第6節 守り神
獣道をかき分けて森を通り、暗い洞穴をわずかな光を頼りに抜ける。
冒険者のエルフを連れた俺たちは、ハオ先導のもと、村のはずれまで来た。
強く感じた陽の光を手で隠し、外へ出る。
眼前に大きな湖が鏡のように光を反射していた。
ここまで村の外に来たのは初めてだ。俺とメイユイは怖々と顔を見合わせる。
どこまで外のことを知っているのだろうか。
澄ました顔で前を行く友人の背中を見つめた。
恐ろしい魔物に出会うことなく俺たちを導いたあいつは、たぶん何度もここへ来たことがあるのだろう。それは何のためなのか、ここで何をしていたのか。
他のやつらは、このことを知っているのか……?
大人の連中が"掟"と称して覆っていたもの。それをこいつは軽々と乗り越えてしまった。
何を考えているか分からないいつもの顔のハオ。ともに幼少期を過ごしたはずなのに、今は遠く感じる。
「凄いわね、あなた。私に一度も剣を抜かせないなんて」
冒険者のカグヤはハオに向けて告げる。
不思議なもので、彼女は俺たちより幼く見えるのにどこか年長者の風格があった。
彼女たちのような人間以外の種族を初めて見た時、なぜだか興味を引かれる自分に驚いた。村にいるだけでは決して得られない体験、それは彼女たちのような存在なんだと知った。
繰り返し行われる年中行事と宴、舞。変わり映えしない村の日常と村民たち。それでもいいと思えていた自分と、何かを掴みたいと希求する新たな自分。
多くのしがらみを超えた遙か遠くに、カグヤたちのような冒険者がどれくらいいるのだろうか。
考え始めると、シュエの事で一杯だった俺は、何故か救われるような気持ちさえした。
後ろめたさと高揚感の間で板挟みにあっていた俺へ、光を見出したのは他でもないあいつだった。
『シュエを助けよう』
俺はその感情の狭間へ、果敢にも足を踏み出すことにした。
「元々この辺りは魔物が寄り付かないんです。……とても神聖な場所ですから」
ハオの静かな言葉がはっきりと聞こえるほど、湖の周りはしんとしていた。
虫や鳥、獣の鳴き声が聞こえない凪いだ時間。
無機質さを凝縮したような場所。
風の音さえ聞こえない湖のほとりには、俺たちの存在が際立っていた。
水面には揺らぎ一つ現れていない。周りの景色が上下逆さまに描かれる。
紅葉の始まりつつある深い森の色は、鮮やかな移り変わりを今か今かと待ち構えていた。
これが、ハオの見せたかったもの。
あいつは憂いた瞳に湖を映して告げる。
「綺麗ですよね。とても心が落ち着いて、気分がいい」
その絶景に囚われてしまったかのように、ハオは顔を動かさなくなってしまった。
だがそれは俺たちも同じだった。
神秘的な力が、見る者を魅了する。
あの口うるさいメイユイでさえ沈黙を保ったまま、惚れ惚れした表情でその美しさを讃えていた。
彼女はシュエの一番の親友だった。
あのシュエと気が合うなんて昔は驚いたものだが、彼女はそれでもシュエの傍にいた。
カグヤが口を開く。
「……カノンにも見せてあげたかったわ」
言いながら彼女は腕を組んで湖に近付く。
それを見送りながらハオは告げた。
「ええ、是非見せてあげて下さい。村の外の人たちまで縛る掟はありませんから」
たしかに俺たち村民はここへ来ることを禁じられていたが、村の外のよそ者まで縛る法はない。
村の長たちは嫌がるかもしれないが、場所を知った以上物理的に止めることは困難だろう。
そうまでしてハオは長たちに嫌がらせをしたいのか。
俺にはその意図が全く掴めずにいた。
村の祭事や政を取り仕切るのは寄り合いや村長だ。代々続くその家系は村を守り未来へ導いていく。
遥か昔にこの村を襲った災い。それを退けたとされる救世主の子孫。
そう聞かされて育ったにも関わらず、こいつら兄妹がそんな威光を背負ってるようには見えなかった。
なんの犠牲もなしに平和を謳歌することができる。
そう信じていた自分が、そら恐ろしい。
俺たちの見せられていたものとはなんだったのだろう。
収穫祭の盛り上がりが記憶の中で蘇る。
あの時から、全てが変わってしまった。これまでの自分と、これからの自分。
帳尻を合わせないと歪みの中に溶けだしてしまう。
だけどそれしか方法がなかったのだ。
具体的な話は聞いていない。ただこの場所に来れば分かると言われていた。
徐々に高くなる日の下で、最初に気が付いたのはカグヤだった。
あれだけ穏やかだった水面に波紋が広がっていく。
それは音もなく自然すぎて、俺は気付くのが遅れた。
爆音。
水の柱が俺たちの何倍にも膨らんだ。
撒き散らされた水圧が全員を後ろへ押し流す。激流に飲まれ上下もわからないまま、荒れ狂う水中に身を埋めるしかなかった。
メイユイ、ハオ……!
呼吸ができずもがく俺は、二人のことを考えながら朦朧とする意識を手放した。
■■◇■■
聞いていた姿とあまりに酷似していた。
お父さんが言っていたことは本当だったんだ。
湖から吹き上がった水が頭上から雨のように降る。水面に浮かぶ彼女に不思議と恐ろしさは感じなかった。
彼女、と呼んではいるが性別があるかは不明だ。
髪の長い女性、そう形容する他なかった。
彼女は両手を軽く広げてこちらをじっと見ている。その姿に私は生まれて初めて畏怖という言葉を覚えた。
「下がりなさい!」
高出力の水圧が私たちに向けて放たれる。
体ごと腕でかかえられた私はカグヤの声を聞いた。
湖から離れた木の陰まで移動させられて、ようやくカグヤに助けられたことを知る。
地上に溢れていた湖の水が引くと、ぐったりと倒れたカイとハオの姿が目に入る。
事の重大さが今になって体の芯を焦がし始め、チリチリとした緊張感が肌の上を這いずった。
「メイユイ! 私があれを引きつける! その隙に二人を安全な所へ連れて行きなさい!!」
叫ぶと同時にカグヤは抜刀し、彼女の撃ち出す高圧水を弾き返す。
ただの剣やただの人間にあの衝撃は受け止められない。
冒険者というのは皆あれほどまでに強靭なのだろうか。
人の肉体と獣の肉体を併せ持った我らが守り神。ショウフウ様と呼ばれた神は、カグヤを睨みつける。
その矛先が交差した瞬間、二つの影が激突した。
止まった空間だった湖はその衝撃で大きく揺れ動く。
湖の水が遅れて反応し、激しくのたうち回る。飛沫でさえ弓矢のような速度で弾け飛んでいった。
二人の体を引きずりながら後退していくが、凄まじい衝撃と重い振動が体を揺さぶる。
古く錆び付いていた歴史が遂に動き出した。
堰き止められていた水が解き放たれたように、もう元には戻らない。
ショウフウ様を信じない村人たちはなんと言うだろう。
メイユイの脳裏に一抹の不安が過った。
カイの重たい体を引きずりながら、自分自身の甘い考えを頭から締め出す。
……メイユイ、しっかりしろ。
シュエを助けるためにはこの方法しかないんだ。盲目に牧歌を信じ続ける、それがシュエの望みだ。
その狂信的な平和を、汚させはしない。
水浸しになった二人の体に触れる。
心臓の鼓動が脈打ち、満ち満ちる感覚が全身に広がった。
浮き出た血管の筋張った手の甲が小刻みに震える。
シュエ、待っててね。
高圧の水噴射が木々をなぎ倒していく。
その轟く音の発生源からメイユイは背を向けた。
 




