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それが始まり

「それくらい、できるだろ」

「無理だよ…」

 朝陽ににらまれ、灯里はため息を吐いた。

「簡単だって。誰にでもそうなんだから」

「だからって…」

「仲良いんだろ?」

「それは前後の席だからで、特別仲良いわけじゃ」

「おまえ、俺に意見できる権利あると思ってんの?」

「………」

 灯里は唇を噛んだ。そう、結局灯里は朝陽に逆らえないのだ。

「…わかった。でも、失敗しても文句言わないでね」

「ちゃんと本気でやれよ」

「…できるかぎりは」

「できる限りじゃなくて、やるんだよ」

 きつい口調で朝陽に言われ、仕方なく灯里は「…わかった」と言った。

 くだらないミッションを押し付けられたものだ、と灯里は思う。でも、朝陽には逆らえない。灯里には朝陽に負い目があるから。

 朝日に背を向けて、灯里は歩き出す。校庭の桜の木はもう、花はとうに散って緑の葉が生い茂っている。それが空の青に生えてきれいだな、と思った。

 ただ少しだけ、彼に嘘をつくのが心苦しいことを思いながら、灯里は校舎へ戻った。







「あー…やべ」

 颯太はノートを開いて、白紙のページに頭を抱えた。出席番号の順番であてられる日なのだった。すっかり忘れていた。

「あのさ、悪いんだけど」

 颯太は後ろを振り返って灯里に声をかける。

「何?」

「今日、俺あてられる日だったんだわ。池田、予習とかしてきてたり…」

「してるよ。見る?」

「マジで? サンキュー、池田様、神様、仏様!」

「大げさだなあ」

 顔の前で手を合わせる颯太に、灯里は苦笑する。机からノートを出して、今日のところの英訳を開く。

「はい、どうぞ」

「助かるわー。いつもありがとう」

「どうしたしまして」

 颯太は前に向き直って一所懸命にノートを写し出す。こうやってノートを貸すのは、初めてではない。

 灯里はぼんやりとその姿を見ていた。金色の髪をした颯太の頭。先生に黒くしろと言われてはいるが、颯太は柳に風で受け流している。ピアスもしているし、そのほかは特に授業をさぼったりはしていないが、校外では素行が悪いと聞いている。女子とのうわさが絶えないのでモテるのだろうと灯里は思っていた。

 ほかの男子と比べて、確かに颯太はやわらかい雰囲気を持っていて、男子が苦手な灯里でも話すのに不思議と苦手意識は持たなかった。灯里がまともに話せる男子は、幼馴染の朝陽くらいだ。それ以外で言うなら、やはり颯太かもしれない。そういう意味では、やはり彼はモテる男なのだろう。


 ぼんやりととりとめもなくそんなことを考えながら颯太の金色の頭を見ていると、くるりと颯太がこちらへ向き直った。

「ありがとう」

「もう終わったの?」

「俺、書くの早いから」

「本当だね。…あ、チャイムだ」

「セーフ。マジでありがとう」

「いいよ」

 颯太からノートを受け取り、灯里は机の上に置く。

「後でお礼するから」

「え? いいよ、別に…」

 灯里がそう言ったとき、教室の扉が開いて英語教科の先生が入ってきた。颯太は急いで前を向いた。

 授業中、颯太から斜めにあてられていったので、灯里には順番は回ってこなかった。それでも予習は颯太の役にも立ったし、無駄にならなくてよかったと思う灯里だった。

 授業が終わると、颯太が再び後ろを向いた。

「やっぱ来たなあ。サンキュー。マジで助かったわ」

「お役に立ててよかった」

 颯太はにっこりと笑ってポケットからころりと包装紙に包まれたソフトキャンディを灯里に差し出した。

「え…いいの?」

「お礼」

「…ありがとう」

 灯里はソフトキャンディの包装紙を開いてみる。中身は黄色をしていた。

「いただきます」

「どうぞ」

 颯太の笑顔につられてように笑顔でソフトキャンディを口に入れると、灯里は途端に顔を歪めた。

「んんっ…」

「あははは! 酸っぱいでしょ~!」

 灯里の顔がみるみる赤くなっていくのを見て、颯太はけらけら笑い出した。

「す、すっぱ…」

「おもしれー、池田、顔真っ赤」

 口から出すわけにもいかず、灯里はソフトキャンディを無理やり噛んで飲み下した。颯太はまだ笑っている。

「青山くん、こんなの好きなの…?」

「酸っぱいのって、たまに食べたくなるっしょ? それに、面白いじゃん。これ食べた人のリアクションが」

「もう…」

 口元を押えながら、灯里はつばを飲み込んだ。


「ねえ、何々?」

「何が酸っぱいの?」

 クラスメートの女子が二人、颯太のそばによってきた。彼女たちは目立たない灯里と違って、男子と仲良く話せるタイプだ。

「ああ、これ。食べる?」

 颯太は楽しそうに笑って、ソフトキャンディを見せる。

「食べたーい」

「どんな味かな」

 二人の女子はきゃあきゃあ言ってソフトキャンディを口にいれ、「酸っぱーい」「やばい、これ!」とはしゃいでいた。

「やっぱそうなるよな。でも、池田が一番いいリアクションしたよ」

「え?」

 急に振られて、灯里は固まる。女子二人も灯里を見るので、ますますどうしたらいいかわからなくなった。さっきとは別の意味で顔が赤くなる。

「さっき、すげー面白かったんだぜ。顔真っ赤にして、涙目になってさあ」

「へえ~」

「でもこれ、やばいくらい酸っぱいもん」

 二人も女子も楽しそうにけらけらと笑う。灯里はほっとして颯太を見た。颯太はにかっと笑った。その笑顔に、灯里もつられて笑う。

「あ、池田さんが笑ってる~」

「珍しいもの見た~」

「え…」

 またしても、女子二人の発言に灯里は固まってしまう。そうか。私が笑うと珍しいのかと思い、そう言われればそうかも、と思った。灯里はクラスのおとなしい女子とばかりいるので、かなり目立たないのだ。

「そんなことないけど」

 颯太が不思議そうに言う。あれ、と灯里は思った。

「池田っておまえらみたいにうるさく笑わないだけで、結構笑ってるよ」

「うるさいって何よ~」

「颯太、失礼すぎ~」

 女子二人はそれでまた笑った。そうか、こんなふうに笑えばいいのか、と灯里は思う。すると、チャイムが鳴った。

「ほら、戻った戻った」

「はいはーい」

「ごちそうさまでした~」

 颯太にせかされ、女子二人は席に戻る。颯太は前を向いてから、再び後ろに振り返った。

「大丈夫だよ」

「え?」

「おれはちゃんと、池田が笑うとこ見てるから」

「え…うん」

 颯太はまた笑って、前を向いた。ちょうど先生が入ってきたので、起立、礼をして席に座る。颯太の笑顔と言葉が、頭から消えなかった。

 どういう意味? 深い意味なんかなくて、私が気にしていると思ってそう言っただけ? 急に意識してしまって、灯里は制服の胸元をぎゅっと握った。先生が入ってきて、颯太の言った通り先生にあてられていた。


「ありがとな、池田」

 授業が終わって颯太が振り返る。いつもどおり、にこにこと笑っている。

「いいよ。あっき、酸っぱいお礼ももらったし」

 灯里は照れるのをごまかすために机から教科書類を取り出してカバンに入れる。

「根に持つなあ」

 颯太は屈託なく笑う。

「別にそういうわけじゃ…」

「颯太―、帰ろう」

 唐突に隣のクラスの女子がやってきた。確か畑中さんだったかな、と灯里はぼんやりと彼女を見上げる。髪は茶髪で校則違反ぎりぎりといったところだが、金髪の颯太に比べればおとなしいものだ。

「あ、俺、今日バスケしてくんだよ」

 颯太が畑中を見上げると、「体育館? だったら、私も行くし」と颯太の手を引っ張った。

「まあいいけど…そうだ、池田も来る?」

「え?」

 いきなり振られて、灯里は面食らった。畑中に見られ、すぐに顔が赤くなるのが自分でわかった。

「俺の雄姿を見たくない?」

 颯太はおどけて自分を指さして見せる。

「池田さん、困ってるじゃん。馬鹿ねえ。でも、来たいならくれば?」

 さらに灯里は困ってしまった。畑中には来るなと言われるかと思ったからだ。予想外もいいところだ。

「う、ううん。今日は…バイト、あるから…」

 灯里はそれだけ答えるのが精いっぱいだった。

「へえ、池田バイトしてんだ?」

「優等生の池田さんもバイトするんだね」

 畑中が意外そうに言う。優等生、という言葉に灯里は微妙な違和感を感じた。灯里自身は自分を優等生だとは思ったことはない。

「お小遣い稼ぎのために…」

「いいね、そういうの」

 颯太はうんうんとうなずく。

「どこでバイトしてんの? 俺も行っていい?」

「えっと…」

 言うべきかどうするか迷っていると、「もう、困らせないの」と畑中が颯太を肘でつついた。

「よかったら教えてよ」颯太はカバンをもつと、椅子から立ち上がって片手をあげた。「じゃあまた明日」

「うん、また明日…」

「ばいばい」

 畑中も灯里に手を振って、颯太にくっついて教室を出て行った。灯りをぼんやりとそれを見送って、一人で教室を出て行った。

 学校からそのままバイト先へ向かう。4時から3時間だけお弁当屋さんでバイトを始めたのは16歳の誕生日を迎えてからだった。

 男手一つで育ててくれた父から早く独立したくて、自分で小遣い稼ぎをすることにした。コンビニやファミレスなんかも選択肢としてはあったが、自分でも愛想が悪い自覚のある灯里には、それを選ぶ勇気もなく、親戚がやっているお弁当屋さんならなんとか雇ってもらえたに過ぎなかった。


 弁当屋は学校から自転車で20分ほどの場所にある古い建物の1階だ。おじさん夫婦は2階で暮らしている。灯里は弁当屋の裏口から中へ入った。そこには店長のおじさんが座って事務処理をしていた。

「おはよう、灯里ちゃん」

「おはようございます…」

 親戚のおじさんはいつもにこやかに明かりを迎えてくれる。灯里はロッカーに入ってエプロンと帽子をつけて手を消毒すると、弁当作りの下準備にとりかかった。

 中にはすでに来ていたパートのおばさんがお客さんに弁当を渡して清算をしていた。お客さんが帰ると、灯里に気づいて声をかける。

「おはようございます、灯里ちゃん」

「おはようございます、根本さん」

 時間帯がいつでも挨拶は必ず「おはようございます」というのがここでの決まりだ。根本は恰幅のいい女性で、いつもにこにこしているところがなんとなく颯太を思い起こさせるなと灯里は思っていた。

「もう慣れた?」

「はい、最初よりは…」

 少し考えてから、灯里は付け足す。

「根本さんのおかげです」

「あはは、そう言われると嬉しいねえ。うちの娘もバイト始めたのよ。学校の近くのファミレスでね。制服がかわいいって自慢してたわ」

「いいですね」

 こういうとき、灯里は同意することしかできない。つくづく口下手なのが嫌になる。

「うちの小遣いだけじゃ足りないっていうのよ。まったく、人が一所懸命働いてるっていうのに。灯里ちゃんもそういうクチ?」

「いえ、うちは…」灯里はばつが悪そうに視線をそらす。「父一人なんで…」

「ああ、そうだったわね」

 根本はさして気にしたふうもなくうなずいた。

「うちの周りにもいるわよ。今は3割が離婚する世の中だからね。珍しいことじゃないわ」

「…そうですね」

 灯里はうなずくしかできない。そう、珍しいことではない。でも灯里にとって母親は一人だし、子供のころからずっと心に引っ掛かっていることだった。

 弁当屋でバイトを始めて2か月。ようやく少し慣れてきたところで、灯里は必死に仕事と周りの人間の顔を覚え、なんとかこなして今日のバイトを終える時間になり、挨拶をして弁当屋を出た。


 あたりはもう暗くなっていた。自転車に乗り、家へ向かう。家へは30分くらいで着ける距離だ。自転車をこぎながら、灯里は今日の夜ご飯は何を作ろうかと考える。父が遅くならなかったら作っていてくれるけど、今日はどうだろう。そんなことを考えながら家へ着くと、明かりがついていた。父はもう帰っているようだ。

「ただいま…」

 家の中へ入って茶の間をのぞくと、父が夕食を作ってテーブルに置いているところだった。

「おかえり。早く着替えておいで」

「うん。すぐ行く」

 灯里は2階の自分の部屋へ行ってカバンを置いて、制服から私服に着替える。スマホが点滅していたが、灯里はそのまま放っておいた。どうせ、相手はわかっている。1階の茶の間へ向かった。

「今日は肉じゃが? おとうさんて本当好きだよね」

「あはは、これが一番得意だからなあ。つい作っちゃうんだよ。さあ、食べよう」

 灯里は自分の席について「いただきます」と言って味噌汁を飲む。父の味噌汁はいつも豆腐かわかめだ。それに文句を言うこともない。母がいないのだから、食事は父か灯里が作らなければいけないのだから。肉じゃがは圧力鍋で作ったものだ。そのほうが時間が短縮できるのだと数年前に父が喜んで購入した。おかげでカレーばかりだった父の夕食は少しレパートリーが増えた。

「おいしいよ」

「よかった」

 父は嬉しそうに笑って肉じゃがを口に運ぶ。灯里も父も口数が多いほうではないので、テレビを見ながら食事をする。夕食の間はテレビの内容について話をしたり、学校や会社であったことをぽつぽつ話すのが常だ。

「お弁当屋さんは慣れた?」

「うん、だいぶ…。一緒におばさんとか先輩が接客メインにしてくれるから、そんなに大変じゃないの」

「慣れるまではじっくり頑張ればいいよ」

「そうだね。頑張る」

「灯里が料理上手になってくれると嬉しいよ。おかあさんも料理は得意なほうじゃなかったからね」

「…そうだね」

 家を出て行った母は、父と同じで料理が得意ではなく食事は出来合いのものを買ってくることや外食が多かった。だから灯里は今の弁当屋でいろいろ教わっているところだ。学校の家庭科では間に合わず、家での料理はほとんど独学だ。もっとも、スマホで作り方は覚えることも多かった。

「そういえば、今日は前の席の男子がね」

「ああ、青山くんだっけ? 金髪の」

「そう。先生に注意されても、全然気にしないの。今日はあてられるのに予習しなかったって言うから、私がノート見せてあげたの。でも間違ってたらどうしようって、毎回ひやひやなんだけど」

「あてにされてるんだなあ。その子、灯里が気になってるんじゃない?」

 父の言葉に、灯里はぎくりとした。

「…そ、そんなわけないし。私、男子とあんまりしゃべらないし」

「でもその子は前の席だからよく話すんだろう? ああ、それに朝陽くんだっているじゃないか」

 朝陽の名前を聞くと、灯里の心はどんよりとした。

「だって、朝陽は昔馴染みだし」

「そうだけど。灯里、誰かのことを好きなるのは悪いことじゃないんだぞ」

「だから、そうじゃないって」

「おかあさんのことは気にしなくていいんだからな」

「………わかってる」

 母の話を聞きたくなかった。灯里は味噌汁を飲み込んで、黙ってテレビを見る。父も食事を終えたので、灯里が洗い物をすることにした。食器を洗いながら、灯里はぼんやりと颯太のことを思い出す。

 いつも笑顔でいる颯太が灯里にはうらやましかった。何がそんなに楽しいんだろう。彼は人生を楽しんでいる気がする。自分と違って。どうすればあんなふうになれるんだろう。


 灯里は洗い物中に眼鏡にとんだ泡をティッシュで拭きとり、2階の自分の部屋へ戻った。スマホを取ると朝陽からメールが来ていた。颯太のことをどうしたのかと。今日はバイトだから何もしていないと返信すると、すぐにあいつに告白しろと返信が来た。灯里は明日にすると返す。朝陽からもう一度絶対だぞ、と念を押すメールが来た。灯里はもう返さなかった。

 スマホを机の上に置いて、灯里はベッドに横になる。道路を挟んで向かいの家が朝陽のうちだ。きっと灯里と颯太のことを考えて、イライラしていることだろう。馬鹿な朝陽。灯里はベッドの上でごろんと寝返りをうつ。私が朝陽の復讐の道具になるはずもないのに。


 それでも灯里には朝陽に逆らえない理由があった。明日、颯太に告ればそれで何もかも終わりだ。ふられるに決まっているし、それで颯太と気まずくなってもうノートを見せることもなくなるだろう。でも、それでいい。誰とも関わらないまま、私は一生過ごすんだ。

 灯里は一度目を閉じてから起き上がって勉強を始める。優等生の灯里は、明日の予習をしなければならない。



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