思わぬ再会
「おはよう」
「おはよう」
週明けの挨拶が交わされる教室。灯里は席に戻って、いつもどおり遅刻すれすれでやってきた颯太に声をかける。
颯太の頭は相変わらず金髪だった。
「お、おはよう…」
「おはよう」
変な声が出てしまったと気にする灯里をよそに、颯太はカバンを置くとクラスメートのもとに行った。
いつもなら、灯里に話しかけるところだったが、もう違うんだ、と灯里は思った。
クラスの女子が颯太に話しかけている。それを見た灯里は妙に胸が苦しくなるのを感じた。
期末テストが返ってきた。颯太は灯里のほうを振り返らず、隣の席の男子とテストの話をしている。
これが代償なんだ、と灯里は思った。颯太を無意味に傷つけた代償。だから、今胸が締め付けられるのは仕方ないんだ。灯里はそう自分に言い聞かせた。
颯太とまともに話ができないまま、夏休みに入った。バイトで颯太と顔を合わせることはなく、どうしたのかと店長に聞いてみると、颯太はバイトを辞めたとのことだった。
私のせいか。私のせいで辞めたのか。でも颯太くんが私の顔を見たくないなら仕方ないことだ。でも…。
灯里は颯太と会えないことが、苦しかった。
「灯里ちゃん、颯太くんと別れたの?」
「…はい」
心配する山辺に灯里は力なく返事をする。
「そうなんだ。あんなにラブラブだったのにね。でも、急に仲良くなると急に冷めるっていうのもあるからね」
「あはは…」
灯里は軽い笑いを返すしかなかった。そのとき、お客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
そう言ったところで、灯里と山辺は顔を見合わせた。金曜日に来るあの中年男性だった。
「おう。今日はあの金髪の兄ちゃん、いねえのか?」
中年男性は店内を見回して尋ねる。
「あの、辞めました」
「辞めたあ? なんで」
「あの…」
灯里がどう言うべきか迷っていると、山辺が隣りに立った。
「プライベートなことですので、お答えできません」
「ああ? 相変わらず態度悪いな…。おまえ、あの兄ちゃんに何かしたのか?」
「私は…」
「ああ、いい、いい」
中年男性は片手を振った。
「おまえみたいな愛想悪い女は振られるだろうと思ってたけどな」
「お言葉ですが…」
山辺が言い返そうとすると、灯里はにっこりと微笑んだ。
「お客様のおっしゃるとおりです。でも、こんな私につきあってくれた彼には感謝しています。これからはお客様に愛想がいいって言われるように頑張りますね」
「お、おお…」
中年男性は言葉に詰まったように、ただ声を発した。
「ご注文は何になさいますか?」
笑顔で聞かれ、男性はようよう「…カツ丼」と言った。灯里はさっさとカツ丼を準備して男性に渡す。レジは山辺がやってくれた。
「…変わったね、灯里ちゃん」
山辺が驚いたように灯里を見ていた。
「…颯太くんだったら、どう言ったかなって思ったんです。でも、本当はすごく緊張して…今、ちょっと手が震えてます」
灯里は引きつった笑みを浮かべながら自分の手をさすった。山辺も微笑んだ。
「颯太くんに見せてあげたかったね、今の」
「ええ…いいですよ、そんなの」
灯里は苦笑いを浮かべる。山辺は笑って作業へ戻った。灯里もメニュー台を拭き始める。
ここに颯太くんがいたら、ほめてくれたかな、と思いながら。
夏休みになり、バイトの時間を増やしてもらったが、颯太が来ることはなかった。
お弁当を買いに来ることもなくなるほど呆れられたんだ。仕方ない。灯里は自分に言い聞かせて、バイトと勉強に励んだ。
颯太からメールが来ることも、灯里からメールすることもなかった。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃ…あ」
弁当屋に来た珍客に、灯里は窓を拭いていた手を止めた
「やっほー。来ちゃった。今、大丈夫?」
ノースリーブにミニスカートとサンダルで真夏の恰好をして入ってきたのは、畑中だった。
「うん。今、お客さんいないから少しなら…」
中にいる根本が「大丈夫よ」と笑ってくれた。
「そう。じゃあ先に注文しちゃおうかな。結構おいしかったよ、ここのお弁当」
「ありがとう。何になさいますか?」
「えっとね…」
畑中は悩みながら注文すると、「なんで颯太と別れたの?」といきなり灯里が聞かれたくなかったことを聞いてきた。
たぶん、それを聞きに来たんだろうということは、灯里にも薄々わかってはいたけど。
「あ、あの…」
「灯里ちゃん」
根本が後ろから声をかけた。
「ちょっと時間かかるから、店の外の窓拭いておいで」
「あ…はい」
気を使ってくれたのだろう。灯里はふきんを持って外に出た。畑中もそれに続く。
「気の利くおばさんだね」
「うん。いつもそう…」
灯里は店の外の窓を拭きながら、「颯太くんを私が傷つけたから悪いの」と畑中を見ずに言った。
「何それ? 颯太は池田さんが俺のこと好きじゃなくなったって言ってたよ。冷めた? 浮気したと思った? 本当に颯太、浮気なんかしてないよ」
一気に問い詰められ、灯里は畑中を向く。
「そんなこと…」
「だって、あたしが誘っても颯太、今回はさっぱりだったもん」
「え…」
何かおかしなことを今言われた気がする。灯里は顔を引きつらせた。
「前にも言ったけど、颯太って誘われると断らないの。だから今回もそうだと思って誘ったんだけど、やだって言われちゃった。灯里がいやがることはしないって」
「………」
灯里は何を言えばいいのかわからなかった。困惑している灯里に、畑中は髪をかきあげる。
「今までクズだったくせにさあ。ま、彼女いながら誘うあたしもどうよって感じだけど。それでも、颯太のこと嫌いになった?」
「…畑中さんは」
灯里はふきんを握りしめる。
「どうしてそんなに颯太くんのこと好きなのに、つきあわないの?」
「そりゃあ」と畑中は髪をくるくると指で丸める。
「わかるでしょ。颯太って、あたしみたいのタイプじゃないのよ。池田さんみたいなのが好み。裏切らなそうなタイプがいいみたい。それはいつもどおりだけど、池田さんはその中でも特別なんだよ。…と、あたしは思うんだけど。それでも、ダメ?」
畑中にじっとみつめられ、灯里は耐えきれず顔をそらした。
裏切らないタイプか。灯里は最初から颯太に嘘をついていたのに。
「…私、畑中さんや颯太くんが思うようないい子じゃないの」
「…何があったの? 森が関係してるんでしょ? あのとき、一緒にいたんだから」
畑中に言うべきだろうか。灯里は迷ったが、朝陽のことは言わないことにした。余計に話がややこしくなりそうだし、言って楽になろうとしている自分がいやだった。
「…ごめんなさい」
「いいよ」
畑中はあっさり引いた。
「なんでも言えばいいってもんじゃないし、言いたくないことだってあるよね。誰だって」
「…畑中さん」
ときどきこの人はすごい、と灯里は心底思う。本当は聞きたいだろうに、引き際を分かっている。
呆れたわけでもなく怒ったわけでもなく、あっけらかんとそう言えるところがうらやましいと灯里は思った。
「あ、お弁当できたみたい。じゃ、バイト頑張ってね」
畑中は店の中に駆けて行った。灯里はまぶしくて手で顔を覆って空を見上げる。
今日も空が青いな、と灯里は思った。
ますます暑くなる日々に、灯里は理由もなく自転車を走らせて隣の市までたどり着いた。
ここへ来たかったというわけではない。ただ、いつも自分が来ないような、灯里のことを誰も知らないようなところへ行きたかった。来たことがないような街並みに、灯里はほっとしたような心細いような感覚になった。
「暑い…」
全力で自転車をこいだせいで、汗だくになっていた。途中にあるスーパーによって、何か飲み物を買おう。コンビニより安いし。
灯里はスーパーに入って、スポーツドリンクを持ってレジに並ぶ。ふとレジの女性を見た時、灯里はペットボトルを落としそうになった。
「いらっしゃいませ」
「あ…」
女性はこちらに気づかず、淡々とレジを打って清算する。不意に顔をあげて「ありがとうございました」と言ったとき、「あら」と声をあげた。
「お…」
「久しぶりね、灯里」
「おかあさん…」
もう5年も会わなかった、少しやつれた母親がそこにいた。
「元気だった?」
「う、ん…」
母親はまるで古い友人にでも会ったように淡々と話す。
「ここで会うの初めてね。よく来るの?」
「ぐ、偶然…」
「そう」
灯里の母親は顔を上げて壁につけられた時計を見上げる。
「もうちょっとでパートの時間、終わるのよ。久しぶりに話でもしない?」
「い、いい、けど…」
ペットボトルを握りしめて、灯里はようよううなずいた。
店の前で待ってて、と言われて灯里は暑いので店の中で本を立ち読みしたり、適当に時間をつぶして言われた時間に店を出た。
「お待たせ」
「ううん。今出たところ」
二人は店の前でさっき買ったペットボトルと、灯里の母親は持参したという水筒を飲みながらベンチに座る。日陰になっているが、それでもやはり汗ばんでくる。
灯里はごくごくとペットボトルのスポーツドリンクを飲んだ。
久しぶりに会った母が、なんだか他人のように思えて、でも確かに母親には違いない。もう顔も見たくないと思っていたけど、こうして元気でいてくれたのはよかったと感じた。
もしも母親にもう一度会えたら散々罵ってやろうと思っていたはずなのに、なんだか普通に話しかけられて、出鼻をくじかれた感じだ。いろいろな思いが灯里の胸の内をよぎった。
「おとうさんも来てるの?」
母親に聞かれ、あかりは首を横に振る。
「来てないよ。ここには本当にたまたま、私が自転車できただけ」
「そう。それじゃあ本当にすごい偶然ね。…元気にしてた?」
「うん。おかあさんも?」
「まあ、それなりにね」
母親が水筒を口にあてる。
「…朝陽のおとうさん、元気?」
「え?」
母親はびっくりしたように目をぱちくりさせた。そして「ああ…」と視線を下に向けた。
「別れたわよ」
「…え、嘘、いつ?」
「そうね、家を出てから1年くらいで。どこでどうしてるのかも知らないの。その様子だと、自分の家に戻ったってことはなさそうね」
「うん。朝陽の家には戻ってないよ」
「そう…」
「意外と近くにいたんだね。駆け落ちって、もっとこう…」
「沖縄とか北海道とかに逃げてるんだと思った? 昭和時代の話よ、それ。まあ最初はちょっと遠くまで行ったけど、私一人になったらなんとなく、こっちに来ちゃったわ」
ふう、と母親はためいきを吐いた。水筒をぐるぐると回して、「おとうさんは元気?」と聞いてきた。
「うん。元気。ずっとあの家にいて…おかあさんが帰ってくるのを待ってる」
「…そうなの?」
灯里の母親は意外そうに聞き返す。灯里はうなずく。
「…私、学校のみんなにもおかあさんのこといろいろ言われて、もう引っ越してって言ったの。この家じゃない、別のところに行きたいって。でもおとうさんはだめだって言った。…おかあさんが、戻ってくるかもしれないからって」
「…そう、だったの」
母親はじっと遠くを見た。
「戻りたい?」
灯里に聞かれ、母親はかぶりを振った。
「戻れるわけないでしょ。馬鹿ね。それくらいの分別はあるわよ。それにあんただって、戻ってきてほしいなんて思ってないでしょ?」
「………」
灯里はもうほとんど残っていないスポーツドリンクを見て、黙り込む。母親は微笑んだ。
「正直で結構」
「おかあさん、私ね」
灯里はペットボトルをぎゅっと握りしめた。
「おかあさんがおじさんと…ベッドに入ってるところを見たの。怖くて誰にも言えなかったけど」
「ああ…うん。知ってたわ」
「知ってた?」
灯里は驚いて母親を凝視する。
「あんた、一回家に戻ってきたのは知ってた。だって、カバンが茶の間に置いてあったのに、あんたいないんだもの。だから見られたのは知ってたわ」
「…そう、だったんだ」
灯里は気が動転していたので、家から出ることに必死でカバンを置き忘れたことなんて失念していた。
「それで、おじさんと出て行ったんだね…」
灯里が恐々聞くと、「違うわよ」と母親は笑った。
「もともと、あの人とは家を出ようって話してたから、それがちょっと早くなったけどね。盛り上がっちゃったのよ、お互い不倫だし。あんたが見てようが見てまいが、どうせ離婚はしてたわ」
「…でも、別れたんだ。おじさんと」
「盛り上がって、一気に燃え尽きた感じね。そういうときってあるのよ。あんたにも、好きな人ができたら分かるわ」
「わ、私だって…」
言いかけて、灯里は颯太のことを思った。私は彼のことが好きだったんだろうか。
「何よ、いるの? 彼氏」
茶化すように聞かれ、「…いたけど、別れた」と灯里はぼそっと答えた。
「そう。まあ男なんてほかにもいっぱいいるから」
「いないよ、あんないい人…」
思い出すのは颯太の笑顔ばかりだ。灯里に向けられたそれはもう、見ることができない。
「まだ好きなのね、灯里。その人のこと。振られたの?」
「好き…だったのかな。…振られた、のかな。よくわかんない。でも、そうだと思う…」
「何よ、それ」
母親は苦笑して灯里の肩をたたいた。
「まだ好きなら、もう一回トライしてみたら?」
母親は少し考えてから「ちなみにそれって、朝陽くん…」と言いかけた。
「それはないから」
灯里はきっぱりと言い切った。
「そう。そうよね。高校生になったら、いろいろ出会いもあるし。…あんたには、すまないことしたと思ってるわ」
「え…」
灯里は呆気に取られて母親を見返す。まさかそんなことを言われるなんて、思ってなかった。
「人間不信になって、彼氏もできない人生になったらどうしようかと思ってたけど、好きな人がいるなら安心したわ」
「好きな人…」
「好きなんでしょ? その子のこと」
「…うん。好き」
母親に確認され、灯里は素直にうなずいた。好きという言葉は、灯里の胸の中にすとんと落ちてきた。
そうだ、私は好きなんだ。颯太くんのこと。
こんな簡単なこと、母親に言われるまで理解できなかったなんて、自分はなんて鈍いんだろうと灯里は思った。
「取り戻したいと思うなら、つまんない意地やプライドは捨てて、その子の隣に立てるような自分になりなさい。でなかったら、きっぱり諦めることね」
母親は「今日は会えてよかったわ」とベンチから立ち上がった。
「じゃ、もう行くわね」
「え? もう?」
灯里が聞くと、「次の仕事に行かなきゃいけないのよ。貧乏暇なしで」と母親は笑って歩き出した。
そういえば、母親は前の仕事を依願退職していた。朝陽の父親もそうだと聞いた。それから朝陽の父親と暮らして、別れて…。
どういう人生を送っているんだろう。それを聞きたいと思ったが、母親はもう駐車場に消えていた。
また今度、ここに来ようと灯里は思った。ペットボトルをごみ箱に捨てて、再び自転車に乗る。雨が降ってほしいと思うほど、暑い日だった。
夜になって父親に母親が隣の市のスーパーで働いていたことを話した。父親は、そうか、とうなずいて、元気がどうか聞いてきた。現在の様子を話すと、そうか、とまたうなずいた。
灯里はベッドに入りながら思う。父親は今もまだ母親のことを待っているんだろうか。灯里の気持ちとしてはもう、母親から離れてしまっている。でも、父親が母親と暮らしたいなら、それを優先させるべきなんだろうか。
なかなか寝付けないまま、いつの間にか朝を迎えていた。
夏休みの間、灯里はずっと颯太のこと考えていた。また前のように笑ってほしいと思った。
取り戻したいなら、と母親は言った。取り戻したい。一緒にいたい。以前のように。鳴らないスマホを見て思う。
灯里は鏡の前に立ち、はさみを取り出した。
…私。
あの人の横にいて、恥ずかしくない人間になりたい。




