灯里の贖罪
畑中から近道を聞いた颯太の住むアパートにたどり着いて、自転車を止めて鍵をかける。カバンを持って階段を上り、颯太の部屋のチャイムを押した。少ししてから、何か音がしてドアが開いた。
「はい…」
「お、おはよう、颯太くん」
眠そうな顔で出てきた颯太は、今目が覚めたように灯里の顔を見て目をぱっと見開いた。
「あ…お、おはよう」
颯太はよじれたTシャツを引っ張って直した。灯里から視線をそらす。
「あの、先生からプリント持っていくように頼まれて…」
「…そう。ありがとう」
颯太はプリントを受け取った。そのまま、二人で下を向いて黙り込む。何か言わなければ。灯里は顔をあげて必死に声をしぼりだした。
「あの」
「あのさ」
二人同時に声を発して、きょとんとした後また二人は下を向いて視線をそらした。
「な、何かな…」
「ん…池田こそ、何?」
灯里、と呼んでいたのがもう苗字になっていた。当然だ、と灯里は思った。名前で呼ぶような間柄ではないのだ、もう。
「…ちょっと話、できないかな。その、この前のこと、謝りたくて…」
「それならもう、いいよ」
「よくない!」
ドアを閉めようとする颯太の手を灯里は無理やり押しとどめる。颯太は驚いたように、一瞬固まった。
「…ごめん。でも、聞いてほしいことがあるの。お願い…します」
「…うん。わかった。ちょっと待ってて」
颯太は部屋の中へ戻り、プリントを置いて鍵を持って出てきた。
「行こうか。近くに公園あるから、そこでいい?」
「うん。ありがとう…」
灯里はほっとして颯太に後に続く。自転車はそのまま置いていくことにして、歩いて颯太のアパートの近くの公園へ向かった。
「休んでる間、どうしてたの?」
「…家でずっと、ゲームしてた。ああ、昨日、杏と岸田が来たよ」
「あ、うん。昨日、行くって言ってた」
「灯里と別れたって言ったよ」
「………」
灯里はなんと答えたらいいかわからなかった。
「メール、返さなくてごめんな」
「う、ううん、全然…」
「なんて返したらいいかわかんなかった」
「…そう、だよね」
しばらく住宅地を歩くと、小さな公園が見えてきた。あるのはブランコと滑り台だけだ。颯太は公園の中に入ってブランコに座った。
「…で」
颯太は足でブランコを小さく揺らしながら灯里のほうを見ずに聞く。
「話って、何?」
「うん。少し長くて…でもつまらない話なんだけど、いいかな」
「いいよ。聞くよ」
道路には日傘を差した老婦人が通り過ぎていく。灯里は足元の砂を蹴りながら、息を吐いて話を始める。
「私が朝陽と出会ったのは幼稚園の頃で、そのとき私たち家族は、朝陽の家の向かいに引っ越してきたの。2つ上のお姉ちゃんの晶ちゃんと朝陽が向かいに住んでいて、一緒に遊んでくれる相手がいて、私はすごく嬉しかったのを覚えてる。あの頃の朝陽は今と違って、やさしくてかけっこが速くて、私、すごく好きだった」
「そっか。好きだったんだ」
「昔ね」
灯里にとってはひどく昔のことのように感じた。
「でもそれも小学校5年生までのことで、うちのおかあさんと朝陽のおとうさんが駆け落ちして出て行ったの」
「え…それって」
「そう。おかあさんと朝陽のおとうさんはみんなに隠れて不倫してたんだ。おとうさんも朝陽のおかあさんも全然知らなくて、ある日突然お互いの家に離婚届と結婚指輪が置かれてて、それでようやくみんな気づいたの」
「…そうだったんだ」
「みんなショックだったけど、一番ショックだったのはたぶん朝陽だと思う。朝陽のおとうさんは昔、高校野球で結構名をはせた人らしくて、まあプロにはなれなかったんだけど、それでも草野球でずっとチームでプレイしてて…。朝陽の入ってたリトルリーグのコーチもしてた。だから朝陽は野球もやめて、学校で私も朝陽もずいぶん言われた。親同士が不倫したって。まあ、当然だよね。小学生の恰好のネタにされたのよ」
「ああ…子供の頃って、そういうのはっきり言うもんなあ」
颯太がブランコをきい、と揺らす。
「でも、それは灯里が悪いわけじゃないだろ。森が灯里のおかあさんをビッチって言いたい気持ちはわかるけど、それは森の親父だって同じだし、灯里は関係ないじゃん」
「違うの。朝陽が私を許せないのは…私が見てて、黙ってたからなの」
「何を?」
「…私、二人がいなくなる少し前に風邪引いて学校を早退したことがあるの。おとうさんもおかあさんも仕事だから、一人で帰りますって言って、学校を出て家に帰ったら…玄関にね、見慣れない靴があった。おかあさんの靴も。誰かお客さんが来てるのかと思って客間に行っても誰もいないし…よく覚えてないけど、なんとなく私誰か来ていて静かにしていなきゃいけないんじゃないかってそう思ったの。だからそっと2階へあがって行ったとき、妙な音が聞こえて…そっと両親の部屋をのぞいたら、おかあさんと朝陽のおとうさんが…」
「………見たんだ」
灯里はうなずいた。両手をぎゅっと握る。
「だから私、足音を立てないようにして家を出て行ったの。どうしたらいいかわからなくて、誰かに言うべきなのか、言わないほうがいいのか…でも、何しているかは子供の私でもわかったから、誰にも言わないことにしたの。きっと私が見たのは何かの間違いで、私が誰にも言わなければなかったことになるって思ったんだけど…」
「二人で出て行った」
颯太の言葉に灯里は何度もうなずいた。
「だから私、二人がいなくなった時みんなに謝った。二人で家にいたことを見たのに、言えなかったって。みんな私のこと怒らなかった。言っても同じことになったよって。でも、朝陽は…朝陽は私を許せなかった。朝陽にとっておじさんは、朝陽のヒーローだったから」
「ヒーローか…」
「うん。野球してる姿がすごくかっこいい、自慢のおとうさんだったみたい」
「そっか。俺、親父いないからそういうのよくわかんないけど、すごく好きだったんだな、森は親父さんのこと」
「そう…」
灯里は朝陽の父親を思い出していた。朝陽と似て背が高くて、若い頃は女性にモテたであろう顔立ちをしていた。今頃は灯里の母と二人で生活しているのだろうか。
「…それで、責められた?」
「朝陽はおまえのせいだって。おまえが2人を止めていれば、こんなことにはならなかったって…。でも私も朝陽の言うとおりだと思った。私があのとき逃げ出したから、おかあさんとおじさんは…。もし私が逃げないで、二人を責めていたら…。だからこれは、朝陽の私に対する復讐だから、正当な権利だから…」
「もし、のことを考えてどうするんだよ」
颯太の声は落ち着いていた。灯里を責めるわけでもなく、慰めるふうでもなかった。
「『もし』は起こることがないから『もし』なんだろ。森はおまえに甘えてるんだ。灯里がやさしいから。そんなの正当な権利でもなんでもない。それが原因で森の言うこと聞いたの?」
「…うん。そう」
灯里は自分がおかしくて笑った。涙が出そうなのを堪えた。
「本当、くだらない理由でごめんね。うちのおかあさんのことが原因で、颯太くんを停学にさせるようなことになって…」
「笑うなよ」
颯太は真剣な顔つきで灯里をみつめる。いつものように笑っていなかった。
「そんなつらそうな顔して笑うな。…つらかったんだろ? おかあさんがいなくなって。森から責められて、自分でもずっと自分を責め続けて」
「…うん」
灯里はこらえきれなくなって、涙がこぼれてくるのをぬぐった。こんなときに泣くなんて、卑怯だと灯里は思った。
それでも涙は止まらなくて、後から後からあふれてくる。颯太は何も言わず、ただ黙ってそばにいた。
灯里は嗚咽を繰り返しながら、涙をぬぐってティッシュを取り出して鼻をかんだ。
「…ごめん」
「いいよ。謝らなくて」
ようやく泣き止んだ灯里に、颯太は笑顔を見せた。
「まあいろいろあるよな。どんな家庭にも事情が」
「…そうだね」
灯里は今更ながら泣き顔を見られたのが恥ずかしくなって、頬をぬぐった。
「それじゃ、俺からも話…いい?」
「うん。何…?」
灯里は緊張気味に颯太を見る。
「俺のこと、少しくらいは好きだった?」
灯里は身を固くした。ブランコを握る手に力が入る。
「あ…あの、私」
「そっか。わかった、いいよ」
視線をそらした灯里から颯太も顔をそらし、ブランコから立ち上がる。
「颯太くん、私…」
「プリント、サンキュ」
灯里には振り返らず颯太が歩いていく。灯里は何か言わなければならないと思った。
早く言わないと、颯太がいなくなってしまう。早く、早く、早く…。
「わ、わからないの!」
灯里はブランコから立ち上がって大声で叫んだ。颯太は立ち止まって、驚いたように振り返る。
「私、あのときから男子って好きになったことがなくて、自分の気持ちがわからないの。どういうのが好きかっていうのが、でも、でも、私…」
灯里は胸の前でぎゅっと手を握った。
「…颯太くんと一緒に勉強したり、出かけたり、バイトするの、すごく楽しかった。でも、颯太くんをだましてるみたいで、ずっと苦しかった。颯太くんが前の席にいないのは…寂しい」
「…うん。わかった」
颯太はゆっくり息を吐いて、それから灯里に背を向けて片手をあげた。
「ありがとう」
そう言うと、颯太は振り返らず歩き出した。
灯里は見えなくなるその背中を、ただじっと見送った。力が抜けて、すとんとブランコに座る。どう言えばよかったのか、灯里にはわからなかった。それでも今灯里が言葉にできる精一杯だった。
大きくため息を吐いて、灯里はブランコを揺らす。
…喉が渇いたな。
灯里はゆっくり立ち上がって、自動販売機を探してスポーツドリンクを買った。泣いたせいか、ひどく喉が渇いていた。




