エピソード29 見落としたもの
ノルテモア侯爵夫人であるナビエ聖女様が到着したのはそれからすぐだった。
かなり急いで来たようで、天幕に入ってきた時は呼吸も整っていなかった。
「入りますわね。遅くなってごめんなさい、大丈夫ですの? 医師から怪我は酷い状態だと聞い……て」
とにかく早く治癒しなければと、慌てて来たのに、ロイの患部を見て拍子抜けしたような顔をする。
「えっ……と、お忙しいのに駆けつけて頂き、感謝申し上げます」
ロイも既に痛みが取れてしまっているので、目を泳がせつつ、頬を掻いている。
横たわっていたものの、失礼かと考えたみたいで身を起こそうとして、ナビエ様に止められた。
「医師が大袈裟に伝えたのかしら? それにしても出血もほぼ完全に止まってるし……それどころか……まあ、ともかく傷を癒すわ」
そう言いながら担架に横たわったロイの傍らに跪き、祈りの言葉を紡ぐ。
「慈愛の光よ、痛みを取り去り、安らぎを与え給え……」
そして患部に置いた白い手が淡い光をたたえ、マナを浸透させていく。
患部は殆ど痕も残っていない状態になった。
さっきの治癒は、ナビエ様の力を想像して、治してもらう余地を残したので、加減が難しくて心配もあった。
これでようやく安心できた。
けれど、ほっとするわたしを見て、ナビエ聖女様が不審げな顔をしたのに気付く。
「ジュディリス嬢、氷剣が刺さったと聞いたのですけど、凍傷の痕跡もありませんでしたわね……。レティシア様が先に治療されたのですか?」
「……いえ、祖母は第一皇子殿下の治癒に当たっているので」
「そうですか。まだこちらに来られていないのは……第一皇子殿下のお怪我の状態が良くないのかしら?」
わたしがいるから、来なくても大丈夫だと判断したのかもしれない。けれど、そう答えるわけにもいかない。
「きっと、ナビエ聖女様にお任せすれば、大丈夫と思われたのでしょう」
ナビエ様がまだ納得のいかない顔をされたままなので、困ってお祖父様に目で助けを乞う。
「ノルテモア侯爵夫人、テオドールは私の弟グレイハート子爵家のもので、我が伯爵家のトルエンデ騎士団の副団長。妻もこの者が頑健な身体だとよく承知しているのです」
「バーソロクス卿、あなたがそうおっしゃるのであれば……そういうことなのでしょう」
……よかった。とりあえず納得して下さったみたい。
「ところで、きっと感激なさったでしょうね? ローレン聖女様の遺されたお孫さんにお会いになれて」
ギクリ……とした。
でも、この場で初対面してしまったことにすればいいのよね?
別にやましいこともないわけだし。
「そう、そうなのですよ……。やっと……孫の顔を拝むことができた。こんなに可愛らしく、立派に育ってくれていて。これで娘の墓前にもよい報告ができますよ」
お祖父様は芝居がかった演技をして、袖で涙を拭うふりまでしている。
「まあ……。今の今まで——血の繋がったお孫さんに会うことすら叶わなかったなんて、なんて残酷なこと。
それというのもあの、執念の塊のようなゲオルク卿が……、あっ、ジュディリス嬢、ごめんなさいね」
「いえ。父は本当に……過去に囚われている人だと、わたしも思います」
ナビエ聖女様はすっかりお祖父様の演技に騙されて、もらい泣きをしている……。
なんだか申し訳ない。父は執念深いし、祖父は悪乗りするたちで。
「それで……、レティシア様にもお会いしたのかしら? あなたの顔をみれば、どんなにかお喜びかしら……」
ナビエ様は手巾で涙をそっと拭われてから、気を取り直したようにわたしを見る。
「会いました……」
少し前までは本当に会ったことがなかったのだから、嘘ではないはずだ。
「でもゆっくりと語らう時間はなかったでしょう? お呼びしてくるわ。ギルベアト第一皇子殿下には私が侍っていれば問題ないでしょう。もう治療は終えているでしょうし」
そう言って立ち去る前にふと振り返り、わたしの手を引き天幕の端に連れていった。
「……癒した患者の身体には、しばらくは聖女のマナが痕跡のように残るものよね? どの聖女の痕跡かまでは分からないけど。隠しているつもりなら、そこも気をつけるといいわ」
や、……やっぱり気付かれてたんだ。心臓を掴まれたように、ぎゅうっと胸が収縮した。
「それにしても、さすがシェスタビア家の直系ね、大聖女様の血を感じさせられたわ。短時間であそこまで治癒できるなんて。しかもありえないことに、あなたは魔力まで併せ持っている」
ナビエ聖女様の鋭い眼差しは、射抜くような光を秘めている。
「あの青年、あなたがいなければ腕を失っていたかもしれないわ。精進しなさい、聖力は命をも救う大きな力。
エリタス神の大恩に報いるためにも、いつまでも隠しているわけにはいかなくてよ?」
そう言い残し、天幕をくぐって出ていった。
確かに、ナビエ様の言う通りだと思う。
この力を誰かの役に立てなければ……。
そう考え、自分の思いに耽るわたしは気付かなかった。
天幕の布が、外からわずかに揺れていて、そのすぐ向こうで今の会話を耳にしていた者がいたことを。




