第5節 眠る魔道士の夢物語
焚き火が爆ぜた音で目が覚めた。
ここは星のよく見える丘の上。
私たちは平原を抜けた後、いくつかの村や町を訪れて、首都ヤミレスへ通じる裾野へと入った。
平坦続きだった今までの道のりとは違い、坂道や下り坂などの急な勾配が多くなってきた。街道は全てが舗装されているわけではない。人の通り道で踏み固まっただけの道が続くこともある。
そのため、馬の疲労を心配しながら都度休ませてやらないと、怪我や事故を引き起こす原因になりかねない。
旅の経過は遅くなってしまうが、こればかりは急いて行くことはできなかった。
危険なのは道のりだけではない。山麓にはこれまでとは違う見たことのない魔物が現れた。
岩石に扮する岩の魔物、魔法を用いる虫の魔物。
環境が変化することで生息する魔物たちにも影響が出る。その土地に根差した魔物や生物が生態系の一部となっていた。
旅をするということは、色々な風土を理解し、そこに適応した暮らしについても知っていかなければならない。
夜の暗がりが炎で飛ばされる。
明るい焚き火に、私の影が揺れた。
固くなった体に力を入れて、ゆっくりとほぐす。
「お嬢様、そろそろ代わりましょうか」
炎に当てられ紅く染まったドーラの顔が、こちらを覗く。
起き上がる彼女に、私はいつもの笑顔で応える。
「いいですよ、もう少し休んでください。この辺りの操縦は疲れるでしょう」
丘陵は崖も多く、馬車がよく通る街道とはいえ、馬を気遣った車の操縦は慣れていないと大変だ。周囲の警戒も怠らなかった彼女は神経を人一倍すり減らしながら馬を進ませている。
「ありがとうございます」
ドーラが素直にお礼を告げると、乾いた木々が熱されてパチッと弾けた。
礼を言ってしばらく、彼女は私と一緒に焚き火を見つめていた。
炎が揺らめいて影を躍らせる。火を見ているととても落ち着くのは何故だろうか。打ち上げられた火の粉が、闇夜に消えていくのを見つめた。
身じろぎ一つしなかったドーラが、不意に私へ訪ねる。
「魔道士様は何故、北を目指しておられるのですか」
木が爆ぜる音以外は何も聞こえない、静かな夜だった。
喉の渇きを覚え、革袋を取り出し少量の水を飲む。
「………ドーラはまだ、聞いていませんでしたか」
私は静かに返事をした。
触れれば火傷してしまうと分かっていても、私はその炎から目が離せなかった。
■■◇■■
国境付近の村に着いた私たちは、好意に甘んじて空いている部屋を貸してもらった。
部屋に入るなり、私は吸い込まれるようにして横になる。久々のベッドが心地よくて、体重を毛布にどっしりと預けた。
心待ちにしていた初めての旅。胸が高鳴るような気持ちで一杯になるかと思っていた私は、度重なる不便に心を折られそうだった。
馬車で進む数日間。座っていただけでも体中は痛み、野営では硬い地面に体を預けなければならなかった。本で読んだ冒険には出てこなかった、行間の現実。これが本当の旅なのだ。私はただただ、覚悟の足りなさを痛感させられていた。
辟易としていた私のもとへ、ノックが飛び込んでくる。
ドア越しから声が聞こえた。
「今、よろしいですか?」
声を聞いて、どきりと心臓が跳ねた。
疲れた頭をフル回転させる。
私はベッドから飛び起き上がり、心地よさはどこへやら、素早い動きで身支度をした。
手櫛で髪を整えながら辺りを見渡す。こんな時に限って手鏡がない。
変なところはないか、疲れが顔にでてしまってはいないか。
野営の時より明るい室内は、全てを曝け出してしまう。
あたふたと慌てて荷物を探す私の視線と、ドーラの冷ややかに見つめる視線が重なった。
私の痴態を見た彼女は、やれやれとでも言いたげだ。
ドアの向こうからもう一度同じ声が聞こえた。
ドーラは軽いため息をつきながらドアまで歩くと、いつもの調子で反応する。
「魔道士様、どうぞ、お入りください」
ああ! いじわる!!
振り返ると、普段仏頂面のドーラが不敵に笑っていた。
私は怒れる気持ちを静めようとしつつも、やってくれたなと彼女を睨む。
悪戯っぽいことをたまにする彼女。昔からそうだった。それが愛らしいところなのだけれど、今は憎たらしい。
失礼します、と何も知らない彼がひょっこり顔を出す。
おかしなところは、何もないはず。
手櫛していた髪の毛を思わず握って、頬の傍に寄せる。
彼は私たち二人の顔を見回して、きょとんとした顔を見せた。
「あの、お休みのところすいません、村に市場があったので、なにか日用品を補充しようと思うのですが……」
言葉に詰まった彼はドーラを見つめる。
そして続けた。
「ドーラさん、なにか面白いことでもありましたか?」
少しだけ口角を上げて薄ら笑いをしていたドーラは、指摘されてすぐに顔を戻した。
ほら、あなたも見られてるんですよ。
こほんと咳払いしてドーラは彼に返事をする。
「い、いえ、大したことではありません」
いつもの態度に落ち着いたドーラは通貨の入った鞄を持ち上げて言う。
「それから買い物ですが、私が代わりに行って参ります。魔道士様は、クィーラ様の護衛をお願いします」
そう告げると彼女は返事を待たずにそそくさと部屋を後にしてしまった。
何か言おうとしてくれた彼が、離れていくドーラを見送る。言葉数が少ない彼女は、なんとも誤解を与えやすい。
わずかな静寂が流れ、扉の影に隠れた彼と目が合う。
理由もなく、少し緊張してしまう。
「……入って下さい」
ドアの前に立ち尽くした彼に、私は声をかける。
頷く彼は、戸を閉めて部屋に備え付けられた簡素な椅子に腰掛けた。
「ドーラさんっていつもあんな風なんですか?」
ベッドに座ったままの私に向かって彼は話しかけた。
私は持ったままだった髪の毛を手際よく払って、左耳に前髪をかけ直す。
「そうですね。彼女は昔からあんな感じです。本当はすごく、お茶目な子なんですよ」
私の言葉に彼は目線を少しだけ上げた。
「そうですか。お茶目、ですか」
彼の言いたいことも分かる。ドーラはいつも感情を表に出さない。感情表現がとても苦手で、ぶっきらぼうに見えるときがある。でも本当は優しくてとてもユーモアがあるのだ。
今回の旅についてきてくれて、私はすごく心強かった。
「初めての旅はいかがですか?」
目を私に向けた彼が、純粋な質問を投げかける。
さっきまで考えていたことを思い出す。念願叶った嬉しさと、覚悟の甘さ。
夢見た冒険物語とは、果てしなく遠いものだった。今より過酷な旅を、私は続けることができるのだろうか。
「見るものすべてが新鮮で、非常に興味深いのですが……、なんて言ったらよいのでしょうか………」
考えあぐねている様子を、彼は優しく頷いて受け止める。
「分かりますよ。僕もまだ長く旅をしているわけではないですが、旅をするというのは生半可な気持ちでうまくいくものではありませんからね。
それでも、一人でいるよりかは随分楽しい旅になりました」
そう言ってのけた彼は、儚い笑顔を私に見せた。
彼の年齢で一人旅をする決断ができるなんて、私の常識ではとても考えられない。
生まれ育った彼の故郷から、私たちと合流するまで優にひと月くらいはあったはずだ。
その期間、彼は一人で生活をやりくりし、馬車もないのに荷物を抱えて歩いてきた。
聡い子だとは思っていたが、魔法に関する知識だけでなく、一人で生きていくだけの胆力も備わっているとは。
計り知れないと思うと同時に、何故この少年がそこまでして旅をしているのかが気になった。
私は率直に彼へ尋ねた。
「そういえば、どうして北を目指しているのですか?」
この旅の第一目的は私の留学ではない。それは旅が始まってすぐ、彼へ伝えた。私が彼を利用したみたいになるのは嫌だったし、なにより後ろめたい気持ちを彼に対して持っていたくなかったからだ。
少年は幼い体に似合わない、聡明な顔つきになる。
彼の実力なら冒険者等級を上げて関所を通ることも可能だろう。兄の推薦だって付けようと思えば付けられる。だが彼はそうしなかった。急いでいる、それは何故か。
彼は一瞬だけ口ごもったが、その後に、何でもないことを教えてくれるみたいに言った。
「復活する魔王を倒すためです」
私はその言葉を理解するのに、少し時間がかかってしまった。
■■◇■■
ドーラも同じ反応だった。目を開いて私を見つめる。
炎に照らされ赤くなったドーラの瞳が、今度は眠りにつく魔道士を映し出す。
毛布で体を覆い安らかに眠るその寝顔は、やはり夢見る幼い子どものようだった。
とてもルールエを救った英雄とは思えない。
「それは、本当ですか」
表情を変えない彼女が珍しく驚いている。でも、無理もないことだ。
魔王の復活。そしてその討伐。だってそれは、お伽話だ。
それこそ、夢物語なのだ。
クィーラは可笑しくなって笑いながら告げた。
「私も初め、何言ってるんだろうって思っちゃいました」
ゆっくりとした風が頬を掠める。
最近は夜でも十分に暖かくなった。
炎をまるで慈しむかのように、優しい眼差しでクィーラは続ける。
「でも、そんな冗談を言うような人ではないこと、もうドーラは分かりますよね」
ドーラは顎を引き浅く頷くと告げた。
「じゃあ、魔道士様は本気で……」
私は膝を抱えて座ったまま、ゆっくりとした調子で話す。
「『自分の力は自分だけの為にあるんじゃない。
人を支える為に与えられたものなんだ』」
揺れる炎を見つめながら続ける。
「そういうふうに仰っていたのです。だから、私は…………」
浮かれている場合ではない、そう思ったのだ。
世界を救うための冒険に漕ぎ出した彼。あんなにも高みにいるというのに、自分の実力に一切の驕りを持たない。それどころか、常に限界へと挑み続けている。
魔王討伐なんて、誰も望んで進む道ではないはずなのに。
逸脱した慈悲の精神と、高尚すぎるその原動力。自らの命を平気で人々のために投げ出せてしまう。
本物なんだ。彼はかつて、この地を救った大勇者様と同じ。
自分と自分の力をひたすらに信じて、迷いなく人に手を差し伸べらる。それが彼の本当の強さだった。
「だから私は気付いたんです。強い魔法もそうですけど、それより強い心を持とうって」
あの時、彼の言った言葉が真に理解できた気がした。
彼と私の間にあった隔絶の差は、そこなのかもしれない。
ドーラはいつの間にか隣に腰を下ろし肩を並べる。
炎に照らされた切れ長の瞳が揺れた。
「……お嬢様は、十分強い心をお持ちですよ」
炎からくる熱と、くっつけられた肩から温かさが伝わる。
やっぱり彼女はとても優しい。
私は炎を見つめたまま、笑って告げた。
「ありがとう」




