第21節 穢れなき教会
沼は段々と水深が深くなり、やがて僕の身長を超えてしまう。濁った汚水の底は見えず、断崖のすべてを浸してしまうようだった。
あちらこちらに見える松明の明かりが、洞窟のような谷底を赤く染め上げる。
目を凝らして見ると、どうやら流刑地に何もないわけではないらしい。崖沿いや沼地のいたるところに建築物が見え隠れしていた。足場のようなものから、小さなあばら家など。貧しくもこの場所で生活している人々の様子が思い浮かぶ。
「ここは祈りの都、サンクチュールと申します。私たちが勝手にそう呼んでいるだけですが……」
静かに船を動かすアトレアが告げた。
三つ編みに束ねた白い髪の毛。その髪色に、どこか既視感があった。
記憶の中を探してみたけれど、思い当たるような女性には出会ったことはない。
隣にいたルリがアトレアに尋ねた。
「他にもここに、人が住んでいるのか?」
僕は彼女の言葉に肝を冷やす。いかにもな言い方で失礼にならないだろうか。こんなところ、と言わなかっただけでもマシか。
軽く頷いたアトレアの仮面が光を反射する。
気を悪くした素振りも見せず、彼女は返した。
「慎ましく敬虔に祖龍様へお仕えする信徒の皆様がおります。……あまり息災、というわけではございませんが」
国に裁きを受けた者たちが、国教に対して反旗を翻してもおかしくないはずなのに、こんな場所まで落とされて信仰心を失わないものなのだろうか。
近付いてくる巨大な建物は特徴的な瓦屋根をしていた。石材よりも木材が多く使われ、流線型の形をしている。
この国独自の建物なのか、似たような小さな建築物がその周りに群がって建つ。
居住区と思われるその家々から、人影が蠢いているのが遠目から分かった。『息災ではない』という言葉の意味を、その後僕らは知ることになる。
船着場に船を寄せると、ふっと影が過った。
僕は篝火に目線を走らせ振り返る。
木製の足場に硬い金属音がぶつかった。
頭上に見える、光る銀色の三日月を模した兜。体躯は僕の四倍くらいはあるだろうか、巨大な甲冑に身を包んだ騎士が立っていた。
右手にハルバードを握って直立したまま微動だにせず、銅像のように立ち尽くしこちらを見下ろす。
意匠の施された盾の表面が光を乱反射し、全体的なシルエットの禍々しさを強調させていた。
見上げた僕は言葉を失ってしまう。
動かない像と対面したままその姿に圧倒される。
「聖騎士のフリート様にございます。……私に付き添って、ともに降りて来て下さいました」
アトレアは騎士の代わりに言葉を発す。
仮面で表情は見えなかったが、それは固い声色に聞こえた。
船から伸ばした縄を柱に繋ぎ止め、アトレアは先導するように前を歩く。
「では皆様方、これより教会へとご案内いたします。格別なおもてなしは、用意できませんが」
ギシギシと鳴る木の板を踏みしめて僕らは後を追う。
乱雑に積み上がった骨組みだけの建物。そこに住まう人々。
僕は前を見ることしかできなかった。
周りを囲う岩壁。大きく抉られた崖の下に、教会は暗く虚ろな外観をしていた。
朱色の門を潜り抜け、大通りらしき場所に出る。
足元の木板の隙間を覗き見ると、下は何層にも同じ素材が張り巡らされている。抜け落ちる心配はなさそうだが、湿気た木が腐ったりしないのだろうか。
知らぬ間に何かの結界の中に僕たちは入っていた。聖気に満ちたこの空間が、不浄なものを取り除いてくれていた。
汚水にまみれた土地が、新月のような見えない神々しさで包まれていく。
これが聖域。信仰心の極致たる精神の中心地。
僕は何かに惹かれる気持ちを抑えつつ、教会を見つめた。
どこから運ばれてきたのか、木造の立派な柱に支えられ、軒天が大きくせり出した芸術品のような建物。切り出した石やレンガを重ねることで造る家とは違い、樹木の柔軟性や視覚的心地よさを重視した様相に魅入ってしまう。
見慣れた教会とはまったく違う印象を持つ。国や宗教が違えば、これほど建物も変わるものなのか。
故郷リベクストとヤミレスでは大きな差はなかったが、霊峰を隔てた向こう側の文化を、ひしひしと僕は感じていた。
門といっても扉のように仕切りがあるわけではなく、人が通れる大枠の囲いがしてあるだけだった。
天井は高く、大きな梁が全体を支えている。正面の壁には立派な竜の絵が飾られていた。
「あの……」
僕は意を決してアトレアに尋ねようとする。
室内の心許ない小さな明かりが揺れた。
広間のような場所の奥に、一段高くなった場所があり、そこに軽く腰かけた彼女は告げる。
「さあどうぞ、立ち話もなんですから、座っていたしましょう」
だだっ広く仕切りのない部屋の中央、僕らは木目の板の上に適当に座った。
「お尋ねしたいことは概ね理解しております。誰でも初めはそこが気になってしまうものでしょうから」
灰の仮面に隠された表情は曇るとも言えず、されど明るい調子でもなさそうだった。
「カグヤ様、お気遣い痛み入ります。あえて何も説明せず連れてこられたのですね」
話を振られたカグヤは、僕の目にはいつもの調子ではないように思えた。
軽口や高飛車な態度をまったくとる様子がない。
カグヤは告げる。
「ええ。私は部外者だし、とやかく言うつもりもないわ。……それに、あなたが伝えたほうが誤解が少ないと思う」
アトレアは頷いて返事をした。
「ふふ。カグヤ様はお変わりありませんね。カノン様も、もう五、六年ぶりになるでしょうか?」
「以前来たのは六年前ですね。アトレアさん、フリートさん、またお会いできて嬉しいです」
優しく微笑むカノンはいつものようにも見える。
カグヤはアトレアのような人の雰囲気は苦手なのだろうか。
だが言われてみれば、普通の人なら尻込みしてしまうような聖気が、アトレアからは感じ取ることができる。彼女の佇まいや言葉遣いとは別の、目に見えない不思議な力。
僕に向き直った時、肩にかかったアトレアの銀髪が揺れた。不浄ともいえるこの場所で、唯一清く輝く色。
彼女は告げる。
「ここへ来られたのは教王国に赴くためかと存じます。でしたら、一度私の話を聞いて下さいませんか?」
彼女の隣に立つ銀の聖騎士は相も変わらず直立不動だ。
存在感はあるのに、見失ってしまうほど背景に溶け込む。
王国の姫様とそれに仕える騎士。どこかで読んだ物語に出てきそうだ、と僕は思った。
その銀色に、どれほどの哀が染み込んでいるのか。その時の僕には分からなかった。
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祖龍神とは、紀元前に存在したとされる伝説上の生き物。万物の祖ともいわれる数体の竜を指す。
基本属性の炎、氷、雷、風、土、そして光、闇。すべての属性を生み出したとされる七体の祖龍。
彼らを信仰する宗教、あるいはそこに付随する礼儀作法や社会集団のことを祖龍教と呼んでいる。
その開祖となる人物については定かになっていないが、ある日祖龍の瞳が発見されたことが信仰の始まりとなった。
元々祖龍の骸があった場所から見つかった聖遺物は、瞬く間に民衆の不安を取り除く心の拠り所となった。
不安というのは言うまでもなく、大勇者に討伐された魔王のことだ。
魔王の恐怖につられるようにして勃興した祖龍教国は、中央都市国家に負けないほどの大国へと成長した。霊峰の存在や魔神の台頭なども手伝い、ロキとは全く別の文化圏を築いていくこととなる。
祖龍教国と銘打った教王国は長らく世襲制度によって、その為政者、教皇を定めるしきたりが続いていた。祖龍信仰と教皇のもとに結集した信者たちは、霊峰の北側に根差す巨大国家を運営するに至った。
しかし、魔王が倒されて以降、現在は腐敗政治への不信感や真の信仰を目指す者たちが、反政府組織として教皇に反旗を翻すこととなった。魔王復活の噂や魔力災害の流布をきっかけに、民衆の抱える不安が増えたことも要因の一つで、彼らは教皇派を弾劾する一方で新しい国の長を擁立し始めた。
国の誕生の発端であり、根本的な信仰対象でもある聖遺物。神官でも限られた役職でしかお目にかかれない国宝。"祖龍の瞳"を擁する人物。
継承することだけをしてきた教皇派は、祖龍の瞳をただの人集めの道具としてしか見ていなかった。だがこの聖遺物はやはり、ただの遺体の一部ではなく正当な後継者を待ち望んでいたのだ。
祭具としての役割以上の反応を示さなかったその瞳は、とある一人の女性に反応を示した。奇跡としか言いようのない出来事に、反政府組織は彼女を聖女として祀り上げる。
祖龍教国を分断した教皇派と聖女派の内乱は、過去最大の規模にまで膨れ上がっていった。