ってしまったわたしを見て、クラウス卿の瞳に影が差した。


 頬に置かれた手が背中に触れた。

 爛れた火傷の痕を確認しているようだ。


「意識が……あったんですね?」


 どんなにか、もどかしい気持ちだっただろう……。


「無茶をする……」

 低く、押し殺した声だった。


 背中に痕が残っていないことを確かめて、クラウス卿はそっと息を吐いた。


「……話は後だ。今はバジリスク……あれを倒さないと」


 そうだった……。バジリスクをテオ副団長に任せきりだった。

 振り向けば、テオ副団長が復活した魔力で雷撃を放っているところだった。


 けれどバジリスクは避けたので、雷撃は胴体を掠め、僅かにそれを焦がしただけだ。


「バジリスクの口からは毒と、氷と、炎の息吹が吐き出されるので、注意して下さい」


 テオ副団長の忠告のうち、既に二種類を目の前で見たので、お腹いっぱいだ。


 毒の攻撃まで体験したくない……と思っていたら、口を大きく開いて、喉から澱んだ息を今にも吐き出そうとしているバジリスクが目に入る。


 これが毒の息吹きだろう……。


「巡りて満つる十二の芒星よ、揺らぐことなき光の環となりて、我らを護り、癒したまえ」


 久しぶりにこの祈りを捧げる時がきた。

 あれほど消耗していたのに、体内に懐かしく爽快な聖力が満ち満ちている。


 その聖力で結界を張った。

 空気が張り詰めるのを感じる——。


 襲いかかってきた、澱んだ空気が清浄な蒼光に滅却されていく……。


 わたしの隣に立ち上がっていたクラウス卿が印を結び、「爆裂!」と叫ぶと、空気が撓むように揺れた。


 ——“バーン”という破裂音が響き渡り、バジリスクが頭から粉砕され、散り散りに霧散していく。


 それは、あまりにも一瞬のうちのことで。

 最後までバジリスクは自分の身に何が起こったのか分からなかったんじゃないだろうか?


「功を一人占めするとは……、僕の見せ場がなかったじゃないか——」


 悔しげな一言を吐いたのは殿下だった。

 既に石化は解け、立ち上がっている。


 クラウス卿の氷に続き、殿下の石化も解けて——よかった……、本当に……。

 一時はどうなるかと思ったけれど……。


 そう——ほっとして気が緩んだ瞬間だった……。


 “ジェマ”という存在を構成していた、認識阻害の魔術が解けていく——。


 赤い癖毛は、根本から本来の白金色に染まっていく。


 口元のほくろは消え、鼻のそばかすが消え……。

 顔貌も変わっているのだろうか……?


 わたしを見つめる殿下がぽかんと口を開けている。


 テオ副団長は、肩をすくめていて……。


 クラウス卿は……じっとこちらを見つめたまま、笑みさえ浮かべている。


 ——どうやら、仮初の姿ではなく、本来のジュディリスの姿になっているというのに。


 彼は、クラウス卿は……どうして驚いてはいないのだろう?


 それに、認識魔術が急に解けたのはどうして……? 

「急に取り戻した、あり余る聖力が魔力を圧倒したか、魔力切れで指輪の効力が弱まっていたのか、その両方かもしれませんね……」


 テオ副団長はそう言った。


 今ここにいる三人には、わたしの正体がバレてしまったかもしれないけれど、ある意味、諦めがついた。


 今更ジタバタと言い訳を考えても仕方ない。


 だけど……クラウス卿にこの姿で会うのは初めてだ。


 それなのに、身体中があの“ゾンビダスの血”で汚れていて、今のわたしの姿はとてもではないけど、見られたものではないだろう。


 この姿をどう思っただろうか?

 そんなことが気になった……。


 怖々と彼に視線を向けてみたけれど、繁々とわたしを見つめはしても、やはり驚く様子はない。


「お、驚かないんですか……?」


 クラウス卿に水を向けてみた。


「えっ? あ、ああ……。それは——……いや。驚きはしたが……。どんな姿でも、君が君であることは変わらないから——」


 彼が言うことは、理にかなっているようでいて、どこか腑に落ちないような、違和感を感じた。


 その時、二人の間のなんともいえない空気を壊すようにテオ副団長の声が響いた。


「ジュディリス、指輪を貸して下さい。魔力も回復したし、認識阻害魔術をかけ直しましょう」


 言われるままに魔道具の指輪を渡すと、テオ副団長がそこに魔力を込めてくれた。


 再び指輪を嵌めると、元の赤毛のジェマの姿に戻る。


 そういえば、もう一人の存在を忘れかけていた。

 振り返ればそこに、まだ呆然としたままの殿下の顔——。


 どこまで説明するべきか、考えていると、殿下が切り出した。


「……ラヴォイエールのジュディリス——。君がそうかジェマ、ジェマだったのか……?」


 ……殿下って、わたしの本当の名をご存知だったっけ?

 たしかに魔術競技会の時、お会いしたことはあったけど……。



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