第12節 色は匂えど見えざるを
マーシャは報告書を見つめる。
研究棟地下からの暴走魔法による凍結。入口の大規模破壊と、謎の煙魔法の使用。幸いにも怪我人が出なかったのは、地下室の設備点検に伴う人払いが行われていたからだ。
魔力のコントロールができず、被害を拡大させた女学生の従者。
学院理事長のマーシャは報告書を読みあげた後、正面の椅子に座った人物へと声を掛ける。
白い顎髭を垂らし薄い目をした老人。厳粛な出で立ちで、厚いローブを着込んでいる。
「学院長、これは私が直接試験させた者です。申し訳ありません。私からも強く言っておきます」
学院長と呼ばれた老人はにこやかに笑う。
「いいじゃないの、元気が良くて。儂はそういう子たち、好きじゃよ」
厳かな立場と格好をしているせいで誤解されやすいが、学院長はかなり砕けた性格をしていた。多忙を極める学院長の業務を抜け出しては、教室に姿を現し生徒や教授の様子を見て回っている。時には会話に混ざり、時には講義の手伝いもする。好々爺として学院では有名であった。
マーシャは、学院長としての示しが付かないので止めるよう説得しているが、中々言うことを聞いてくれない。
肩書きこそ彼女は理事長で、学院の決め事はマーシャの管轄であったが、実際の権限を有するのは学院長の方だった。
教育者としての学院長の経歴もさることながら、歳を取らない柔軟な発想力がその人気と結びついていた。新しい制度を打ち出しては若い世代からの支持を得て、彼の発言力は学院そのものとなっている。
軍部にも太いパイプがあるらしく、政治的な背後もがっちりと固められている。中央都市魔法学院が創立されて長く歴史を作ったが、彼ほど優秀な学院長はいないそうだ。
愛嬌のある学院の大黒柱が、名実ともにその名を他の国々に知らしめていた。
だが不思議なことに、誰も学院長の齢を知る者はいない。一体いつから生きているのか、どこで生まれ育ったのか。
聞いてもはぐらかして答えてくれない彼の出自は、学生の冗談半分から都市伝説となりつつあった。現実と噂の狭間を楽しませる、学院長なりの気配りなのかもしれない。
「マーシャ君、今年も宣伝の方を頼むよ」
学院長が事件のことよりも乗り気で話しているのは、今年も開催される魔法学院闘技大会のことである。
「去年よりももっと盛り上がるマギにしちゃおう!」
学院の生徒だけでなく冒険者や各国の精鋭たち、魔法の腕に自信がある者が大会という名のもとに集い、決闘の名のもとにその頂点を決める大会。
学院長発案の元、二十年ほど続いている大きな催し物だ。
選手になるための応募自体は自由だが、生徒は金位以上、冒険者は三級以上とハードルは高い。
毎年の参加者は二十名程度だが、そのレベルの高さから観客席は満員だ。
優勝すれば、多額の賞金と名誉が送られる。中央都市国家ロキでの知名度は恣だ。
そんな年一回行われる魔法学院闘技大会のことを皆マギと呼んでいた。
「広報の件、承知しました」
マーシャは短く言い、学院長室を後にしようとしたが、後ろから再び学院長に声を掛けられる。
楽しそうな雰囲気のまま、学院長は言う。
「そういえば、最近面白い話を聞くことがあったんじゃ。……マーシャ君は、学院の七不思議を知っておるか?」
不自然にならないよう気を遣いつつ、マーシャは振り向いて返事をする。
「……いえ、そのような話があることは存じ上げておりません」
もうすぐ日が暮れる。
顎髭を触りながら学院長は穏やかに告げた。
「興味深いのう。魔法は確かに不思議な業じゃが、それを究明するのがこの場所じゃと思うておる」
マーシャは眉を寄せてただ立ち尽くした。
含ませるような言い方に怪訝な顔をする。
「はあ、というと……?」
窓に視線を移した学院長は続ける。
「教室棟の妖精や、研究棟の隠し部屋。演習場には怨霊が現れるようじゃのう」
マーシャに向き直り、声色を変えずに学院長は告げる。
「そして儂、学院長の存在そのものが七不思議の一つらしいの……」
彼は口調こそ、子どものようにはしゃいで楽しそうに見える。だが、その眼光は子どものそれではなかった。
「……昔からたしかに七不思議はあったが、最近になってその内容が変わりつつある」
マーシャは鳥肌が立った。右手で反対の肘を抱く。
学院長は窓から目を離し、マーシャを見つめて続ける。
「ここは出る者と入る者が非常に多いからの。コロコロと変わってしまうのも仕方ないかもしれぬ」
マーシャはわけが分からないという様子で返事をする。
「そう、ですか……」
学院長は腕を組んだ姿勢を作る。
「確かマーシャ君は北方の出身だったかの」
意図が分からず眼鏡を上げてマーシャは聞き返した。
「そうですが、今のと何か関係が?」
狼狽えるな、平静を保て。マーシャは奥歯を噛む。
表情を変えた学院長は笑いながら言う。
「いやいや、何か心当たりでもあるかと思っての」
マーシャは再び眼鏡を片手で引き上げると告げた。
「私は七不思議についてはあまり。興味もないので」
学院長は悲しい顔をする。
「寂しいのぅ」
「では、失礼します」
マーシャは一礼し退室する。
扉を閉めて息苦しさを紛らわそうと深呼吸をした。
静かな廊下が心を落ち着かせてくれる。
真っ直ぐに歩き出すと次第に呼吸が楽になった。
学院長は、どこまで知っているのか。
階下から忙しない事務員の声が聞こえてきた。
私は、どこまで疑われているのか。
理事室へ戻る道中、局員に呼び止められ、適当に指示を飛ばす。
それでも、私はやり遂げなければならない。
開いた窓から月の光が目に入る。
そのために私は待ったのだ、あの子のために。
月光の眩しさの先に、あの笑顔が見えた気がした。
これ以上の機会は、もう訪れない。
理事長室に戻った私は杖を掴む。
誰にも知られるわけにはいかない、私の願い。
机の上に散らばった資料の中に、クィーラ=クルフの報告書が混ざっていた。
悲しさと悔しさが込み上がって怒りに変わる。
マーシャはその名前を睨みつけた。
神童なんて、存在するべきじゃない。
静かに魔法を唱えると、同時に拳を握りしめた。
彼女の足元から紫色の細い線が伸びる。
線は地面を這い進み、壁を伝って窓の外へ飛び出した。
月下の夜道はそれでも暗く、線の行方は途絶えていった。




