第15節 とこしえ、底冷え
突如、かろうじて肉体を保っていた魔神の体が、ぐにゃりと力なく液状化する。震え動いていた魔力の塊は、内部構造を整えることなくすぐに一つの形を作り始めた。
魔物は人間との争いの中で絶えず進化し続け、その姿に擬態するものもいる。半透明の人間の姿をしたハオは、声帯のない喉に触れた。
不便な体、意識していないと形さえ崩れてしまう。
けど、そのおかげで勝てる。
ルリによってあけられた穴の底、ハオは自身の体から迸る魔力を解き放った。
見下ろしていたルリに強烈な悪寒が走る。彼女は肩を抱き全身の鳥肌を抑えた。
どこにこんな魔力が蓄えられていたのか。
ルリの周辺が濃い霧によって再び支配されていく。
杖を構えた彼女、呪文を詠唱し霧を凍らせる。
しかしハオの姿はとうに消え、冷気の渦が舞うだけだった。
霧の中に気配が二つ。
一つは欺瞞……本体はどっちだ……!
水刃の弾かれる音、巨人がどこからか攻撃を受ける。
睨みつけた矛先に、溶けだしたハオの姿があった。
腕に纏わせた鋭い刃を何度も巨人にぶつける。
体の一部を凍らせながらも、両腕で何度も甲冑にしがみつく。
鎧の表面を滑るように移動し巨人の隙をつこうとする。だが、そんな小細工が通じるような相手ではなかった。
巨人の拳がハオを振り払う。破裂した水の粒が、悲鳴を上げるように飛び散った。
生命を求める水の意志なのか、すぐに寄せ集まり、濁った水溜まりがいくつもできあがる。
熟れた果実のようなくぐもった汚物が広がり、ハオの頭蓋だけが表面から浮かび上がった。
山のような巨人の氷塊。陰ったハオ。
水を震わせ、か細い声がルリの耳に入ってくる。
「……みんな、生きてーーー!」
母親の想いを受け継いだ、脆い魂。紡がれることのない空虚な叫び。
その真上から、氷の塊が振り下ろされる。圧倒的な破壊の拳がハオを押し潰した。
土砂が垂直に飛び上がり壁のように聳える。震える大地、森全体が慟哭し砕き割れた。
破砕が連鎖する地面、なぎ倒される樹木。
その中に紛れ込んだ魔力の瞬きに、ルリは気付けなかった。
気配は二つあった。
冷気の隙間を縫うように舞う、魔力探知を阻害する霧の中。小さく、だが確実に対象を捉えるための水の円環。
ハオは自身の姿とはもう一つ別に、水の輪を作り出していた。霧で巧妙に隠し、その魔法の発動をルリたちに悟らせないように。
中心にある魔力が渦を作り火花を散らせる。引き絞られた弓が如く、その威力を高めていく。
いち早く叫んだのはカグヤだった。
「退けッ!!」
声に反応するかのように水線が放たれる。
紫に光る両の目が残像を置き去りにして駆けた。
追いつけるかどうか微妙な線引き。走り出した彼女の判断は最も早かった。
しかし、水線の勢いはそれよりも速い。
引き離されていくという感覚もないまま、距離が開く。
ルリの視界に入った高速の煌めきは視界を上下に二分する。真横を通り過ぎる水と薄紫を、その鈍重な目で追った。
カグヤの声が向けられたその先、ルリとは別のもう一つの人影。
魔力探知の働かない複雑な地形と魔物が跋扈する村の外を長年の経験と計算によってここまで歩いてきた人物。
「カノンッ!!」
叫ぶカグヤの声よりも早く、螺旋を描く高圧水が、もう一人のエルフに浴びせられた。
その速度の増した水は無防備なカノンを貫かず、直前で覆うように広がった。
ハオによって時間稼ぎを強いられたルリとカグヤは、孰湖の再生を感知できていなかった。
力では勝てないと踏んだハオは選んだ。自身の命と引き換えに得た魔神の隷属たち。
肉体の再生を諦めた魔神の最後の悪あがき。
それは、眷属との繋がりをもう一度結ぶ事だった。
代を経るごとに弱まっていた村人との盟約。その再起として魔神は生贄を欲していた。
しかし魔神本体と眷属とが律する"魂の共有"により、瀕死状態のシュエでは生贄としての機能が果たせなくなった。
ハオはその繋がりをもう一度正すことにより、眷属たち、もとい村民の蘇生に全てを賭けた。
孰湖は最適な生贄をこの森から見つけ出し、自らを水線として放ち生贄を得る。
泡のように変化した水面、カノンの全身を包み込む。
彼女は水の中で大量の泡を吐き出した。
内包された中身を閉じ込めて動けなくすると、朽ちた生命を弄び、"魂の共有"を再び発動させる。
魔力を纏ったその姿にルリは立ち尽くす。
カノンを丸呑みした水の玉は小刻みに震えていた。
小さな命が最後に託した隷獣たちへの救済。
それは、冷酷な主獣の贄として利用されることだった。
少しでも永らえられるなら、どんな生でも構わない。
それだけ悲壮的な死を青年は恐れたのだ。
淡い幻想を抱きしめながら、辺境の地に生まれた勇敢な魔神の依代は息絶える。
ドロドロに溶けだす水溜まりの中で、心待ちにしていた母との再会を祈りながら。
お母さん、僕、みんなを救ったよ。
水の球体、カノンの足元に、煌々とした魔法陣が出現する。水紋を押し広げながらゆっくりと拡大していく円陣。
幾何学模様が曖昧になる。大量の水が地面から湧き始めた。
魔法陣が光を放ち、下からカグヤたちの顔を照らす。不気味に輝いた光が乱反射する。
蠢く水の中から四つん這いになった獣が姿を現す。むくりと起き上がるように前腕で上体を支える。
続々と召喚されていく人型の魔獣が、唸り声を上げながらルリとカグヤに向く。
しかしハオの目論見は、少々あてが外れてしまう。
この時、孰湖は眷属たちとの盟約をさらに深いものとし、精霊体としてこの場に呼び寄せた。
それだけでなく、精霊体を生身の肉体として蘇生させるに至った。
代償として失われたのは村人たちの人格、理性。容易く扱える強靭な駒として彼らは魔物に成り下がった。
カグヤたちは鮮烈な光景を目の当たりにする。
先刻まで貧しくも逞しかった村の有り様。現実を受け入れ、孤村でつつましく暮らす大人たち。自分たちが終わりつつあることも想像していただろう。
一方で、自意識の芽生えを感じながら、窮屈な暮らしをよしとしない若者たちもいた。
何かを守ろうと、何かを変えようと、努力した彼ら。
自分の故郷とどこか似たような寂寥感が滲んだ。
霞んでいく村人たちの笑顔。決心したハオの瞳がカグヤの脳裏を過ぎった。
虚ろな目。下品な獣の臭い。垂れ落ちる涎。叫び声を上げ続ける無様な喉笛。
面影が残る彼らは皆、元は村の人間だった。
先陣を切るあの獣は、ハオが抱きしめた女の子だった。
生きるために傀儡と成り果てた姿。
これが果たして、彼の望みだったのだろうか。
自我を失った少年少女たちは虚空を見つめ、光のない双眸から液体を流し始める。
白濁とした轍を刻みながら、体毛の内側に吸い込まれていく。汚らしく体を滴った。
ルリの杖が魔力を帯び、巨人が戦斧を構え対峙する獣に刃先を向けた。
カノンを閉じ込めた水の膜がうねり、澄み切った聖水から赤黒い血溜まりへと変色を始める。
眷属から力を求め、それを己の矛へと変えた。孰湖の水は、鋭さを増す針のようにしなやかに伸びていく。
一触即発の空気の中で、カグヤはただ、頭を垂れてルリに告げた。
「―――もう、いいのよ……」
藤色の髪が揺れて、その鮮やかさがルリの瞳に映った。
湧き出す水に目もくれず、彼女は剣を納刀する。
ずぶり、と空気の抜けたような音がして、カノンを包んだ水の幕が剥がれ落ちていく。カラカラに干上がった瘡蓋みたいに落下して、さらさらと空気に溶けだす。
怒りの籠った遠吠えが小さくなり、獣たちは呻くように鳴き始めた。
魔法陣は光を失い、湧いたはずの水は枯れていく。
呼び出された獣は帰り道を知らず、その場に倒れ込む。
「何が起こっている……?」
思わず発したルリの言葉にカノンが返事をする。
「既に……魔神の器は壊れてしまっていたようね……」
腹這いになる獣たちの中心で膝をつくカノン。祈りを捧げるかのように、両の指を組む。
「慈悲深き勇士ダルクよ……哀れな魂たちを、どうかお救い下さい……」
そう呟いたカノンの周りから、死の穢れが祓われていく。血みどろの水が色を失くし、粒となって消える。
蹲った獣たちの姿がみるみる小さくなり、発光しながら人の形を取り戻していった。
カグヤは告げる。
「あの子の身体はとうに限界がきていたのよ。村人たちから搾取するだけの力も残ってなかったみたい」
彼らの命は盟約により魔神と繋がったままだった。脳と身体のように切っても切り離せない関係。
孰湖は身体に宿る力を全て自身へ吸収しようとした。死にかけだった脳は息を吹き返すはずだった。
しかし、ハオが残した遺志は、本来従うだけの村人たちを別の方向へと動かし始めた。
強い生への懇願と本能。獣の内側から呼び起こされたそれらが、指揮系統である脳からの命令に抗った。
理性を奪い去られた彼らは心の奥底で、本当の意味での解放を欲していたのかもしれない。
誰も犠牲にせず、誰もが自由に生きられる。そんな理想を、内に秘めていたのかもしれない。
「ま、それか単にカノンが生贄として不十分だったのかもね」
「ちょっと! お姉ちゃん、からかってるでしょう!」
カグヤが窘め、カノンはそれに怒る。
彼女たちは一安心したかのように笑う。
意識を取り戻し始めた村人たちは、一人、また一人と体を起こし周囲を見渡し始める。
自分の身に何が起こり、どうしてここへいるのか。酷く混迷している様子だった。
だが、たった一人だけ、カグヤを見つめる者がいた。裂けた衣服を胸で抱き寄せ、シュエは口を開く。
「ハオっ!? ハオはどこ?!」
狼狽える彼女が目に涙を浮かべ、突き刺すような視線をカグヤに送った。
それに動ずることなく、カグヤは毅然とシュエに近付く。
真剣な眼差しで彼女は告げた。
「彼は、私が殺したわ……謝る気はない。私も、殺されかけたから」
胸に手をあてた薄紫の髪を揺らすカグヤは、それだけ言うと目を逸らす。
恨まれる理由も、因果も、全て私にある。
幼子たちよ、今はただ、この無法を許して欲しい。
俯いたシュエは呟いた。
「そう……」
怒るでも、泣くでもなく、ただただ心の在り所を探し彷徨う。
残されたものの価値を見出せない。喪失感の表れが、今の彼女そのものだった。
物憂げな表情の中にいつも笑顔を見せてくれた、あのハオはもうこの世にいない。
生贄として選ばれた自分を庇い立てするために、この冒険者たちを身代わりにしたかったのだろう。
彼がやろうとしたことは、残忍なことだった。身内を守るため、他人を犠牲にしようとした。
声高に言いふらすことさえ憚られる、村で語り継がれるような英雄譚などでは決してない。
……しかし、それでも。
わたしは心のどこかで喜んだんだ。
だってそれが、わたしに対するハオの想いだったから。
凍てつく鎧の巨人が姿を消す。
青い瞳を持つ魔女が凛とした声で告げた。
「……彼は最後に、皆に『生きて』と言っていた」
吹いた風が冷たかった。
もうじきこの森は深い赤に染め上がる。
止まらない涙を流しながらシュエは言う。
「でも……わたしたちは、もう、生きられない……!」
守護神を失いし生命の行き着く先が死であることを、自分たちが一番自覚していた。
命の繋がりである盟約がその発端となった。眷属としての鎖。その理には逆らえない。
「……?!」
不思議に思った村人たちは、自分たちの体を見渡す。突きつけられた刃物がすっと消えたような感覚。
獣の体に付きまとっていた妄執の力。それは、主の纏っていた強烈な死への恐怖だった。
しかしそれが今はまるで感じられない。
「―――どういうこと?」
悲喜こもごも呟く彼らの前で、仰々しくも腰を下ろし足を投げ出したカグヤは告げる。
「もうあなた達を縛る魔法はなくなったのよ。獣化もできないから、早く下山することをお勧めするわ」
黒い鎧についた泥や汚れを払う彼女の隣、口を添えるようにカノンも言う。
「勝手ながら、守り神の死と同時に、"魂の共有"を破棄しました」
「これでチャラになったとは言わないけど、あの子の最後の願いくらい、叶えてあげなさい」
あー今日は疲れたわ、とカグヤは大義そうに告げた。
二人のエルフが放った言葉に、村人たちは衝撃を受ける。
ショウフウ様のいない世界、それは、彼らがすぐには想像できなかった世界だ。
柔らかな風が吹く森は木々を揺らめかせる。戦いが終わり、湿った土の匂いだけが立ち込めていた。
ふと、思い出したかのように、水色の髪をなびかせながらルリは思った。
「―――魔道士君は?」