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背徳と呼ばれた令嬢ジュディリスは、聖力と魔力を併せ持つ大聖女の器でした  作者: 麦色 ろっこ


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エピソード75 力の届くところ

 昨夜、渓谷に連れてきてほしいとクラウス卿に頼み、早朝から二人でこの見通しのいい場所まで馬で駆けてきた。


 馬から降りると、渓谷を見下ろす崖っぷちの近くまで歩み寄っていく。


 わたしが足を滑らせないか気遣うように、すぐ隣でクラウス卿が見守ってくれている。


「ここが……灰色渓谷と言われるところなんですね」


 冷たい風が背中から吹きつけ、わたしを谷底に押し運ぼうとするかのようだ。


 そうされないように、しっかりと足を踏ん張る。


「ああ、かつてこの地には、戦士が武勇を誇るために、屠った魔獣をそのまま野晒しにする習慣があったらしい。

まだその骸から魔石という資源を取り出せることも知られていない時代からだったと言われている」


 野蛮な風習と言われれば、それまでだろう。

 けれど、武力を誇りたいと思った戦士の気持ちはわかる。


 ただ、骸は臭気も魔素も撒き散らすし、その他の影響を考えてもあまり身近には置いておきたくないものだろう。

 そんな気持ちから、彼らは渓谷に骸を投げ捨て始めたのかもしれない。


「ここ以外の土地では魔獣は討伐で命を奪った瞬間に消失して魔石だけを残す。

しかし、この地に巣食っている多くの魔獣は、物理的に燃やしたりしない限りはその姿を留めるんだ」


 辺境伯の治める領地は広大だ。

 その広い領地の中でも、この渓谷が醸し出している空気感はどこか異質だ。


 川面に投げ入れる小石は音を立ててから沈んでいくけれど、この渓谷にこの身が投げ入れられたとしても、音一つ立てずに吸い込まれていくように感じる。


 そんな隔絶されたかのような世界ならではの、独自の魔獣の進化の歴史があったのかもしれない。


 もしこの渓谷が荒涼とした灰色の砂地でなければ、わたしの胸を満たしたのは、山肌に覗く緑豊かな自然と、育まれる小動物の息吹を愛でる気持ちだったかもしれない。


 けれど、眼下に広がったこの景色を見て、言葉をなくさせ、胸にひたと感じるこの感情は寂寥感というものだろう。

 そよと頬を撫でる髪を掻き上げながら、潤む目を伏せた。


 長い時を侘しく存在してきたであろう渓谷……。

 命の芽生えを知らず、穢れた地として、厭われ忌まれてきた地に対して、こうまで憐憫の情が湧いてくるのが自分でも不思議だ。


 頬を伝う涙をそっと手の甲で拭おうとした時、目の前に手巾が差し出された。


 クラウス卿だ……。

 人の気持ちに鈍感そうな人だと勝手に決めつけていたけど、わたしのこんな、捉えようのない感情の昂ぶりに気づかれるなんて。


「——ありがとう、ございます……」


「こう見えても、川の水質は悪くないんだよ。上流やもっと下流のほうでも、魚は獲れる」


 まるで慰めてくれているみたいな口ぶりだ。

 自分が受け継ぐ領地のことなのに、わたしを慰めようとするなんて……。


 本来なら、彼の方がこの地を案じる立場のはずなのに。


 でもこういうの———すごく心地いい……。


 ———ふと、同じような感覚を感じた時のことを思い出した。


 クラウス卿の横顔をじっと見つめて、記憶を探る。

 視線に気付いた彼がわたしの顔を不思議そうに見た。


「どうかしたか?」

「なんでも……ないです」


 そうは答えたけど、胸にもやっとしたものが残った。


 そんなはず、ない……。

 一瞬よぎった面影を振り払うように首を振った。

  顔つきも喋り口調も、わたしの知るあの人のものとは違う。


「——どこか沢のほうに下りる道はありますか?」

「あるが、かなり険しい岩沿いの道だ。この先の木に馬を繋いで、浮遊魔術で沢まで下ろう」


「崖の上から歩いて下って、どのあたりから土壌が汚染されているのか、見たいんです。歌でどれくらいの範囲の浄化ができるのかも試してみたいし」


「分かった」


 実際に歩いてみると、傾斜が急で、足場は岩でごつごつしていた。クラウス卿がさっと前に回って、手を握って支えてくれる。そこに体重を預けて移動するだけで、かなり安心感がある。


「気をつけて。そこ、滑りやすいから」

「はい、ありがとうございます」


 滑りやすいと言われると慎重になり過ぎて足が竦む。


 つるっとした丸い岩を跨いで、次の岩に足をかけようとして、かけそびれた。ひやっとした時に、クラウス卿が腰に腕を回して支えてくれた。


 助かった……転けるかと思った。


 ホッとして息を吐いた時、わたしの身体はクラウス卿の腕の中にすっぽりおさまっていて、心臓が音を立てた。


 慌てて彼の胸に手をついて距離をとると、腰に回された腕がはずれた。


「……あの、わたし。思わせぶりにしたり……するつもりはなくて」


「——ああ、わかっている」


 クラウス卿が一瞬目を逸らした。


「恋人がいるので——」


 風が吹き抜け、二人の間に沈黙が横たわった。

 クラウス卿が一歩後ろに退がった。


「そうか……」


 なぜだか、気まずくて空気が重くなった気がした。

 話題を変えよう……。


「魔獣討伐の時以外だと、この道に足を踏み入れる人はいないんでしょうね」


「いや、魔石が採れることがあるから、採掘に足を踏み入れる者がいるんだ。危ないから禁足地に指定しているんだが」


「——そうなんですね」


 貧しかったり、一攫千金を狙う者にとっては魔獣が出没して命を脅かされる場所でも、立ち入る価値があるのだろう。


 こめかみの汗を拭って目線を下げると、地層の色が黒ずんで見える山肌が見え、そのすぐ下に灰色の土壌が見えた。


「この辺りから下がもう汚染されているんですね」

「そうだな」


「歌ってみます」

「……ああ。だが広大な範囲だ。決して無理はせず、少しでも気分が悪くなったりしたらやめてほしい」


 目を瞑り、本来この渓谷があるべき緑あふれる姿をイメージしながら歌う。


 そう川のせせらぎ、小鳥達の囀り……。


 歌い終わると頭がグワングワンとするように、重くなり、眩暈がした———。


 加減を誤ったのかもしれない。慣れていないから。

 倒れ込みそうになって、クラウス卿に抱き止められた。


「大丈夫か?」


 ふらつく頭を振り、目を開けてみると、わたしにごく近い周辺の土壌は燻んだ灰色ではなく、本来の色を取り戻し、心なしか湿気を含んでいるように見える。


 けれど全体から見れば、ごくちっぽけな範囲だろう。がっかりと肩を落とすわたしの肩に、静かに手を置き、クラウス卿は言った。


「素晴らしいな。たった今——これだけの範囲の土壌を浄化してみせたのに、なんで浮かない顔をしているんだ?」


「もっと広い範囲をイメージしたのに……」


 溜め息を吐き、残念がるわたしをよそに、クラウス卿が笑い出したので吃驚する。


「な……なにが、おかしいんですか?」


「そりゃあ……未だかつて、どんな聖女も成し遂げなかった偉業だぞ? これだけのことをしておいて、がっかりするなんて——。力を貸して下さったエリタス神も、さぞ不本意だろうと思ったのさ」


「えっ、それじゃあ……わたしが欲張りみたいじゃないですか」


「そうじゃないのか?」


 悪戯っぽくカラッとした笑顔の彼を見ていたら、本当にそう思えてきた。


「たしかに、言われてみたらそうですよね。“力”もすっかり使い果たしてしまったみたいだし」


「じゃあ、“力”の限界を知ることができて、よかったんじゃないか?」


 本当にそうね。ここに来た成果は十分にあった。がっかりする要素なんて全くない。


「もしかしたら——イメージする範囲を広げれば広げるほど“力”を多く使ってしまうのかもってことも分かりました」


 そう答えながら、気づくと心から笑うことができていて、わたしって単純だな——と思うと同時に、クラウス卿って——人を幸せにする人なのかもしれないと思った。


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