第11節 降り泥む、天の露霜
ただの魔族だと高を括っていたのが間違いだった。
魔族はやはり、人の形を成した化け物なのだ。
魔王国に住まう魔族たちは、我々人間たちを蔑み、支配し、恐怖に陥れる存在だ。
獣化した村人たちが何人も襲い掛かっていったというのに、彼女の肌には傷一つ付けることすらできなかった。
魔族というものは皆、一様にあんなことができてしまうものなのか。
脳裏に浮かび上がる不安が、心の中で引っ掛かり始めた。
ショウフウ様はどうなったのだろう。
獣化できない僕は、騒ぎに乗じて湖へと引き返した。
この胸騒ぎを早く取り除きたかった。
村人の反感を扇動して時間を稼いでいるあいだ、全ての計画が終わっていることを祈った。
またみんなで笑い合える日が戻ってきてくれる。
僕はそれだけを今の今まで考えてきた。
―――ショウフウ様の消滅を、この目で見るまでは。
走ってきた足をゆっくりと止めた。
湖から続いていた戦いの跡を辿り、その終着点に立つ。
あれほど美しい景色だと思えた森が、一変している。
嵐が過ぎ去ったかのように荒地と化した水辺。
そこには犠牲になるはずだった魔族の少女カグヤと、紺色のローブを身に纏う灰がかった髪色の少年がいた。
暗い日々を送り、鬱屈としたこの小さな村を、彼女は力づくで救ってしまったのだ。
これは、僕が招いてしまった結末だ。
僕らの住む村には、古い守り神が祀られていた。
他の地域には存在しない、僕らだけの神様。
ショウフウ様と呼ばれた神様は、豊穣を司り、村人が飢えないように守護する存在でもあった。悪い魔物や病気などを避けたりする厄除け、具象化された説諭としての役割。
この村で起きる恐ろしいことと言えば、村の外で魔物に襲われるか、ショウフウ様の怒りに触れるかのどちらかだ。だが、僕らのような若い世代は本気でショウフウ様を信じているわけではなかった。
ショウフウ様に対する現実感は薄く、大人たちが勝手に作り上げた村の象徴は、僕らに信じ込ませるにはありがたみが薄すぎた。見えず聞こえず触れられない。それだけで僕らはショウフウ様を否定することができた。
だけどそれは間違いだった。
恐ろしさの象徴であるショウフウ様は存在する。
そしてそれは、代々伝わってきた村の伝統に息づき、畏怖と敬愛の両輪でこの村を走らせていた。
村の吉兆を占う祭。
あれはこの村の始まりから行われているそうだ。いわば村自身に対する誕生祭。収穫祭と名前が変わってしまってはいるが、元はショウフウ様への感謝と村の存続を願う祭だった。
日頃の感謝を込めて収穫した捧げ物を神にお納めすることが目的とされていた。
……それが表向きの看板であることを、僕は否応なしに知ることになる。
十数年に一度、収穫祭の最後に行われる御開帳にて、村の長が一枚の御札を開封する。
今年、そこに書き込まれていたのはシュエだった。
生贄に選ばれた人間として村と村の未来、そしてショウフウ様のために命を落とす。
あの父親は彼女にそう言い放った。
大人たちのみが知っていた、連綿と続く村のしきたり。この村の平穏は、村民の命のもと成り立っていたのだ。
飼殺されていたのは僕一人ではなく、この村もそうだ。
湖で母親の声を聞いた時に確信した。ショウフウ様は守り神なんかじゃない。
"あれ"は、村を苗床にしている恐ろしい邪神なのだ。
……許せない。許せるはずがない。
絶対に思い通りにさせてなるものか。
激しい怒りが湧きあがる。その背中を支えたのは、大切なものを失ってしまう恐怖だ。
僕を愛してくれるはずだった母親。こんな僕でも大切に思ってくれている存在。愛するということを教えてくれた存在。
僕はまだこの村を去れない。まだ、この村には彼らがいるから。
シュエは絶対に救い出す。
僕の目の前に幸運にも、二人の冒険者が訪れた。
一人を生贄としてシュエの代わりに供物にし、もう一人をこの村の異常さを喧伝させるために生かす。
冒険者がここに集い始めればこの邪心の箱庭は瓦解する。
そうなれば村人たちも正気を取り戻すに違いない。
声だけだったお母さんとも、もしかしたら会えるかもしれない。
僕はなぜか楽観的にそんなことを考えていた。
邪神が死ぬなんて全く意図してないことだったから。
僕は無慈悲にも、母親へ辿る唯一の道導を断たれてしまった。
依然として風は生気を失い、地べたにこびり付いた水が不気味に染み出す。
「あなた、戻ってきたのね……」
落ちた剣を拾い直しながら、傷ついたカグヤは僕に声をかけた。
意気揚々と出かけて行った朝と比べると、少し気だるげで疲れが見える。
倒れた木々が戦いの凄惨さを物語っていた。
カグヤは躊躇いがちに僕へ言った。
「……ハオ、だったわよね……。あの守り神なんだけど……実は―――」
僕は遮る様に言葉を発する。
「―――分かってる。本当は気付いてたから……いなくなってことで、村は救われたんだ……」
守り神を殺してしまったことを責められると勘違いしたのだろう。
本当の神様なんていやしないのに。
それより彼女の妹を挑発してしまったことを何と詫びよう。
僕がカグヤに声をかけようと思ったその時だった。
「―――どういう、こと……?」
聞きなれた声に僕は顔を向ける。
控えめな声量と可愛らしい声の高さが特徴の少女。
木陰に隠れるようにして立っていたのは、水溜まりに不安げな瞳を反射させていたシュエだった。
「ハオ……ショウフウ様はどうなったの……?」
僕は母親への想いを、救われた彼女の命で拭い取った。
シュエが生きてくれているのなら……。
「ねぇ……『いなくなった』ってどういうこと……?」
違和感を滲ませたシュエの口調。
僕は安心させるための優しい言葉を返した。
「シュエ、もう心配することはない。冒険者の方が生贄を強いていたショウフウ様を倒したんだ」
全ての願いが叶ったわけじゃない、だけど―――。
僕は黙り込んだまま目を合わさないシュエに続ける。
「もう誰も、生贄になんかならずに済む。悲しむこともな。メイユイとも一緒に生きていけるんだ」
僕らは誰一人欠けずに自由を手にすることができた。
そう、呪いに囚われない本当の自由を―――。
「―――ちがうよ」
小さな声が漏れ出るように聞こえた。
僕は耳を疑う。喜びからくる声じゃない。悲しみと、失望。
彼女は弱々しい声を荒らげて告げた。
「私たちは、ショウフウ様なくして生きてはいけないの!」
波紋がどこかで広がった。伝播していく波は次第に強く、大きくなる。
「……シュエ……?」
僕の問いかけは虚空に消え、彼女の心に届かない。
投げかけた言葉は、波紋を広げなかった。
シュエは目線を落としたまま囁く。
「ハオ……私たちはあなたと違って獣化している。だからこそ分かるの。
ショウフウ様と繋がっている、この命が……!」
突然胸を抑えながらその場に膝を折るシュエ。
僕はすぐに駆け寄って彼女の肩を支えた。
「な、なに言ってるんだよシュエ……! そんなはずがあるわけ―――」
あの邪心の命と、みんなが繋がってる……?
村人全員、カイやメイユイ、シュエも命を落とすとでもいうのか……?
そんな、馬鹿なことが……。
「そんなはずが……そんなはずが……!!」
僕はシュエを救いたかったはずなのに、その行為が彼女を殺すとでもいうのか?
シュエの焦点が次第に遠のいていく。
「ハオ……私ね、分かったの。私が好きな人……お兄ちゃんやメイユイとは違う……特別な好き……」
掠れて小さくなる声を必死で拾おうと、僕は彼女の顔を抱き寄せた。
「ハオは……ずっと教えてくれてたんだね……、もうちょっと、早く気付いてればなぁ………」
息ができない。この温もりを手放したくない。
僕はシュエを抱きしめて叫んだ。
「だめだシュエ! すまなかった……だから、いかないでくれ!! お願いだ、頼む! シュエ!!」
風一つ吹かないこの森の中に、僕の声だけが響き渡った。
「私のために……ありがとう……私も……好き、だよ……ハオ………」
違うんだ、そんな、そんなはずじゃなかった。
目を瞑る彼女。
僕の腕の中のシュエは、それから口を開かなかった。
何度も呼びかけたが、もう目覚めることはなかった。
どこかで落ちた雫が、彼女の頬を濡らす。




