第39節 下克上
ひたひたと、歩く足跡が聞こえそうなほど、朧気な輪郭を象った動く影が近い。
まるで魔力を感じず、正体が掴めないその姿。
後ろを行くクィーラとドーラは固唾を呑む。
実験棟の地下室に通じる階段を下っていく。
二人は動く影に連れられ、倉庫の前まで来た。
ここまで来ればどこを目指しているかは想像に難くない。
目の前の重たい扉を開ける。
二日前に訪れた隠し部屋への道。
無遠慮に立ち入る動く影に、クィーラは困惑していた。
何故、動く影はこの場所を知っているのか。
どうして、私たちはもう一度ここへ導かれたのか。
頭痛の止まない頭を回転させ、鈍痛を加速させた。
何物も看過されない謎が、漠然と頭をもたげる。
書簡と書簡の隙間、肩まで入らない細い暗がり。影は臆することなくその中へと差し込まれていった。
ドーラが後を追うように隙間へ手を沿わせる。彼女の驚いた顔は、以前の私のようだった。
魔力を流し込むと、室内が一瞬暗転する。
地響きとピリついた魔力が凱旋し、空気を割った。
大きな倉庫を揺らし壁や床を変形させる。
書簡が激しい音と共に裂け、再び隠し通路が現れた。
クィーラはこの妙な間に、違和感を覚える。
魔法陣の起動の仕方は同じだったが、別の魔法のように思えた。
ぽっかりと空いた通路の先で揺らめいた影が、私たち二人が来るのを待っていた。
ドーラが険しい表情を作る。彼女も同様に気が付いている。
―――何かが、おかしい。
「お嬢様、お気をつけ下さい。前とは違う気配を感じます」
鉛の溶液を垂らしたような廊下が口をあける。
クィーラは用心深く周囲を窺うも、それが意味を成すか分からなかった。
澱みを含んだ動く影は奥の闇へと消える。
精神を蝕むような不穏さが、来るものを拒んだ。
竦む足を押し上げ、二人は並んで歩く。
道は真っ直ぐだが、クィーラは足取りをふらつかせてしまう。
しっかりと支えられなければ、揺らいで見える廊下を歩くことさえできない。
たどたどしい足音を響かせながら、二人は動く影に続いて先へと進んでいった。
通路に流れる空気の流れが少し変わる。
ドーラが明かりをかざすと、目の前に壁が見えた。
「行き止まり……」
呟くドーラの声に、クィーラは告げる。
「いいえ、まだ先があります」
石レンガの積み上がった壁。
その一つ一つの溝に古い魔法陣の痕跡を見つけた。
触れると同時に溝へ沿うように光が走る。
音もなく壁が消え去った。幻でも見ているかのようだ。
霧のように消えた壁の先、部屋のような空間が広がる。頼りない小さな灯りが、ぽつんと置かれた机の上に乗せられていた。
二人が部屋に足を踏み入れると、嫌な匂いが鼻腔を刺す。充満する血と黴の臭さに、お互い顔を顰める。
クィーラは思わず頭をおさえて壁に手をついた。嫌悪感が脳を揺さぶる。
動く影の姿はいつのまにか消えていた。
代わりに、その部屋の奥に人影が見える。実在する輪郭は、曖昧な影ではなく人間のものだ。
感じたことのない不愉快な感覚が全身を浸し、力が抜けてしまう。
立ち上がり方が分からずその場に膝をついて壁に身を寄せる。
立つことさえままならないクィーラを背後に、ドーラは自身の杖を正面に向けて構えた。
静寂の拍。
机上の儚げな灯火が小さくなる。
ドーラは杖に紐づく明かりの魔法を、闇に負けないよう強めた。
人影は薄く笑いながら歩み寄ってくる。奥から覗く二つの目玉。
声が聞こえた。
「……どうやってここへ入ったんだ?」
軽い金属がぶつかる音。ぶら下がった装飾品が少ない光源を反射した。
自分の膝を叩いたクィーラは懸命に力を振り絞る。だが体の筋肉は言うことをきかない。石レンガの溝にかける指でさえ震えて定まらない。
苛立ちと吐き気でクィーラは一杯だった。
「あなたこそ! どうしてこんなところに……!」
ドーラは返事もしないまま声高に叫んだ。
対する人影は闇に紛れて笑みを零す。
明かりの届かなかった暗闇に火の粉が舞う。炎が煌めき部屋全体が明るく照らされた。
「そりゃ……学院の秘密を守るために決まってんだろ!」
最奥で不気味な笑みを浮かべていたのは、炎帝ファルケだった。
照らされて部屋の全容が見える。
拘束具や安置用の寝台、怪しげな魔法陣と魔導書の数々。
ここが禁忌の実験室でなければ何だというのだ。
ドーラは充満する肉の焦げた匂いに目を細めた。
不潔さと邪悪さが入り混じり、目を背けたくなるような空間だった。拷問部屋と呼んでも差し支えないかもしれない。そんな怪奇な場所に、ファルケは嬉々として佇んでいた。
彼の足元には黒い布地が無造作に置かれている。
元々黒地のローブだったものが焦げて黒ずみ、大きな黒い鳥が伏せているかのように見えた。
ドーラはその姿を見つめて杖を握る手に力を込める。
痩せた体躯には見合わない大きめのローブ。見た目に似合わない饒舌な話し方。この数日、姿を現さなかった金位の学生。管理局が見つけられなかった真相が、目の前にあった。
倒れているのは沼沢のパレッタだ。
「安心しな、こいつはまだ生きてる。厄介なスキルを使うからな、魔法で閉じ込めておかねぇと……。
それよりクィーラ。お前らは何故ここに来た? 呼び出しはなかったのか?」
ファルケは焦げ臭いパレッタを一瞥し、顔を上げてクィーラを見て尋ねた。
だがまともにしゃべることができないクィーラに代わり、ドーラが口を開く。
「……何のことですか」
クィーラは玉のような汗を額に浮かべながら、荒い息を吐き出す。
その返事を聞いたファルケは愉快そうに笑った。
「なるほど。そいつはおもしれぇ……あのじいさんも一杯食わされたってわけか!」
不愉快な笑みに、ドーラは苛立って恫喝する。
「何の話をしているんですか!」
微かに聞こえた声を頭の中で繰り返す。今まで引っ掛かっていた疑問や謎を、目の前で起きていることと結びつけた。状況を整理し、一貫性のある論理へと集約していく。
クィーラは揺れる瞳を開き、ドーラの後姿を見つめた。
私は……どうしたら……。
濁る思考の内側で延々と引き伸ばされる結論への過程。
繋ぎ合わせた全てがどうしようもなく憎かった。
鈍器で殴られたような痛みが頭を襲う。
気分が悪い。意識を保つだけでやっとだった。
「ドー……ラ」
喉を絞り上げて声を出す。
こうなってしまった原因が分かった。
私は愚かだ。だから彼は何も言わなかったのだ。
ドーラが半歩下がって傍に近寄る。
壁を這うように立ち上がったクィーラは告げた。
「私……いかなくちゃ……ここを……お願い……!」
炎を映したドーラの紅い瞳が揺れ動き、ゆっくりと頷く。
その瞬間、部屋中が燃え盛るように烈火を広げた。
「逃がすわけねぇだろ」
灼熱の鎧に身を包んだファルケが、高速で猛進してきた。
ドーラは炎の魔法を唱え、ファルケに向けて放つ。
「効かねぇよ!」
炎を食らう炎がドーラを飲み込んだ。
身を守る魔法さえ焼き尽くされ、体が赤く染まる。
流れるように踏み込むファルケ。炎が左の脚部に集中する。ごうっと音を鳴らし、くるりと一回転すると、体を捻って強烈な蹴りを繰り出す。
ドーラは巧みに火を操り威力を削ぐが、生半可な防御で到底耐えられる威力ではない。
漏れ出る炎に体のあちこちを焼かれる。
初めて戦う格上の炎の魔法使いを前に、ドーラは叫んだ。
「お嬢様! 早く行ってください!!」
転びそうになりながらもクィーラは通路へ走り出した。
狂気に満ちたこの隠し部屋から一刻も早く出るために。
「逃がさねぇっつってんだろ!!」
ファルケは憤然と大声を上げ、背後を爆破させて自身の速度を上げた。
「ぐあッ!!」
重い体当たりを食らってドーラの小さな体が弾かれる。
炎帝の証に身を包んだファルケが、腕を引き拳を構えてクィーラの背後に襲いかかった。
二人が隠し部屋に入ってきた道は左右から壁が徐々に組み上がり、その出口の隙間を埋めつつあった。
息も絶え絶えに、小さくなるその隙間へクィーラは駆けた。
だがファルケの速度がそれを上回る。
「今度こそ死ね!」
咆哮するファルケがクィーラの体に一撃を与えようとした時、彼の体が足元をすくわれるように持ち上がる。
クィーラの頭上へ宙吊りにされた彼の足には、橙色の火炎鞭が絡みついていた。
勢いのまま体勢を崩したファルケは壁に叩きつけられる。
破砕した石材が彼の周りを飛び散った。
弛んだ鞭はドーラの杖から伸びていた。
「っちぃ!」
衝撃をものともせず地面に着地したファルケはすぐさま鞭を炎で焼き付くすと、クィーラを追う。
閉じかけた通路の中へクィーラは体を沈みこませる。石壁が完全に部屋の形と調和した。
ファルケの熱拳が塞がれた壁を穿つ。しかし、すでにそこには通路など存在していなかった。
がらがらと壁面が崩れ落ちるすぐ側で、腕を下げたファルケが背中越しのドーラに告げた。
「使用人を見捨てて命欲しさに逃げるなんざ、見損なったぜ……」
逃がした魚の小ささを自分に言い聞かせているのか、ファルケは心底うんざりした様子だった。
「……何をおっしゃっているのか分かりませんが……」
ドーラは頬につく煤を拭いながら続けた。
「逆ですよ。あの方は命を捨てるために走り出したのです」
立ち上がると火傷した箇所が痛んだ。
自分以外の炎で焼かれたことは初めてだった。
ファルケは軽く舌打ちをする。
彼も分かっているはずだ、クィーラの性格を。
「できれば俺の手で殺したかったんだが……まあいい。お前をすぐにでも殺せば、まだ間に合うよな?」
燃え盛る火炎の中から瞳が覗いた。
獲物を逃したことがないのだろう、かなり苛立っている。
「よくもやってくれたなドーラ。クィーラを殺した後でじっくりといたぶってやるよ。指先から焼いてけば、その済ました顔もちっとはマシになるだろ」
「私はクィーラ様の護衛です。そう易々とお嬢様に手出しできるとでも?」
向きを変えて首を鳴らすファルケと、眉一つ動かさないドーラが睨みあう。
「あ? なにイキってんだ? お前はただの給仕係だろ」
ファルケが嘲笑うかのように続ける。
「ちょっと魔法が使えるからって調子に乗んじゃねぇぞ。俺を殺したきゃあのガキでも連れてこい。あいつが本物の護衛だって分かってんだよ」
炎が囲む部屋の中でドーラの影は霞んでいた。
緋色に反射した顔を俯かせると、ドーラは鼻で笑った。
「……何を笑ってやがる!」
炎の渦が持ち上がり、ドーラを締め上げる。
怒りで叫んだファルケは彼女の声を聞いた。
「……彼が護衛? 笑わせないで下さい」
彼女は冷ややかに口角を上げるとファルケの魔法を解く。
炎によって部屋の温度は異常なまでに高まっていた。
「本来であれば私一人がお嬢様の従者だったんです。彼はただ私たちを利用してヤミレスに来ただけ……」
ドーラはつま先をファルケに向けて、真っ直ぐに前方を見据えたまま歩き出す。
突然の彼女の行動にファルケは身構える。
この俺に接近戦を挑むつもりか……?
距離はさして離れていない。何か狙いがあるはずだ。
訝しんだファルケは周囲を警戒する。
チラつく炎の中に、彼女の魔力は感じない。
この場を支配しているのは常に俺自身だ。
歩きながらドーラは告げる。
「よもやあの状態のお嬢様に勝ったことで、学院の頂点になったと思い上がっていらっしゃいますか?」
いつも無感情だった彼女の煽動が、逆に恐怖心を引き起こす。
こいつのこの自信は何なんだ。さっきから何を言っている。
ファルケは歩みを止めないドーラから一歩退く。
胸騒ぎが止まらない。
もし本当に、ドーラがクィーラの護衛だったとしたら。そんな可能性が頭を過る。
クィーラの戦闘技術は拙かった。実戦に慣れていない証拠だ。魔法使いとしての技量は高く買っていたが、戦術も組み立てられないところはまだまだ素人だった。
ファルケは迫る黒い瞳を見つめる。炎を反射するドーラの瞳は、中央に緋色を宿す。
だがこれは違う。この目は知っている。命の奪い合いをその身に刻んだ、殺戮の目。
クィーラを超え、守り傅く存在。そんな化け物が本当にいるのか。
まさか、本当にこいつは……。
「お嬢様が私をここへ残したのは、ファルケ様を足止めするためではありません」
ドーラの言葉の後、部屋を覆う炎が一瞬にして消えた。
炎帝の証ですら燃えカス同然となって、小さな火の粉が散る。
突然の出来事にファルケは狼狽した。
暗くなった室内の中で自身の体を見回す。
光源がなくなり再び部屋に暗闇が広がった。
「この腐り切った学院の闇に、終止符を打つためです」
数歩先にいるドーラの姿がぼんやりと見える。
もう一度炎帝の証を身に纏おうと魔法を唱えたが、思ったように火がつかない。
わさわさと何かが眼下を通り過ぎる。
不気味な異変の正体をファルケは探った。
記憶の中の全ての魔法を手繰り寄せる。
クィーラが似たような炎を無効化する魔法を使っていた。
だがドーラが魔法を使った兆しはどこにも見られない。
この絶望的な現象の根源を理解することができない。
魔力を込め直し、もう一度炎帝の証を唱える。
結果は同じだった。
「もう必死で足掻く必要もありませんよ。戦いは既に終わっています」
これは……なんだ……。
暗闇の中でさらに悪くなる視界。何かが空中を舞っている。ファルケは咳き込んだ。口元に広がる苦味。
まさか、こんなことが……。
太腿まで積もった"それ"に足を取られる。底無し沼のように身動きが取れなくなってしまった。
足掻くファルケの耳にドーラの声が響く。
「こんなに楽に勝てるなら私も大会に出れば良かった。……まあ、堕ちた玉座に興味はありませんが」
色のない一撃がファルケを襲う。
鈍い音とネックレスの音が重なった。
力の抜けた屈強な体は倒れ、飲み込まれていく。
ドーラは表情を失くし、倒れたパレッタの元へ向かう。
暗闇の中で、彼女は蠢く"それら"を払った。




