縮む距離
今日も何を着るか迷ったが、やはり灯里はあまり気負ったものではなく薄手のカーディガンにパンツスタイルにした。
自転車を走らせてファーストフード店へたどり着くと、珍しく颯太が着ていた。
「ごめん、待った?」
「俺も今来たとこ。珍しいなって思った?」
「いえ、その」灯里は視線をそらしてから「ちょっと思った」と答えた。
「新聞配達してからちょっと寝たんだけど、何故かアラームより早く起きちゃって。もう一回寝たら絶対遅刻すると思って、そっから起きてたから早かったの」
「そっか」
「じゃ、入ろうか」
「うん」
ファーストフード店で灯里はチーズバーガーとポテトとウーロン茶、颯太はてりやきバーガーとポテトとコーラを頼んだ。
二人で窓際の席に座り、バーガーにかじりつく。
「ここ、よく来るんだ。うちのクラスのやつとか同中のやつとか」
「私、あんまり来ないかも。うち駅方向じゃないから」
「ああ、そういえば駅の向こうだもんな。学校までどれくらいかかる?」
「うーん…自転車で2,30分てところかな。学校から三木弁当屋に行くのと同じくらいの時間」
「だと、弁当屋から家帰るの結構遅くならない?」
「でもないの。あそこからうちって下りでしょ。だから帰りは楽なの。逆に行きが上りだから大変」
「そっか。俺は逆に行きが下りだけど、帰りが上りだから大変だよ」
とりとめのない話をしながら、食後の腹ごなしに城跡公園へ行こうということになった。
自転車置き場に自転車を置いて二人は公園を歩く。公園は背の高いイチョウや桜の木があって、木陰を選びながら歩く。日差しの強い今日は太陽の下はまぶしかった。公園にいる人は子供連れや年寄りがちらほらいて、やはり木陰を選んで歩いているようだ。
「もうすぐ期末テストだなあ」
颯太が憂鬱そうに言う。
「灯里、何か対策してる?」
「対策っていうか…とりあえず問題集で予習復習かな」
「俺、そういう地道なの苦手なんだよな」
颯太はため息を吐いて空を見上げた。
「でも颯太くん、数学は得意だよね。数学だけはノート見せてって言わないのに、あてられてもすらすら答えるし」
「俺、昔から数学だけは得意なの。それ以外はからっきしだけど」
「私、数学苦手だからうらやましい」
颯太は照れたように笑う。灯里もつられて笑った。不意に、颯太が灯里の手に触れた。灯里はびくっと反射的に手を引いた。
「…あ」
「あ、ご、ごめん!」
驚いたような颯太と、戸惑ったような灯里が目を合わせてから顔をそらす。
「ど、どうぞ…」
灯里はおずおずと右手を差し出すが、颯太は「いいよ」とかぶりを振った。
「あ、あの…」
灯里は必死でとりなす。
「違うの、いやだったわけじゃなくて…」
「わかってる」
颯太は微笑んだ。
「びっくりしたんだろ? 俺もいきなり手えつなごうとして、ごめん」
「颯太くん…」
「次はちゃんと言うから。…もうちょっと歩こうか」
颯太はそれからも学校の話をして灯里のことを気遣ってくれた。灯里は申し訳ない気持ちになったが、それでも颯太に手をつなごうとは言えなかった。
…手をつなぐだけのことが、どうしてできないんだろう。灯里は自分で自分の手を握りしめた。
颯太が笑顔で話してくれるので、灯里はほっとしているのと同時に、それ以上踏み込んでこない颯太に対して、どこか寂しくも感じていた。
「…そろそろ帰ろうか。送っていくよ」
公園をぐるぐるまわって、駅ビルでウインドウショッピングをして夕暮れになったころ、颯太がそう言った。
「う、ううん。今日はいい。大丈夫」
「…そう?」
今日は颯太も強くは誘わなかった。さっきのことが原因だろうか。灯里はそれを口に出して聞くことはできなかった。
「じゃあ、明日…日曜日だな。明日は俺予定入ってるから、来週さ、バイトない時、俺に勉強教えて」
「え? でも、私教えられるほど…」
「時間あるときでいいからさ。帰ったら、またメールする」
灯里はうなずいた。颯太と自転車を取りに行き、そこで手を振って別れる。颯太に言われたら、勉強頑張らなきゃ。灯里はできるだけ勉強はやるほうだが、いつもより気合が入った。
家に帰って颯太からのメールにやりとりをしてから、朝陽にメールする。
手くらいつないだか? と、まるで今日のことを見てきたような朝陽からのメールに、灯里はぎょっとした。でもそんなはずはない、とそんなことしてないと平静を装って返した。早くしろ、と朝陽から催促されたが、もう返信はしなかった。
灯里と颯太のバイトがない日、颯太は一緒に勉強しようと言い出した。
「いいけど…どこでする? 図書館?」
「それいいな。静かだし、集中できるだろ」
学校の図書館はテスト前のせいもあり、人が多かった。席もいっぱいなようだ。
「…どうする?」
「俺、図書館て全然来たことないから知らなかった。テスト前ってこむんだなあ」
「そうだね。私もあんまり来たことないけど…」
うーん、と颯太は考えてから「うち来る?」と灯里に聞いた。
「え? で、でも…」
灯里は思わず身構えた。男子の部屋へ行くというのは、一応、そういうことになるのだろうか。
「大丈夫。今ならうちの親もいないし。遠慮しなくていいよ」
「え、だ、誰もいないの?」
灯里の戸惑った様子に、颯太はああ、とうなずいた。
「何もしないよ。行こ」
「…うん」
そう言われれば、それ以上ごねることもできず颯太と一緒に颯太の家へ行くことになった。
自転車に乗って颯太の住むアパートへ向かう。
「そうだ、なんか飲み物買ってこ。暑いから喉乾くし」
「そうだね」
二人で途中でコンビニによって冷たいお茶を買う。おやつだと言って颯太はビターチョコレートを買った。
「この暑いときにチョコレート?」
「冷やせばうまいよ」
颯太のアパートは三木弁当からそう遠くないところにあった。住宅地の中にある2階建ての古いアパートだ。
「自転車ここでいいよ。俺んち、2階」
「うん…」
アパートの端に自転車を置いて鍵をかけて、颯太の後に続いて階段をのぼって2階の部屋へ行く。颯太は鍵を開けて「あ」と小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
「ごめん、ちょっと…ちょっとだけ外で待ってて。すげー散らかってるんだ。俺、部屋の中片付けてくる」
「別にいいのに…」
「いや、よくない!」と颯太ははっきり宣言して「じゃ、ちょとだけ待ってて」と言って部屋の中へ滑り込むように入ってドアを閉めた。それからしばらく、灯里は冷えたお茶を飲んで待っていた。
やがて颯太がドアを開けた。
「ごめん、お待たせ!」
「大丈夫、たいして待ってないよ」灯里はペットボトルにふたをした。
「じゃ、どうぞ」
「お邪魔します」
灯里が中に入ると、あまりきれいとは言い難いがそれでも片付けたのであろう部屋が見えた。
2DKの部屋でふすまが2つあって、クーラーが起動していた。颯太がつけてくれたのだろう。
台所は整理はされていないが、一応片付いている。部屋は何年も使われているのだろう、壁やふすまも茶色く穴が開いているところもある。
「あんまりきれいな部屋じゃないんだけど…」
「長く住んでるの?」
「俺が中学の頃からかな。座って。小さいテーブルしかないけど」
あちこちに傷のついたテーブルの前に座る。敷かれたじゅうたんはところどころシミがついているが、男の子の家だしこんなものなんだろうな、と灯里は思った。
颯太はいつものように笑ってテーブルの上にペットボトルのお茶を出して、ごくごくと飲んだ。喉が渇いていたのだろう。ペットボトルの半分くらいのお茶が一気になくなった。
「はあ…暑いな。今クーラーつけたんだけど、このアパート古いから暑くてさ」
「大丈夫だよ。なんかすごく懐かしい感じのするアパートだね」
「懐かしい…はは。そうかもな」
颯太は笑ってカバンから勉強道具を出した。灯里も勉強道具を出してテーブルの上に広げる。
「俺、世界史苦手なんだけど」
「教えてあげる。そっちは好きだから。颯太くんは数学教えてね」
「任せろ」
お互いの苦手分野を教えあう。これも得意分野が正反対だからできることだな、と思う。灯里はそれが妙に嬉しかった。
少し汗ばむようなクーラーのきいた部屋で、少し薄暗くなるまで勉強は続いた。お互いにあまり余計なことはしゃべらず、ひたすら勉強を教えあった。
「私、そろそろ帰るね」
灯里がスマホの時間を確認して切り出した。
「あ、もうそんな時間か。結構集中してたな。俺、こんな勉強したの初めてかも」
「大げさだなあ」
灯里は笑って勉強道具をしまう。
「送って行こうか?」
「大丈夫だよ」
「そう? …じゃ、下まで送る」
颯太と階段を下りて自転車のかごにカバンを入れる。
「気をつけてな。灯里、明日はバイトだろ」
「うん」
灯里は夕日に照らされた颯太の笑顔を見て、不意にわきあがった疑問を口にする。
「颯太くんは、どうしていつも笑顔なの?」
「え?」
颯太は灯里の質問の意味が分からず、首をかしげる。
「いやなことが会っても、普通の時も、いつもにこにこしてるなって。…それはどうしてなのかなって。私、そういうのうらやましいなって思ってたの」
「ああ…俺、ずっと母親と二人で暮らしてきたんだけど、その間母親の彼氏が結構うちに来るわけよ。年だけどもてるんだ。男に」
「うん…」
話の展開がよくわからないが、とりあえず灯里はうなずいた。
「でも俺はガキだから、面白くなかったわけ。うちにくる知らない男にたてついたりすると、当然あっちの男も面白くないわけだ。うちで殴られることもあったし」
「そんな…」
灯里がショックを受けたようにつぶやくと、颯太は片手を振ってみせる。
「まあ、大概俺が悪いんだけど。で、みかねた母親が『敵じゃなく味方を作れ』って言ったわけ」
「敵じゃなく味方」
「そう。ようはおっさんたちに媚を売れってこと。最初は嫌だったんだけど、必死で作り笑いしてなついたふりしてたら、あっちもだんだんやさしくなってきて、お菓子とか買ってくれるようになったわけ」
「………そう」
灯里はうなずく。確かにそのほうがずっと自分にとっても相手にとってもずっといい環境だろう。お互いに敵視していたら、居心地が悪いに決まっている。
「で、俺、ああ、これがおかんの言ってたことかと思った。笑ってるとたいていの人もつられて笑うだろ。それからいつも笑うようにしてたら、それが自然になってたわけ。そしたら、敵じゃなく味方がいたんだ。だから俺、人のことは嫌いにならないようにしてる。苦手な奴はいるけど」
「そうだったの…」
「がっかりした? アホみたいな理由で」
颯太が灯里の顔を覗き込むように首をかしげると、「ううん」と灯里は笑った。
「おかあさんも颯太くんもすごいね。そっか…。敵じゃなく味方をつくるんだね」
「はは。俺の場合はそれでうまく行ったけど、アホみたいに笑うなって場合もあるからケーズバイケースかな」
「うん。でも…すごいな。颯太くんは」
灯里は小さくつぶやいた。
「私もそうできればよかった」
「え?」
「なんでもない」
聞き返す颯太に、灯里はかぶりを振って自転車のハンドルを握る。
「じゃあまたね」
「うん。また明日」
灯里は自転車をこいで下り坂を下りて行く。自然に笑顔になっていた。頬を切る風が生ぬるかった。
金曜日の放課後の三木弁当屋で、山辺と颯太と灯里の3人でバイトをしていると、またもやあの中年男性がやってきた。ガラスケースを拭いていた颯太の前にどすどすと歩いて近づく。
「おい、おまえ」
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
颯太はいつもどおり笑顔だ。灯里と山辺ははらはらしながら2人を見守る。
「この間はよくこけにしてくれたな。客にああいう態度でいいのか?」
「とんでもないです。お客様にそんな失礼なことしませんよ」
「はあ? やっただろうが。セクハラだなんだと馬鹿にしやがって」
「事実ですから」
笑顔であっさり言ってのける颯太に、中年男性はかっとなったようだ。
「じ、事実じゃねえ! ちょっと言われたって、受け入れるのが客だろ!」
「お客様、どう受け取るかはお客様ではなく言われたほうが決めることです。お客様がそう思わなくても、受け取るほうがそう思ったらセクハラなんですよ」
「そ、それは、まあ…」
相手は颯太の言葉にひるんだようだった。」
「時にお客様。一人暮らしですか?」
唐突に聞かれ、男性客はちょっと引いたように「そ、それがなんだ?」と返す。
「いえ、一人暮らしだと自分で作るのも大変だからやっぱり弁当買いに来るかなと思って」
「それがどうした」
「ここの弁当、うまいですよね」
颯太が相変わらずの笑顔で中年男性と話を続ける。
「ま、まあ…。それで俺も買ってやってるんだ」
「俺もこの近くに住んでて、母親と二人暮らしなんでよくここの弁当買うんですよ」
「そうか。…俺も、前は母親と二人暮らしだったんだ。少し前に病気で死んだけどな…」
「そうでしたか…」颯太は一度うつむいてから顔をあげた。「一人が寂しくなったらまた来てください。俺、月曜日と金曜日はいますから」
「お、おう…」
男性が毒気を抜かれたようにうなずいた。次の客が入ってきたので、男性は弁当を注文して帰って行った。
「まさかあのおっさんと仲良くなるなんて思わなかったわ」
山辺がため息交じりに颯太を見る。客がちょっと引けたので3人で話を始めた。
「俺、ああいうおっさんの扱い慣れてるから」
颯太はにかっと笑った。以前、母親との交際相手の
「でも、そうするとあのおっさん、また来週も来るのかしら…」
山辺は嫌そうに顔を歪める。颯太はまあまあとなだめた。
「月曜日だと山辺さんいないし。来ても俺が相手するから大丈夫ですよ」
「…颯太くんはすごいなあ」
灯里は心の底からそう思った。灯里や山辺なら無視するような相手をさらっと引き入れてしまうなんて。
「へへ。いったろ? 慣れてるって」
灯里に褒められて、颯太は照れたように笑った。
土曜日にはまた一緒に勉強しようと颯太に言われて、灯里はうなずいた。来週からテストだし、颯太とは苦手な教科を補えあえるからちょうどいい。
夜になって颯太のメールが来てから、また朝陽に現状を報告する。明日会うなら、キスくらいしてこいという返信がきた。灯里は返信しなかった。手を握ることすらできないのに、そんなことできるわけもない。灯里はスマホを机の上に放り投げて、ベッドに入った。なかなか眠りは訪れなかった。