エピソード35 踏ん切りの夜
自分の顔を変えて見せる認識阻害魔術は結構難しくて、ラヴォイエール邸でも、暇さえあれば鏡を見て練習を重ねた。
同じ人物の顔を創ろうとしても、そのたびにどこかが微妙に違ってしまう。
そして、鏡の中の顔は、集中が切れるたびに頼りなく崩れ、何度も本来の自分の顔に引き戻された。
ロイに勧められたように、自分を騙してなりきることから始めようと、屋根裏で小道具を探してみたら、赤毛の鬘とつけぼくろが入った小箱を見つけた。
鬘を被り、ほくろを口元につけて、自己催眠をかけてみる。
特徴のないぼやっとした顔だと、イメージが難しかったため、目鼻立ちのはっきりした顔立ちを頭に描き、その顔を固定化できるように努めた。
自分より意志の強そうな、その別人の顔を保つことができるようになり、ようやくロイのお墨付きがもらえた。
そしてヒルステッド卿宛に手紙をしたためた。
婚約解消を求めるその手紙を父に見られるわけにはいかない。見つかればただではすまないだろう。
いつも手紙を託す使用人ではなく、信頼できるメイドのフレアに街に出た時に届けてくれるよう頼んだ。
けれどフレアはわたし専属でもない侍女でもない一介のメイドなので、自室で渡せる機会がなく、掃除中に廊下で渡すしかなかった。
フレアは頼まれてくれたけれど、わたし達の様子を窺う一人のメイドの視線に気付かなかったのは迂闊だった……。
夜になって就寝しようとしていたら、廊下をドスドスと踏み歩く足音が近付いてきて、ノックもなしに扉が開かれた。
驚きと恐怖に身体が強張る。
そこにいたのは怒りに身体を震わせる父だった。
手には握りつぶした紙を持っていた。
「婚約を解消したいだと? つけあがるのもいい加減にしろ」
フレアに預けた手紙が見つかったらしいと気付いて、青褪めた。
「イリーナが手紙を取り上げていなかったら、どうなっていたか……」
父は唾を飛ばす勢いで怒鳴りつけた。
「もっといい条件の相手が現れるまでは、勝手に婚約解消などさせるか!」
「わたしの婚約なのに、ですか?」
「当たり前だろうが。ヒルステッド卿のような見てくれのいい男が気に入らないなら、もっと金を出せる爺か醜男を探してやる」
そう言えばわたしが怯むか泣くとでも思ったかと怒りが湧く。
ふんと鼻を鳴らした父に、溜め込んだ怒りをぶつけずにいられなくなった。
「どうして実の娘を競売にかけるような真似ができるんですか? 父親として恥ずかしくないんですか?」
面と向かってそう言ったわたしを、父は血走った目で睨みつけた。
「なんだと……? 随分と生意気なことを言うようになったものだ。やはりお前には教育が足りないようだな。思い知らせてやろう」
騒ぎを聞きつけてきた執事に、父が何か耳打ちすると、彼は慌ただしく立ち去り、父はこちらを見てにやりと笑った。
状況を考え併せて嫌な予感に緊張する。
だけど、わたしには魔術がある。
何かされそうになれば防げるはずだと自分を励ます。
無言の時間、父はそんなわたしを不気味に見つめていた。
執事がしばらくして男性の使用人を二人連れ、錆びた手枷と鞭を持って戻った。
父が顎をしゃくると、手枷を持った彼らが硬い面持ちでわたしに近寄ってくる。
大人しく拘束される気はない。
手枷を対象に無詠唱で雷撃魔術を発動してみた。
けれど、魔術は発現しない……。
心臓が恐怖で縮むようだ。
手枷を持っていた使用人は痺れを感じたのか震え上がり、それを取り落としたけれど、頑丈な手枷には傷一つついていない。
おそらく魔封じの手枷……。
だからといって、父に命じられたことをしているだけの使用人を攻撃するわけにはいかない。
取り押さえようとする彼らに抗ったけれど、結局両手首を手錠で拘束されてしまった。
錆びた手枷は重く冷たい。マナの流れを堰き止められる感覚も苦痛だ。
攻撃魔術を警戒して使用人に手枷をつけさせておいて、わたしの魔術が封じられた途端、自分の優位を確信した父は狡猾そうな笑みを浮かべた。
「貸せ」
鞭を手に取ると、父は憎々しげに睨みつけてきた。
これから味わわされる痛みを想像して身体は緊張し、こめかみが震える。
けれど、鞭を前にしたからといって従順になどなりたくない。
精一杯の抗議を込めて睨みつけると、父は舌打ちした。
「まったく可愛げがない。母親にそっくりだ。人を見下しているんだろう? 魔力が少ないからと馬鹿にしているんだ」
怖がらせようとして、父は鞭をしならせ床を何度も打った。
その度に身を竦めてしまう私を見て、愉快そうに笑みを深くする父に嫌悪を感じる。
「お母様は魔力が少ないからって人を見下すような人ではありません」
それに対する返事はなく、父は無情な声で使用人達に命じた。
「跪かせろ」
一発目は脹脛に飛んできた。
「ううっ……」
痛みに声が洩れる。
いつも継母に鞭打たれているよりも、はるかに強い痛みだ。
そう感じると同時に次の鞭が背中に飛んでくる。
「うっ……」
手加減のない憎悪の籠った鞭に焼けるような痛みを感じる。
何発も背中や脹脛を鞭打たれ、痛みで瞼が熱くなり、こめかみに汗が滲んだ。
痛い。怖い……。でも赦しを乞うつもりはない。暴力になんて屈しない。
なんとしてもこの屋敷から逃げて自由になってみせる。
ひりつくような痛みに意識が朦朧とした頃、誰かが駆け込んできた音がして、父の鞭が止まった。
「おやめ下さい! 旦那様」
「なんだ、お前は……?」
「お嬢様の護衛のミュゲルと申します」
「それで? 主人に逆らって何を言いたいんだ?」
「俺の務めはお嬢様をお守りすること。嫁入り前のお身体に傷が残っては、旦那様も後悔なさるのでは?」
振り向くとミュゲルが主人を相手にわたしの背を庇うように立っていた。
激昂していた父が冷静さを取り戻したのか、わたしの背中に滲む血を見て、鼻白んだ。
「まあ、今日のところはここまでにしておいてやる。
痕が残らないように、明日教会に連れて行って治癒を受けさせてこい」
手枷の鍵を床に投げ捨てて、父は執事達を引き連れて部屋を去っていった。
「お嬢様、大丈夫ですか? 立てますか?」
ミュゲルが手枷を外し、よろめくわたしをタバサと共に支えながらベッドに連れていってくれた。
「手当をしますから、ミュゲルさんは部屋を出て」
タバサはそう言って、ミュゲルを追い出すとテキパキと傷口の手当をしてくれた。
「タバサがミュゲルを呼んできてくれたの?」
「はい……。私もですけど使用人は皆、旦那様を恐れて、止められませんから」
「ミュゲルを呼んできてくれてありがとう。フレアは?」
「……解雇されたそうです」
「それは申し訳ないことをしたわね……」
推薦状も貰えなかっただろうと思って、気が咎める。
手当てが終わって、タバサに廊下で待っていたミュゲルを呼び入れてもらった。
「ミュゲル、お父様をとめてくれてありがとう」
お礼を告げたのに、ミュゲルは項垂れている。
「もっと早くとめられていたら……」
「そんなことを言わないで。二人のお陰で助かったんだから」
怪我はしていても、元気なところを見せようと思って、ベッドに腰掛けたまま膝下をぷらぷらと動かしてみせた。
けれど脹脛の怪我が引き攣れて痛み、目尻に涙が溜まった。
「……だ、大丈夫よ、これくらいの怪我」
ミュゲルは聖力のことを知っているけど、癒してしまうと、タバサはともかく他の人にもバレてしまう。
「お嬢様、この屋敷を出ていきましょう! トルエンデ公爵閣下は喜んで受け入れて下さるはず」
ミュゲルがそう言い出し、タバサも頷く。
「そうですよ、この屋敷にいてもいいことはありません。安心して下さい。私は何も聞いていないと言いますから」
タバサはそう言ってくれたけど、二人が解雇されたりしないか心配だ。
「実はわたしもそのつもりだったんだけど、タイミングを迷っていたの。わたしがいなくなったら二人は怪しまれるんじゃない?」
「お嬢様、俺も一緒に連れて行って貰えませんか?」
「え……いいの? そりゃあミュゲルが一緒に来てくれたら心強いけど……」
「お嬢様をお守りすると誓いましたから。それに、ここの主のやり方にはついていけません。今まではお嬢様がいたからここで我慢していたんです」
「そうなのね。嬉しいわ……ありがとう」
わたしについてきてくれるなんてありがたい。
タバサはどうかと視線を向けると、彼女は首を振った。
「私はもう年ですし、そろそろリンデハイムの娘が一緒に住もうと言ってくれているので引退するつもりだったんですよ」
「そうだったのね……」
「お嬢様、こんなことが起きてきっと、明日からは監視の目が増えると思います。怪我はお辛いとは思いますが、今夜のうちにお逃げになったほうがよろしいのでは?」
わたしも同じことを考えていた。
「すぐに荷物を纏めるわ」
体は痛んでいたけれど、それでも——やっとこの屋敷を出ていける。
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。




