第30節 碑
階段を下っていく足を早めると、階下に響く音が高く連なった。硬い壁が音を強く助長して反響を大きくさせる。
研究棟の階段から地下へ降りると、小部屋が複数並んでいた。魔法に関する実験や研究に勤しむ学生の声が聞こえる。
私たちはさらにそこから下り、実験用備品が置かれている地下三階の倉庫へと足を運んだ。
魔法と縁のある薬品関連の棚や微生物の培養機器。魔物の素材やそれを材料とした装備品まで陳列する。世界に溢れる魔力という原理を操るだけが魔法ではなく、魔力の宿る万物への理解、教養も魔法学の一つだ。
薬効植物や魔物の素材を元に、新たな創造物を生成する人々。それらは一般的に薬師や錬金術師などと呼ばれている。
良い魔法使いは強い魔法を唱えるだけではない。ザルタス先生のような教授がそれらに該当するだろう。
倉庫の重い鉄扉を開けて足を踏み入れた。
内側に素材が詰め込まれた瓶が所狭しと並ぶ。
本来なら生徒の入室には教授や学院の許可証を必要とするが、金位の学位生はそれを不要とした。
今更ながら実感する実力主義的思想に胡座をかきつつ、自分たちが倉庫へ来たことが露見しないことに安堵した。
監視や追っ手はいない。数人の生徒たちが実験室にはいたが、息を潜めてやり過ごしたため、視界には入ってないだろう。
見たところ厳重な警備がある様子は皆無だった。
鉄扉の前には見張りすら立っていない。許可証などなくても誰でも入れてしまうではないか。
沈むように閉まる背後の扉を見ながらクィーラは思った。
だがそれは助けを求めることも能わないということだ。
研究棟の地下に広がる空間自体が、侵入者を捕らえる大きな牢獄のようにも思えてくる。
そこに自ら入り込むなんて失笑甚だしい行為。
いざと言う時のためにドーラには残ってもらいたかった。
だけどそんなことを彼女が承諾するはずもなく、まんまと二人で手中に収まりに来たというわけだ。
ドーラが告げる。
「お嬢様、手記にはなんと書かれていたのですか」
未完成原稿のあった部屋の中で光魔法の痕跡を見つけた。か細く消えかかった灯火のように揺らめいた魔力。あと少し遅れていたら本当に見えなくなっていたかもしれない。
そこに記載された文字は今までとはうってかわり、謎めいた遠回しな表現ではなかった。
『研究棟地下三階の倉庫、壁を調べよ』
私は手記の内容をドーラに伝えると、囲われた壁を探り始めた。
地下室は地上階と比べ温度が低く風通しもない。そのため地質による湿潤の傾向を受けやすい。場所によっては食料等の備蓄には不向きな場合もあるが、湿っぽさを感じさせないこの地下室では問題なさそうだ。
有機物の多い室内の腐敗や黴予防のため、定期的に魔法での換気が行われているのかもしれない。
ふと、気になる場所を目にした。
灯りの入らない影になった場所。棚と棚を両脇に挟んでいる小さな隙間が見えた。
私は指先を中に差し込み手を挟んだ。
壁に備え付けられた篝火から死角になった隙間は、幅も狭く奥がよく見えない。
私の手が棚の横板を抜けると、壁に突き当たった。
伸ばした指の先から石壁とは違う触感が伝わってくる。
感じる、魔法の気配。格納された他の研究備品とは違う。異質で高度に構築された結界魔法の類い。
触れなければ分からない。触れたとしても、認識していなければそれと気付けないかもしれない。
一息に魔力を流し込んだ。
壁を伝って定められた形に魔力が広がる。
軽い振動が足元を揺らし、ドーラが傍に駆け寄ってきた。
壁の松明が震えて、二人の影が踊った。
石畳が擦れる音と同時に、棚が奥に移動し左右へと別れる。
そのまま横へ滑り続けて隣の棚の裏に隠れた。
暗く、大きな口をぽっかりと開けて、私たちの正面に新たな通路が現れる。
ドーラは腰に巻くホルスターのベルトに触れた。肘から手首くらいの長さがある細い杖を抜き出す。私は錫杖を召喚し、明かりをその先に灯した。
通路のその先からは何も聞こえてこない。床や壁、天井の造りが倉庫とは全く違う。時代も空間も切り離された別の場所から持ってきたみたいだ。
私を先頭にして暗闇の内部へと入った。
長く続く通路は一本道で、道幅は広くない。
「お嬢様……これは……」
後ろからドーラが声をかけた。
「こんな魔力、感じたことがありませんね……」
後ろを振り返って返事をする。
緊張からか、いつにも増してドーラの表情は固い。
そこらを漂う魔力は邪悪さこそないものの、地上に比べて濃度が異様に濃い。
重苦しい棺の中にいるような圧迫感と、神殿にいるような静謐さが混合している。
昔の画家が手がけた絵画の中には神話を描いたものがある。異質性と神々しさが相まった美しい作品の数々。まるでその絵画に入り込んだような錯覚に陥ってしまう。この世のものとは思えない非現実性に包まれる。
これほどまでに重厚な隠し部屋を作り出せる人物とは誰なのだろうか。敵は想像していたよりも遥か高みにいるのかもしれない。
荘厳な雰囲気があたりに充満している。だが既に引き返すことはできなかった。
せっつかれるように二人は歩みを進めると、ほどなくして少し広めの空間にまろびでた。
四角く形取られ壁や天井は先の通路と同じ石材。
中央には台座があり、それ以外は殺風景な広間だった。
「ここは、何なのでしょう……」
「……分かりません……罠はないみたいですが、十分気を付けてください」
冷たく重い空気が二人を包み込んでいる。
広間の中央に位置する台座を覗き込む。
隠し部屋へ導かれた理由は、ここにあるのだろうか。
台座は正方形の面を上に向け、腰の高さくらいまである。その上には一枚の石盤が置かれていた。濃い藍色、磨かれた表面、まるで調度品のような風格。
よく見るとその石盤には文字が彫られていた。
「古い文字……古文書でしょうか……」
私は石盤に触れながら告げる。
ドーラもそれを見て声を出した。
「そのようですが、全く風化した様子がありません。つい今しがた作られたようにも見えます」
この空間に満ちる魔力によるものだろうか、床や石盤には塵や埃一つ見当たらない。
明かりがあるわけではないのに広間の隅々まで見渡せ、空間全体が淡く光っているようだった。
二人は石盤を見つめる。
「汝………光の…………導きを……信じよ…………」
古文書の文字は教養程度だが身につけていた。
魔導書を読み解くための術でもあるが、小さい頃に貴族の嗜みとして古い戯曲も覚え込まされた。
それよりもっと前の時代。古代に遡ると、その難解さは筆舌に尽くし難い。
今では研究者か物好きな魔法使いが覚える程度だったが、私はその例外を一人だけ知っている。
彼は古代の魔導書を読み解く方法が分かっていた。あの歳で古代文字さえ頭に入っているというのだろうか。なんというか、もはや変態の域なのかもしれない。
余計なことを頭から追い出しながら、古文書の読めないドーラに代わって石盤に書かれている続きの文字を読んでいく。
「…………失われし…………記憶………いずれ…………還る………………
………風と…………炎…………の…………魔術師たち…………?」
私は絶句する。驚愕に身を竦ませ、体を硬直させた。
なぜ、どうして。
「お嬢様?」
不安そうに見つめるドーラの瞳。
この隠し部屋を作った人物は誰なのか。ここに導かれたのは何のためなのか。
石盤に書かれた文字はこうだ。
『汝光の導きを信じよ、失われし記憶はいずれ還る。風と炎の魔術師たち、クィーラとドーラよ』
ドーラは言葉を失い手を口に添える。
混乱して状況の整理に理解が追いつかない。
ここに二人が訪れることを隠し部屋の主は知っていたのだ。
禁忌を行う学院の人間か、あるいは……。
「こんな所で何をしている」
突然響いた声に、私たちは後ろを振り返った。
全身から鳥肌が立ち、悪寒が走る。
長い金髪と古めかしい三角帽子。長身で切れ長の瞳に、桃色のピアスをつけた女性。沼沢のパレッタを捜索していた張本人。
あろうことか、こんなところで最も出会いたくなかった、理事長マーシャ。
私たちを追跡してきていたのだろうか。この濃い魔力の影響からか気配は全くしなかった。
半歩身を引いて、杖の先をマーシャへと向けた。
「それは、敵意ありととっても良いのか?」
マーシャは恫喝するように問う。
「あなたこそ、自分が何をしているか分かっているのですか!」
ここで狼狽えるわけにはいかなかった。
部屋の魔力が重くのしかかり上手く探知が働かない。
数的有利は取れているはずなのに、彼女の不気味な存在感が不安を煽る。
「学院の中には立ち入ってはいけない場所がいくつもあるわ。それをお前たちに教えることの何が悪いというの?
……いや、そんなことよりも、ここへはどうやって入ったのかしら……」
マーシャは表情を変えず、詰めるように言う。
彼女は私の実力を知っているはず。なのにこうやって姿を現したのはなにか策があるからだ。
私は彼女の動きを警戒していた。
「お嬢様……!」
不意にドーラから声をかけられ手を止める。
ドーラの愕然とした表情が目に映った。
彼女の視線の先、私たちの足元をちらと見る。
石畳が広がる床には、いつの間にか数枚の紙が落ちていた。
その紙には見覚えがある。マギが始まる直前にパレッタが持っていた物だ。
どうしてこんな所に、いつから……!?
「面白いものを、持っているのね」
耳元でマーシャの声が囁かれた。
突然のことに二人は後ろに跳んで距離をとる。
この場所の所為もあるが、彼女の気配の消し方は上手い。一瞬でも気を取られたら見失ってしまいそうだ。
杖を構えるのと同時に視線をマーシャに向ける。
しかし、警戒するには既に遅すぎた。マーシャはもう私たちに魔法をかけていたのだ。
「ぐっ……ドーラ!」
私は片膝をつきながらドーラの名前を呼んだ。視界が回る。うまく立てない。
足元に散らばる紙を魔法で拾い上げると、マーシャは呟いた。
「学院の秘密を知ったのね……」
魔力を練り上げなければいけないのに、倦怠感が渦巻いて思考がまとまらない。
長い金髪から覗く鋭い双眸は、私たちを掴んで離さない。学院の秘密を知ったパレッタ同様、口封じされてしまう。この危機を脱しなければ、助けを呼ぶことさえできない。
くらくらする頭の後ろで、熱を感じた。
振り返ると、台座に掴まったまま杖を向けるドーラの姿が見えた。
杖の先には燃え盛る火炎を作り出している。
「させない……」
彼女が低く呟く。
魔力制御が安定しないのか、火球の大きさが揺れ動く。
こんな状態で魔法なんか使えるはずがない。
私はきつくマーシャを睨みつけた。
だが、彼女は私たちに攻撃する姿勢を見せるどころか、束ねた紙を持ったまま後ろを見せた。
「待ってください! あなたたちの目的は……!」
私はめまいに負けないよう力いっぱい叫ぶ。
彼女は振り返ることなく告げた。
「……死にたくなければマギの決勝まで進め」
「!?」
思いがけない言葉に私は呆気にとられた。
「お前たちにはまだ、利用価値がある……」
言い放たれた言葉の意味を追っている内に、紫の螺旋がマーシャの足元に煌めいた。
酩酊の魔法が二人の意識を混濁とさせていた。
錫杖を地につけて寄りかかり、体勢を保つが振り払えない。
この、魔法の残滓……!
片膝をついて気をしっかり張る。頭を振り回し前方を睨みつけた。
だが、もうマーシャの姿は消えており、目前には空虚な闇が広がるだけだった。
体感でそれほど時間が経ったわけではないが、重い幻惑魔法をかけられてすべてがあやふあやだ。
私は後悔とも憤怒ともつかない感情に身を焦がし、深く自身の犯した過ちを嘆いた。
パレッタの残した学院の秘密を失ってしまった。どうしてこんな場所にあんなものが。
それだけではない。私たちが学院の秘密を知っていることさえ、マーシャに露見したのだ。
ここがどれだけ危険な場所なのか分かっていたはずなのに。隠し部屋を訪れれば何かを得られる、そう信じてここまで進んだはずなのに。
「……気が付きませんでしたか……お嬢様」
ドーラが私に声をかけた。
静かな空間の中に囚われてしまった私は、彼女が告げた言葉にだけ耳を傾ける。
「さっき、マーシャが魔法を唱えた時のことです」
淡い光にそっと触れるように、ぼんやりとした彼女の顔を見る。
そうだ、あれは……、あの感覚は……。
中央に鎮座した無機質な台座が、呆然とする私たちをじっと見ているようだった。




