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普通の女、クレコ

 クレコは、普通の女だ。


 世界がこんなにも変わってしまった今も、そんな世界にだって“普通の女”は生まれてくる。


 もし彼女が、かつての平和な時代に生まれていたなら。

 きっとどこかの地方都市で、実家の半径数キロ圏内だけで人生を終えていたことだろう。

 何事もない。物語にすらならない。そんな、どこにでもいる女として。


 だが、世界は変わった。

 この荒んだ時代に生まれた彼女は、時代そのものに押し出されるように地方から都市へと出てきて――

 若い女であることを理由に、やがて風俗の世界に足を踏み入れることとなった。


 それでも、クレコはただの女だ。


 先祖からは、特筆すべき美貌もスタイルも受け継げなかった。

 けれど、風俗の女たちが代々“運の悪さ”ばかりを引き寄せていた中で、クレコは珍しく、そこそこ“運”を持っていた。


 彼女が自棄気味に娼館メゾン・シャトゥイユの門を叩いたその日、ちょうど送迎係のセト爺さんが定年退職を迎えていた。


 三十年分の退職金と年金を手にし、残る余生を悠々自適に過ごせるという、“勝ち逃げ”を果たした男。

 下心のかけらも見せず、嬢たちに慕われる紳士。

 玄関先では、嬢たちから手渡された花束を腕いっぱいに抱えていた。


 クレコはその光景が終わるまで物陰からじっと待ち、そして去ろうとするセトとすれ違いざま、互いにひとつ会釈を交わした。


 セト爺さんはクレコが何をしにここへ来たのか一瞬で察したようだったが、何も言わずひょこひょこと歓楽街の向こうへと消えていった。


 嬢たちが館内へ戻るのを見届け、クレコは静かに館の扉を開いた。


 そのままクロハの面接を受け、採用。


 だが、思わぬことに――クレコは売春婦にはならなかった。


 彼女がたまたまMT免許を持っていたことが決め手となり、セトの後任、運転手として雇われたのだ。


 (ああ、そういう運命か)


 クレコは、ほっとしたような、肩透かしを食ったような気持ちで、それを受け入れた。


 14歳で娼館に飛び込み、以来、10年。

 嬢たちが入れ替わるたび、彼女はずっと運転手として残り続け、いつしか古参と呼ばれる存在になっていた。


 決して器量よしではない。スタイルもそこそこ。

 それでも、運転手帽を目深に被った彼女の姿を“悪くない”と見なす客もいて、年に数度はクロハの耳に「あの運転手の女はいくらだ」と冗談半分の問い合わせが入った。


 クロハはそのたびに面白がってクレコに告げたものだった。

「あんたも、売ってみるかい?」

 酔った勢いでそう持ちかけられたこともあったが、その頃にはクレコの中にあった“やけっぱちな処女喪失願望”もすっかり鳴りを潜めており、丁重にお断りした。


 ――そんな、何も起きない日々。

 積み重ねられた“平凡”が、ある日、一気に運を放出する。


 少年・ヒナルの登場である。


 ミナトが言った。


「クレ姉、お願い! ヒナルをフェリー乗り場まで送ってあげて!」


 そう言って、ため込んでいた貯金のいくらかを、ミナトはクレコの手にそっと握らせた。


 送迎用のクラシックカーに乗り込んだクレコは左足でクラッチを一気に踏み込み、シフトレバーをローに叩き込む。

 アクセルを軽くあおり、クラッチを滑らかに繋ぐ。


 ――ああ、やっぱり私は“普通の女”だけど、運がいい。


 クレコはひらき始めた物語の中へアクセルを踏み込んだ。

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