後編〜桜の花咲く頃
「どうした、何か進展はあったのかな?」
だから、無い…。
週明けの昼休み、あたしは少しでも時間が惜しくて図書室へ向かった。
今はすっかり慣れた、この司書の「無礼な言葉遣い」が、やけに心地よくさえ感じられる。何であれど適度な毒気は人間に「ある種の悦び」をもたらすようだ。
「お願いがあるんですが…」
「お、なんでしょうか?」
「お父さんに…森咲屋の社長に聞いていただけるか…できれば会わせていただきたいんですが…」
なんとなく「軍門に下る」ような思いもなくは無いが、ここは仕方ない。ええと「虎穴に入らずんば虎子を得ず」…かな。
「私の父親にかい?まあ、会わせてもいいけど…」
何よ、不都合でもあるの?
「ちょっと遠くにいるんだ」
以前にも「声を聞いた」とかいう表現をしていたから、たぶん近くにはいないんだろうな、とは想像していたが…。
そう言いいながら、その所在地を言う森咲さん。
「もう、歳とって引退したから田舎に引っ込んだんだよ」
「田舎って…」
その地名を聞き、あたしは驚いた。
きっと偶然、なんだろうけど…でも、これほどの偶然もあるものなのだろうか…。
「え、そこに何かあるの?」
「い、いいえ…別に…」
陽子の、好きな人が通う大学がある所…とは言えない…。
よっぽど、意を決して出かけようかとも思った。ついで…と言ってはなんだけど、陽子の好きな菊池聖一という男性も会っておきたい気もしたし…。
「いいよ、それぐらいなら電話して聞いておいたげる」
森咲さんの好意に甘えることにした。
しかし、いずれは訪れねばなるまい…そこは桜の名所でもある…。
「放課後、待ってる」
不良高校生の決闘の場か、片思いの女子の告白の待ち合わせでもあるまいが、そんな約束をして早々に引き上げることにした。
でも、これがシャーロックホームズだったら、何を差し置いてもさっさと現地に行ってしまうところだろうけど…。
「ホームズは高校生じゃないし…」
あたしは…高校三年生でしかないあたしは、きっちりと校則に従って生活するしかない…。
心待ちにする程でもないにしろ、放課後が待たれるあたしだ。
だから、午後の授業はまたも、というかやはりというべきか、どこか上の空。もはや担任にも公認になっている「サボり」は、見に染み付いてしまったようだ。
しかし、そんなあたしに「不信感」でも抱いたのか…。
「ねえ、幸枝。最近どうしたの?」
「え?」
とも子が困ったような顔で声を掛けてくる休み時間。
朝の登校は変わらないけれど、下校時や時に昼休みにあたしが消えてしまうことがとも子には…。
「時々いなくなるけど…あんたのことだから男ができたわけじゃないだろうし…」
なんで、断定?事実だけど…。
「また、何かに関わってるの?」
「うん…」
あたしは素直に、陽子の依頼で「キャンディーズ桜の謎」を解き明かそうとしていることを白状する。
「え…まだ調べてるの?あんたにわかりそうなの?」
呆れたように言われると…でも、手掛かりになりそうなことが見つかったし…。
「陽子にわからなかったことなんでしょ?専門外のあんたにできるの?」
「うーん、まあ…なんとか…」
「陽子もあんたに丸投げすることないのに…まあ、あの子も受験がきついしね」
大学受験のハードな時間がなく、かつメイ探偵の誉れ高いあたしが活動するのは、必然の成り行きなのだ。
「陽子もしょうがないわよね。でも、お母さんが心配するだろうね」
「え?」
「だって、あんな遠くに行こうとしてるし…」
知ってるのか…。
「男絡み、だしね」
「とも子…」
「あ、いけない…」
「知ってるの…?」
変な空気が流れる…。
あたしは陽子が「意を決して」話してくれたことと思っていた。誰も知らない心の奥のことと考えていた…。
とも子は知ってるのか…陽子に聞いたのかしら…。
「やっぱり、そうなんだ…」
「えっ?」
「あんただけが名探偵じゃないよ。こういうことは、私の方が上手よ」
周りにいる人たちに聞かれないように、声を潜めるとも子。
「あんたの今の反応でわかったわよ。あんたは陽子に聞いたんでしょ?」
「え、ええと…」
「いいよ、言わないよ」
「とも子はどこから…」
あたしは狼狽しているのが、自分でもわかる。
「あの子が本屋で過去問を選んでるの、見ちゃったのよ。それが全部、あんな大学でしょ。それに学部が生物関係…あの大学ってうちからは二年前に初めて入った学校だよ。それも陽子の先輩の菊池さん、だっけ?生物部の部長だった人。ピンと来た」
来るんだ!
「陽子みたいな子が選びそうな人だよ。だって、大人しくて地味な女の子が選ぶんだから、ちょっと大人っぽくて、カッコいいとは言わないけど、理知的な感じでさ」
全然、わからないからなんとも言えない…。
「よく知ってるね。陽子の…その、趣味じゃないけど男性の好みとか…それに菊池さんって人のことも…」
あたしは心底、感心してしまう。
そうか…あたしが言われた「欠点」って、ここにあるのか…。
それに…。
「よく、本屋で見かけただけで、そこまで推測できるね」
知識と記憶と、そして経験値もあるのかな。
「こっち方面のことなら、あんたには負けないわよ」
どっち方面だか知らないけど…でも、すごい。
「で、どうなのよ。陽子は上手くいってるの?」
「大丈夫でしょ。あの子のことだから合格圏内にはいる…」
「バカっ!そっちじゃない」
「え…」
思いっ切り、罵られる。
「あ、そうか…」
先輩とのことね…。
「ええと…」
「どうせ幸枝のことだから、よくわかってないんでしょ」
なんか失礼ね…でも、正しいかも…。
恋愛事情か…。
「がんばりな」と、何をどうがんばるのかわからなかったけど「お姉さん」のとも子はできの悪い妹分を激励してくれた。
その放課後、あたしは約束通りに図書室へと向かう。
高校生活も残りわずか、ここ何ヶ月でそれまで縁の薄かった場所へ、足繁く通うことが増えた。
生徒会室…美術準備室…それから図書室。
思い返せば、今まで生きてきて、どこか消極的だったと思える「あたし」という人間の、それは転換になる出来事だったとも言えた。
そして…あたしの今がある。
「ああ、待ってたよ」
気がつけば、なんだか懐かしい気さえする声。
「で、どうでしたか?」
今は余計な会話は欲しくない。それが軽口ならなおさらだ。
「うん、それがね…」
なんだろう、いつもに比べて口調が重い。不調に終わったのだろうか…。
「直接、話したいんだとさ」
「え?…ええっ!」
「それで…明日の朝にこっちへ出てくるって」
そう言うと、かのモリアティ教授も「そうだっただろう」と思える、やや引きつった笑みを浮かべるモリヤチさんだった。
「お父さん、わざわざいらっしゃるんですか…」
あたしは少し驚いた。
遠くから来なくても、電話で十分に確かめられる、そんな内容だと思ったのに…。
「貴女に会ってみたいそうだよ。今さら女子高生に会いたい歳でもないとは思ったけどね」
間違いなく意味が違う。
「なんか、誰か連れてくるとか言ってた。私の婿なら会わないって文句言ったら、バカって返された」
冗談はいらない。
しかし、遠方から来てまで直接、伝えたいことって…。
「土産を忘れるなって言っといた。美味い漬物でも持ってくるんじゃないかな」
お土産なら「謎の解明」だけでいいわ。
そうは言いながらも、ちょっと楽しみもあった。
一気に「解決」といけば、また一つ「我が校の謎」が明るみに出る。それも「美術準備室の怪談」のような拍子抜けするような真相とは重みも違う…はずだ。
あたしは久しぶりにワクワクする気分の夜を過ごし、そして朝を迎える。
ここで陽子に「謎が解けそうよ」と言ってしまうのもいいんだろうけど、もし不首尾に終わったらみっともないから、我慢する。
言いたい…。
「おはよう、幸枝」
「あら、私は無視?」
「ごめん…おはよう、とも子」
登校時に陽子に会うのも珍しい。いつも早い陽子が、あたしたちと同じ時間帯になるとは…夜通し勉強でもしてたか…それとも…。
「何かいいことでもあるの、陽子?」
「え…さすが、幸枝」
「え、何?」
とも子も口を挟む。
やっぱり「いいこと」があって、眠れなかったか…きっと、彼のこと?
「うん、ちょっとね…」
やはり、そうか。あたしでもわかる。わかりやすい…。
「それよりさ、幸枝。謎が解けそうだって?」
「え?」
あたし、言っちゃったのかしら…ううん、そんなことないわよね…。
「あ、ううん。なんかそんな気がしただけ」
怪しい…。
朝から妙な感じだ。
今日は放課後に森咲屋さんに会って話を聞く段取りになっている…と、モリヤチさんが言っていたから…。
えっ?そういうこと、知られてる…いや、そんなはずはないと思うけど…。
でも、まあいいか。
受験も始まっていて、欠席する人も多くなった教室。授業も「受験対策」みたいなことが増えて、ちょっと疎外感を覚えてしまう。
まあ、なんにしろ「知識吸収」と思えばいい。
「おい、名探偵。この問題、解けるか」
「…」
その言い方、せめて授業中はやめて欲しい…。
先だっての「美術準備室の件」が、どこかで根に持ってるような気がしてならないんですが…。
正木先生の数学の授業も、やはり受験対策の趣きではあるが、それでも大学受験のないあたしのこともかまってくれているのだから、まあ喜んでもいいんだろうな…ありがとう、先生。
でも…。
「ええと…」
確率統計とか図形証明とか、意外と好きだからよく頭に入って来たんだけど…微分積分はちょっとなぁ…。
「なんだ、解けないのか?」
なに、その微笑…。
「わかりますよ…」
女の意地、だわよ。
「ハハハ…まあ、いいよ」
やっぱり「味噌っかす」か…。
高校生活も、こうして三年間を終わろうとしている。
泣いたり笑ったり…なんか、事件解決したり…。
今まで、あまり友達の多くなかったあたしにとって、皆んなが仲良くしてくれた印象がある。皆んなに「幸枝」って呼ばれて、そして「はい」って言えて…。
よく言う「かけがえのないもの」って、こういうのかな…。
あたしの中で、この時間は忘れられないものになるんだろうな。
だから…大事な学校で、皆んなにとって大切な桜の、その謎が解ければ、あたしにとって「恩返し」のような感じもしてきた。そんな思いを起こさせてくれた、今この瞬間が嬉しい…。
「ありがとう、先生…」
「なんだ、礼を言われることでもないぞ」
し、しまった…また、声にしてしまった…。
こんなあたし…こんなに大事なことをしてもいいのかしら…。
「ほう、あんたが…」
放課後の図書室…すっかりお馴染みのシチュエーションだったが、そこにいささか不似合いな御仁。言わずと知れた「森咲屋の元社長」で、モリヤチさんのお父さんだ。
果たして、関係者以外の人をこんな場所へ招き入れてもいいのだろうか…モリヤチさんの「職権乱用」ではなかろうか…。
まあ、いいか…。
「あ、はい…わざわざ遠くからお越しいただいてありがとうございました」
一応、礼儀正しく接しなければいけないだろう。
「なあに、いいってことよ。ここに来るのも久しぶりで、なんだか懐かしいよな」
モリヤチさんのお父さん、ということは年齢もそれなりにいってるってはずだと思うけど、なんだかとても若い感じだ。元々が植木屋さんという職業柄なのか、いなせな雰囲気もする。
そして、誰か若い男性を連れてきていた。植木屋さんの職人…という感じでもなさそうだ。まだ学生のような風情だ。
「まあ、お父さん。遠くから来たんだから、座りなよ」
「なに言ってるんだ。年寄り扱いしやがって」
「何よ。七十歳も超えてりゃ十分に年寄りでしょ」
親娘喧嘩…とまではいかないまでも、口汚く言い合う姿は、その言葉と裏腹に相手を思い遣るような感情がにじみ出ている。なんか…いいなぁ…。
「忘れるとこだった。このあんちゃん、大学生なんだが俺に弟子入りしたいって言ってきてるんだけどな…」
へえ、植木屋さんに弟子入りしたい大学生がいるんだ。
「俺なんざ、もう引っ込んじまったからな、今さら弟子なんて身分じゃないって言ったんだよ。でもな、こいつも物好きでな…」
「桜のことをもっと深く知りたいって考えてるんです」
「あんちゃん」が初めて口を開いた。物腰が森咲屋さんとは違って、とても柔らかな人だ。
「それで大学に入って勉強していたんですが、たまたま行った先で森咲屋さんの社長のことを知りまして…」
「おいおい、もう社長じゃねえぞ」
「あ、失礼しました」
そう言うと、やはり柔らかに笑んだ。なかなか「好い人」と思われた。
「あ、実は僕、ここの卒業生でして…」
卒業生でして、って…。
「ええ?」
「どうした、名探偵?」
森咲屋さんがいる所で、うちの卒業生って…。
「久しぶりで懐かしい母校の校門をくぐらさせていただきました」
「よ、ようこ…ようこそ…先輩」
危ない、また声にしてしまうところだった。ここで陽子の名前を出していいわけがない。なんとか巧く切り抜けた。
「いやいや、そんなあらたまって…貴女のことは小林君から聞いてますよ」
「へ?」
なんか色気も何もない声を出してしまった…今さら気にもしないが…。
「僕は菊池聖一といいます」
知ってます…。
「まあ、そんなわけで今回、ここまで連れてきてやったんだがな。せっかくの帰省だしな」
「お父さん、弟子入りって何よ」
モリヤチさんはイラついたような表情で父親の顔を見る。
「だから言ったろ。押し掛け弟子入りだよ」
「そうなんです。僕がどうしても弟子にしてくれって。授業の合間に顔を出させていただいてるんです」
「聞いたらよ、ここの桜の咲き方が不思議で調べてるって言ってるからさ。それで今回、こちらのお嬢さんがさ、前に俺のせいで人ひとりが不幸な目に遭ったのを、少しでもなんだ、その…名誉を回復してくれたからさ」
「俺のせい」って…。
誰も植木屋さんを責めたりしないわ。必要があって穴を掘っただけのことなのに…。
「それで今日は、あの桜のことを詳しく話そうと思ってな。俺の植えた桜を気にしてるなんて、偶然にしてもでき過ぎてる気がするけどな、菊池」
「いや、初めて聞いて驚いたところです。なんだか運命に引き寄せられたようです」
そうね…日本全国の中で、母校に桜を植えた職人さんが住んでいる街の大学へ入学して、そこでまたその人に出会うなんて…なんだか…。
「今、あの桜は元気なのか、八千代」
そうだ、八千代さんって言うんだったけ…。
「まあね。植え替えてまだ日が浅いけど、しっかりと根付いてるみたいよ」
「そうか…」
「良かった」って、言葉にしないけど…言わなくても、その柔らかくなった表情で感じられる。
桜が…ううん、植物や生き物の生命の尊さを知ってるのね。その目の優しさを見ればわかります、あたしでも…。
「ところでお嬢さん、娘に伝えておいた言葉の意味はわかったかな?」
「お嬢さん」と呼ばれなければ、学校の先生のようにも感じられる。職人さんって、皆んなこういう感じなのかしら?
「え、ええ…ソメイヨシノはサラブレッドっていうことは、なんとなく…」
「そうらしいな。娘に聞いた」
「条件が同じなら同じように咲くはず…それで咲き方が違うのは…」
「植えた時のことを考え直せ、ってな」
「そうなんです。それで当時の写真を見て…それに大きな穴を掘ったということを考えて、きっと苗木ではなく成木をどこかから移し替えたんだと思いました…」
うんうん、とうなづいてくれる。
「それで、真ん中の一本だけは成木で、他の二本はまだ幼木だったとか、かなと。まだ花が咲き誇るのには時間がかかっているんじゃないか、って…」
あたしの話を聞きながら、なんだか嬉しそうな顔をしている元職人さんは、
「大したもんだ…。おい、菊池よ。このお嬢さんみたいに深く読めないのかい」
と、あたしの先輩でもある菊池さんには厳しい表情を見せる。
「はあ…」
すごくへこんだ様子をしている菊池さんを見てしまうと、陽子に申し訳ない気分になってしまう。
でも、ここで終わらせるわけにはいかない。「本当の依頼人」の前で、手抜かりがあってはいけない。
「あと、もう一つだけ考えがあるんです」
「お、何か続きがあるのかい?」
「ええ…」
「解答」を知っているはずの人間の顔色の変化に、ちょっとあたしも焦る…でも、やめるわけにいかない。
「満開の桜を、実は見ている人があまりいない…」
「え?」
それは「師弟コンビ」が同様の反応。
「時期的に満開になる頃は、学校が春休みで…」
「なるほど…」
「ちょうど生徒が登校しないんです。夏休みや冬休みと違って、部活も休みになるんで…」
あたしは持論を展開する。
「咲き始めや散り際の頃は見られても、満開になったキャンディーズ桜…って、あたしたちは呼んでるんですが、あの桜の一番咲き誇ったところを、実は意外と見ていない…」
「そうか…」
菊池さんも頷く。
「それで前の意見の続きで、木の成長が違っているから…」
以前に思い付いた「勘違い説」を話す。
そうしてみると、やはり「樹齢」が関わっている気がする。
「うーん、あんたが弟子になってくれれば嬉しいな」
あたしは嬉しくない。
もう一人、菊池さんも嬉しくなさそうな顔だ。
「そこまで考えがいってるとは思わなかったな。うん、よく考えた」
授業も上の空でした。
「正解と言えば正解だ」
「?」
微妙な評価だわ…。
「このあんちゃんは及びもつかなかったようだがな」
「すいません…」
「お嬢さんの解答も、もう少し違う見方が欲しかった…まあ、難しいだろうがね」
違った見方?
「まず、樹齢は同じぐらいだったな」
「え、そうなんですか…」
見立てを誤ったか…。
「いや、同じぐらいだったというだけで、同じとは言い切れないんだ」
「…と言うと?」
「産地が違う…持ってきた場所が違う土地だ」
頭の中を電流が走る…いつも思うが人造人間ではないが…。
それでも一瞬のうちに閃いた考えは、あたしを何か違う存在にさせるようだ。
「では、一本は北から…後の二本は南から…?」
「おお、大正解!大したもんだ、本当に」
賞金百万円…テレビのクイズ番組なら。
そうか…。
「環境が…違っていたんですね…」
そう、この土地へ来るまでの環境が…。
「寒い土地から来た桜なら、ここの方が暖かくて恵まれている場所だ。だが暖かい地方から来たのなら、厳しい環境、ということになる」
植えられた桜が成木であるならば、それらがどこか他の場所で育ったということを考えるべきではあった。学校新聞の記事には、それらは一切触れられていなかったし、全くもって想像していなかったことだ。
環境が良くなれば生育も良くなり、厳しくなれば育つのも悪くなる…そういうことなのだろう。
この学校へ来た当初から、その咲き方に差が出たのも、そういった「条件の違い」があったということなのか…。
それでも、やがては三本とも「この土地の桜」になっていくのだろう。気が付けば同じような咲き方になっていることだろう。
「でも、なぜ…そんな大変なことを?違う土地から運んでくるなんて…」
あたしの疑問。
「その件かい?それはな…」
「ええ…」
あたしは身を乗り出す。言ってみればクライマックスかも…。
「よく知らん」
「えっ?」
あっさりと、まるで何事もなかったかのように、あたしの…あたしたちの期待を裏切ってくれる。
「何よ、お父さん。そんな大事なこと、知らなかったの?」
「理由なんて聞かなかったさ。ただ植え替えだけが俺の仕事だ」
そうね…間違っていない…。
そもそも、あの場所に桜を植えようとした理由。それも詳しく述べられていないのだ。そして、それを考えていないあたしも、不覚と言えば不覚だったかもしれない。
「どこから来た桜なのかは聞かされてたよ。同じ日に届いて、その日に植えたしな。全部、遠くからわざわざ運ばれて来たんだ、大切に扱ったさ」
遠くから…そうね、かなり遠い所の桜だわ…。
「なんで…?」
「なんでって。そりゃあ、かわいい桜を枯らしちゃならないからさ」
また…変な「合いの手」と思ってるだろうな…。
「そう…そうですよね。さすが桜を愛してらっしゃる…」
「ま、まあな」
照れるところかな?
でも、本当に「謎が謎を呼んできた」わね。
遠来の客…ならぬ桜。
またあらためて、今度は学校の関係者に聴き込まなければいけない。当時にいた人…一人だけ思い当たるが…。
「まあ、お嬢さん。とりあえず、こんなところで勘弁してくれや」
「いえ、ありがとうございました。ずいぶんと進展したと思います」
「そうかい、あんたは頭がいいな。菊池よ、よく見習えよ」
これは照れるところ。
あたしを褒めそやし、弟子候補を落とし込めた桜の師匠は、
「ところで八千代。あの件だけどな…」
「お父さん、こんな所ではやめて」
なんだろう、ちょっと気になるけど…。
モリアティが見せる、初めての動揺したような表情。
父親と娘―。
あたしには薄い記憶と…感情も遠いものしかない。
そういえば、あたしのお父さんって…。
解散、そして帰り際。横目で見ると、森咲屋さんは娘さんと帰るようで、持ってきた荷物を手にしている。
モリヤチさんが「悪いわね、土産も買ってこなかったみたいで」と、弁解めいたことを言っていたが、桜の件で少しは進歩があったから、あたしにはこれ以上のお土産はない。
「幸枝さん、でしたよね?」
菊池誠一先輩が声を掛けてくる。こんな時でも「幸枝」なんだ、あたしって…。
「小林君、どうしてますか?知ってますよね」
「ええ、多少は…」
どこまで、何を知っているというのか…どう答えていいのかわからなかった。だから言葉を濁す。
「本当にうちの大学、受けられるのかな…」
え、何を今さら…。
あたしはちょっとムカついてしまった。
きっと、露骨に顔に出たのだろう、
「いや、あの子は母子家庭でしょ。一人で遠くまで行ってしまっていいのかなと思ってさ」
そういうことか。心配はしてあげてるのね…。
「うちなんか弟もいるし、男だから大して心配されてもいないんだけどね。でも、小林君はお母さん一人残して来られるのかな」
母親を残して一人で遠くまで…。
あたしの脳裏に、一つの出来事が浮かび上がってきてしまった。
歴史が繰り返される、っていうわけでもないだろうが…。
「成績ならなんとかなるって、いつも手紙とかには書いてあったし、大丈夫だとは思うんだけど。やっぱりお母さんのこと考えるとね…」
じゃあ、きっぱり言ってあげて…と、あたしはきっぱり言えない。まだまだそこは修行不足。
「ああ、ごめんね。こんなこと君に言っても仕方ないよね」
仕方ないことはないけど、なにしろ本人に直接言うべきことだわ。
「今日は会うんですよね」
朝の陽子の様子から、そう推測する。
この人が来るとまでは、その時点で考えもつかなかったけど…。
「うん…まあね…」
それがはにかみなのか、それとも曖昧なのか…はっきりとした物言いではない。あたしは苛つく。
きっと「人の恋路を邪推するな」って、そういうことなんだろうし、少なくともあたしには二人の仲にどうのこうの言う権利も義務もないから…。
だから…でも…せめて…。
大切にしてあげてください―。
「どうした、幸枝。酔ってるのか?」
飲んでるわけがない。
「何かあったな。なんか男絡みに見える」
酔っているのは伯父さんの方だ。
「そうか、お前もそういう年頃だな」
かなり遅れてる気がする。
「まあまあ…幸枝ちゃんも、少しは何かあるのかしら」
「伯母さん…あたしはなんにも…」
無い、のも淋しいが仕方ない。
夕食のテーブルは楽しいはずだけど、どこか浮かない顔でもしているのだろう。元刑事にはすぐにお見通しになる。
しかも「男絡み」など、さすが観察眼は衰えていないみたいだ。
まあ、晩酌がいつもより進みすぎているのは問題であるが…。
ねえ、聞いて。陽子の彼氏がねぇ…そう言って話を進めていいものだろうか。
まず「彼氏」というところで、不確定要素だ。別にきちんと「恋人」なりの紹介をされたわけでもないし、勝手な言い分で迷惑をかけてしまうのも申し訳ないし…。
ここは…。
「桜の木のことでね…」
「なんだ、まだ抱えていたのか?」
少々「呆れ顔」に見えるのは、いつまでも解決を見ない姪っ子の力不足を嘆いてか?
しかし、そこはメイ探偵を自負するあたしが、そうそう投げ出すわけにもいかないことを証明したい。
「それで…」
あたしは司書の森咲さんのお父さんで、当時の植木屋さんに話を聞き、さらに発展があったこと…そう、ある意味「キャンディーズ桜の謎」は解けてきたことを話す。
「なんだ、それじゃ無事に解決したのか?」
驚いたような顔をする伯父さん。少し誇らしい。
「まだ決定、ではないけどね」
欽ちゃんの番組ではないが…。
元々育った環境が北と南で違っていたから、咲く時期がずれたというのが正しいと思う。それにあたしが考えている「全体を見る時期」が限られているから「真ん中の木はよく咲く」と思い込まれているのでは、ということを付け加えた。
だから「ずっと勘違いしてた」という結論、かしら。
たぶん、最初の頃は本当に咲き方の差もあったと推察できる。どんなに「一卵性双生児」であるソメイヨシノであっても、気候が極端に変わって「良くなった」のと「悪くなった」のとで、咲き方に違いができたんだろう。その頃はしっかりと開花の季節を観察もしていたのだろうから、その差もはっきりと認識できていたに違いない。
しかし、最近は満開時期の観察をする機会もなく、まだ咲き始めの頃は「北国育ち」でもある真ん中の木が最初に咲いてしまうので「ああ、やっぱり」と思わせてしまうのだ。
「…って、いうことね」
「お前…」
「え?」
「県警、来るか?」
伯父さん、目が真剣…酔って赤いけど。
「な、何…今さら…」
あたし、ちょっと…。
「いや、冗談だ」
たぶん、少し本気…。
「おーい、もう一本つけてくれ」
照れ隠し、かな?
あたし、ちょっと…嬉しかったかもしれない…なんか、認めてもらえたような、そんな感じで…。
「ありがとう…」
「え?」
あたしはさり気なくひと言…。
すごく素直に言えた…今まで一番…。
あたしは朝から「事情聴取」を始める。
相手は「事情を知っていると思われる人物」である一人…。
「先生、いいですか」
「なんだよ、朝から。何か捜査でもしてるのか」
ホームルームが終わった後、教室を出ていこうとする担任の正木先生を呼び止める。
あたしに声を掛けられると、やはり一瞬の躊躇とか戸惑いとか…もしかすると拒絶反応かもしれない、なんらかの感情が生まれているような気がしてならない。
「ずっとしてる調査です。先生、伺いたいことがあるんですが」
あたしの様子に、クラス中が反応する。最近のあたしは、やけに注目を集めることが多い。
「なんだ…言ってみろ」
どうも「及び腰」にしか見えない。
「美術準備室の怪談」を生み出した張本人は、解き明かしたメイ探偵を疎ましく思っている…かもしれない。
「キャンディーズ桜のことですが…」
「えっ、幸枝。謎が解けたの?」
「うん、なんとなくね」
「おお、スゲえな!」
今やクラスのヒロインか、あたしは…。
「桜がどうした?」
「なぜ、北と南って遠いところからわざわざ運ばれてきたんですか?ご存知ですよね」
当時、生徒会副会長だった正木浩君なら知っているはずだ。あたしはそう思っている。
「なんだぁ、北と南だとぉ?」
間延びした声、カッコ悪い。
「そうです。当時、植樹をした植木屋さん、覚えてませんか?図書室の司書の森咲さんのお父さんが、作業されていたんです」
聞き耳を立てていたクラス中がどよめく。
「あ、そうなの?」
「そうです」
あたしは容疑者を追い詰める…ではなかった、先生を問い詰める。
「あたしは森咲屋さんから聞いたんです。北から来た木と南から来た木を植えたって」
まるで早口言葉だ…。
「じゃあ何、幸枝。それで咲き方に違いが出てるっていうのね!」
正確には「咲き方」ではなく「咲く時期」ということになる。
「おお!」
もはやクラス中、大騒ぎ。やはりヒロインかも…。
だけど…でも、それだけじゃ終わらせられない…。
「先生、当時のことは覚えてませんか?」
「ああ。少しは、な…」
当時のこと…それはつまり…。
「覚えてるよ…桜のことも…それから…」
彩子さん…。
「そうか…そうだったのか…あの桜が…」
「先生…」
「北と南と、そんなに遠くから運ばれてきたのか」
「そうらしいです…」
駄目か…知らないか…。
「理由は知らない、その土地から来たことは。おそらく、当時も知っていた人は少ないはずだ」
「そうですか…」
仕方ない、聞き込み先を変えるしかないか…。
「ただ…」
「え?」
「それを決めた人は知ってる」
「ええ、本当ですか」
「ああ。お前も…皆んなも知ってる人だ」
「え、ええ?」
先生の暗い顔…あたし、わかっちゃった…。
「それって、まさか…」
「は。察しがいいな、さすがだ」
「え、誰よ?幸枝…」
「とも子…あの人よ、きっと」
「そう、当時の学年主任だった人だ」
「十五年前の?え、それって…」
「小川善一…元校長よ。そうでしょ、先生?」
正木先生は何も答えないことで、全てを物語ってくれた。そして、その目はなんとも言えない「邪気」みたいなものを醸し出している。
朝からあたし、いけないことをした…。
「ありがとう、幸枝。おかげで菊池さんにも会えた」
「そう、よかったわね」
陽子の嬉しそうな顔は、朝からのあたしの「しまった!」を帳消しにする。
放課後の図書室は、もうすっかり馴染みの場所。あたしは遠目にモリヤチさんを見ながら、陽子にこれまでの経過を話した。
「でもね…肝心の桜が来た経緯を聞くことができそうにもないわ…」
他に誰かが知っているかもしれない、あたしが気が付かないだけで…。
「ううん、いいよ。幸枝の考えたことが正しそうだし、それに…」
陽子は「もう話題にしたくない」ということだろう。
「うん、わかった…」
「あ、そうだ。もう少ししたら顔を合わせなきゃいけないから、その時に聞いちゃおっか?」
「え?」
あ…そうか…。
検察側の証人―。
どこか明るく冗談のように話す陽子の、その心の傷は完全には癒えていないだろう。それでも…それなのに、何事もなかったように振舞っているここ数ヶ月間…。
きっと、大きな支えが菊池聖一という男性だったのではないだろうか。
あたしもほんのちょっと会って、少し頼り無さげではあったけれど、誠実で心の大きそうな感じはした。
どこか、誰かに似ているような…誰とかはわからない、その雰囲気とか印象だけなのかもしれないけど…。
「そうだ、陽子…」
「え、何?」
「お母さんに話はしたの?その…」
なんて言っていいのかわからない。直球に聞くのも、なんとなく切ない感じもした。
「菊池さんのこと?」
「うん、まあ…」
あたしが言い淀んでいると、
「なんとなく、はね…」
少し照れ隠しをするように、上目遣いで答えてくる。
「あんなに遠くの大学受けるって言ってるし、母もなんか察してるところはあるよ」
「そう…」
「誰とか、詳しいことは言ってないけどね」
「…」
急に…あっという間に、陽子が大人になったように見える。あたしの知らない遠いところへ行ってしまったような、そんな印象を受ける…。
行ってしまうのは…遠くへ行っちゃうのは、これからなのに…。
「一次がうまくいったから、大丈夫だと思うんだ」
真面目で努力家の陽子。あれほど辛い目に遭ったのに、その力は落とすこともなかったようだ。
本当ならきっと、国立の最難関校だって受かるはずだ。きっと、問題なく通るだろう。
しかし…。
「よかった…」
「ありがとう。でも、まだ終わってないから…」
「あ、そうか…」
女二人、なんとなくしみじみとしてきてしまった。
「よう、名探偵。昨日はお疲れ様」
頃合いを見計らっていたのか、会話の休止中に司書のモリヤチさんが口を挟んでくる。けっこう気遣いの人なんだな、と思えるようになってきた。
「親父がよろしく言ってた。いつでも弟子入りを許すそうだ」
それは勘弁してほしい…。
「まあ、菊池聖一君もがんばってるようだけどな。あんな頑固者、相手にするんなて、よしゃいいのに」
ここでそんな言い方をしてほしくないなぁ…。
さっき思った「気遣いの人」、ちょっと保留。勝手に思ってただけだけど…。
「でも、幸枝。菊池さん、言ってた。貴女ってすごいって」
そう言う陽子の顔は、最近になく明るい。
「ん…」
そんな様子を見て、モリヤチさんは感ずるところがあったのだろう。パッと顔つきが変わった。
やはり、大人なんだな…。
「さてと、仕事を続けなきゃ。またね、お二人さん」
やはり、気遣いは忘れないようだ。
「でも、本当にありがとう…」
陽子の言葉は…気持ちは、気付くといつでも固いのだ。でも、そんなところ…それが陽子のいいところ。
「うん、いいのよ。あたしだって気になっていたことが、少しはすっきりしてきたんだから」
「なぜ?」はわかっていない。桜の木がどうしてうちの学校へきたのか…どうして北国育ちと南国育ちということなのか…。
なんだか…動機はわからないが、とにかく犯人はお前だ!みたいな感じだ…。
ふと思った。あたしの考え…。
これは伯父さんに頼んでみるしかないか…元県警捜査課課長にお願いして、現役捜査課課長を通して、なんとかして聞き出してもらう、そんな怖いことを頼んでみようか…。
それしかないか…。
でも、だからって、どうやって切り出そう…。
夜の食卓。
今日は伯父さん、お酒を休まなければいけない日とかで、伯母さんからは飲ませてもらえないでいる。少し機嫌が悪いかもしれない。
「なんだ、幸枝。桜の話はどうなったんだ?」
あたしの顔を見るといきなり切り出してくる。
桜の大家に弟子入りを許可された、とは言えない。
もういいわ、素直に聞いちゃえ。
「あのね、実は…」
真実は手に入っているのかもしれない…でも、その本筋はわかっていない。それを知るために…。
「おいおい、無茶言うなよ」
わかってます。
「もう、とっくに検察へ引き渡してる。だからな…」
もう県警の範疇にはないのだ。簡単に情報を仕入れるわけにはいかないのだ。
「もういいだろ?誰も行き着かなかったところまで届いたんだ。それ以上の事実は知ることもないだろう」
うん、わかる。わかるけど…。
「でもね…」
あたしの、それはたぶん…。
「わがまま、なのはわかってる…」
「収まりがつかないか?」
そうかな…少し違うのかな…。
「まあ、いい」
夜は更けていく。静かに、穏やかに…。
あたしの気持ち、それは…。
何かを忘れているような感じ…どこかに取り残されているような…。
そう…きっと、桜がなぜ遠い所から来たのか、それを知ることよりも大切な何かがあるような、そんな感覚…。
なぜ、今ごろになってそう感じているんだろうか…。
「あとで山浦にはそれとなく話しておく。重要な証拠の、桜のことで確かめる必要があるから、とかな」
「伯父さん…」
「だがなぁ…」
しかめっ面…。
「理由が、そんなに重要なことか?」
「…」
そう、何も言い返せない。
言ってしまえば、それはあたしが「自己満足」を得るためだけなのかもしれない。
「まあ、いい」
ありがとう、伯父さん…。
あんなに「五里霧中」みたいだった、うちの学校の「キャンディーズ桜の謎」。それが、やっと明るみに出ることになった今、その細部までも光が当たらないと気が済まない…ということもあるが、しかし他にもなんだか気になっていることもあるのだ。
でも…なんだろう…。
「奥歯にものが挟まっている」っていう感じかな…。
誰かが、何かを言った、そのことが全体の中で上手く収まっていない、そんな感覚かもしれない…。
誰?
何?
「ねえ、幸枝」
最近、とも子との会話があまり印象に残っていない気がする。
陽子や、今はモリヤチさんたちと「桜談義」で満開になっているから、ついつい親友の声を忘れがちになっているのかもしれない。
「うん?」
朝の通学路も、もうすぐ歩くこともなくなってしまう…っていう「感傷」に何度も浸ること、夥しくなってきた。それが逆にだんだん慣れてきてしまったようにも思える。
「あんたさ、最近は図書室に入り浸ってるよね…私をほっぽらかして」
いやいや、そんな言い方しなくったって…。
「まあ、それはかまわないんだけどね」
とも子らしい…。
「でね、その図書室のさ、司書さん。モリヤチさんって、三月いっぱいで辞めちゃうんだってね」
「え?」
今、なんと言っていいかわからない気持ちが…感覚が芽生えた。
なんだろう、こういうの…。
「本当なの、それ…」
「ああ、本当だよ」
「えっ、あ…モリヤチさん…」
こういうのを「噂をすれば影がさす」というのだろう。あたしたちの歩いているすぐ後ろに、彼女がいたことに気付かなかった。もっとも、気付いていてもどうにかなるようなものでもないが…。
「この前、うちの親父さんが言ってたろ、帰り際に。あの件、って」
あ、そういえば…なんか気になったけど…。
「元々、うちの実家っていうか、本家はあっちなんだけどね。引退してから親父さん一人で戻ったんだよ。お袋さんはとっくに死んじゃったし。それでさ、いい加減に嫁に行ってくれって言われてるんだけど、まあ無理だね」
それは、なんとも…。
「せめてこっちに来ないか、そういうことでね。なんかもういい歳だしね、親父も。少しは…」
心配なのか…。
「なんとか、あっちにも仕事が見つかりそうだから、ちょうどいいかな、って」
「そう、なんですか…」
三月いっぱいっていうことならば、ちょうどあたしたちの卒業と同時だ。そのまま勤め続けていても、あたしたちとはお別れには違いないのだ。
だから…でも…。
当たり前のことなのだ…三年生は卒業する…学校を去る…たくさんの思い出と引き換えに、たくさんの人たちとの別れを迎える…。
当たり前のことなのだ…。
今ここで、ほんの少し前に「悪い印象」で知り合った一人の人が、何も知らなければそのまま会うこともなくなるだけのことを、その行き先を…行く末を知った、ただそれだけのことなのだ…。
あたしは…あたしたちは…ただ、その当たり前のことと、少しだけ知り得ることを…。
ただ…ただ…。
でも…でも…。
だからって…。
「ちょ、ちょっと幸枝。何よ、どうしたのよ」
「おい、こんな所で何を泣いてんだ」
あたし…泣いてるの?
なぜ…。
「幸枝、立ちなよ。馬鹿ね、子供じゃないのよ」
「馬鹿だね、私のために泣いてんのかい」
二人もしゃがんで肩を抱いてくる。
そうか、あたし…座り込んで泣き出したのか…。
通学路で…。
本当に…馬鹿…。
それはもちろん、朝から往来で「失態」を披露してしまったこと、痛恨ではある。
幼稚園児や小学校低学年の児童でもあるまいに、道端で泣き崩れるなどあり得ないことだ。「通学路」なので見知った人や、最近の「メイ探偵」の活躍で少しはあたしを認知している生徒も多くいる中で、だ。
いや、問題はそれではない…泣いたことより、泣いた理由が重要なのだ。
あの、天敵としか言いようのなかったモリアティ…森咲八千代女史が職を辞するということを聞いて、それでなぜだか「涙腺崩壊」してしまった、ということだ。
どう転んでも三月にはお別れするだけのことなのに、なぜこんなにも感傷的になってしまったのだろうか…。
考えると…考えただけで、またも目頭が熱くなってしまいそうだ。
気付くと、それは離れ難い気持ちに陥ってしまっているということなのだろうか…。
あんなに嫌な気分になる相手だったのに…。
「天敵」と書いて「好敵手」なのか?
「幸枝、どうしたの?」
どれだけおかしな顔をしていたのだろう。隣の麗子が、切実に心配そうな表情で声を掛けてきた。
よく言われている台詞なのではあるが、今日の麗子の声のトーンはあり得ないぐらいに、重い。
「なんかね、朝から変なのよ、幸枝。いきなり泣き出すし」
「何、どうしたの?」
少しほっといてほしい気もする。なんだか、自分でもよくわからない感情なのだ。
「だってね…」
とも子が麗子に説明している。側で聞いていて、自分のことをそうやって話されるのは、決して気分のいいものでないのがわかった。
「そんなに、あの人のことが好きなの?」
「…」
なんだか、片想いしている女の子に、恋の手ほどきをしているみたいな言い方だ。それが全くもって「見当違い」なのが、心の底から哀しい…。
「やだ、幸枝。そんな趣味?」
どんな趣味と言いたいんだ、麗子。
「違います」
ここははっきりさせないといけない、あたしのためにも。
「わかってるわよ」
じゃあ、聞くな。
「なんか、あの人のこと、嫌いじゃなかったの?」
とも子はあたしのちょっとした感情も察している。
「そうよ…そうなのよ…」
天敵、ぐらいに感じてしまった。それはいきなり「モリアティ」などと言い出す感覚が、ちょっと信じられなかったのだ。もっとも「モリヤチ」だったのだが…。
「幸枝、もしかして…」
麗子、今度は何を言い出すのよ…。
「喪失感?大きな敵を失うことへの淋しさ、みたいな」
喪失感―。
なるほど、それは言えるかもしれない。
「だけどさ。どっちみち三月末って、私たち皆んなが卒業していなくなるのよ。そのまま在職していたって同じことじゃない?」
「うんにゃ、ちょっと違うかも」
「え、何?」
「幸枝にとって、モリヤチさんは倒すべき相手だったのよ」
おいおい、なんだか物騒な話になってきてないか?
「それなのに、向こうから逃げ出すことを宣言されて、行き場がなくなった気持ちになっちゃったのかもしれないわ」
「それが淋しさ?」
「そう。連戦連勝だった名探偵が、やっと巡り合えた強敵と闘えなくなった、相手を倒せなくなってしまった…喪失感」
「…」
まあ、よく「心理分析」してくれたものね。
でも…そんな感じなのかな…。
「幸枝、しっかりおし。これからもっと真の敵が必ず現れるから。その時にまた力を発揮すればよいのだよ」
今度はなんだ、怪人二十面相かアルセーヌ=ルパンとでも合間見える、とでもいうのだろうか?あたしって一体…。
だが、あたしのことを、どこか見当違いな感じではあるけれど、心配してくれる友人の思い、嬉しく感じる…感じるが、ここで感じ入り過ぎると再び涙をこぼしてしまいそうになるから、気を付けることにする。
あたしのこと、笑顔で見守っってくれる二人の友人に、心からの感謝と感動の気持ち、胸に刻み込もう。この二人とも、もうすぐ…。
まあ、いい。放課後にまた、図書室へ行ってみるか…。
「…というわけで、来ました」
「ふん…」
そうか、気が付けば自然にあたしの方から声を掛けているんだ。
「まあ、ちょっとしたことで感情が大きく振れる。思春期の特権だな」
最初に感じた「嫌悪感」みたいなものは、とっくに消え失せてはいる。「同じ空気を吸うのも嫌だ」みたいな雰囲気はない…っていうか、よく考えてみると前はあったのかもしれない。
「まあ、あんたもいつかは思う時も来るよ。親を心配に思う時っていうやつが…いや、両親いないんだっけね、悪い」
「いえ…」
親はいないけど、それ以上の伯父さん伯母さんがいるから…。
でも、そういう時が来るんだろうな…。
「ちょっと早い気もするんだけどね。まあ、若い時から無茶な仕事振りだったから、ガタが来るのも早かったってわけ」
「どこか具合が悪いんですか?」
元気そのものに見えたが…。
「見た目はああでしょ?だから心配なさそうだけどね。でも血圧高いし、糖尿病だし…心臓だってガタガタなんだよ」
「そうなんですか…」
「頭はまだボケてないけどね。あれでボケられたら大変だよ」
散々な言い方…でも、それだけ心配をしているのが、あたしにもよくわかる。
信頼関係、とでもいうのか…。
お父さんと一人娘、あたしもそうだったはずだ…そうしてお互いを思い合える関係になれたのだろうか…。
「まあどっちにしろさ、三月いっぱいってことは、あんたたちとも卒業でお別れだったし、関係ないことだよね…ああ、もしかして三月より前にいなくなって欲しかったから泣いたのか?」
そんなわけない…。
感じる思い…それは、素っ気ない温かさ…。
今まで感じたことのないような…それでいて懐かしいような…。
こんな女性、近くにいたかな…部活の先輩とかに近いかも…でも、ちょっと…。
誰…女性?
もしかして…男の人?
鼻の奥にツンと来るような、そんな感じ…。
何…誰…?
そして…襲ってくる…本当に…喪失感…。
心の深いところ…遠い所にあるはずの、それは…。
「おいおい、また泣かないでよね。あんたも高校生なんだから…」
「パ…パ…」
「おい、おい!幸枝さん!」
う、うん…。
頭が痛いような気がする…。
どこだろう、ここは…身体が浮いてるような感じだ…。
どうしたんだろう、あたし…少し前の記憶がない…。
暗い…目が開かない…いや、目を閉じているだけ…。
「う…」
声が出ない…いや、そんなこともない。
「あ…」
「おお、気がついた?」
声が、聞こえる…なんだか、遠くからのよう…。
「あら、大丈夫?どうしたの、一体」
一体?どうしたの、か…?
「え…」
あたしは身体を動かした。そうしたら、今はなぜか横になっていることに気がついた。
目を開く。ちょっと眩しい感じがする。
「大丈夫だった?」
目の前に女性の顔。この人は…?
「あ、先生…」
保健室の藤原先生だ。若くて、少し美人の…。
「どうしたんだい、急に倒れて」
この声は…なんだモリヤチさんか…。
「え、あたし…」
「図書室で急に意識をなくしたみたいになったんだけどね、覚えてない?」
あたしは枕に載せたまま、思い切り首を振る。全然、記憶に無い。
いや、何かが…その正体はわからない…でも身体の中…ううん、どこだかわからない場所を鋭い刃物のようなものが突き刺して去って行った…そんな感じがした…。
でも、なんだかわからない…。
「ちょっとびっくりしたけどさ、でも見たところ問題はなさそうだね」
「そうですね。外的な要因はなさそうです」
あたし…本当に何があったの?
「何があったかはわからないけど、何か心的なストレスが原因みたいね」
「藤原先生…」
あたしは不安になってきた。
「あたし…何か変な病気とか、じゃないですよね?」
頭の中を去来するのは…迷惑をかける…気を遣わせてしまう…。
「病気?うーん、ここでそういうことを言うわけにはいかないんだけどね…」
え、何それ?
「病名とかを言えるのはお医者さんだけだからね、私がどうこう言えないの。でもね…」
「あ、はい…」
あたし、ちょっと心配したけど…。
「まあ、診たところでは身体に問題はなさそうね」
軽やかに言ってくれる藤原先生。少しだけホッとする。
「家に帰ってゆっくりしなさいね。おうちの人、呼ぶ?」
「え、ああ…大丈夫です。一人で帰れます」
必要以上に心配をかけたくない。
「貴女、三年二組よね?正木先生には連絡してあるから…」
藤原先生の言葉が終わるか終わらないうちに、激しくドアを叩く音―それがノックであることに気がつくことに時間がかかった。
「おい、どうしたんだ!大丈夫か?」
「正木先生…」
慌てて飛び込んできた担任の姿に、あたしはちょっとびっくりした。
「具合は平気か?どこか痛いところとか、無いか?」
「正木先生、大丈夫です。慌てないでください」
「ああ、藤原先生…」
「どうしたんですか、その格好は?」
ジャージの上下、それはまだいい。しかし、その上から羽織っているのが綿入れ半纏…。
「え?いや、電話をいただいてすぐに来たもので。家に帰っていたので、そのまま来てしまって…」
ちらっと見ると藤原先生、クスクスと笑っているのがわかる。
「先生、病院に行かなくてもいいんでしょうか?救急車、呼ばなくても…」
「大丈夫です。身体の方は何でも無いと思います。ただ…」
「ただ?」
「私のようなものが言ってもいいのか、わからないですが…」
あたしの方をチラッと見ると、
「何か精神的な負荷がかかったんだと思います。おそらく…」
「精神的な負荷?」
「ええ…まあ、ストレスとも言えますが」
「ストレス?」
最近、どこか身近な感じになっていた正木先生。今この場でも、あたしという一人の生徒を親身になって心配してくれているのが感じられる。
「すみません…私、精神医学も勉強していたので、話を聞いた限りの判断では…」
「そうなんですか。それで一体、どんな状況だったんでしょうか?」
「あ、それは私が…」
やりとりを横で聞いていたモリヤチさんが、説明責任を果たそうとして口を挟む。
「森咲さん、ご一緒だったんですか?」
「ええ。最近の彼女の主戦場が図書室なんで」
「主戦場って?また…」
「なんかやってんのか?」って、あたしを睨む顔に書いてある。ついでに「いい加減にしろ」とも言いたい表情だ。
あたしは掛け布団を顔の半分ぐらいまで掛けてごまかす。
「いや、彼女は偉いですよ…」
モリヤチさんは、ここまでの経緯を踏まえて正木先生に説明をしてくれた。
「急に?それは何かこいつに心の問題でもあるんですかね」
なんか酷い言い方だ。いつぞや…いや、いろいろなことを根に持ってる?いいや、慌てて飛んで来てくれる先生、そんな意地悪じゃないでしょ…。
「そんなこと、ないとは思いますが…」
藤原先生が答える。
「ただ、こういうことは本人でもわからないことが多いんです。時間をかけて解きほぐしていくことが大切です」
「そうですか…」
そうです。
でもベッドで聞いていて、自分自身ではわからない心の動きだと思った…いや、自分の持っている感覚とは少しずれていた、と言うか…ちょっと変わっていた、と言うべきか…。
それは…。
「おい、もう遅いし俺が送っていってやる。体調は問題ないんだろ?」
「え、先生。車で来てるんですか?」
「いや、自転車だ」
「…」
「あの正木先生、私が一緒に帰ってあげてもよろしいでしょうか?」
え、モリヤチさん?
「はあ、いいんですか?」
「女の子の話し相手になってあげるのは女の方がいいかと思いますし…」
「ああ、なるほど」
「それに、遅い時間に男の先生が女生徒と一緒に歩くのも、ちょっと…」
あまり想像したくない話だ。
「その心配はないと思いますが、でも慎重な態度も必要ですね」
何?心配はない、って。
失礼しちゃう…いつかの「色気ない女呼ばわり」以来、そういう風向きになると途端に分が悪くなる。
「じゃあ、私が家まで送っていきますわ。同じ方角だからお気遣いなく」
同じ方角?そうだったのか…。
「ああ、ありがとうございます」
正木先生は丁寧に頭を下げてくれる。
「じゃあ、行こうか」
「あ、はい…」
あたしはベッドから起き上がろうとした。すると…。
「あ、待って。起きるのはダメ!」
え?
藤原先生に急に止められた。
「ごめんね、窮屈だと思ったからスカート、脱がしたの」
「え?」
あたし、掛け布団の中を見た。
履いてない…。
よく見ると、壁に制服の上着とスカートが掛けられている。
「正木先生、エッチ!」
「いや、別に見たくもないけどな」
何、そのしれっとした顔!
いつか、とんでもない事件に巻き込まれて窮地に陥っても、あたし絶対に助けてあげない!もう決めた!
気付くとすっかり夕闇が、あたしたちの周りを支配している。冬の乾燥した空気は、いやでも身体を芯から凍てつかせる。
「寒いね」
モリヤチさん…森咲さんは、街灯が照らす通学路を、まるであたしを包み込むようにしながら歩を進めてくれている。
「はい…」
ちょっと気になっていた。本当に彼女の家はあたしのうちの方なのかな、って…。
なんだか、気遣ってくれて一緒に帰ってくれてるような、そんな感じがするけど…。
でも、それを聞くのは…聞いてしまうのは、なぜだか大切なものを落としてしまうような気がするから…だから、今はただ…こうして肩を並べて…。
「あのさ、言ってなかったけど…」
「え?」
「聞いてなかった、って言ってもいいかな」
なんだろう…。
「私がこの学校へ着任した時に、全校の前で『モリヤチです』って、自己紹介したんだけど、覚えてないかな?」
「ああ…」
とも子が言ってた話だ。
「あのう、ちょうどあたし…」
保健室で厄介になっていた…今日はあの日以来のこと…。
「あ、そうか…そうだったのか…」
妙に納得したような、それでいて不満のあるような声。
「あのう、それが何か…」
ある、というのだろうか…。
ちょうど、街灯が途切れ、その表情が影になって見えなかった。
その頃…森咲さんが学校へ来た当時、あたしは普通の…いや、目立たない…いやいや存在感のない女子だったはず。
まさか「メイ探偵、いざ勝負!」でもなかったはずだが…。
「私だって司書の資格を持ってる人間だ、それなりに本は読んでる。好き嫌いはあっても、ジャンルは問わずにね」
そうよね。あたしも本は好きだしよく読んでる。でも、ほとんどが「推理小説」だけど…。
「コナン・ドイルだって読むさ」
途切れた街灯の次の灯りが、邪悪なイメージで差し込んでくる。
モリアティ―ジェームズ・モリアティ教授。
天才的犯罪者であり、かのシャーロック・ホームズの最大の敵、と言える人物。
そんな名前を称するなど、普通の人ならしないはずだ。何か「魂胆がある」と思っても不思議ではない。
あたしは一瞬、足を止めてその顔を見た。
しかし…。
「何をコワイ顔してるのさ。あんた、深読みし過ぎ」
「え?」
次に見る森咲さんの顔は温和な女性、そのもの。
「たまたま、ホームズの仇の名前と似てるからさ、どこへ行ってもそんな自己紹介してたのよ。初めて図書室で声掛けた時もね」
「それじゃ、やっぱり…」
「こんな呼び方、意識しないわけがない。ましてや、あんたは有名な『名探偵』だったし。より、それっぽくした」
それは言ってしまえば「考え過ぎ」かもしれない。
どこか、奥底に何か得体の知れないものがある…そんな考えは馬鹿げていたのかも…。
「学校の図書室に勤めることが多かったから、まあそんな自己紹介もウケたよね。でもさ、そのノリに乗ってくるのはあまりいなかったね」
淋しかった、かな…。
「最近はホームズの本なんて読む生徒も少ないからかな…いや、それ以前に本を読まなくなってる気もするけどね」
それは同感。
「ここへ来た時も、まあ言ってみれば進学校で大人しい学校だから、反応があるのも期待はしてなかったんだけどね。でもいきなり…」
メイ探偵が登場した、とでも言うのかな?照れる…。
「貴女、何者って言われたんだよね」
え…?
自惚れしようとして、いきなり肩透かしを食らわされた。全く考えていない展開だ。
「別に、十手を突きつけられて『神妙にしろ』とは言われてないけどね。でも、ちょっと驚いたよ。悪者扱いされたって言うよりも、きちんと反応してくれたんだ、ってね」
想像していたことより、ずっとシリアスな話だ。
夕闇の中、少しばかり寒気も覚える。
「誰、ですか…それって…」
「ん?あんたの親友だよ」
親友?とも子、かしら…。
「あれ、思い当たらないって顔だね」
次の街灯へのインターバル。
「誰…何か不審なこと?」
「いや、別に不審でもなんでもないよ」
再び、彼女の穏やかな笑み。
「生徒会長さ」
「陽子?」
「そう。あの子も知識が深いからね。何か私に警戒心でも抱いたかな。そりゃあねぇ、いきなり『悪党でござい』みたいなことを言ってくるんだ、生徒会長としては用心したんだろうね」
それが、陽子の「矜持」―。
「でもさ、すぐにわかってくれたよ。そうだよね、こんなおばさんが『稀代の大悪党』とは見えないよね」
どうだか、それは未だにわからないけど…。
「それからすぐに、あれが起きたでしょ。それで一気に名探偵が登場したもんだからね。けっこう気にしたんだけど、最初からコンタクトもなかったから、本当に天然の名探偵だったんだ、と」
「天然の」かどうか、それは認識していないが…最初の出会いが遅かったから、だから…。
「と言うことは、陽子は…小林陽子は、以前から森咲さんと顔見知りだったんですね」
「顔見知りだった、って言うか…まあ、生徒会長と図書室の司書なら、馴染みになるのも不思議はないよね」
うーん、そうだろうか…。
びゅっと一陣の風が、あたしのほおをかすめていく。
何かが…何かが腑に落ちない気もする…なんだろう…。
「陽子、時々は図書室も利用していたんですよね?桜のことを調べるのに…そんなこと言ってましたよね」
「そうだね。そんなことも言ったよね」
なんだろう…何かが…。
「それより、あんたさ…」
「え、なんですか?」
「今日、ほんとにどうしたんだい?」
そう言われても…あたし自身が何がどうなったんだかわからない。気がついたら気を失っていたのか、保健室で寝ていたのだから…。
「ちょっとさ…いや、いいけど。でもな、心配だよ。もちろん、身体がどうのではないのは保健室の先生も言ってた通りだと思う。でも、問題があるのはさ」
「え、問題?」
「と言うか、原因かな」
あたし、何かおかしいのかな…いや、前からちょっと変わっていた子だったのは認める。どこか違う感じも自分ではしていた。
だけど…だけど…。
「何を暗い顔してんだい。そんなに心配なのか?」
「心配なのか」って、心配してくれたのはそっちの方じゃない。
「馬鹿だね、もう泣くんじゃないよ。人間は誰だって心に欠けた部分があるものさ。『心』って言ってるものがある生き物として、間違いなく欠陥箇所はあるものなんだ」
なに…なにを言ってるの…。
あたし…あたし…。
「あんたはね、すごいと思うよ。でもさ、それだって全体の中の、ごく一部分だよ。本で読んでる知識だけど、人間の脳っていうのは、とてつもなく奥深いんだって。それをほんの少しだけ使って生きてるんだと。だからさ…」
肩をしっかりと抱かれた…。
「辛いことを一人で抱えて生きていくなよな」
なんだろう、あの時に…さっき図書室で気を失ってしまった時に、どこかわからない遠い所で感じたような、心のうねりみたいなもの…それがまた蘇ってくる。
正体不明の魔物が襲ってくるような、感覚かもしれない…。
だめだ、もうこんな場所で意識が飛んでしまったら、大変なことになってしまう。
きっと、さっきはこんな感じで心がどこかへ行ってしまったんだろう…。
あたしは、なんとか気持ちが鎮まるように、努めて冷静になろうとした。
ふと、あたしは横にいる人の顔を見る。
眼鏡をかけた、ひっつめ髪の、ちょっと恐いようにも見えるおば…いや、女性。
感じる思いは…そう、やはり放課後の図書室での、あの懐かしい気持ち。温かさと、その裏側にある喪失感。
それは…それは何だろうか…。
でも、不思議だ…心が落ち着いてきた。なぜか喪失感だけが、どこかへ行ってしまった気がしたから…。
「あ…ありがとう、ございます…」
そしてあたしはその言葉を、心の底からではなく「喉の奥から」といった感じで差し出した。
「何を畏まってるのさ」
そういうわけではないんだけど…。
「それより、家はもうすぐかな?」
「あ、すぐそこです…」
「そう…ちょっと家の人に挨拶していくから」
え、何か言うのかしら…。
「何を驚いてるんだ。もう、正木先生が電話で話しちゃってるよ。だから私がフォローしないとね」
もう、すっかり気持ちを読まれている。あたしが恐れているのは、伯父さんと伯母さんに余計な心配をかけることだけだったのだ。
しかし…。
「そうですね…先生は連絡しちゃってますよね」
自分が担任するクラスの生徒が倒れてしまったんだから、心配しないわけはない…実際に飛んできたぐらいだから。それで、家に連絡するのは当たり前だ…。
「ああ、それは当然だよ。でもさ、あの人はあんたのこと、目の前で見てないからね。きっと大袈裟すぎるぐらいに話してるかもしれない。でも、私は目の前で見てたから、詳しい話もできるからね」
「お願いします。あの、あたしの家、両親ではなくて…」
「伯父さん夫婦だったよね」
そうだ、知ってたんだっけ…。
「まあ、任せておきな」
ちょっと心配もあるけど…。
「あ、ここです…」
もうすっかり夜の帳が下りてしまっていた。
部活で遅くなって以来、久しぶりにこんな時間に帰ってきた。
別に遊んでいて遅くなったわけではない。それなのに、それ以上に心が痛む帰宅だ。
「大丈夫だよ」
ずっと、肩を抱いてくれていたのを思い出す。
あたしの不安な…いや、伯父さんたちを不安にさせてしまった気持ちを、森咲さんは余すことなく読み取っているようだ。
そんな思いでいると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
小さく息を吐いて吸ってみる…本当に悪いことして敷居が高くなってしまったような感覚…でも、自分自身の中で「悪いことではない」と思えてくる。
ゆっくりと引き戸を開ける。ガラガラと立てる音が、普段に増して大きく聞こえる。
「ただいま…」
何か言われるんだろうな…なんて言われるんだろう…どう話したらいいんだろう…。
ゆらゆら揺れ動く、あたしの中のちっぽけな気持ちの固まり。
トンと森咲さんが肩を叩いてくれる。
「お帰り、幸枝」
「幸枝ちゃん、お帰りなさい」
ずっと待っていてくれた、そんな感じで二人が出迎えてくれる。
二人並んで…笑顔で…。
言葉はすぐに途絶えた。
何もない空間が訪れた。
でも、たくさんのものが…温かいもの…優しいもの…あたしにとってかけがえのないものが今、ここにあった…満ち溢れていた。
「伯父さん…伯母さん…」
森咲さんの、触れてくれていた手の温もりを置き去りにして、あたしは大切な人たちの中へと、飛び込んでいった…。
着替えを済ませるよう促され、あたしは二階の自分の部屋へ行く。
いつもの、ありきたりの部屋の景色が、なんだか違って見えるような気がした。どこか知らないところへ来てしまったような…。
そしてなぜだか、早く下へ行くのが憚られる気もして、いつもよりゆっくりと制服を脱ぎ、そしていつもの部屋着に着替える。
それでも十分もかからなかっただろう。当然、下には八千代さんがいる、話ができると思いながら、階段を降りる。
おかしなものだ。最初はあれほど「毛嫌い」していた彼女が、今では一緒にいられることに、とても心強い感じがしていた。
茶の間にいるんだろう、そう思い向かう。が、声はしない…。
「あれ?」
正式な客間、などという丁寧なものもない家だし、そのまま玄関先で話し込んでるのかと行ってみると、伯父さんと伯母さんが静かに立っている…いや、佇んでいる。
お客様を送り出した直後、という感じだ。
「八千代さん…森咲さん、帰っちゃったの?」
「うん?ああ、なんか忙しいらしいな」
伯父さんの口調は歯切れが悪いが…。
「もっと、ゆっくりしてもらいたかったなぁ」
「まあな。でも、あの人にも都合があるからな」
「なんか、言ってた?」
あたしは少しだけ心配になった。
いや、それは自分のことをというか…むしろ、二人に余計な心配をかけてしまうんではないかという、そういうことだ。
「幸枝も思春期なんだな、って」
「ええ?」
伯父さん、笑いながらそんなことを言う。
「そうね。感受性が豊かな年頃だから、気持ちが大きく振れちゃったようね。あの方、頭がいいわね」
「あ、そうなんだ…」
伯母さんの言葉…保健室の藤原先生が言っていたようなことだろう。
あたしのことを「目の当たりにした」八千代さんなのだから、より正確な情報が伝えられたということか…。
「さあ、飯にしよう。腹減っただろう」
玄関先で話し込んでいても仕方ない。言われた通り、お腹も減ってる。
まあ、今日のことはちょっとした「アクシデント」なのだろう。あたしも平々凡々と生きているだけではないということだ。
「お腹空いたぁ」
あたしのことは、まあいい。とりあえず脇に置いておく。迷惑だか心配だかをかけて、周りの人を巻き込んでしまったかもしれないが、あとはあたしが元気でいればいいだけだ。
もっとも「心の元気」とでも言うのか、精神的なことには何をどうすればいいのかわからないけど。
それより、一つ疑問が出てしまったのが、あたしにとっては問題だ。
いや「疑問」と言うか、もしかすると「疑惑」か…。
陽子は前から八千代さんと懇意だったのではないか―。
初めの頃なら「なんで?」だけど、今は「なんで…」か。
でも、あたしにはそれだけでは済まないのだ。
もし、懇意であったなら…。
「森咲屋さんの話をとっくに伝えていたはずよね…」
ベッドに横になったが、目を閉じるのも忘れて頭を働かせる。
あたしよりも前に、植木職人さんの言っていたこと―ソメイヨシノはサラブレッドである―を、聞かされていても良かったはずだ。
二人が話すようになったと思われるのが、去年の秋以降のこと。八千代さんが着任して、そして陽子が不運に見舞われた…キャンディーズ桜の謎を追っていて被害に遭った「あの件」までの間。
あたしよりも一歩も二歩も先を行っていたはずの陽子に、あの情報があれば、もっと早くに辿り着いたはずの解答…。
森咲屋さんの話し方だと、それらの情報をくれたのは、間違いなくあたしだけだ。
「植えた時のことを考えてみろ」という言葉も含めて…。
森咲屋さんは、あたしが「桜を救った」ということで、好意的に接してくれたということもあるだろう。あたしだから、いろいろなことを話してくれたのかもしれない。
しかし…。
その前に、八千代さんは陽子のことをお父さんには話さなかったのだろうか…こんな子がいる、あの桜を調べてる…あたしのことを伝えたように…。
八千代さんは、陽子が桜の謎を調べていたことは知っていた。それなのに、なぜか協力的な態度をとらなかった?あたしにだけ、便宜を図ってくれた…。
それは…。
「あたしが…きっと…可愛いからだ」
今夜はそういうことにしておこう。
ホームズのように、ろくに睡眠もとらないで頭を使えるほどの超人ではないわ…。
朝起きる。
それは、あたしが十八年あまり生きてきて、毎日のように繰り返してきたことだ。
いや、たいていの人は同じくそれを繰り返すのだろう。病気とかでない限り、人間は朝になったら目を覚ます。夜の仕事をしているわけでもなければ、それは当然のことだ。
でも、今朝のあたしは目を覚ますのが…いや、起きて二人の顔を見るのが…もっと言えば、何かを言われるのが辛かった…。
娘同然の愛情を注がれた姪っ子が、学校で気を失うようなことがあった翌日だ。二人の心労もさぞや深いものがあるのだろう…。
「おはよう…ございます…」
おそるおそる、といった体で朝食の席に現れたあたし。伯父さんは椅子に座り新聞を読んでいて、伯母さんは奥で朝ごはんの準備をしている。
いつもと変わらない光景。
「ああ、おはよう」
「幸枝ちゃん、おはよう」
あれ?普通だ…。
伯父さんは新聞からチラッと目をこちらに向けたけど、すぐにまた続きを読み始める。
伯母さんもこちらを少し向いたけど、もうキャベツを刻み出した。
昨夜は遅くまで起きていたような気配があったから、あたしのことが心配でいろいろ話していたのかとも思ったけど…これから何か聞かれるのかな…。
「…」
「どうした、幸枝。具合が悪いのか?」
「え、ううん。大丈夫」
「そうか、早く顔洗ってこい」
「あ、もう洗った…」
なんとなくぎこちない気もするけど…。
「はい、早く食べて。遅れるわよ」
なんでもない…やはり普通だ…。
心配してない?
いや、二人があたしを気にかけないはずはない…でも…。
そうか、余計な気を遣わせないようにしてくれてるんだろうな…。
ありがとう…。
「そうだ、幸枝ちゃん」
「え?」
「昨日お世話になった森咲さん、だっけ。あの方にお礼しなくちゃね」
あ…。
「今日、何か用意しておくから。明日でも持っていってね」
そうか…やっぱりお礼を忘れちゃいけないわね。
「わかった。お願いします」
昨夜、いろんなことを考えて…考え過ぎて、ちょっとわだかまりみたいなものもあるけど…でも、それとこれは別ね。
「わだかまり」は他の人にも向けられる。
陽子だ。
あたしは朝一番で陽子のクラスに向かった。
早いうちに、胸の中につっかえたものを取り去っておきたい。
「陽子…」
「あ、幸…枝…」
どんな顔したんだろう、あたし。いきなり身構えられてしまった。
「何…どうしたの、怖い顔して」
怖い顔、しているのか…。
「ちょっと聞きたいの。桜のことで…」
「え、今さら私に何か聞くことあるの?」
ここで「とぼけないで、何を内緒にしてるの!」と、一喝するほどのストレートな考えがあるわけでもない今は、あたしも強気に出ることもできない…いや、元々そんなことをしたいわけじゃないし…。
でも、思いついたことだけははっきりと聞いておきたい。
大きな声で言うわけにもいかない内容になりそうなので、耳元に口を近づけると、
「菊池さんが森咲屋さんへ行っていることを知ってたの?森咲屋さんが八千代さん…森咲さんのお父さんだってことは気がついていたの?」
静かに囁いた。
とどめ…。
「彼女は貴女と菊池さんのことを知ってたの?」
陽子はあたしの大切な親友。だから必要以上に責め立てることはしたくない。
知ってどうなることもなし、誰も傷つくことでなし…。
でも…。
「幸枝…」
一瞬、その目が強張るのを、あたしは見た。初めて、陽子の表情が大きく負に傾いたのを、あたしは見せられた。
それは陽子の、精一杯の強がりか…。
次の瞬間には、いつもの…いつも以上の緩やかな笑みを見せてくれた。
「貴女…」
クラスの中の喧騒は、あたしたちの耳を塞いで静かな空気だけが満ち溢れているかのよう。誰にも見えていないみたいに、二人の存在は透明になっている…。
「本当に…」
「え、何?」
包み込まれていたあたしたちの空気を、不躾に破る音―ホームルームが始まるチャイム。あたし、二組に帰らなければいけない。
「また、後でね…」
後ろ髪を引かれるような思いで、あたしは四組の教室を去った。
ちらりと振り向くと、陽子の複雑な表情をした顔が、なんだかとっても気になった。
一日中、自分の教室を出ないで終わる授業ばかりだった。
時には体育でもあれば、少しは気分も変わっていいと思うのだが、みっちりと自分の席で先生の話を聞いているのは少しばかりきつかった。
今日は特に「陽子のこと」を考えてしまうと、授業も上の空。当てられかったのは幸いだった。
休み時間に四組の前を通った時、陽子の様子をうかがおうと思ったが、教室にいなかったのだろうか、その姿は見えなかった。
そうか、なんだか友だちに要らぬ嫌疑をかけてしまっているような気もするのか…。
「幸枝、今日も少し調子悪いの?」
「え?」
「聞いたよ、昨日の放課後に倒れたんだって?」
「幸枝…あんたもさ、いろんなことを抱え込んで考え過ぎんじゃないよ」
麗子ととも子…この二人だって大切過ぎる友人。失いたくない。
でも、今は少しだけ…。
「ありがとう。大丈夫よ。身体は元気だから、なんでもないよ」
「だからさ、それが心配。ちょっとでも体調が悪いってはっきりしてれば、いくらでも対処できるのに、どこもおかしくなくて倒れるなんて、変よ」
「とも子…」
「美人薄命よ…あ、でも幸枝はちょっと微妙ね」
「とも子…あのね…」
まあ、ここが彼女のいいところ。
こんな素敵な友人に囲まれて、あたしは幸せ…。
それでも、放課後には陽子を訪ねなければなるまい。
重い気持ちを抱いたまま、足取りさえ重々しい。
「あれっ…?」
廊下の窓から陽子の席の辺りを覗いて見ると、その姿がないことに気づいた。
トイレでも行ったのかな…。
あたしは三々五々、帰っていく四組の人たちを見送りながら、部屋へ入った。どうも、他の教室へ入るのは慣れない気がするが、仕方ない。最近は生徒会室を始め、馴染みの薄かった部屋へ入ることにも慣れてきてはいるのだが、他の教室を訪れるというのは小学校の時から変わらず躊躇するもののようだ。
「あれ、どうしたの?」
部活で顔見知りの友人が声を掛けてくる。
「ん?ちょっと陽子に用事があって…」
「え、陽子?さっきすぐに出ていったよ。なんか急いでたよ」
ええ?
「逃げた…」
「え、何それ?」
ちょっと変な顔で見られた。
あたしは、そんな彼女の冷たい視線をやり過ごすと、慌てて四組の教室を出た。
帰ったのか…それとも…。
行き先の見当なら、ある。
そして、陽子もそれを知っている…あたしがあとをついて来ることを…。
あたしは踵を返すと、目的の場所へ向かう。もう、このところすっかりお馴染みになってしまった、あそこへと…。
扉を開けると、慣れてきたたくさんの蔵書の、少しだけ蒸せるような匂いが鼻に届いてくる。
「陽子…」
やはり、ここにいたか。
そして、二人であたしを待っている。それも予想通りだ。
何があるのか、あるいは、あったのか…それはわかっていない。ただ、あたしの考えが正しい方向へ向かっているのは確かなようだ。
「幸枝…」
なぜ…なぜなんだろう…こんな気持ちで彼女と…大切な友人である陽子と向き合わなければならなくなっているのは…。
少し、淋しい…そして、哀しい…。
「ごめんね、幸枝…」
「やっぱり…利用した、あたしのこと…?」
「…」
なんとなく思っていたことを、あたしはなんのオブラートにも包まずに、陽子にぶつけてしまう。
うつむいたまま、陽子は無言を通す。
「いいよ、陽子。別に気にしてないから…。たださ…」
ただ、なんだっていうのかな…。
そう、はっきり言ってほしかった…。
「待って。そうじゃないよ」
「八千代さん…」
あたしの…いや、二人の表情を読み取ったように、八千代さんが口を挟んでくる。
ゆっくりと、柔らかな声で…言葉遣いとは裏腹な、穏やかなトーンで…。
「言い出せなかった…そうだよね、小林さん」
「え?」
横目で見た陽子の顔は、精彩を欠いている。いつもの真面目で、時に毅然とした様子は影を潜め、別人のようだ。
「いつだったっけ?貴女が桜のことを調べるようになったのは…。私がここへ来てすぐぐらいだろうね」
「はい…」
八千代さんが着任したのが去年の二学期から。ということは、その頃から、なのかな?
「夏休みで帰っていた菊池さんと会って、それでキャンディーズ桜のことを調べる必要があるって聞かされて…」
「ええ?」
卒業した先輩が、なぜそんなことを調べる必要が出てきたのだろうか…。
もちろん、その謎は昔からこの学校の興味の対象だったに違いない。だから、それを調べようとしているのもわからないことはないけど…。
「どうしても森咲屋さんに弟子入りがしたいって…」
弟子入り?そういえば、そんなことを森咲屋さんも言っていたようだったが…。
「それが、何か…?」
あたしは特に陽子を追い詰めようとしているつもりはなかった。ただ、自分の気持ちをスッキリさせたいために、本当のことを知りたいという思いだけが、先走っているのかもしれなかった。
「ああ、私が説明するわ」
見兼ねたか、八千代さんが再び口を挟んできた。
しかし…。
「いいです。私の問題ですから…」
陽子は自分の口から話そうとする。
あたし、まだよくわからない。
弟子入り…桜の謎…そして、陽子の本心…。
「あのね、幸枝。菊池さんがどうしても森咲屋さんに弟子入りしたい、それでいろんなことを教わりたいって言ってきたのが夏休み。その時に私、思い切って彼に言ったの…」
「え、なんて?」
問い質すように、あたしは陽子を追い詰める。すると…。
「おい、名探偵!」
八千代さんが、強い口調であたしを止めた。
「え、何ですか?」
「空気を読んでやりなよ」
え…え…何?
陽子、下を向いてしまった。
「あんた、頭がいい。先を読める。事件解決などあっと言う間だろう。でもさ…」
え、あたしって、何か問題あり?
「人の気持ちを考えてあげることも、大事だっていうんだよ」
もう一度、陽子の顔を見る。
泣いてる?
「私、言ったの…菊池さんのこと…好きですって…」
「ええっ!」
きっ、とあたしを見据える陽子。その目は射抜くような力強さと、その裏腹の壊れてしまいそうな繊細な光を秘めている。
無防備なあたしは…あまりにも無知、と言うか「空気を読めない」らしいあたしは、うろたえるばかりだ。
このあと「それで?」「それからどうなったの?」とか、下世話な言い方で聞き出すなど、以ての外としか言えないのは…あたしでもわかる。
だから…だからこそ…。
「ごめん、陽子。言いにくいことだったよね…」
「いいよ、幸枝。私が悪かったんだから…。私の好きな菊池さんが、どうしても桜のことをもっと知りたくて…それで森咲屋さんに弟子入りしたかった…。でも、その試験じゃないけど、彼がここの卒業生だっていうことで、森咲屋さんから、キャンディーズ桜の不思議な咲き方を説明するようにって言われたんだって…」
「それで陽子もずっと桜のことを調べてたんだ…」
そのせいで…そのために生命を落としそうになったりしたのに…。
生徒会室から見た風景。その目の前にある三本の桜の木。それを見ていた陽子は、桜の木を気にしていたのだとばかり思っていた。そして、その謎を解こうとしていたんだとばっかり…。
でも、それだけなんかじゃなかったんだ…もっと強い思いがあったんだ…。
桜のことよりも…もっと強い想いのある相手が…。
「でも、私にはわからなかった…。どうしても…そう、幸枝みたいに閃いたりしなかった」
あたしだって…。
「だから…私を救ってくれた…あんな事件に巻き込まれた私を、助けてくれた幸枝なら…もしかすると、って…」
それは陽子、貴女のため?それとも心から好きになった彼のため?
もう、いいよ。そんな顔しないで…。
あたしが貴女の力になれたのなら、それでいい。
いや、なれなかった?
「最初は私が必死になって調べているのを、森咲さんが…」
「何を調べてるのか、ちょっと興味が出てきてね。生徒会長が図書室で真剣に調べてることが、なんだか不思議な光景に見えたんだよね」
「それで聞かれて…。でも、私はただ桜のことが知りたいだけって、そう言ってたの。それが…」
「ごめん。私が気を回し過ぎて、聞き出しちゃったのさ。そしたらさ、うちの親父が関係してるじゃない。ちょっとびっくり」
「私は、彼が弟子入りしたいって言ってる相手が誰だかなんて、全く知らなかった。ただ、彼の行ってる大学と桜の専門家っていうことで、森咲さんはわかったみたい」
「まあ、あの辺は桜の大家みたいな人がたくさんいるけどね」
「それでも、すぐにわかったんですか?」
「そりゃあ、ここの桜を植えたのは親父だって聞いてたからね。それで確認してもらったら…」
八千代さんは陽子の方を向いて、
「やっぱり、そうだった」
と、半ば呆れ顔で言う。
「馬鹿な親父だし、そんな人に弟子入りしたいっていうのも、なんか酔狂だなって思ったよ。でもさ、そんな彼氏のために必死になってるのも、どこか可愛いじゃない。私はね…」
再び陽子の顔を、それはしみじみ…どこか、しげしげと見つめると、
「ちょっとお堅い生徒会長、ってイメージもあるんだけどね、特に女子の会長は…。それがさ、ここの学校は…」
「ここの学校は」…それが陽子のことを言うのか、それとも十五年前のことも指し示しているのか…。
「でもね、私はなかなか言えなかった。親父さんに、なんとか弟子入りぐらい許してやんなよ、とはね」
そんなものなのだろうか…。
だけど、それで…。
「でも、彼女の真面目な思考だけではこの問題は解けそうにもない。親父にヒントをもらおうと思ったけど、きっかけもない。弟子入り志願の男を助けるため、なんて言おうもんなら絶対に許さなくなるのは目に見えてる。そこで…」
「メイ探偵の登場ですね」
「本当は、もっと早くにお願いできればよかったんだけどね…」
「?」
「事件が起きただろう…」
陽子が巻き込まれてた…。
「むしろ…そんな言い方は小林さんに無礼かもしれないが…でもそれで、我が校にも名探偵がいることを知ったんだよ」
そうか、そこまで時計は進まなければならなかったのか。それで、あたしっていう「メイ探偵」を知ったのか…。
「私が最初の挨拶で、モリアティのようなことを匂わせた時、近づいてくるような探偵気取りでもいればよかったけど、あいにくあんたは居合わせなかったし、それでもしかすると…」
「ああっ!」
あたしが「出遅れたせい」で、陽子が巻き込まれた…。
時は戻せない。あたしたちは過去に生きるのではなく、未来を目指すものだ。
しかし、今回の件は…。
もし、あたしが早々に「モリアティをロックオン」していれば、あんな辛い目に陽子を遭わせることはなかったのかもしれないのだ…。
「ごめん…ごめんね、陽子…」
深々と、あたしは頭を下げた。
「何言ってんのよ、幸枝。やめてよ」
「そうだよ、幸枝さん。あんたが謝ることじゃない。悪いのはアイツだよ。あんたがいたから、彼女は助かったんだ」
「でも…」
ゆるゆると頭を上げるあたし。
八千代さんは、そんなあたしに向かうと、
「私が言いたかったのはね…あんたがいてもいなくても、起きるのは間違いなかったんだ」
と、弁解するように言う。
「そう…。私が高浜先生に教えてもらったあの本も、実は森咲さんがの方が最初だったのよ」
陽子も、そう続けてくる。
「え?」
「よせば良かったね、あんな猟奇的な表現の本を教えちゃって」
「だけど、二人も同じ本を紹介してくれたから…」
そうか…そういうことがあったのか…。
あたしは、生物の授業担当であり、生物部の顧問でもある高浜先生が「これを薦めた」と言っていたから、陽子はそれだけで「あんな行動」をとったんだと思ってた。もちろん、大きな契機ではあったと思うけど、でも二人の人間から同じように紹介されたら…。
「幸枝…貴女がいても、同じようなことになっていた。でも、貴女がいたから私は…」
「還ってこられたんだよ、名探偵ドノ」
あたし…なんとなくすっきりしない部分はあるけど、でも…良かったのね。
「まあ、それでね。この子も病院から戻ってきて、それでも気にしてたから…桜のことをね。でね、私があんたに頼んでみたら、ってけしかけたのよ。きっと力になってくれるよって」
「でもね、幸枝。私、なかなか菊池さんのことを…告白までしたことも、どうしても貴女に言えなくて…それで、なんだか困っちゃって…。そうよね、頼むだけ頼んでおいて、肝心のことを黙ってるんだものね…」
「ごめんね、私が半端なことしたから」
そうなんだね…ちょっとの間だけどはっきりしなくて、それで変に疑ってしまったりして…。
「そうか…なるほど…」
あたしは思わず笑いが出てしまう。それは…なんだろう…自分が情けないから?陽子が大事なことを話すこともできないような、そんな人間だから?
いや、恋愛沙汰に全く免疫がないからか…。
あまり自虐的になるの、よくないとは思うけど…。
だから、ここは…。
「うん、わかった。もう気にしないよ」
そうだね、そんな言葉がいいね。
「キャンディーズ桜の謎も、まあまあ解けたし。悪いことばかりじゃないよ」
うん、幸枝。それぐらいあっけらかんでいいんじゃない?
「でも、その後どうなったの?弟子入りは許されたの?」
気になる…。
「え、ああ…なんか、受け入れてもらえたみたいよ」
「親父が言ってたよ。あのお嬢さんに免じて許してやった、ってさ。仕方ない頑固親父だよ」
そうか、あたしが役に立ったのかな…。
「ああ、それから…。あんたならいつでも弟子入りしていいってさ」
断る、断固。
「あとは、あの桜がなぜ、そんなに遠くから来たのかっていうことだけね」
「幸枝、わからない?」
無理…。
「北と南、よねぇ…」
どこの場所にあったのかぐらい、わかれば少しはいいんだけどね。
運んできた人がいればわかることだろうけど…。
「森咲屋さんが運搬したわけじゃなかったんですよね?」
「まあね。親父さんたちは植え替えの作業をしただけ、って言ってたからね」
そうよね…。
「当時の運送会社の伝票でも残ってれば、調べて聞き出すこともできるかもしれないけど…ちょっと難しいでしょうね」
「まあ、いいんじゃないの。少しはわからないことがあっても、ロマンがあるわよ」
「ロマン、ですか…」
まあ、それもいいか…。
ひょんなことから、その真相が判明することもあるかもしれないが…。
時には「完全解決」のないこともいいかもね。そのうちに、なんかの縁でわかる日がくるかもしれないから、それまでは…。
「うん、そうね…」
こうして、我が校の長い間の謎だった「キャンディーズ桜の咲き方はなぜ違うのか」が、一応の解決を迎え、そしてもっと大事な陽子のことも、まあ「シャイだった」ということにして気持ちの落とし所とした。
あと…ん、何か残っていたような気もするが…。
なんだっけ…?
「ただいま…」
ちょっと遅くなったかもしれないが、今日も一日の授業を終えて、家へと帰り着く。
それは、なんとも言えない安堵感で包まれる時間。でもこんなことも、あともう少し…。
「あれ…?」
いつもなら、すぐに「お帰り」の声が聞こえるのに、今日はなんだか静かだ。
出かけてるのかなって、思ったけど、それなら鍵が開いてるわけはない。「元警察官」、そんなに不用心なわけもない…。
なんだか嫌な…いや、そこまではいかない…変な予感がする…。
おそるおそる、といった感じで、ゆっくりと静かに中へ入る。自分の家のはずなのに、泥棒にでも入るみたいだ。
すると奥から…茶の間の方から声が聞こえる。
伯父さんと伯母さんだ。
「ふう…」
心配して損した。ただ奥にいて、あたしの声が聞こえなかっただけなのか。
何をやってるんだろう…なんか話し込んでるみたいだ。
そうすると、違った意味で心配になる。
聞き耳を立てながら、静かに奥の部屋へと足を運ぶ。本当に泥棒みたい…。
「…そう言っていたからな…」
伯父さんの声。
「…大丈夫なのかしら…」
伯母さんの声もする。
なんか、本当に深刻そう…。
「…思い出したのか…」
「…そんなことはないだろうって、言ってたけど…」
何の話?あたし、ちょっと…。
「…あの時はあまり時間がなかったから…」
「…今度、もう一回だけ会ってみるか…」
会う?誰にだろう…何をしに行くのだろう…。
「…幸枝と顔を合わさないようにしないとな…」
え、あたし?
な、なんだろう…本当に…。
あたしは、どうも聞いてはならないことを聞いてしまったようだ。あたしのことについて、何か「隠し事のようなもの」があるらしい…。
どうしよう…部屋に飛び込んでいって「なんの話よ」と問い質すか、それとも…。
あたし…。
間違いないことが一つある。
伯父さんと伯母さんが、あたしのことで悪いようにするはずはない―。
何かの事情があって、あたしに直接話したりするのが憚られることがあるのだろう…でも、それって一体…。
あの時…もう一回だけ会う…顔を合わさない…。
そうか…そういうことか…。
でも…何だっていうんだろうか…。
よし、わかった…これは搦め手から攻めるしかない…。
あたしは、こっそりと玄関まで戻った。そして…。
「ただいまぁ!」
今までなかったぐらいの大きな声で、あたしの存在をアピールする。たった今、帰ってきたかのように…何も知らないかのように…。
実際、何もわかってないけど…。
「お帰り」
奥の方から、やはり大きな声で迎えてくれる。
なんでもいい、こうして安心していられるのだから、小さなことなら…いや、少しぐらい大きなことでも、心を落ち着けて、そして受け止めていよう。あたしがあたしとしていられるのだから…。
「また来たのかい。今度は何を知りたいのかな?」
「わかりません。わからないから、教えて欲しいんです」
「何を無茶苦茶なこと言い出すんだよ」
「あたしが…あたしだけが、もしかするとわからないでいることなのかもしれないです。でも、八千代さん。きっと何かを知ってる…少なくとも気がついてることがあるんじゃないんですか?」
あたしは精一杯、彼女を見据える。タレ目で迫力はないのだろうけど…。
「なんか、あったの?」
とぼけてる…あたしはそう感じる。
「あの日、うちにいらした時に伯父と伯母に何をおっしゃったんでしょうか?」
「ああ…」
やっと気付いた、そんな演技。きっと「模範解答」を準備したのだろう…いや、彼女のことだ、とっくに考えてあるのかもしれないが…。
チッ…舌打ちの音がしたような気がする。
「なんか、聞いたのかな?二人から」
「いえ…偶然に何か話しているのを聞いてしまって…それがどうも、あの時の八千代さんが話したらしい内容だったので…」
「それが気になった?」
「あたしの…」
言葉を止める。下手に話すと簡単にかわされてしまうだろうから、慎重に…。
「たぶん、倒れた時のこと…何か、貴女が知ってしまったこと…」
「生命に関わるような、そんなことじゃない。それは保健室の藤原先生とも話したし、わかると思う」
あたしの言葉を遮るように、意見を投げかけてくる。
「ただ…」
今度は彼女が言葉を探す。
「人生に関わること、かな…」
「へっ?」
さらっと言う、重そうな言葉を…。
「なんて顔してんの」
どんな顔してるんだろう…。
「心配しなさんな。まあ、重症でないから平気だよ」
重症って…。
「まだまだ、幼い時代を引きずってる…そんなところだろうね」
そう言うと、いつか見せてくれたような優しい笑みを浮かべる。
「親御さんとは早くに死に別れたんだよね?」
「ええ、まあ…」
父親はほんの少しだけ、記憶の深いところに思い出もあるが、母親は顔も知らない。
「呼んだこと、なかったんだよね?『ママ』って、さ」
「え?」
「上の空で、ママって言いながら倒れていったんだよね」
そうなの?あたし…ママ、なんて言ったの?
思い出してみると、あの時に感じていた「優しくて懐かしい気持ち」、それは…。
ふと、彼女の…八千代さんのことを見てみる…見つめてみる。
生きていたら…きっと同じぐらいの歳のはず…。
こんな女性、だったのかな…だから、あたし…あの時…。
「おっと、気をつけて。まだ不安定な年頃なんだね。しっかりしてね」
あたしの腕を掴んで支えようとしてくれた。
そうか…母親を感じて…。
顔は…確か美術準備室の彩子さんの絵に似てるはずだから…全然、似てもいないけど…でも、雰囲気はきっとこんな感じで…。
最初に反発を感じたのも、遅れてきた反抗期、だったのかな?
そうか…そうか…。
「伯父さんたちも心配しないようにって、そう言っておいたよ。まだまだ子供なだけだからって。甘えていたいんだろうって」
「あの…」
「え、何?」
ふと湧いてきたのは、心の、今まで感じたことのないぐらい、奥の方からの思い…。
「ありがとう…ございます…」
伯父さんや伯母さん、先生やとも子たち…大事な人へ送る、それは何よりも大切な言葉。
「ちょっと、やだ…やめて。私は貴女のお母さんじゃありません」
あたしの心を見透かしたのか、八千代さんは「お母さん」と自分で答えた。
そして、それは照れなのだろう。ちょっとはにかむような顔、今まで…それほど長い付き合いではないけれど、知ってきている中で一番、美しい表情に見えた。
そして、あたしも今まで知ってきた中で、ついに…いや、やっと好きな人だと思えた。
「何、ポォとしてるのよ。さあさあ、遅くなるから帰った、帰った。伯父さんたちが心配するよ」
そうか…八千代さんは伯父さんや伯母さんを知っててくれてるんだっけ…。
なんか、不思議な…そして、嬉しい感じ…。
すごく身近な人…そんな思い…。
「ありがとうございます。わかりました。早く帰ります」
あったかいなぁ…ほっこり、っていうのかな…。
「また明日ね…そうだ、たまには本を借りに来なさい」
「はい、そうします」
素直に応えるあたし。
「それから、今のこの話もしっかりと伯父さんと伯母さんに報告するんだよ。心配させるといけないからね」
「はい」
こっくりと首を縦に振る。すっかり従順な態度でいられる、その心地良さ。
今夜はゆっくり眠れるかな…いや、ちょっと嬉しくて眠れなくなるかな…。
あたしは帰宅してすぐ伯父さんと伯母さんに、八千代さんと約束した通り、図書室で聞いてきたことを報告した。なんだか小学生の頃に、学校であった出来事を楽しく思い出しながら話すような、そんな感覚だった。
「そうだな、まだまだ幸枝は子供なんだな」
伯父さんがニコニコしながら言う。
きっと、今までのあたしだったら少しむくれてたかもしれない。でも、今日は…今はちっとも悔しいとか思わなかった。
「へへ、まだまだ子供の幸枝です。これからもよろしくね」
そんな軽口さえ飛び出してくる。
「でもまあ、良かったよ。いい人と知り合えてさ」
「あらやだ、まるで恋人でもできたみたいよ」
「恋人?それはこいつには当分、無理だろうな」
うっ…言い返す言葉もない。
きっと…ちょっと前までだったら、やっぱり腹が立ったかもしれない。でも、今は反論する気にはならない。ただ、そのまま受け入れていられる。
伯父さんと伯母さんとあたし。ゆっくりと、三人の時間が流れている…。
あたしが今いる、この世界に存在するもの全てが、自分と関わりがあるわけではなく、そのごく一部だけが、身近なところをすれ違っていっている…それが「世界とのつながり」なのだろう。
それなのに…この刹那のあたしは、なぜか世界の全てが目の前にあるような…そして、ささやくように語りかけてくれているような、そんな至福な思いで満たされている。全ての世界とつながっている、そんな素敵な感覚でいっぱいだ。
出逢いがある…そして、別れもある…。
最悪とさえ思えた森咲八千代さん。その彼女とも、もうすぐ別れの時を迎えることがくると思うと、ひどく切ない気持ちになる。
いや、八千代さんだけではない。
「卒業」という最大の別れが、もう目の前に迫ってきているのだ。
多くの仲間たちは、大学受験を控えていたり、すでに何校かの試験を終えていたり…一喜一憂は日常のものとなって、すでにクラスの中だけでも、あまり登校してこない人もいる。
あたしは…。
「そうそう、幸枝。お前の希望のことだがな、昔から縁のある人がいて…」
「あら、もしかして?」
「そう、反町さんのご夫妻。話をしてみたんだ。そうしたら、お前さえ良ければ来て欲しい、っていうことだった。どうする?」
え、どうするって…。
誰、反町さんご夫妻って?
あたしは…そう、あたしはやりたいことをできる「環境」があるのならば…そして、それが誰にとっても望ましいものならば…。
二人の顔を見る。
笑顔―。
即決。
「はい、ぜひ」
さらに笑顔、笑顔…三人の笑顔。
冬は…寒くて淋しい冬は、もうすぐ姿を隠す。長く感じた、ほおを刺すような空気に身体を晒していた時間も、やがて暖かな春の陽射しに包まれるのだ。
そうして…そう、卒業という別れの季節に、今年もまた桜は…あたしたちのキャンディーズ桜は、多くの花を咲かせるのだろう。
今年は…全ての環境が変わった今度の春は、どんな咲き方を見せてくれるのか…。
哀しい運命を取り除かれ、新しい場所へと根付いた木たちは、違った顔を見せてくれるのだろうか…それとも、今までと同じようなハーモニーを響かせるのか…。
今年の春は、絶対に観に行こう。その姿をしっかりと目にして、そして忘れないようにしよう。
うん、そうしよう…あの場所だったら、学校の敷地の外からでもちゃんと全体が見えるから、だから必ず会いに行こう…。
そして、おそらく…いや間違いなく、遠い地へ行ってしまう陽子に、しっかりと教えてあげよう。愛しい人と一緒にいるであろう友人に、そう写真でも送ってあげようか…。
新しく迎える春の暖かさを思い、あたしの心も少し華やいでいた…。
と…。
思考を切り裂く機械的な音。
廊下を響き渡る高い周波数。
「おや、電話だ」
「こんな時間に…」
顔を見交わすあたしたち。
椅子から立ち上がる伯父さん。
蘇る昔の刑事時代の顔。
漂う不吉な予感。
「ええっ!」
「?」
大きな声が…驚いたような声が、廊下の奥から響く。
夜の静けさを突き破るようだ。
「なんだろう?」
「何かあったのかしらね」
たった今、ほんわりと感じていた幸せなムード。それが、急に暗い雲に覆われた春の空のようになってしまった。
「伯父さん…?」
戻ってきた伯父さんの顔は、まるで生気をなくしていた。何か恐ろしいものに出くわしたような、そんな表情だ。
「どうしたの?」
「幸枝、大変なことが起きた…」
真剣、それをとっくに通り越して深刻な顔色。
「山浦からの連絡だ。小川が…小川善一が、拘置所内で自殺を図った…」
「え…」
暗転―。




