第7節 崇め奉るは
「よっと」
空中に煌めく水の軌跡を紙一重で躱す。背後で地面が炸裂するとともに、大木の悲鳴が上がった。
水を吐き出す威力と速度は、人の域を超えている。突然変異を起こした魔物か、自我を失った魔族か。
……或いは―――。
水平に打ち出された水の噴射が私の姿を追う。点ではなく線の攻撃に攻め手を切り替えてきた。
地面を穿つ高圧の水が大地を抉り取っていく。
それを複数に枝分かれさせて放射状に広げると、無差別に辺りを粉砕していく。
「甘いわよ、そんなんじゃ――!」
浅く踏み込んだ足で重心と逆に地面を蹴る。身を翻して半身を捻りながら水圧攻撃を華麗に避けた。
「――私を仕留められないわ!!」
線を途切れさせた湖の化け物は、馬脚のような下半身を水面に浮かべている。
青空を映す鏡面のような湖の上には、植物や他の生物の姿は一切見当たらない。
私は剣の間合いからほど遠い敵を見据えて、苦い表情のまま口走る。
「でも参ったわね……」
カノンの魔法なしじゃ水上の魔物は狩れない。
私をじっと見つめる色のない瞳。
ハオはここを神聖な場所だと言っていた。あの化け物は村の守り神か何かなのだろうか。
禁忌を犯した者への罰。この凶暴性はそんな風にみてとれた。
しかし、おかしい。
守るべき村人を巻き込んでまで、神である存在が露骨に余所者の私を排除するだろうか。
湖に浮かぶ亜人族に似た仮初の神は、喉を鳴らす音に合わせて言葉を連ね始めた。
「キサマハ……ナ二モノダ……?」
着地した私が剣を構え直すと、水滴が剣先を光らせる。
守り神を中心として、湖に波紋が広がった。
「あなた喋れたの? 珍しいわね」
言語を使う魔物はいない。柄を握りしめる。
反撃が来ないのを知ってか、続けて音が鳴らされた。
「キサマ……ソノカラダ……」
意志があるのかよく分からない瞳には、瞳孔はなく虹彩だけが塗りつぶされている。
ケダモノのような、輝きを失った瞳。
それでもこの守り神からは、鋭い視線を感じた。
「何百回と聞かれた質問よ、ソレ。もう答え飽きちゃったの。ごめんね」
言いながら辺りを警戒して生き物の気配を探る。
カグヤは湖周辺に何もいないことを確認した。
今なら、出せる。
上段に構えると刀身が紫に艷めいて光を帯びた。剣に揺蕩う空気が揺らぎ、刃先がぼやける。
つま先を相手に向けてくぐもった眼を見つめると、何となく目が合ったような気がした。
生物としての規範を超えたもの。人ならざる超常の怪物をその目に焼き付けた。
振り下ろす動作の一歩手前で守り神に異変が起こる。
カグヤは剣を振れず、耳鳴りのような高い音に圧倒された。
頭から泥水が湧き出すような著しい不愉快さ。体の自由が奪われ咄嗟に耳を覆う。
細かな振動が前方から伝わり、不思議な力で体を抑えつけられる。
守り神の大絶叫が森林に響き渡っていく。
口だと思っていた部分は耳まで裂け、背中から鳥の翼が生えてその全容を現す。
人間の部分である両手を左右に伸ばすと、湖から持ち上がるように、二つの水の柱が輪を作る。
守り神の背後で輪の中心に集まった高密度の"何か"。蜘蛛の巣を張るようにして、塊を成形していく。
心の中で私は舌打ちをした。
既に覚醒している……?
この感覚、まさか―――!!
「!!」
咄嗟に躱す。二本の直線が頬を掠める。
高周波の咆哮で隙を作り、鋭い水圧攻撃が放たれた。
頭を強くぶつけたような衝撃がわんわんと響く。
私は叫びながら後ろに下がった。
「ッうるさい!!」
体が重くだるい。軽やかに水の攻撃を躱せなくなり、なんとか剣で威力を削ぎながら退く。
咆哮の放つ音によって作りだされた支配空間。
湖を囲う森がその範囲を示唆する。
支配空間は超常的な魔力の持ち主にしか作り出せない。
この化け物は私の特異性に危機感を覚えたのかもしれない。
音は広がり反響する。魔法による他区域との隔絶で、私は周囲から絶え間なく音波を浴びせられていた。
平衡感覚がぐらつき天地が逆転する。鋭い高水圧を捌きながらの移動は困難だった。
支配下にある結界の外へ出るまで、あと数歩。
先ほどまで散開していた水の魔法が集約していく。
ぬるい一撃を弾いたその瞬間、カグヤは瞳を薄紫に光らせ素早く足を動かす。
隙だらけの一撃に構っている余裕はなかった。目眩に濁る頭を振って姿勢を低くし結界外に飛び出した。
木々の隙間に逃げ込み、絶叫の支配空間から解放された私は、数十本の高水圧が一斉に迫ってきたことを感じ取る。
目標は私の心臓。体の中心めがけて、重たい水の軌跡が高速で向かってくる。
衝撃波にあてられた木々はそれだけで簡単になぎ倒されていった。
横に構え刃筋を前に向けた私は、再び気合いを入れ直す。
ここが、正念場だ。
剣に薄紫の光が灯る。朧気な輪郭を保つ怪しげな色。
守り神の穿撃と私の剣が、正面から激突した。
砕け散った木の枝が風圧で吹き飛ばされる。ごうっと葉をつけた大木が揺れ動く。
鋭さを増す水圧が高い音をだしながら、怒涛の勢いで私の持つ剣へと叩きつけられた。
これで仕留め切れると踏んだから、簡単に支配空間の外に逃がしたのだろう。
だが漏れ出た水の飛沫が辺りに散るのを横目に、私は悠然と魔物の攻撃を片手で受け止める。
淡く光った剣には、雫ひとつついていない。
地形を歪ませたほどの威力は殺され、圧力は打ち消される。
私は剣を握る手に力を込めた。
カノン、見つけたわ。こいつが――。
噴霧された水の粒が邪魔になって、その存在を捉えられなかった。
ゆるゆると動き出した大きな影。村の守り神が私のすぐ側まで近寄ってきていた。
カグヤは目を張って思考を巡らせる。あの高水圧は欺瞞。本命の技があった。
目を見開いて視界に入ったその動きが、呼吸まで聞こえそうなほどに肉薄していた。
「祇水嶷……」
囁かれた化け物の単語が耳の鼓膜を震わせる。
瞬間、怪物の背負っていた水の環が飛散した。
中心に蓄えていた恐らく魔力の結晶であろう水の玉。
轟音が聞こえたのは私の背後からだった。
「―――がはッ……!」
嘔吐と一緒に大量の血が口から零れ落ちた。否、流れ出たと言った方が正しいだろう。
気付いた時には私は地面に叩きつけられており、失った胸部の一部からは赤い血が多量に垂れ流されていた。
小さな村に祀られた小さな守り神。覚醒前だと油断してしまった。
もう、目を覚ましていたのか。
なおも生き続け村を見守っていた恐るべき存在。村の害とあらば村民さえも巻き込む傍若無人ぶり。
霧雨が支配する一帯に、守り神の呼吸が響く。
森林に開けられた大穴の中、私は傷跡を優しくなぞった。
胸にあいた風穴、死に至る致命傷。血液を送る臓器が損壊している。水滴のついたまつ毛が視界をぼやかす。湿気を感じられないほどに衰弱した五感。
あの日、魔法の使えなくなった私に、故郷の人々は誰も語りかけてはくれなくなった。
行き過ぎた誇りとささやかな傲慢のせいで、他の種族と関わりを持たなかったエルフたち。
あの時、助けを求めることができていたならば、私の思い描く未来は変わっていたかもしれない。
日差しを受けて虹を生んだ湖を背景に、守り神が静かに私を見下ろした。
輝度の増す藤色の瞳と対照的な、光の入らない暗く沈んだ黒い虹彩。
■■◇■■
「えっと……」
私の前に立ち塞がったのは村の若者だろうか。
いや、この地域のヒト族は顔立ちがどれも幼かったはず。
私の感覚では子どものように見えていても、寿命の半分を超えていることはままあった。
長命を誇り記憶力の高い私たちでさえ、中々その区別が付きづらいきらいがある。
そんな中、行方不明の姉を尋ねて童たちにその所在を聞いていたところだった。
剣呑な視線を向ける村人たちが、私の元へと数人近付いてきて告げる。
「旅人殿、我らの森に入られたか……?」
何か悪い予感がする。
体の前で両の手の指を組んでみせた。申し訳なさを表現するのには慣れたものだ。どうなっているのかは大方予想がついた。
また無鉄砲な姉がしでかした破天荒な行いに相違ない。毎回後始末をするほうの身にもなって欲しい。
「姉でしょうか……今朝から姿が見えません。何か……お困り事ですか……?」
詰め寄った村の人たちは目を合わせ、頷きあい合点のいった顔をしている。
彼らを怒らせるようなことをしでかしたのか、姉よ。
視界に入った獣を追いかける勇猛さも時には役立つが、そろそろ協調性というものを身につけて欲しいものだ。
ため息を押し込んだ胸を抑え、緩く鼻で息した。
村人たちは再び私に向き直り告げる。
「我らの禁足地にご令姉様が向かわれたそうだ。しかも、その場所に村の子どもたちを連れて……」
怪訝な表情の彼らが、私に訴えていること。それがどんな意味を持つのか、想像に難くない。
ダメと言われた精霊の森に何度も無断で入ったっけ。
目を細める私は随分昔の記憶を掘り起こしていた。
こんな村に来ると必ず思い出してしまう。
だがそれは今語るべき昔話ではない。
「お姉ちゃんが……そこへ……?」
私の言葉に昨日のような愛想笑いはない。
鬼気迫る雰囲気だけがこの場に漂っていた。
あの姉が、子どもたちを連れていったのか……?
妙な間が空いた時、村人たちの後ろから、さらに数人が泥だらけの子どもを連れてやってきた。
ギラギラとした目つきが私を見る。
肩を貸すようにして歩いてきた男の子は村長の息子だ。
線の細い頼りなさそうな印象だったのを覚えている。それが今では、怯えと怒りに満ちた瞳に変わっていた。
私は首から下げた笛をぎゅっと握りしめる
村人たちが詰問するかのような声で告げた。
「子どもを無理やり連れていったのですか!」
「我々の神聖な地になんてことを!!」
「いくら旅のお方でも、掟破りは禁忌じゃ!」
名前を確か、ハオと言ったか。彼は私を真っ直ぐに見つめている。固く張り付いた表情に、何かの決意を秘めていることは想像に難くなかった。
「ま、待って下さい! お姉ちゃんがそんなことするはずが―――!」
私の言葉など、多勢に無勢だ。
「やっぱり魔族なんて信用ならなかったんだ」
「冒険者なんてのも嘘じゃないのか」
「余所者! 覚悟しろ!!」
気がついた時には沢山の村人たちに囲まれていた。
ジリジリと後ろに下がりながらも私は弁明をする。
「ち、違います! 何かの間違いなんです!」
昨日まで穏やかな村だった。
殺気立った今の状況は何かがおかしい。
この村における重大な逆鱗に触れたのだ。禁足地に赴いていってしまった姉のせいで。
ただの掟破りでこうまで非難されるだろうか。姉の睨んだとおり、この村には何かある。
聞く耳を持つわけがない彼らに訴えても仕方がない。
それよりも、早く姉の元へ行かなくては。
私は開けていた口を閉じる。
覚悟を決めて押し通ろうとした時だった。
ハオが一人で前に進み出て、私に告げる。
「あの人は、ショウフウ様の怒りをかったよ」
どよめく民衆をよそに私は笛を握る手に力を込めた。
男の子の眉間に血管が浮かび上がる。子どもの目つきとはかけ離れた鋭い眼光。
宿る信念の強さに心が震えた。断固たる覚悟、若さという切っ先の尖った得物。
私たちは既に、その渦中にいたのだ。死線の数々を乗り越えたからこそ分かる戦慄。
そして、私は耳を覆いたくなるほどの怒声を聞く。
怯んだ私は変容していく彼らを目撃した。
村人たちが雄叫びをあげ始めると、むき出しの犬歯が伸びきって肉食獣のそれと相成る。
引き攣らせた筋肉に身を震わせて、肥大化した身体を支えるために手足を地につけた。
獣人化だ。
私は目を張って後ずさった。
肉体を獣の姿に変えて生物の基本構造を捻じ曲げる。生物としての恒常性を失う代わりに得た別の進化。変身を遂げた彼らは毛皮を纏った猿に近い。両手は長く背が丸まり不格好な体つき。
いや、体の特徴などどうでもいい。
問題は何故彼らがここに居るのかということだ。
「あなたたちも……魔族なの……?」
私が問うたのは疑うまでもなく、獣人族が自分たちと同じ魔族だったからだ。
だが魔族がヒト族の領域に、ましてやこんな大陸の中央部に集落を作っているだなんて。
獣と化した村人たちは言う。
「貴様ら魔族などと一緒にするな! 我々はショウフウ様の寵愛を受けし神の使い……!」
伸びた牙から雫がたれる。嬉々として喉を鳴らす音が不気味だった。
「我らの誇りを汚すだけでは飽き足らず、ショウフウ様を侮辱するなどと……!!」
ビリビリと空気を揺るがす獣たちの叫び。その一人一人から得体の知れない魔力を感じた。
獣人族は紛うことなき魔族の一種だ。
ローザイから遠いこの地に昔から土着していたのか?
そして彼らが崇めるショウフウ様とは。
唸り声の中で一際目立つ声がする。彼の声だ。
「ショウフウ様の怒りは我らの怒り。生きてここから出られると思うな」
私は襲いかかる彼らの背後、ハオの表情が薄くほくそ笑むのが見えた。
 




