第1節 ルールエと兄妹
朝日が窓から差し込む。カーテンから漏れた光が線を作り木造の壁に伸びる。湿った木の匂いと少し臭うシーツ。疲れの取れない体を無理やり起こし伸びをすると、身支度を整える。馬車にでも乗れれば良かったのだが、生憎そんな金はない。久々のベッドと屋根が、こんなに有難いものだとは思わなかった。
教会を出発し半月ほど歩いて到着した街は、ルールエという交易を中心とした都市だ。農業に適したこの一帯を取り仕切るクルフ子爵の領地。特産品の多いこの地は外からの商人も沢山訪れる。交易都市としては非常に活気が溢れ、また市井の人々も裕福で活力があった。
昨晩泊まった安宿のカウンターを抜け、外へ出る。少し寝坊してしまったようだ。日は登り始め人々の往来が多くなっていた。路地を抜けて大通りまで進むと、賑やかな街並みが僕の目に飛び込んでくる。色とりどりの露天商、品物、埋め尽くす人。活気のある呼び声、笑い声、驚き、口ずさむ歌。右に向けた首を左に向け、また右に戻す。目がいくらあっても足りないくらいだ。
あれは専門的な工具。あっちは、新品の調理器具かな。珍しい薬草の一種に……あれは魔導書! 歩けば歩くだけ世界が広がり、本の中の文字でしかなかった情報が色をつけていく。ここ数日で溜まった疲れを忘れてしまうほどに、僕の胸は高鳴っていた。初めて来た大きな街の喧騒に、無知な心は浮き足立つようだった。何かの祭事や式典ですらないただの日に、これだけの人が集まるなんて信じられない。
道を尋ねて通りを抜け、人の隙間を渡り歩いた僕は、ずっしりと構えた大きな建物の前まで来た。長旅に備えて日銭を稼がなくてはならない。なんの技術も持たない小僧が金を稼ぐとすれば、丁稚や小間使い、靴磨きなどが主流だろう。だがもとよりその選択肢は考えられなかった。僕は運良く、魔法が使えたからだ。
重厚な装備を纏った大男たちが、出入口から出てきた。
「ここらはまだつえぇ魔物はでてねぇようだな」
「東にサンドワームの群れが出たようだしそちらへ向かうか」
「おめえ砂原は懲りたって前に言ってなかったか?」
僕は笑い声を発する彼らを後目に、中へと入っていく。玄関口はなく、入口からすぐに大広間へと繋がっていた。真ん中には大きなテーブル、左右均等に柱が二本ずつ並び、天井高く梁を支えている。内装は酒場に似た雰囲気だが、奥に受付が置かれ右手には横長の板が壁に打ち付けられていた。板の前には大勢の人が立ち並び、板に貼られた様々な紙を眺めている。
僕は懐にしまった大事な羊皮紙があることを確認し、キョロキョロと辺りを見渡した。正直、初めてのことばかりで緊張しているのだが、ここでまごついていても始まらない。意を決したようにギュッと拳を握りしめて、奥の受付へと足を踏み出そうとした時だった。
どん、と背中を軽く押される。
「―――あっ、すみません!」
僕が振り返ると、一人の女性が謝っているのが見えた。
白いローブを羽織り、身の丈ほどの杖を持っている。色素の薄い長い金髪を綺麗に編み込み、青いバレッタで一纏めにした清楚な髪型。着用するローブには所々青い刺繍が装飾され、邪魔をしない程度に金の糸も織り込まれている。華々しくも気品があり、高価なものだと察しがついた。杖は錫杖で頂点は弧を描き輪を作る。そこへ金属の輪を数本通し、高い音を鳴らしていた。どうやらこの女性がぶつかってきたようだ。
「いえ、こちらこそ、お邪魔になっていたら、すいません」
立ち往生していただろうか、僕は謝罪してみせた。
それに引き換え、こっちはなんて酷い恰好なのだろう。灰色のフード付きのローブは端の糸が解れだし、ところどころ破けている。泥や毛玉やゴミが乾いてこびり付き、はたけば砂が舞うだろう。もともと上等な代物ではないとはいえ、あまりにも酷くないか。下手に出て僕は尋ねる。
「よ、汚したりしてませんか?」
果たして取り繕って間に合うだろうか。ぶつかってきたのは向こうだが、高価なものになんてこと! とふっかけられでもしたら、たまったものではない。面倒ごとはないに越した方がいいに決まっている。
歳の頃は僕より少し上だろうか、成人間近に見える少女は告げた。
「いいえ、こちらも大丈夫ですよ。………ご心配頂きありがとうございます」
ああ、良かった。
一礼する彼女に僕は強く安堵した。位高い衣服の人間は同じくらい自尊心も高いと本で読んだが、例外は何にでもあるようだ。幼い自分から比べれば、年上の人間に大変失礼だが若くして広い度量のある人物なのだろう。ここに何の用かは存じ得ないが、この特異な人格者の方にご助力頂こう。
「そうですか、よかった。……あの、冒険者の方でしょうか?」
僕の問いかけに、彼女は驚き言い淀んだ。
「……あー、えっと、冒険者ではないのですが……」
こほん、と咳払いする。
「私は、クィーラと申します。あなたは?」
クィーラ……どこかで聞いたことのある名前だ。
僕は、と名乗ろうとした、その時だった。
「クィーラ! どうしたんだ、こんなところで」
受付の奥、野太い声が僕を止める。
僕とクィーラは声のする方に顔を向けた。
奥のカウンターから歩み寄ってきたのは、先ほどの大男たちよりもひと回り大きい、超、大男。ぴちっとした肌につく服から、あふれんばかりの筋肉質な体つき。球状の鉄兜をかぶり、剛毅な出で立ちをしている。特筆すべきは背中に装備した巨大な円盾だ。僕の頭から腰くらいまである。
二人は知り合いなのだろうか。お互いに向かい合って話しを始めた。
「クィーラ、私に何か急ぎの用事か?」
「お兄様、私やっぱり……!」
「だめだ! この間話し合ったばかりじゃないか!」
「どうしてですか! 私、納得しておりません!!」
クィーラはこの超大男の妹らしい。どうやら兄妹間で結論付いてない問題がある様子だ。兄は先ほどからこめかみを抑えてうんざりし、クィーラは身振り手振りで必死に説得している。教会でも似たようなことがあったなと親近感を覚えたが、話し方から察するにどこかの貴族のような感じもする。
………本当に彼女の服を汚さなくて良かった。僕は改めて心底安堵する。
散々押し問答を繰り広げ、置いてけぼりを食らっていたところ、超大男の兄と目が合った。
「―――ところで、この少年は誰だ?」
兄が妹に尋ねた。話を遮られて兄を睨むクィーラ。
不満を目で表しつつも、彼女は紹介してくれようとする。
「こちらは先ほどここでお会いしました、えっと―――」
「―――すいません、急いでまして。今日、冒険者登録をしようと思って………」
申し訳ないが口を挟ませてもらう。
これ以上この兄妹と絡んでいても仕方がない。さっさと要件を済ませてしまおう。
兄は、君がか? とでも言いたげな驚いた目をした後に、
「あぁ、それなら受付に伝えてくれ。案内してくれる。クィーラ、奥で話そう」
そう言って妹を引っ張りカウンターの奥へと向かう。クィーラは何かあるのだろうか、こちらを一瞬振り返った。僕はそれを黙って見送る。二人はどうやらここの関係者だったようだ。
勧められたまま、受付に足を運ぶ。少し、カウンターの台が高い。
「あの、登録をしたいのですが」
「あら、かわいいぼうやね。職業斡旋なら向かいの建物よ」
若い受付嬢が嗜めるように返事をした。
長い髪の毛が波うち、綺麗に輝いている。化粧もしているが派手ではなく小奇麗と言って差し支えないだろう。
「いえ、そうではなく、冒険者の登録をしたいんです」
口元が隠れてしまう。少し背伸びをしながら訂正をする。
「え、 冒険者登録? ぼうやが? うーんと……、身分が確認できるものはあるかしら」
尋ねられた僕は、懐から丸めた羊皮紙を取り出した。ジジ牧師が作成した、身分を表すもの、証明する為のものだ。年齢や名前、出自などが記載され、独自の魔法と魔法印が押されている。登録された魔法印は二つと存在せず、判定魔法により身分の証明ができる。尤も、偽造防止の為、魔法の効果は短く、半月ほどで判定されなくなる。
「………確認できました。あの教会から来たのね。遠いところ、大変だったでしょ?」
なんとか間に合ったみたいでまずは一安心。効力が切れると判定に時間がかかると本で読んだので、何日かは露頭を彷徨う覚悟はしていたが。
「早速なんですが、割のいい依頼は………」
「まあ、待ちなさい。一応受付として、いくつか説明はしないといけないのよ。辛抱してね」
受付嬢は控えの職員と一言二言話し、丁寧に施設を案内してくれた。
この大陸には、点在するいくつかの団体が存在する。それは国や連合体といった政治単位のまとまりではなく、それらを越えた独自に運営される組織のことを指す。宗教団体や傭兵集団、商会など、ある特定の目的において組織されたものだ。
ここ、ギルドもその一つであり、冒険者の安全性や利便性向上を図って作られた組織である。冒険者と依頼内容をカテゴリー分けし、適切な依頼を受託するよう補助する仕組みを持つ。他にも、冒険者が不祥事を起こさない為の規律としての役割も担っている。また、ギルドと提携した飲食店や鍛冶屋なども存在し、獲得した魔物の素材や鉱植物などを換金することもできる。質屋、銀行としての役割も備わっているため、大きな街には支部が必ず設けられているそうだ。今やギルドは現地人の生活にも欠かせない金融や流通を担う施設となりつつある。本で得た知識と受付嬢による説明を照らし合わせると、ここはルールエ支部の冒険者ギルドということだ。農業で勃興した都市らしく、依頼の八割は農作物の護衛をする内容が占めている。
案内の後、ギルド員証である銀色の鉄のプレートを貰った。名前と階級、発行した場所が刻まれている。階級は最低で、冒険者見習いを指す十級だ。こなした依頼や、ギルドへの貢献度によってその位を上げることができる。上に行けば上に行くほど難度の高い依頼が待っているが、その分報酬も上乗せされるという仕組みだ。危険なことには変わりないが、魔王討伐の旅だ。上を目指しておいても危険すぎることはないだろう。それに冒険者として生計を立てておかなければ、そもそも旅が頓挫してしまう。ここはいいようにお互い利用させてもらうのが、最善手といえるはずだ。
先ほど、人だかりができていた板の前までやってきた。クエストボードと呼ばれる場所で依頼と報酬を確認し、気に入ったものを受付で受注する、そういう流れらしい。
案内係の女性は気を付けてね、と説明を終えて受付に戻る。
僕はボードを見上げた。どうやら朝一に張り出された高給な依頼はすでに取りつくされ、依頼も人もまばらになっている。だがすべての依頼がなくなったわけではない。小さなものでも十分だ。そもそも、十級では受けられる依頼も少ない。まずは実直に、お金と実績を積んでいくしかなさそうだ。
意を決した僕の後ろで、
「こんなガキでも冒険者になれんのかね!」
ゲラゲラと笑い声が聞こえてきた。声の主は、さっきから酒を飲んだくれている冒険者たち。迷惑がって他の冒険者たちは近くに寄ろうとしていない。大方、依頼をこなせず鬱憤ばらしに昼間から酒を飲んでいるのだろう。絡まれるのも、気付かれるのも厄介だ。聞こえないふりをしよう。
「おいガキ! さっさとママのいるところへ帰りな!」
さっきよりもっと大きな声で笑いが起こる。無視だ無視。ええと、畑の見張り依頼、こんなのどうだろうか。
「おい、聞こえてねえのか! お前だよ!」
ボードから依頼の書いた紙を剥がす。面倒事は避けたい。急ごう。
「おい! そこのゴミ袋みてえなローブのガキ!」
だんだん怒声じみてきた。聞こえない聞こえない。
「クソガキてめえ」
面倒事は避けたい。
「無視するとはいい度胸じゃねえか」
面倒事は―――
「たっぷり説教してやらねえとな」
―――避けたい。
影が過る。僕の目の前に立ちふさがった件の冒険者。一番威勢のいいリーダー格の男。薄い毛皮のコートを着て、腰にはサーベルを下げている。仲間の連中は席についてニタニタ笑っていた。他の冒険者も遠巻きにこちらの様子を伺い、中に割って入ってくれる人はいなさそうだ。
心の中で深いため息をつく。
「な、なんでしょうか?」
できるだけにこやかに笑顔を作りながら返事をする。愛想よく対応したかったが、どうにも顔が引き攣っている気がした。
「てめえみてえなガキがうろちょろしてっと目障りなんだよ。とっとと消えやがれ!!」
語気を荒く吐き出し恫喝する。同い年の子なら泣いて逃げだしたかもしれない。
「はい、すみません。受注したあとすぐ出ていきますので」
後ずさりしながら受付に寄っていく。これでやり過ごせるだろうか。いや、もうすでに手遅れなのかもしれない。激昂した彼は眉をピクりと動かし、さらに詰め寄ってきた。もしかすると普通の子どもみたいに泣いて逃げ出せれば、こうはならなかったかもしれない。どうやら僕は、選択を誤ったようだ。
「おい、ふざけてんじゃねえぞ……今すぐ、出ていくんだよ!」
彼の左手が僕の襟元を掴んで、ぐいと引き寄せる。赤らんだ顔、人相の悪い面構え。酒臭い息を吹き付けられて不愉快だ。初日から、なんて酷い目にあってしまったのだろう。
男の目に僕の顔が映り込む。忘れたかったはずの昔の記憶が蘇る。
突然、男の瞳孔が開いた。
表情が固まり、動揺がありありと見えた。何かに驚き戸惑う男の視線。警戒し、引き寄せられた腕で逆に押し返される。しまった。
男は、僕にしか聞こえない声で囁いた。
「てめえ、どこから―――」
「―――ちょっと、ダモンさん!!」
男は困惑から、僕は逡巡から、互いに意識を引き剥がされ、別方向からの声に目を向ける。先ほどの受付嬢が気付いてくれたのか、つかつかと歩み寄ってきていた。
「―――いや、ミレイちゃん、こいつが―――」
「こんな小さな子いじめて何が楽しいのよっ!」
男は僕から手を離し交互に目を泳がせた。
飲んだくれの仲間の方を向き、彼女は一喝する。
「あんたたちも飲んでる暇があるなら、一つでも依頼をこなしてきなさい!」
人差し指をボードに向けて、情けない大人たちに説諭する彼女は中々の迫力だ。
へいへいと頭を掻きながら席を立つ仲間たち。ダモンと呼ばれた男は弁明しようとしていたが、ミレイから矢継ぎ早に説教を受けてたじたじになっている。
一瞬だけミレイと目が合い、小さく顎で受付を示された。どうやら今のうちに受注を済ませろとのことだ。なんて親切で丁寧で機転の利く人だろう。彼女はこのギルドになくてはならない存在だ。有難くこの隙にカウンターで手続きを行い、見世物となった男を無視してギルドを出た。外で再び会うと面倒だ。僕はそそくさと駆け足で裏路地へ駆け込む。不幸中の幸いだったが、気を引き締めていかないと。後であの受付の女性には礼を言っておこう。
ふぅ、と溜め込んだ息を吐き出し依頼書を見る。場所も内容も手頃なものだ。視線を上げて僕は次の目的地に歩き始めた。こうして、僕の冒険者としての一日が始まったのだ。
■■◇■■
薄暗い地下室から呻き声が響く。小さな明かりの下で、吊るされた男と頭陀袋を被った覆面の男が対峙していた。覆面の男は苛立った様子で何度も怒声を荒げながら棍棒のようなものでもう一人の男の体を強く打ち付ける。鈍い音と共に血が飛び散り、拘束具が軋む。吊るされた男は全身が傷だらけで喘ぐことさえ苦しそうだが覆面の男の方をはっきりと睨みつけていた。腫れ上がった男の体に、その後何発も打ち込まれる打撃。変色していく身体と、それでも消えない眼光。
息を荒らげる覆面男の背後、扉が開かれると、恰幅のいい中年の男が入ってきた。つばの広い帽子に派手なジャケットを羽織ったその男は、不気味な笑顔を浮かべながら吊られた男を一瞥した。
「強く、逞しい男だ。こんな苦痛に耐えてまで口を割らないとは、名誉勲章ものだぞ」
笑顔は崩さず、楽しそうに続ける。
「最高じゃないかぁ。仲間を想う気持ちがあればこそ、君をそこまで強くしてくれる。美しいねぇ」
こくこくと満足そうに自分で頷きながら、吊られた男の周囲を巡る。
「その美しさの前に、私の汚れきった心は挫けてしまいそうだよ」
言い終わる前に、吹き出してしまった。芝居臭い台詞が泥水で沈んでいくような笑い方だ。
「すまない、その美しさが邪魔なんだよ。君、これがどこだか分かるかなぁ」
帽子の男は一枚の紙きれを見せた。そこには、地図と文字が書かれている。
吊られた男が初めて言葉を発した。
「―――めろ……やめろ!」
切れた唇と腫れた頬でうまく発音できない。感覚が麻痺し自分が何を言っているのかも確かではない。だが男は必死に何かを伝えようと体を揺さぶった。
薄暗い地下室に、今度は重く低い笑い声が反響する。腹の底から冷え固まるような、恐ろしい笑い声。固く閉ざされたその地下室は、その暗い声でさえ地上へは届けてくれなかった。