二人の選択
振替休日は相変わらず暑い日だった。灯里は日焼け止めを塗って、紫外線対策をしてから家の外に出る。颯太は2時ころ家に自転車と来るということだった。
一番暑い時間帯だ。遅れてくるだろうとは思ったが、少し前に灯里が玄関のドアを開けると、黒髪の高校生くらいの男子が自転車を灯里の家の目の前に止めた。
「おはよう」
「おはようございます…」
誰だっけ。挨拶されたけど。
灯里が怪訝な表情で彼を見ると、その人はにっと笑った。
「あ、もうこんにちは、か」
「え、そ、颯太くん?」
灯里はぽかんと口を開けて颯太を指さした。あの金髪が黒髪になり、目を覆うようだった長い髪は眉まで切られている。
「そうだよ。やっと気づいた?」
「え、だ、そ…だって、髪…」
「戻した…っていうか、正確には黒に染めたんだ。だからこんな遅い時間に来るって言って、ごめんな」
「そ、それはいいけど、なんで…」
「前のほうがよかった?」
颯太が首をかしげると、灯里は、ううん、と唸ってから首を横に振った。
「前のが見慣れてるっていうのはあるけど…今のほうが落ち着く」
「そりゃよかった。苦労して染め直した甲斐がある」
颯太はくしゃくしゃと自分の髪を撫でた。
「でも、どうして? 先生に何か言われた?」
「言われてんのは入学当時から。おかんのために金髪にしたって言ったけど、それ、もういいかなって」
「…どうして?」
「俺は、おかんのために生きてるわけじゃないから。そんだけ」
「…そう」
灯里にはそれ以上何も聞けなかった。ただうなずいた。
颯太が微笑んで、自転車を灯里の家の庭に入れて「置いていい?」と尋ねる。灯里はうなずいて自分の自転車のそばに置くように言った。
「どこか行くんだと思ってた」
「行くよ。なあ、向かいの家が森の家だろ?」
「うん、そうだけど…」
「俺も、灯里にふさわしい人間になるためにきた」
颯太にそう言われ、灯里は、はっとした。
「もしかして…晶ちゃんに会いに来たの?」
「ずっと引きこもってるんだろ?」
「うん…。高校中退したみたい。外出てるのも見たことなくて、おばさんも心配してるって」
「おばさん…て、森と晶のおかあさんか」
「そう」
晶、と颯太が彼女のことを名前で呼んだことに、灯里は胸が疼いた。当たり前なのに。昔付き合っていた彼女なら。
「中にいるんだろ?」
「うん、でも朝陽もいるかもしれないけど…」
「いいよ、別に」
颯太はさっさと向かいの家のドアの前に立ち、玄関のインターホンを押した。
「そ、颯太くん…」
「大丈夫」
何が大丈夫なんだか灯里にはさっぱりわからないまま、颯太の後ろに立つ。
『はい』と不機嫌そうな声がインターホン越しに聞こえた。朝陽の声だ。
「あー、俺。青山だけど。中に入れて」
『は? 青山? 何言ってんだ?』
さらに不機嫌そうな声になった朝陽が声を荒げた。
「だから、俺晶に会いに来たんだよ。中に入れて」
『馬鹿か? 姉貴がおまえに会うわけねーし。つか、部屋から出て来ねーし』
「会わなくてもいいからさ、部屋の前まで入れてくれればいい」
『…なんで? 今更』
「今更、俺がクズだってわかったから」
しばらくの沈黙の後、足音がして玄関のドアが開いた。朝陽が颯太を見て変な顔をした。
「あ? 誰だおまえ…」
「颯太くんだよ、朝陽。髪黒くしたんだって」
灯里が手短に説明する。
「灯里もいたのか…」
「金髪じゃないと俺って認識されないのかよ」
やれやれと颯太はわざとらしくため息を吐いた。
「何、生まれ変わった俺を見せようとかそういうつもりか?」
朝陽が皮肉気に言うと、「そんなんじゃないし」と颯太は肩をすくめた。
「俺が晶に話したいだけ。俺のために」
「…入れば」
朝陽は渋々というふうに彼らに背中を見せて歩き出す。颯太と一緒に灯里は朝陽の家の中へ靴をそろえて入る。朝陽は無言で階段を上っていく。2階には3つのドアがあり、階段すぐの部屋の前で朝陽は立ち止まった。
「灯里は来たことあるの?」
「子供のころに何回か…。でも最近は全然」
「そっか」
「…この部屋。今日もトイレ以外は部屋から出てねえよ」
「わかった、ありがとう」
「………」
颯太の言葉に、朝陽は何も言わず腕組みをして壁に寄り掛かった。灯里はどうすればいいかわからないまま、部屋のドアをみつめる。颯太はドアをノックした。
「晶、俺。青山颯太。…久しぶり」
ドア越しに颯太が話しかけても、返事はなかった。
「中にいるんだよな? 返事しなくてもいいから、とりあえず俺の話聞いてくれる?」
再び話しかけても、返事はなかった。
「中にいるんだよね? 晶ちゃん」
「いるよ」
心配そうな灯里の問いに、朝陽は短く答えた。
「ずっと部屋から出てないんだってな。学校、行ってないなんて、知らなかった。あれ以来音信不通だったし。俺のせいだったら、ごめん。俺のせいで辛い目に遭わせて、ごめん」
返事はないので、颯太は一方的に話す。
「俺、晶が年上でなんでも俺のこと理解してくれると思ってたから、甘えてた。平気でほかの女子とも浮気したし、晶のことすごく傷つけたと思う。ごめん。俺、本当に最低だった」
颯太は部屋のドアに手をあてる。
「でも俺、今は灯里と付き合ってるんだ」
灯里はどきりとした。今、晶にそれを言っていいものだろうか。そもそも、つきあっていたのは過去の話だ。嘘の告白までして。
「これからもずっと、付き合っていきたいと思ってる。晶には悪いけど、もう俺、他の人が好きなんだ。…晶には、前を向いてほしいと思う。俺の勝手だけど」
…何が違うの。
中から微かに、声がした。晶だ。
…私と灯里ちゃん、何が違うの?
「…そうだよな。晶も灯里も、真面目そうなところ、好きだと思ったよ。俺のこと、大切にしてくれそうだと思った。だから、俺も大切にしなくちゃと思った。晶はいつも俺に夢中で、俺だけに依存してくれたけど、…俺、正直、重かった。灯里はちゃんと自分の足で立って、俺のそばにいてくれる。俺を見るだけじゃなく、どうすれば前に進めるかって考えてるところが、好きだ」
私のこと、そんなふうに思ってくれてたんだ。
灯里はなんだか恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じた。
颯太はドアから手を放した。
やはり中から返事はなかった。
「じゃあ…行くよ。でもおまえの弟は、ずっと晶のこと心配してる。だから…顔、見せるだけでもしてあげてほしい」
それだけ言って、颯太は階段を降りようとする。そこで、微かな声が聞こえた。
「………」
「え?」
「何? 晶」
「晶ちゃん?」
一斉に3人がドアの前に集まると、微かな声がもう一度聞こえた。
…来てくれて、ありがとう。さようなら。
ドアが開くことはなかったが、3人は顔を見合わせて笑った。朝陽は笑った自分が恥ずかしかったのか、すぐに顔をそらして不機嫌そうな表情に戻った。
朝陽は黙って階段を下りる。
颯太と灯里もそれに続いた。
玄関先で立ち止まる。
「結局、晶、出てこなかったな。俺、あんまり役に立たなくて…」
「別に…」
朝陽はそっぽを向いたまま言う。
「しゃべったの、久しぶりだよ」
「そうなんだ…」
灯里は階段を見上げた。晶がドアを開ける気配はなかった。
「もう、これで灯里に八つ当たりするのはやめろよ」
「え?」
颯太に言われて朝陽は怪訝そうな顔をする。
「悪いのは俺一人だから。灯里は何も悪くない。これで終わりにしとけよ」
「………」
朝陽は答えずにそっぽを向いた。
「じゃ、お邪魔しました」
颯太は靴を履いて家を出ようとする。灯里もそうしようとして、「先に行ってて」と颯太に言った。
「灯里…」
「すぐ済むから」
颯太はうなずいて、玄関のドアを閉めて出て行った。朝陽はポケットに手を突っ込んで壁にもたれる。
「何?」
「私、この前、おかあさんと会ったの」
朝陽は驚いて灯里を凝視した。「…おばさんと? 親父は?」
「別れたって言ってた。1年くらいで。もう、どこにいるかも知らないって」
灯里の返事に、朝陽は後頭部を壁に押し付けた。
「…そうなんだ」
「うん。おかあさんは私がおじさんとのこと見たの、知ってたって言ってた。どっちにしても家は出て行ったって。…ずっと気にしてた私、馬鹿みたいだと思った」
「…話はそれ?」
「そう。だから、私、もう朝陽の言うことは聞かない」
はっきりそう言った灯里に、朝陽は背を向ける。
「行けよ。バーカ」
「さよなら、朝陽」
灯里は靴をはいて、玄関のドアを開けた。朝陽はそれを見ずに階段を上っていく。
ぽつりと独り言をつぶやいた。
「青山とつきあえなんて、言うんじゃなかったな…」
朝陽の家を出ると、残暑の日差しが暑かった。灯里は手を日差しを遮って、外で待っていた颯太に駆け寄る。
「お待たせ。暑かったでしょ」
「いんや。日陰にいたから。…何、話したの?」
「朝陽から卒業するって言ったの」
「…そっか」
颯太はそれ以上詳しく聞かずに、空を見上げた。
「暑いなー…。アイスでも食べに行かない?」
「コンビニだったら、近くにあるよ」
「そこでいいよ。行こう」
灯里はうなずいて、家に鍵をかけてから颯太と並んで歩きだす。
外に出ると自然と汗ばんでくる。灯里は流れてくる首筋の汗を手でぬぐった。
「颯太くん、バイト辞めたんだね」
「ああ、それね…。あれ、嘘」
「嘘?」
ぺろりと舌を出した颯太に、灯里は意味が分からず聞き返す。
「嘘って、バイト辞めたのが?」
「事情があってバイト休むけど、灯里には辞めたって言っておいてって、店長に頼んだの」
「なんで、そんな…」
だってさ、と颯太は自分の髪をかきあげる。
「灯里が気まずくて、俺の顔見たくないかなって思って。ちょっと時間置いたほうがいいかと思ったんだ」
「そう…だったんだ。気を使わせてごめんね」
「灯里こそ、先生に言ったんだってな、停学の時に。先生から聞いた」
「ううん。だって…私のせいだから」
「もういいよ」
颯太は灯里の頭を小突いた。
「今日は、晶ちゃんに会いに来たの?」
「それもあるけど」
颯太はうーん、と背伸びをした。
「灯里、3位だったな。メイドさん。俺、灯里に投票したのに」
「え? 投票、したの? 私に?」
初耳だ。まさか同じクラスで投票する人がいたなんて、と灯里は思わず聞き返す。
「そう。だって、1位になってほしかったから」
颯太に言われ、灯里は一瞬、息をのんだ。1位になったら告白すると言っていたからか。
「けど、俺…文化祭で1位になっただろ。執事部門で」
「そうだね。颯太くん、大人気だったもんね」
「だからさ」
颯太は立ち止まって灯里を見る。
「俺から告白してもいい?」
「え?」
灯里は目をぱちくりさせる。
「颯太くんが私に? だって…」
「灯里、言ったじゃん。文化祭で1位になったら告白するって」
「え、そ、だってそれは私が…」
「1位になったら告ってもいいんだろ?」
「いつの間にそんなルールに…」
灯里は困惑してもじもじと両手を握り合わせる。
「だって…私でいいの? 私は颯太くんをだまして傷つけるようなことして、全然颯太くんに釣り合わないし…」
「それは俺も一緒だよ。今まで、いろんなひどいことしてきたし、俺だって、灯里にふさわしい人間だとは思ってない」
「そんなこと…」
灯里が否定しようとすると、颯太はかぶりを振った。
「俺、本当に中坊の時馬鹿でどうしようもなくて…まあ、今もたいして変わってないけど。それでも夏休みの会わない間も、ずっと灯里に会いたいと思ってた。時間が必要だと思って、ずっと連絡しないでいたけど、やっぱり新学期になって灯里がいいなと思った。それに灯里、俺一緒にいて楽しかったって言ったじゃん」
「うん…」
そういえば、そんなこと言ったような気がする。灯里はなんとなく思い出した。
「だから、灯里も俺と同じ気持ちなんだって思った。灯里はわからないって言ったけど、気づいてないだけなんだって。まだ今でも大丈夫なら」
颯太は片手を出して頭を下げた。
「今度こそ本当に、俺とつきあってください。池田灯里さん」
「…颯太くん」
嬉しくて泣きたくなるのって、こういうときなんだろうな、と灯里は思った。颯太が差し出した手を、灯里は両手で握りしめる。
「…喜んで。よろしくお願いします」
颯太は顔をあげて、にかっと笑った。お日様みたいな笑顔。灯里はこの笑顔が大好きだ、と思った。
「あのね、私、颯太くんの前向きなところが好き。みんなを味方にできるくらい笑顔がかわいくて、やさしいところが好き」
「うわ、なんか…恥ずかしいな」
「晶ちゃんの部屋で私のこと言ってくれたから、そのお返し」
「はは、お返しか」
颯太は心なしか顔を赤くして頭をかく。
「夏休みの間もね、いろいろあったの。聞いてくれる?」
「俺も、話したいこといっぱいある。後で灯里のおとうさんに挨拶してもいい? 娘さんとおつきあいさせてくださいって」
「いいよ」
言ってから、灯里は気づいた。
「もしかして、そのために頭黒くしたの?」
「それがメインかな」
颯太はぺろっと舌を出した。灯里はこらえきれずに笑った。
「学校行ったら、颯太くんの頭見てみんなびっくりするね」
「ネタ提供になっていいじゃん」
どちらからともなく手をつないで歩き出す。通り道には咲きすぎたバラが何本かあった。近づいたわけでもないのに、バラの香りを感じた。
自分が彼にふさわしい人間になれる日なんて、もしかしたら来ないかもしれない。でも、それでもずっとそうなりたいと思いながら、私はきっとこの手を握るんだろう。
まだ暑い季節だけれども、やがて秋はやってきて、遠からず冬も来るだろう。
そうやって移り変わる季節にも、この人とずっと手をつないで歩いていきたいと灯里は思った。




