第17節 終息と招待
少年が治癒魔法を使い傷を癒す。兄妹はその様子を見て驚愕していた。
「あ、ありえない………」
治癒の魔法は軽い傷程度であれば、そこらの魔法使いでも扱うことができる。擦り傷切り傷などの微小な傷口を治すなら、手ほどきを受けるまでもないだろう。
だが深い裂傷や骨折を治すとなると、高度な知識と魔力制御、莫大な魔力を必要とする。国家に認められた魔法使いや、神殿で格の高い神官たちが扱うはずの高級な魔法。時間やお金、費やした学資は馬鹿にならない。それが医療を取り仕切る者たちの権威でもあった。
にもかかわらず、この少年は何者なのだ。
医療系の魔導書は数が少なく、あまり市場に出回らない。独学での習得など難しいを超えた無謀な分野だった。
「教会の古い魔導書に簡単な治療魔法が載っていたので」
理論さえ分かれば後は仮説を立てて実験を繰り返せばいい。
彼はそんな風に言ってのけた。
とはいえ、一日に三人分の治癒は、彼ですらかなりの魔力を消費しただろう。
この街の住民を全員救うことはできない。
治療や手当は他に任せ、瓦礫の撤去と建造物の修繕、逃げ遅れた住民を探す手伝いを行うことにした。
俺は少年の震えた目を跳ね除けて、自身の敬称も省略するように伝えた。
「分かりました………ガノア………さん………」
覗き込んだ彼の瞳を見て、ガノアは数年前の出来事を思い出していた。
■■◇■■
ダモンという当時七級冒険者が、郊外で魔物の討伐依頼を受けていた。
腰にさしたサーベルは自慢の武器で、その錆になった魔物は数知れず。
高飛車な彼は自分の実力を鼻にかけ、ギルドでもその武勇伝を垂れ流すほどだった。
しかしその日、目当ての魔物を見つけた時、ダモンはその高い鼻をへし折られる。
死体となった依頼目標の魔物。それを食い散らかす濁った目玉と粗い鱗。長い尾の先端が揺れ、獰猛な牙が血に濡れる。翼のない亜竜種、ドラグノイド。
魔物の中には、食物連鎖を越えた突然変異を起こし、より凶悪な進化を遂げるものもいる。調査報告には載っていなかった脅威との遭遇。邂逅が眠りについていた生存本能を叩き起す。
走り出したのと同時に獲物の矛先が移った。ダモンは重い装備を脱ぎ去ることも忘れて大地を蹴る。背後から来る捕食者の気配が、首筋に息を吹きかけてくるような恐怖を与えてくる。
岩山から飛び降りて転がるように下山する。
後ろを振り返らずとも、戦慄の雄叫びが背中を掠めた。
ダモンは助かりたいという強い欲望に支配され、近くの村に逃げ込む算段をつける。
自分の力ではどうにもならない危殆を、他者を犠牲にすることで払拭しようとした。
柵を飛び越えようとした時、彼は背後から竜種特有の強い熱気を感じとった。
強い衝撃が体全体を襲い、天地がひっくり返る。ドラグノイドの吐き出した炎が草木を焼き焦がした。
激痛に蹲り、脳が麻痺したダモンは死を悟る。
………こんなの、こんなの聞いてねぇよ!!
力任せに剣を振ってりゃ金が湧いて出る。
それが冒険者の特権だっただろ!?
弱い冒険者を怒鳴ってこき使い、頭の空っぽな女を買い漁る。
それがまかり通るから俺はこの道を生きてきた。
そのはずが、何なんだよこの魔物は!
涙目になるダモンの後ろ、火に染まった流麗な鱗が大地を踏みしめる。
村人の悲鳴、皮膚の焦げた匂い、喉を鳴らす音。
震える肩を抱いたダモンは、武器さえとらなかった。いや、とれなかったのだろう。
呻くことしかできない彼は魔物をちらりと見た。縦に長く伸びた瞳孔は微動だにしない。
ダモンは不思議に感じる。
何故か自分に焦点が合っていなかった。
その時、息遣いがした。
「どらぐのいど」
はっと顔を上げて、ダモンは幼子の声を聞きとる。いつの間にか側まで来ていた小さな影。
村の住人だろうか、年齢は推察できなかったが、一人では何もできないような幼い子どもに見えた。
ダモンはつい口角を上げてしまった。逃げ遅れたこいつはもう助からない。
………ならいっそ、こいつを囮に使って―――
「とうばつなんど、ごきゅう。かたいうろことひふ、どらごんとおなじ、しゃくねつのひをはく」
幼子は迷いない瞳をドラグノイドに向けたまま、雄弁に魔物の特徴を述べ始める。
「おなかがわのにくしつがやわらかく、ちのうがひくいため、ちぞくせいのまほうで、きしゅうせよ」
ダモンは地に伏せた状態でその声に聞き入る。
褐色の魔物にすり潰される未来はとうに過ぎた。
どうして、魔物は襲ってこないんだ?
淡々と喋る不気味な子どもを見つめる二つの目玉。警戒心を剥き出しにする唸り。
幼い声はそれに物怖じせず告げる。
「"ちのうがひくい"ってところはちがうみたい。あと僕、ちぞくせいはまだつかえないんだ」
手を向けた幼児の放った光は一瞬だった。
雷が落ちたかのような爆音、強い閃光が辺りを包む。燃えた背中の痛みさえ忘れたダモンは、白んだ世界に身を預けた。耳に残る甲高い音が徐々に薄れ、ルールエ郊外の村の景色が元に戻る。
目を開けたダモンは何度も目を擦った。
………嘘だろ、どうなってんだ。
炎の吐息を吹き出す恐るべき魔物の姿は、消え去っていた。
夢でも見ていたのだろうか、跡形もなく。
巻き添えをくらって近くにあった納屋の柱が折れる。屋根の一部が瓦解して木材を撒き散らした。
「ぼうけんしゃさん」
かけられた声が自分宛だとすぐに気が付かなかった。
ダモンは振り返って声の主に目を向ける。
「きけんなまものを、つれてこないでください。………じぶんがたすかれば、それでいいんですか」
吹き上がった風に幼児の前髪が煽られる。見下ろす瞳、漆黒の闇夜を塗り固めたような色。
ぬるい鉄の香り、飛び散った血液の欠片。鋭い牙を覗かせたそいつは、確かに今そこにいた。
心臓の鼓動が強く脈打つ。魔物が動きを止めた理由。
そら恐ろしくなったダモンは思わず叫んでしまった。
「ば、化け物っ!!」
前髪の下りたその子どもは、少しだけ寂しげな表情でこちらをじっと見つめていた。
野次馬が集まってきたのは、その後だった。
彼は帰ってくるなりこんな報告を残す。
魔物の討伐依頼はこなせなかった。理由は、討伐難度五級に相当する凶悪な亜竜が現れたせいだと告げる。
誰もが彼のそんな戯言を信じなかった。
だがダモンは必死に訴え続けた。
突如発生したドラグノイドの登場と、謎の"幼い子ども"の存在を。
「ルールエの郊外に化け物がいたんだっ! あれは……あれは人の子じゃない!」
皆が冷笑を彼に向けた。
いつもの威勢の良さは立ち消えている。だが冒険者になりたてだったガノアは、そこに妙な引っ掛かりを覚えていた。
「目が変なガキだったんだ! 魔法を使って、手のひらから光を放った!」
光の魔法使い、そんなものが辺境の村にいるはずがない。頭から尻の先まで荒唐無稽な話に聞こえた。
ダモンが狩るはずだった魔物の死骸。そこに残された形跡はすぐに発見されなかった。
本来彼が討伐するはずだった魔物の死骸から、大きな顎による捕食が認められたのは、もっと先のことになる。
■■◇■■
クィーラは、魔力の消耗が激しいにも関わらず街の消火活動に努めていた。
何もない場所に、風や水を発生させる魔法は多くの魔力を消費する。錫杖を振るい地下水を手繰り、地上へと持ち上げ、霧状にして街全体を高濃度の湿度で覆う。街の地下水を感知し、その全てを動かすことは誰にでもできる芸当ではない。戦いに参加することだけが人々を救うことではなかった。
自分にできる、最大限の手助けに集中しよう。
クィーラはそう考えていた。
その甲斐あってか、徐々にではあるが人の手で消せる程度に炎は落ち着いていった。
街の復興が始まったのはそれからしばらく経ってからだ。
ギルドマスターガノアによる呼びかけと、暗躍するヴァストゥールの撃破により事態は終息を迎える。
商会グループが雇っていた傭兵団が犯罪組織ダスガストであることが判明した。自警団に配られた武器と傭兵団を騙る犯罪組織。それらが市民の間でようやく一本の線で繋がった。商会グループと自警団の両陣営は、これが仕込まれた内紛劇だと理解する。
その後、子爵の憲兵団が到着し、ダスガストを根こそぎ逮捕した。森に放置していたローブの男も忘れていない。最後まで否定していたが気配を消せる彼こそが脱獄幇助の主犯だろう。
悲惨な被害を受けたルールエ市民は、悪の元凶を絶ったのにも関わらず消沈していた。
裏で手引きされた動乱だったとはいえ、自らその刃で街を破壊してしまったのだ。
二度も失敗したルールエの民は、今度こそ自分たちで街を守ることができるのだろうか。
傷付いた多くの市民たちを眺めながら、僕はそんなことを考えた。
街の復興が始まった頃、僕は子爵邸へと招かれてしまう。
今回の功績の大部分は僕にあると、この兄妹は押して譲らなかった。街を挙げての祝賀を催すというクィーラの申し出を僕は全力で拒否した。
注目を嫌った僕は街での活躍を周知しない代わりに、中央都市国家ロキに入国するための協力をお願いした。
子爵にこんな申し出をするのもどうかと思ったが、人助けが好きな二人は話を通してくれるそうだ。
このまま街に残り復興作業の手伝いを、と考えていたがガノアは僕に子爵邸への出頭を命令した。
そうでもしないと断り続けると踏んだのだろう。ご明察だ。
僕は子爵からロキへの片道切符を受け取れれば後は何の問題もなかった。
頓挫していた魔王国への道が開かれるのだ。それで満足するのなら、礼を頂きにいこう。
半ば気楽に開き直って、僕はルールエの街を後にした。




