ハッピーの恩人
家に帰って風呂から上がってスマホを確認すると、朝陽と颯太からメールが入っていた。
朝陽に今日バイト先に颯太を連れて行ったことを報告した。もっとはやく仲良くなれと朝陽が催促してきた。わかったと答えてそれ以上は何もなかった。
颯太からはバイトお疲れ様と来ていた。
----ありがとう。今日は変なお客さん来なくてよかった。
----変なお客さんて?
----たまに当たるんだけど、ちょっとからんでくるおじさんがいるの。値段が高いとか、おいしくなかったとか。人いないとずっと言ってる。
----何それ。やな感じ。
----そうなの。だったら来るなって感じなんだけど。
----灯里にばっかりからんでくるの?
----ううん。私以外の人にもそうみたい。
----クレーマーじゃん。暇なおっさんだな。
颯太の言葉に灯里は思わず笑みを浮かべた。バイトをさせてもらえるか聞いたか確認され、今のところは募集していないということを伝えると、がっかりしたイラストが送られてきた。それから少しやりとりしてから、おやすみと来てメールは終わった。
灯里はスマホをじっとみつめる。颯太からメールが来ると嬉しい。そう思っている自分がいることに灯里は気づいた。そして嬉しいのと同時に苦しい。好きなったらだめなのに。自分が困ることになるだけなのに。
灯里は目を閉じて、スマホを握りしめて小さく息を吐いた。
翌日、灯里が学校へ行くと相変わらず颯太は遅刻ギリギリで来た。そしていつものように灯里に漢文の予習を写させてもらいながら、お礼だと言ってガムを差し出した。
「別にいいのに…」
「お礼だよ。いつものことだけど」
颯太はにかっと笑ってガムを口に入れる。
「今食べたら、授業中に先生にみつかるよ?」
「平気平気。すぐ飲んじゃう」
「もう…。これ、また辛いの? 酸っぱいの?」
「フツーのガムだよ。あれは…ほら」颯太がシャープペンをくるりと回して照れたように言う。「話すきっかけが欲しかったっていうか」
「え…あ、うん。そう、なんだ…」
灯里と話すきっかけが欲しくて、わざと変な味のソフトキャンディを買ってきていたのか。それがわかると、なんとなく颯太がかわいく思えてきた。
「ふふ」
「え? 何?」
突然笑い出した灯里に、颯太はきょとんとして顔を上げる。
「颯太くん、かわいい」
「ばっ…馬鹿にすんなよ」
颯太はふくれてノートをがりがりと書き始めた。灯里は微笑みながらそれを見ていた。
昼休みになり、いつものように4人のグループで昼を食べ、トイレに行って戻ってきたときにクラスメートの女子二人に声をかけられた。
「ねえ、池田さん」
「ちょっといい?」
「何?」
二人はお互いを見合ってから、「青山くんとつきあってるって本当?」と聞いてきた。
「本当だけど…」
颯太はすでに昼ご飯を食べ終えて、体育館へ行ってしまったようだ。この時間はいつもバスケットをしているらしい。
「マジで?」
「池田さんと青山くんてちょっと意外じゃない?」
本当のところを言われ、灯里はなんとも言えず「…はは」と笑うしかなかった。
「何話すの? 二人で」
「そうそう話合わなそうじゃない?」
ずけずけと言ってくれるなあ…と思いながら、灯里は、お互いのこととか、と小さく答えた。
「青山くんの家族のこととか?」
「教えて、どんな感じなの?」
「えっと…」
目当てはそれか、と思いながら灯里は視線をそらした。父親がいないことしか知らないけど、勝手にそんなことを話してもいいものだろうか。
「本人に聞けば?」
冷たい声が入ってきた。いつも一緒にいる美奈がこっちを見ずにジュースを飲みながら言った。
「あ、そのほうがいいかも…」
「えー…」
「何それ、こわーい」
二人はばつが悪くなったのか、灯里たちから離れて行った。
「もう、ちゃんと言いなよ。自分で」
美奈が呆れたように言う。灯里は助けてくれたことに感謝しつつ、「ごめんね」と言って頬をかいた。
「あの子らさ、絶対青山くん狙ってたもんね」
「灯里にとられたみたいで悔しいんだよ」
夏樹と香にそう言われ、それはあるかも、と灯里は静かにうなずいた。
彼女たちは休み時間になると、時折颯太のそばに来ていた。目立たない灯里が颯太とつきあうなんて、思ってもみなかったのだろう。面白くないのも仕方ない。
放課後になると、颯太がまた一緒にバイトに行きたいと言い出した。
「来てもいいけど…またお弁当買うの?」
「それもあるけど、灯里のおじさんにバイトいらないか確認しに」
「おじさん、バイトはいらないって…」
「いいからいいから。行こうぜ」
「颯太ー」
やはりというか、予想通り畑中がやってきた。
「一緒に…」
「あー今日は無理。またな」
畑中が颯太の手を取ろうとすると、するりと颯太はすり抜けた。
「え…そう。わかった」
こちらが拍子抜けするほどあっさり畑中は引いた。そしてちらりと灯里を見ると、「まあ頑張って」とだけ言って教室を出て行った。
「…いいの?」
「いいよ。いこいこ」
颯太は笑って歩き出した。灯里もそれに続く。
もう道はわかっているので、二人で自転車をこいで三木弁当へ向かった。
途中で颯太は文系は苦手だけど理数系は得意だという話をした。灯里は逆に文系が得意だけど、理数系は苦手だというと、お互いに足りない部分を補えると颯太は嬉しそうに笑った。その笑顔に、灯里は胸が締め付けられた。
弁当屋について自転車から下りた時、唐突にミニチュアダックスフンドが弁当屋の陰から走り出してきた。
「誰か、止めてー!」
おばさんの声が聞こえた。追いかけてくるのは、三木弁当のおばさんだ。灯里はおばさんに声をかける。
「おあばさん、どうしたの?」
「ハッピーが、いきなり走り出して…ああ!」
おばさんが飼っているミニチュアダックスフンドのハッピーは躊躇することなく道路に走り出し、そこへクラクションを鳴らした自動車が突っ込んできた。
間に合わない! ひかれる! 灯里とおばさんは思わずぎゅっと目をつぶった。
急ブレーキの後、自動車はそのまま走り去った。よく見ると、道路にはハッピーを抱きとめた颯太が転がっていた。
「…っぶねー…」
颯太は道路の端からむくりと起き上がり、自動車が来ないのを確認してこちらへ駆けてきた。
「はい、どうぞ」
「ハッピー! ああ、よかった」
おばさんは嬉しそうに颯太からハッピーを受け取る。ハッピーは今の出来事がまるでなかったように、舌を出して周りをくりくりとした目で見ていた。
「颯太くん、大丈夫?」
灯里はハッピーを助けるために道路に飛び込んだ颯太に驚きと心配がごちゃまぜになって尋ねる。
「へーきへーき、ちょっと手え擦りむいたくらいで…」
「もう、無茶だよ。いくらなんでも…」
「いや、なんか身体が勝手に動いたっていうかさ」
「だって、車に引かれたら…」
「灯里ちゃん、この子灯里ちゃんのお友達?」
ハッピーをしっかり抱きとめたおばさんが颯太と灯里を交互に見る。
「はい、クラス…」
「彼氏です」
颯太はにっこり笑って灯里の肩に手を置いた。おばさんは「あらあら」と大げさに驚いて見せる。
「そうなの。消毒してあげるから、ちょっと、店の裏手に回ってちょうだい。あそこに救急箱があったはずだから」
おばさんは店先にハッピーのリードを結び付けると、「こっちよ」と二人を手招きした。
「はい」
「今行きます」
おばさんの後に続いて二人は店へ入る。おばさんが急いで救急箱を出してくれて、颯太の手を洗って絆創膏を貼ってくれた。灯里はバイトの準備もできず、おろおろしていた。
「ありがとうございます」
颯太は相変わらずにこにこしている。
「それはこっちの台詞よ。ハッピーの命の恩人だもの。そうだ、よかったらうちの弁当持っていきなさいよ。ご家族の分も。お礼だから、好きなの選んで」
「いいんですか?」颯太は感激したように目を輝かせた。「俺、ここの弁当屋うまいからよく来るんですよ。うちのおかんも好きで」
「そうなの! よかったわあ。ぜひともこれからもごひいきにね」
おばさんは手をたたいて喜んだ。
「もちろんです」
「灯里ちゃん、いい彼氏みつけたわね。さ、もうバイトに入って彼氏にお弁当作ってあげて」
「わかりました」
灯里はロッカーへ向かってカーテンを引いて着替える。その間に、話し声が聞こえてきた。颯太は灯里と一緒にバイトがしたい、と言っているようだった。
灯里が着替えて出てくると、おばさんは灯里を手招きした。
「颯太くん、うちでバイトしたいっていうから、明日履歴書持ってきてもらうことにしたわ。まあ採用はほぼ決定だけどね」
「いいんですか? おじさんは今は人手いっぱいだからって…」
「いいのよ。ハッピーの恩人だし。灯里ちゃんも彼氏と一緒にいたいでしょ?」
「え、えっと…」
灯里が颯太を見ると、颯太は嬉しそうに笑った。
「明日は土曜日だから学校休みよね。明日の2時ころに来てもらっていい? そのころだと、おとうさんもいるはずだから」
「店長ですね、わかりました。明日は礼儀正しくしてきます。あ、頭は金髪のままですけど」
「面白いわねえ、颯太くんて」
おばさんは楽しそうに笑う。そうやって誰とでもすぐ打ち解ける颯太がうらやましいな、と灯里は思った。おばさんは灯里の前だと、そんなふうに笑ったのを見たことがない。
颯太は遠慮なく弁当を2種類もらって、帰って行った。おばさんはハッピーの散歩へ行くと言って、店を出た。
「へえ、それで灯里ちゃんの彼氏も一緒にバイトすることになったの」
根本は灯里の話を聞きながら弁当の下準備をする。客が途切れたので、灯里はハッピーの一件を根本に話しをしたのだ。
「でも、灯里ちゃんの彼氏って持ってるのねえ」
「持ってる? 何をですか?」
「そういう…なんていうのかなあ。運を引き寄せる力っていうのを。だって、ハッピーはこの時間に散歩なんて行かないでしょ? なんだか太りだしたって店長の奥さん言ってたから、たぶんそういうタイミングだったのよ。そういうのにあたるなんて、やっぱり持ってるんだわ」
「そういうものですか…」
灯里はわかったようなわからないような気分でうなずいた。
「あの子、いつも笑顔でいるからそういうのを引き寄せる力があるのかもね」
「笑顔…」灯里は颯太の教室でいる様子を思い浮かべた。灯里に振り返るとき、ほかの生徒といるときも、颯太はいつも笑顔でいた気がする。「そうかもしれませんね」
「灯里ちゃんもね」
「え?」
「ああいう彼氏がいるんだから、そのうちもっと明るくなるんじゃない? 笑顔に勝る美人なし、っていうのよ。高校生は一度きりなんだから、もっと楽しそうにしなきゃ。ね?」
「あ…はい」
悪気はないんだろうが、灯里は自分が愛想の悪い人間だと言われたのがわかって内心落ち込んだ。やっぱりそう思われてるんだよね…。それはそうだ。と灯里は一人ごちた。
バイトを終えて家へ買って夜になると、朝陽と颯太からメールが来ていた。朝陽のメールはいつも返すのが気が重いが、今日の出来事をやり取りしてメールを終えた。
颯太からは明日、バイトの面接に一緒にきてほしいということだった。今は履歴書を書くのに一苦労しているらしい。特に用事もないので、灯里は颯太と待ち合わせしてバイトの面接につきあうことにした。