第16節 優しい世界
どんどん森の奥地へと誘われていく。
透明な質感をした気味の悪い液状の生命体。伸びる触手が地面や岩を貫いて、木片や瓦礫が跡形もなく砕け散った。
重たそうな見た目とは裏腹に動きは機敏で、這うように移動したかと思えば飛び上がったりもする。
書籍で読んだ特徴を思い出しながら、魔力のこもった穿撃を掻い潜る。
伸びきった触手からも新たな触手が現れ、攻撃の手が緩められることはない。
先の水線ほど軌道が読みづらいことはなかったが、こちらは避ける方向を強いられているようで不愉快だった。
僕は浮ついた石の破片を軽々と躱しながら、右手で光の魔法を放り投げる。
粘性の強い液上の体、そこに風穴があく。貫通した光の矢がゲルハゴスを撃ち抜いた。
しかし、垂れ下がった粘液がすぐに傷口を塞いでしまう。魔力の核を砕かなければ、致命傷にはならない。
この霊峰に棲む魔物たちは、本にあまり記述がなかった。その多くは冒険者や学者が寄り付かないことに起因する。従って、ルリとの旅をしている間に初見の魔物と遭遇し、わずかだが実感してきたことが幾つかある。
まず初めに、ルリは途方もなく規格外な存在ということ。
魔法使いとしてではなく、この大陸の生物としてだ。初めて会った魔物でさえ、一目見るだけで弱点を見抜いてしまう。本質的な魔物に関する知識体系が頭の中に入っていた。
類まれなる観察眼と知能指数の高さ。状況や環境を適切に見極め、冷静に最適解を叩き出す。それは妖精の羽など必要ないほどの頭脳であり、何故、彼女が僕なんかを待っていたのか、今も不思議だ。
ルリこそが、大勇者の後継にふさわしい、真の御言葉なのだ。
……そしてもう一つ、相対した魔物たちの殆どが、擬態するという習性を持っているということだ。
フェルドールやバルデスだけではなく、この霊峰に生息する魔物は総じて麓に比べて危険度が高い。
冒険者や行商が山を越えずに、通行料の高いロキの関所を通るのにはそういう理由がある。そしてその利益を一番に知っているからこそ、ロキは霊峰を背に領土を広げたのだ。
にも関わらず、そこに住まう魔物たちの基本的な身体構造は、自然物の形を起源とし、模倣したものが主流であった。
言い換えれば、あれだけ戦闘力の高い魔物たちが、欺かなければいけない状況だということになる。
彼らは食物連鎖の頂点ではない。もっと凶悪な外敵が、この山には息づいていたのだ。
そしてそれが、このゲルハゴスなのだろう。
カグヤは僕に魔神をあの孰湖だと言っていたが、どうやらそれは間違いだったみたいだ。
孰湖は確かに凶悪な魔力を操り、魔物を超えた異常な力を扱っていた。
だが水魔法を自在に操っていたとするには、あの姿形はどうも違和感を覚える。本来の姿が液状なのだとすれば、肉体を得る必要はない。
再生する際、魔族のようなあの体に拘るのは何故なのか。あの体には、それ相応の意味があると考えるのが妥当だ。
では擬態することで得られるメリットとはなんなのか。それはこの地域に住む魔物と同じ理由だ。
恐らく、ゲルハゴスは魔王領から逃げてきた本当の魔神で、何者かを恐れ、擬態で孰湖に成りすましたのだ。
数百年前にゲルハゴスを封印した者。それが何なのかまでは分からない。しかし、この古代魔法生物がここにいる理由はそれしかない。
金属のように固めた鋭い一撃が大木を穿った。みしみしと音を立てながら真横に折れ曲がる。
魔力の大半をあの青年に引き渡してきたのか、この本体にはそれほど多くの力を感じない。
光を操って粒状に飛ばす。照らし出される青々とした葉。盾のように広げられた防壁を徹底的に破壊しつくす。
広範囲を継続的に攻め続けることで、攻撃の隙も与えず、隠された核を探し出すことができる。
ゲルハゴスは遮断された霧の中で、僕らを分断することに成功していた。しかし、それが意味あるものだったとは僕は到底思えなかった。
魔力の大小で見分けたのか、それとも、戦闘の推移から考察した……?
いずれにせよ、物理攻撃の効かない体だったならば、剣を主戦力とするカグヤと戦った方が有利なはずだ。
何を根拠にこの分断を行ったのだろうか。
木の葉がざわめく。魔力が広がっていく。
僕がそう思っていた矢先のことだった。
光の魔法に押し負けるように、ゲルハゴスの体が溶けだした。同種であるスライム系の魔物なら、ここで核が露出する。体を保つための魔力が失われて、その構成要素である粘性が失われてしまう。
カタはついた。再生で体を復元させる前に、ゲルハゴスの弱点を打ち砕かなくては。
状況が読めない以上は、分断を長引かせることはしたくない。
核を見つけようと不用意に近付いた僕。
円陣を組むような魔法陣が突然発光し作動する。
拙い焦りが産んだ、僕のミスだ。
金色に光る魔法陣が頭上に描き出される。回路は複雑で読み取りづらい、古代の魔法式だった。
体勢を崩しながらも後ろに飛び退き、靴底で地面を削る。輝く魔法の余韻がふっと消えていく。
一瞬だけ範囲内に入ってしまったようだが、間一髪外側に抜け出すことができた。
起動が早いうえに、魔力の痕跡がまるでなかった。こんな魔法が存在するなんて、信じられない。
五感を総動員して身体の異変を須く探る。魔力の変調も、機能不全も見当たらない。
僕は水溜まりの上、止まったままの魔法陣を見つめる。
不発、だったのか……?
次の瞬間、鈍色の魔物が輝き始めた。
見たこともない古代魔法の照り返しが、僕の目に映る。
地面に溶けた水分が寄り集まり、黄金に輝く魔法と合わさって燦然と煌めいた。
その神々しさは、古代より長い星霜を経た、現代の簡易的な魔法体系を嘲笑うかのようだった。
魔法による付与を強化させて僕は身構える。
どんな攻撃がくるか、想像もつかなかった。
蘇る、不安。ずしりと乗っかった強敵からの重圧。幾度と乗り越えてはいても、慣れることのない恐怖。
光が収まりつつあるその中心で色彩が濃淡をつけた。目に飛び込んでくる情報に脳内が圧倒される。
僕は咄嗟に自分の額を鷲掴みにした。
自分でも驚くほどに、力いっぱい前髪を毟る。
これは……こいつはっ……!!
沸き上がる感情、お腹の底が冷えていく感覚。それは、過去に感じたことのないほどの、憤怒だ。
本当は分かっていたはずなのに、選択肢の中から無意識に外していた。ゲルハゴスが最も得意とする常套手段。それは、己とは違う個体に擬態することだったじゃないか。
敵対する者の心を掌握する、近付いた者の記憶を読み取る魔法。
こいつはそうやって、今まで生き延びてきた。
今だって、今だってこんなこと……!!
臓腑が冷たい鉄に置き換わっていくかのように、重く鈍く、体の芯から固まっていった。
僕の瞳に、形を変えた魔物の姿が映った。それは記憶の中にいる、一人の少女。
青が差し色に入った白い高貴なローブ。施された刺繍には魔力が込められている。身体は細身だが貧しさはなく、いくらか僕より高い身長と、健全で女性的な丸みを帯びた体付き。
金色にたなびく髪の毛は薄く、光に透かすと白く輝く。青いバレッタで留めて、片耳を出して後ろに流す。
薄紅の唇、均整の取れた鼻梁。心洗われるような、神々も遠慮する美しい瞳。
クィーラ。
魔法陣に触れた時、記憶を読まれた。迂闊だった。
雷に打たれたかのような衝撃が、脳を揺さぶる。
気が付けば、僕は呼吸が整わず、苦しくなって息を荒らげていた。目の焦点が合わない、冷静になれない。
こんなのは、嫌だ。僕は、自分を真っ直ぐに保てない。
俯く僕に向かって、彼女は言葉を発した。
「――――、」
優しげな声で名前を呼ばれ、僕はおかしくなりそうだった。
言うな、僕の名を、彼女を使って。
「……お前は違う……お前は、クィーラじゃない―――!」
叫ぶ僕の声はあまりにも小さい。
吸い込む息が追いつかず、その場にへたりこんだ。
震えている。体全体が拒否反応を示し鳥肌が立つ。
忘れたかった恐怖が、心の底から這い出てきた。
「……私は、覚えていますよ、貴方のこと。叶えられなかった旅を、今なら続けられます!」
クィーラの形をした魔物が僕に語りかける。
喋るな、彼女の口で。
言葉の出ない喉の奥が焼けつくようだった。
殺す、絶対にこいつを殺す。
地面に這わせた腕を伸ばすも、持ち上がらない。
真っ青な地肌は、死んでいった人間のそれに近かった。
「大丈夫です。私はもう、忘れたりしませんから」
優しい言葉が、甘い囁きが、頭を撫でる。
「あの時、一緒に旅を続けたいと言わなかったこと、私は後悔していたんです」
偽物だと分かっていても、心に触れる言葉が、僕を正常で居させてくれない。
崩れゆく藍色の世界。
「魔王を倒す旅路には危険が付きまとう。だから貴方は私を連れて行ってはくれなかった……」
伏せた眉とその表情が、記憶の中で混濁する。
もうやめてくれ、これ以上は、もう。
「でもこの体なら大丈夫です、心配いりません。……もう一度、始めましょう、私たちの旅を……」
彼女なら、そう言うかもしれない。逞しくて穏やかで、意志の強い彼女なら。
――――いいんじゃないか。もうなんだって。あの笑顔がもう一度見られるなら、なんだって。
大丈夫、僕は正常だ。偽物だって分かっているんだから。本物の彼女は、もう僕のことを忘れているんだろう?
だったらいいじゃないか。偽物でも、彼女は彼女だ。
あははははははははは。
こんな幸せなことってないよ、ボクは幸運だ。
またやり直せるなんて思ってもみなかった。
あの日言えなかったことを伝えよう。
傷つけたくなくて言えなかったんだ。
君は僕にとって大事な人だったから。
ずっとずっと後悔していたんだ。
失うことが本当に怖いことだった。
また一緒に旅をしようよ。
どんな困難も君となら乗り越えられる気がする。
「う……ぐっ……」
濁流のような思考の波が頭をのたうち回った。
悔しさ、悲しさ、怒り、喜び。そして、哀れみが僕を満たす。
気が付くと、彼女は僕のすぐ傍まで来て告げた。
「さあ、手を取って下さい……」
差し出された細くて眩い右手を僕は見つめる。
照らされるのは、いつだって自分だった。
後悔のない生き方なんてしたくはない。だけどそれは綺麗事で、所詮困難のない平坦な生き方だ。
前へ進むためには、たとえどんなことであっても、自分の身さえ、犠牲にしていかなければならない。
彼女の柔らかな手のひらに触れる。
それが欺瞞だろうが何だろうが関係なかった。内側からの叫びには、自分でさえ抗えないのだから。
そっと両手で手を包み込まれ、僕の知っているあの笑顔を彼女は見せる。
「……ありがとう、嬉しい……」
心のどこかで鐘の音を聞いた。
金色に揺れるクィーラの毛先から、銀色の雫が垂れ下がる。風もないのに、その長い髪は僕らを覆うように広がっていく。
「ずっとずっと、一緒にいましょう……」
彼女の声が、閉じられていく灰色の繭の中で響いた。
すっぽりと包み込まれた二人は、暗い闇に飲まれる。
ここで僕と彼女は、終わらない夢物語を、優しい世界の中で、いつまでも見ることができるんだ。
囁き続けるクィーラと、それを求め続ける僕の、たった二人だけの世界。ゆっくりと堕ちていく。
夢の中で出会えた彼女と交わしたかった言葉の数々。
僕の心はどこにもなく、そして探す者もいない。
藍色の深淵が空を覆い、見つめ合う二人を包んだ。夢が永遠に続けば、それは夢ではなくなる。
静かに灯った邪悪な心根が、片隅で泣く僕を押さえつけた。それは、見たこともないくらい恐ろしい形相だった。
はっきりした輪郭の彼女の顔が揺らいだ。
それと同時に曇る表情。僕を見つめ返す。
「どうして……?」
惑うクィーラの言葉が途切れ途切れになる。
暗闇を払う閃光の輝きが、胸の内から解き放たれた。
……僕は、酷い顔をしているだろう。
砕け散った心の半分を抱きながら、取り出した刀の柄をぎゅっと握りしめる。
反応せず眠ったままだった光魔刀。
今はその呼びかけに応じるように、やっと目を覚ましてくれた。刀身を伸ばす。そこにあるはずもない幻想を断つために。
「………私では、だめだったのですね……」
記憶の中で僕が作り上げた可哀そうなクィーラ。
生み出したのが僕なら、殺すのも僕だ。
「誓ったんだ。絶対に忘れないって」
築き上げてきたもの全てが壊されるわけじゃない。失ってそれでも、残るものは必ずある。
「僕は痛みがあるから、先へ進めるんだ」
二人だけの、小さな世界。
ゆっくりと閉じていく瞼でさえ、はっきりと見える。
目の奥を焼き尽くすほどの業火が、藍色の中に沈んでいく切ない夕日に思えた。
返り血が僕の体を赤く染める。
光の刃に滲む大切な人の姿。血を流す彼女の顔。あの時とは違う、命の終わりの再演。
さめざめと流れ出る涙が頬を伝っていく。もう誰かが慰めてくれることはないんだろうな。
だから、僕には何も必要ない。
いつか誰かが思い描いていたような、理想。
望んでいた、"優しい世界"。