エピソード5 春風とカモミール
小夜会で異母妹のイリーナが皆から祝福される姿を見ていると、やはり羨望の気持ちが込み上げた。
自分のそばには誰もいないという寂しさが胸に広がり、無性に亡き母に会いたくなり、母の眠る墓へ足を向けようと思い立った。
春の陽射しが、ここリンデハイムの教会の裏手にある墓所に柔らかく降り注いでいた。
白い小花が一面に咲き誇り、淡い香りが風に乗って漂ってくる。
かつてラヴォイエール家の墓は、大聖堂の霊廟にあった。死後王侯と肩を並べるその誇りは、一族の矜持だった。
けれど、亡くなったヘルムートお祖父様の代から、なぜかこの教会裏の墓域へと移されてしまった墓は、下級貴族の墓碑に囲まれている。
父はそのことに屈辱を感じるようで、滅多にこの墓に足を運ばない。
わたしにとっては、朽ちた遺体を模った墓標の多いと聞く大聖堂の霊廟のような気味の悪い霊廟ではなく、この長閑な場所の方が望ましい。
母がこの場所に眠っていることは、幸運だと思っている。
母の墓前で手を合わせ、まずわたしにとって大きな出来事を報告する。
「……お母様、わたし実は……聖力が芽生えたみたいなのよ」
聖力が発現したのは、イリーナの誕生日の小夜会の翌日のこと。
小夜会で菓子や飲み物に混ぜ物をした青年達は結局『イリーナ嬢に唆された』と証言した。
それなのに、イリーナはそれを、わたしが青年達に虚偽の証言をするよう強要したのだ、と泣きながら訴えた。
「お姉様、そうまでして私の評判を落としたいほど、妬んでいるの?」
結局、その見事な演技でしてやられ、イリーナは無罪放免。
わたしの脹脛だけが、ひどく鞭打たれた。
ミミズバレで赤く腫れ上がった脹脛の痛みに、部屋で一人耐えていた時、どうせなら聖力を引き出せるか、試しに癒してみようと思ったのだ。
今更聖力が芽生えるなんてことはない、と知っていたけれど、鞭打たれて終わりというのも、なんだか悔しい。
それで、母が昔そうしていたように、意識を手のひらに集めてみた。
祈りの言葉を唱えながら、癒えるイメージを頭に描いた。
血流が手のひらに集まってくるような感覚があって、じんわり熱くなったそれを翳した脹脛からは、驚いたことに痛みが引いていったのだ。
赤く腫れ上がった傷がみるみるうちに癒えていった時は、自分の目を疑い、瞼を擦った。
それはまさに世界が変わった瞬間だった。
飛び上がるほどの喜びに全身が沸き立った。
わたしに人を癒す力が芽生えた。
それはお父様にもイリーナにもできないことだ。
けれど、すぐにでも父に報告に行こうと立ち上がった時、ドアの隙間からその様子を見ていた継母と目が合った。
継母は聖力が発現したことを父に話すべきではないと、釘を刺した。
「そんな僅かな聖力をひけらかしたところで、生意気で可愛げがない娘だと言われるだけよ。お父様の関心なんて引けやしないわ」
嬉しさに弾んでいた胸が急速に萎んでいった。
「あなたの母親だって結局、出来損ない扱いされていたでしょう?」
言われてみればその通りだ。母は聖女だったのに、ラヴォイエールの屋敷で父に役立たず呼ばわりされていた。思い出して心が冷えていく。
けれど母だけはきっと喜んでくれるはず、遥か天上にあるという神の国にいても。
そう思って墓前に報告した。
胸の奥に宿る母の面影を思い起こす。優しくて、美しかった母……。
幼い頃から母が口ずさんでくれていた歌を乾いた唇で紡ぎ出す。
「光よ、 降りそそげ 傷を癒やし 心を満たせ 風よ、 吹き渡れ 木々を揺らし 希望で満たせ……」
ありし日の母を想い、切なさに胸をしめつけられながら、最初は辿々しく、そのうちに滑らかな声量で一心に歌う。
歌声を響かせることで自分を鼓舞できる気がして、咽喉がかすれるまでそれを続けた。
かなり時間が経った頃だろうか?
「きれいな声だな」
不意に背後から声がして、振り向くと栗色の髪の青年が立っていた。
年は自分より少し上だろうか。かなり整った顔立ちで、質素な身なりをしているけれど、服の生地は上等そうだ。
彼の目が、墓石に供えたばかりのカモミールの白い花に注がれた。この辺り一面にもとから自生しているのを摘んだだけの花束だ。
貴族の墓に供えるのに相応しい花束とは言えない。
墓石に手向ける花束を買う小銭すら、僅かな小遣いを管理するメイド長に出し渋られるのだ。
「すまない、邪魔をしたか?」
返事が遅いから怒っていると思われたのかしら?
「いいえ、ちょうど歌いすぎて喉が掠れてきたところだったし……」
「それならよかった。あんまり綺麗な歌声で……ちょっとした悩みがあったんだけど、なんだか元気をもらった気がしてさ。ひと言お礼が言いたくて」
その言葉に喜びが込み上げる。
「嬉しい……。母が生きていた頃、この歌を歌ってくれるとわたしも、同じように元気がでたの。
わたしの歌であなたが同じように感じてくれたのなら、こんなに嬉しいことはないわ。ありがとう」
わたしの返事を聞いて、青年は微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう。ところで、この白い花……カモミールだね」
「ええ。白くて可愛いでしょう? お母様が好きだった花なの」
彼がこれをみじめな花束だとは思っていない様子に安心した。
「りんごのような、甘い香り。花言葉は……たしか『逆境に負けない強さ』、だったか」
「……そうなの?」
「うん……。君に似合っていると思う」
その言葉を聞いて、胸が少し弾んだような気がした。
母が亡くなってから、こんな風に自分に関心を持ってくれる人はいない。
料理人のモリスもメイドのフレアも……人目がない時に少し話をしてくれるだけ。
継母やイリーナ、父のいるところでは屋敷の使用人は皆、石のように黙りこくるのだ。
「わたしに似合ってるって、どんなところが?」
そう問われるとは、想定していなかったようで、彼は一瞬考えるように目を空に向けてから答えた。
「歌っている姿を見て、感じたんだ。懸命に上を向こうとしているような……そんな強さを」
初対面なのに、自分のことを知りたいと、興味を持って見つめてくれたような気がして嬉しい。
「あなたのお名前は?」
「……ロイだ」
彼の一族の墓石もここにあるのかしら? そう考えていると、ふと彼の視線が墓石の陰へと向く。
そこに、ゆっくりと近づいてくる人物がいた。銀色の髪を結い上げ、深い慈愛を湛えた瞳。その女性は、わたしの前に跪き、そっと頬に手を当てた。
「……今歌っていたのはあなた?」
もう一人聴衆がいたらしい。
「そうですけど……」
「この墓の主は私の娘なの」
女性は僅かに声を震わせながらそう言った。
その言葉の意味を理解するまで、わたしは瞬きすらできなかった。
隣でロイが「……この墓が?」と呟いた。
女性は憂いを秘めた眼差しを墓石に向け、抱えていた色とりどりの大きな花束をカモミールの花束の隣に供えて祈りを捧げる。
母の墓に祈りを捧げる女性が振り返るまで、わたしは驚きで目を見開いたままだった。
「あなたが……大聖女様? お母様のお母様で……」
「そうよ。私が当代のシェスタビア家の、そしてトルエンデ伯爵家のレティシアよ。はじめまして、あなたがジュディリスなのね」
愛しげな眼差し、母に似た面差し——それを向けられた瞬間、胸の奥で何かが温かく弾けた。
母方の祖母、レティシア——初代大聖女の血を継ぐシェスタビア家直系で、当代の大聖女。
その人が目の前にいる。
「お会いしたかったです、とても……」
切々とした顔で訴えかけるわたしと目を合わせて、祖母は儚げな微笑を浮かべつつなにかを堪えるように眉を寄せて、肩を掻き抱いた。
「私もよ……。ずっと……ずっと、あなたに会いたかった」
「あなたのこと、それにローレンの、あなたの母についての話も聞きたいわ」
レティシアの声は春の光よりもやさしいとジュディリスは思った。
「わたしも……母の昔の話を聞きたいです」
二人が見つめ合う姿を神々しいもののように、ロイが目を細めて見守ってくれていた。
「話は尽きないだろう? 僕はここでよく大聖女様とお会いしているんだ。君も一緒にどうかな?」
「どうだろうって……? わたしもまたここでお祖母様とお会いできるの?」
そうできたらどんなにいいだろう……?
ロイの提案が胸に小さな灯りをともした。
「もちろん。——そうでしょう? 大聖女様」
「え? ……ええ、ええ! もちろんだわ! そうできたらこんなに嬉しいことはないわ」
お祖母様の目にも、力が籠ったように見えて胸が弾む。
「ここでゆっくり話をしたり、聖力について学べばいいんじゃないか?」
ロイの言葉が現実味を伴って徐々に胸に浸透してくるようだ。
お祖母様とまた会えるなら、こんなに嬉しいことはない。それに、お祖父様にも会えるかもしれないのね。
そう考えると、暗かった先行きが一変して明るく輝いている気がした。
「父にはあまり出かけることを許されていないけど、この墓所だけは別。さすがに反対しにくいみたいで」
「じゃあ……?」
ロイが優しい眼差しで問いかけた。
「日曜の礼拝に、ここまで来れるように頼んでみるわ」
この日、お祖母様と欠けていた年月を取り戻すかのようにお喋りしながら、教えてもらって初めて花冠を編んだ。
カモミールの花をひとつずつ編み込み、できあがったそれをロイの頭にそっと置く。
「これ、あなたに」
年頃の青年だから、花冠なんて嫌がられるかもと心配したけど、ロイは少し照れ笑いしつつも喜んでくれた。
「あなたのお陰でお祖母様や、もしかしたらお祖父様とも……ここで会えることになった。そのお礼の気持ちを伝えたくて」
そう伝えると、ロイは穏やかに微笑んだ。
彼の笑みはまるで春風のように、わたしに幸運をもたらしてくれる気がした。




