エピソード1 わたしの幸せな記憶と喪失
気がつけば、わたしは妹イリーナの頬を叩いていた。
小気味の良い音が、しんとした部屋で響き、手のひらに熱が籠っている。
叩いた本人であるわたしも、自分がしでかしたことに驚いた。
「——きゃあっ……なにするのよ!」
頬を押さえ、憎々しげに睨みつけてくるイリーナを見て我に返る。
取り返しのつかないことをしてしまった、という予感が胸を締めつけた。
それでも、どうしても許せないことがあった。
わたし、ジュディリスは帝国でも有数の名家、ラヴォイエール侯爵家の娘として生まれた。
けれど、この屋敷にわたしの居場所はない。
トルエンデ伯爵家出身の聖女だった母は、なぜか昔から父に疎まれていた。
「お前は可愛げがない」
「強情で扱いづらい」
父にそんな言葉を浴びせられても、母はわたしの前で涙を見せたことはなかった。
「ジュディーが私のことを好きでいてくれるでしょう? それで十分よ」
いつもそう言って微笑んでいた。
けれど、わたしのこととなれば、違った。
聖女の娘なのに、聖力が発現せず、貴族なら当たり前に持っているはずの魔力もほぼ無い——そんなわたしに、失望した父に果敢に意見した。
「聖力や魔力がなくても生きていけます。この子の明るいところ、優しいところを褒めてあげて下さい」
そんな母が大好きだった。
けれど、母はなぜか自由に外出することを許されなかった。
母と共に屋敷の外へ出かけた記憶といえば、年に数回の薬草つみくらいだ。それも厳重な監視つき。
まるで籠の中の鳥のような暮らしだった。
それでも母は、明るく振る舞っていた。
わたしの前では、いつだって。
——そんな母が、ある日突然倒れた。
もがき苦しむ姿を見て、恐怖と不安がわたしを襲った。
「誰か! 誰か来て——!」
人が来るまで、必死に母の背中を摩っていたことを覚えている。
「お母様、大丈夫? しっかりして! 聖力でも治らないの?」
「だい、じょう……ぶよ、だ……から……」
苦しみながらも、切れ切れに声を振り絞ってわたしを安心させようとしているのが伝わってきた。
けれど、大丈夫だと言った母の呼吸は、それからすぐに止まり、その身体はあっという間に氷のように冷たくなっていった。
その日、九歳のわたしは最愛の母を失った……。
父はそれからすぐ、別邸に住まわせていた妾のセザビアを後妻に迎え、彼女との間に儲けていた八歳の女児イリーナを本邸に引き取った。
それ以降、わたしが父に顧みられることはなくなった。
けれどもわたしは母を見習って、物事をなるべく明るく前向きに捉えるように努めた。
そして、どうしても辛い時には想像の世界に逃げ込む。
そこでは楽しく幸せでいられたから。
想像の世界の相棒は、大抵は熊のぬいぐるみのミーシャが務めてくれた。
ある時、その相棒がイリーナにとりあげられ、庭で無惨な状態で見つかったことがあった。
変わり果てたミーシャを悲しく見つめたけれど、綺麗に洗い、丁寧に繕った。
そしてまた二人で想像の旅に出かけた。
そこではわたしは独りじゃなかった。
「今度やられたら、イリーナの大事なドレスに汚い足跡をつけてやるんだ!」
ミーシャが息巻く様子を想像し、「それはいいわね」と呟く。
けれど、わたしがミーシャとの会話を楽しみ、笑ったり、独り言を口にしていたせいで、継母やイリーナ、使用人達に「変わり者」「虚言癖がある」と蔑まれるようになった。
そして母の形見や食べ物、わずかな小遣いすら、いつからか消えるようになった。
「盗られた」と言っても、誰も信じてくれない。
どうせ虚言癖だと相手にされないのだ。
比較的良心的な使用人達も、見て見ぬふりをした。
当主や夫人達の態度を見て、わたしに懐かれると、彼らに疎まれると思っていたようだ。
——そして十五歳の時の、あの夜。
胸の奥で、どうしても許せない一線が踏み越えられた気がした。




