エピソード12 湖畔の思い出と父の憎悪
誕生日のピクニックは今まで生きてきた中で、指折り数えるほどの思い出となった。
特に、ロイと二人で散策した湖の光景は、胸に深く刻まれた。
澄んだ水面は紅葉を鏡のように映し、揺れるたびに金や朱の色彩がきらめいた。その美しさは、夢の世界を揺蕩っているような感覚に陥らせた。
湖畔を吹き抜ける風は少し冷たかったけれど、肩に羽織ったカーディガンと、隣を歩くロイの気配がそれをやわらげてくれたので、その温もりをかえって際立たせた。
ロイが何か重大な秘密を抱えていたとしても、わたしに対して、できるだけ誠実に向き合おうとしてくれることも伝わり、嬉しかった。
このひとときが永遠に続けばいい、と思わずにはいられなかった。
リンデハイムの教会に戻ったのは、いつもより遅い時間になったので、門前で御者のジェフとタバサがヤキモキして待っていた。
そして祖父母やロイと別れて、ラヴォイエール邸に着いた時にはもう晩餐の時間だった。
どうせいつもわたしは部屋で一人で食事を摂る。
部屋に着くまで、誰にも見咎められなければ問題ないはずだ。
重い玄関扉を開けて、足早に部屋に戻ることにする。
エントランスホールを抜けて、二階へ続く階段を上ろうとした時、食堂の扉が開いて、室内の賑やかな話し声が漏れ聞こえてきた。
間の悪いことにイリーナが出てきた。
「あら、お姉様じゃない。ずいぶん遅いのね……。ああ、今日は教会で聖歌隊の練習に励んでいらしたんでしたっけ?」
「……ええ、そうよ。今日は奉仕活動もしていたので遅くなってしまったの」
イリーナは眉を上げて、私の頭から足先までじろじろ検分した。
そしてプッ——と吹き出す。
「どうせ浮浪児と話でもしてきたんでしょうけど、一つ間違えれば、お姉様も浮浪児と間違われそうね、酷い身なりだもの」
酷い言いかたに腹は立ったけれど、話を長引かせてもいいことはないと思って堪えることにする。
この子は……そう、自分が屠られる日など想像もしない、哀れな豚さん。そう自分に言い聞かせる。
「あら手に持ってるのはなに……?」
心臓が音を立てる。この中にはカーディガンや靴が入っている。ペンダントは服の下に身につけているけど、見つかったら絶対取り上げようとしてくる。
「まあ、古びた袋じゃないの! 汚いからさっさと捨ててしまいなさいよ」
取り上げられないように、この袋に入れておいてよかった。
そこにメイドが来た。
「ジュディリスお嬢様、こちらにいらしたのですね。旦那さまが晩餐にお嬢様をお呼びするようにと仰せです」
「……なぜ、わたしを? いつもは部屋で食事を摂るように言うのに」
メイドに代わって、イリーナが言う。
「ノルテモア侯爵ご夫妻がお見えなのよ」
ノルテモア侯爵夫人……、その名を聞いて、一瞬背筋が伸びた。
彼女は当代の聖女の一人だ。
帝国で現在聖女と呼ばれる存在は五人。その頂点に立つのが、唯一“大聖女”の称号を与えられたお祖母様である。
ちなみに聖女以外の聖力を宿す者は、聖職者と呼ばれ、彼ら数十人は帝国各地の教会に属している。
主に小結界の維持や、民の日常的な治癒を担っているのも彼らだ。
聖力は、生まれながらに“器”を持つ者にしか宿らないという。
そして、聖職者の多くは古くからのシェスタビア家の流れを汲む家系の出身だ。
その内、女性の身に稀に大きな聖力が発現するとき、“聖女”と呼ばれる。
侯爵夫人の生家もシェスタビア家の遠縁で、聖力を発現したので皇命に従って魔力の高いノルテモア侯爵に嫁いでいる。
「お姉様に会いたいらしいわ。きっと落ちこぼれ聖女の娘を見てやろうっていう、興味本位ね」
そんなことなら行きたくはないけれど、イリーナの言う通りとは限らない。
「堅苦しい話ばかりする方達で、退屈で欠伸が出ちゃって大変だったわ。適当に言い訳して、さっさと退散しちゃったの」
イリーナは肩を竦めてそう言い、わたしは嘆息した。
「とりあえず着替えてくるわ」
外出着を脱いで、手早く晩餐用のドレスに着替える。着古した飾りけもないものだけど、これしかないから仕方ない。
食堂の扉を開ける前に、マナの流れを堰き止め、胸の奥底に聖力を押し留めるように精神を集中させる。
ノルテモア侯爵夫人は聖女だから、私の聖力を感じとるかもしれない。
父に聖力を持つことを隠しておくためには、気取られないように気をつけておかないと。
抑制の方法を祖母に習っておいてよかった。
緊張しつつ食堂に入るとノルテモア侯爵夫妻の席に近付いていく。
鷲鼻で貴族的な顔立ちのノルテモア侯爵は背筋を伸ばして座っていたけど、立ち上がり私のカーテシーを受け入れた。
「君が聖女ローレン様の娘か」
ラヴォイエール“侯爵の娘”ではなく“聖女の娘”として認識された。
父は面白く思わないだろうと考えていると、案の定、父の口元がへの字になっている。
「聖女ローレン様、か……。ははは……」
「なにがおかしいのですか?」
唐突に笑い出した父に疑問を差し挟んだのは侯爵夫人だ。
「いやね……、彼女はあなたほどの力を持つ者ではなかったからな。聖女といっても、せいぜい大聖堂で雑務を担う程度の落ちこぼれで……」
「落ちこぼれ? そんなことはありませんわ。わたくしの記憶では、きちんと聖女としての役目を果たしていらしたわ」
父の認識を否定して、母を評価してくれる人がちゃんとここにいる。そう思うと救われる。
しかし父の眉間には苛立ちが刻まれた。
「役目を果たしただと? ——笑わせる」
父はワインをあおり、卓にグラスを叩きつけた。
「私はラヴォイエールの嫡男として、この身に——誇るべき高魔力を授かっていた。だが、それがどうだ……あれが、ローレンが抑制の真似事をしたせいで、私の力は根こそぎ奪われたのだ!」
「奪われた?」
侯爵夫人が眉をひそめる。
「そうだ……」
父の声が震える。
「あいつが、……あいつの聖力が、私から魔力を吸い上げたのだ!」
言葉が落ちた瞬間、食堂の空気が凍りついた。
誰もが息を呑み、次に何を言えばいいのかわからずにいる。
「吸い上げられた? そんなこと……、考えられませんわ」
侯爵夫人が眉を寄せる。
「だが、そうなんだ。実際に私の魔力はあいつが暴発を抑制した時に奪われたのだから」
グラスを卓に叩きつける音が響く。
「……まさか、それをローレン様のせいだと?」
「まさか、ではない! あいつの聖力が——私から力を奪い去ったと言っている!」
その瞬間、場の空気が一気に冷え込んだ。
父の吐き捨てるような言葉に、わたしの心臓が強く脈打つ。
「現にその時から、殆ど魔術が使えなくなったのだ」
——母が、父から魔力を奪った?
聖力は魔力を抑圧することはあっても、奪ったり吸収したりするような性質のものではないはずだ。
母が故意にそんなことをするとは思えないし。
もしかしたら、禁術と言われる魔術のなかには、そういった——魔力を奪うものが、あるのかもしれないけれど。
父は魔力を母に奪われたと思い込んでいたから、ここまで長年母を憎み続けてきたのだろうか?
魔力を奪っただの、返せだの——そんな言葉を父が口にするのを、わたしは聞いたことがないけれど。
そこが不自然で、噛み合わない気がした。
それに、父が今はもう魔力を殆ど持たないということは……今まで知らされていなかった。
魔力のないわたしを貶める発言を繰り返してきたのに——。
ラヴォイエール一族のような高位貴族家に生まれた魔力を持たない者、その存在は不名誉でしかないと言われ続けた過去を暗い気持ちで振り返る。
不名誉だからこそ、自分が魔力を失ったことは隠してきたのだろう。
——それを、今は感情に任せて暴露してしまった。
胸の中がもやもやして、やるせなさ、割り切れない思いに蝕まれそうになる。
「落ち着きたまえ、高位貴族が魔力量を誇るのは道理だが、感情を露わにしないことも貴族の矜持。忘れたのかね?」
年嵩のノルテモア侯爵のこの発言には、父も恥じるところがあったのか、唇を噛んで言いたいことを呑みこんだようだ。
ノルテモア侯爵夫人はわたしに視線を向けて、声をかけた。
「とにかく……ジュディリス、座って話しましょう」




