第44節 前を向く理由
「魔道士、死なないでね」
彼女の言った言葉が、掻き消える。
黒い衝撃が地面を波打たせ、地面を噛み砕いた。
砂塵の嵐が生き物のように蠢き、体中を引き裂いていく。血だまりに沈む体をなんとか持ちこたえさせて、地面を横滑りするように動いた。砂鉄が摩擦によって赤くなり、燃え上がるような熱で頬の肉を掠め取る。
緋色の旋風に血を流しながら、僕はその後姿を追った。
銀に光る剣を携え、自由自在に飛び回る手甲を弾き返すカグヤ。ヘルメルの手甲は魔力が注ぎ込まれ、並みの硬度ではない。彼は磁力を操ると、二つの手甲でカグヤを攻め立てる。見た目以上に重い強打。カグヤは流すこともできず、衝撃をもろにその身に受ける。
飛んできたもう一つの手甲が、カグヤの体を真横に弾き飛ばした。
「カグヤ!」
鈍い音が冷たい地面に吸われる。小さな体にはただでさえ傷跡まみれなのに、もう意識があるかも分からない。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。カグヤが死ぬ。それを考えただけで恐怖でどうにかなりそうだった。また僕は恐怖に支配される。余計なことを考えている場合ではないのに、頭の中にひび割れた藍色がしみ込んでいく。
「愚鈍なる咎人! 誇りある秩序を穢した罪を知れッ!」
夥しい砂鉄に包み込まれた影の中、ヘルメルは嘲るように言った。
駆け寄ろうとした僕に操作された手甲が迫り、両手で受け止める。
「っぐ! 何て力……!」
光で強化した体が押し返される。
「"光の"、このコソ泥が嬲り殺されるのをよく見ていろ。それが貴様の罪だ! 弱者が御言葉を騙り、驕った正義感を振りかざした罰……己の生き恥を晒せ、愚図ども!」
風を裂いた音とともにカグヤが僕の目の前に降り立つと、手甲を弾き返す。
「はぁ……はぁ……誰が……殺されるって? まだ、まだこれからよ……」
傷口から滲み出た血が鎧の隙間を滴る。誰がどう見ても、戦える状態じゃない。満身創痍だ。
僕は彼女にこんなになるまで戦ってほしかったわけじゃない。
「魔道士……私たちは、力を持って生まれた……だがら、下を向いちゃ……ダメ……」
ヘルメルの魔法の前に膝をついたカグヤ。
頭の隙間から入り込んでくる冷たい死。力があっても、弱いままじゃ意味がない。
力があっても、使えないままじゃ意味がない。
ねぇ、君はどうして、あの時僕を止めたの?
■■◇■■
遠くを見つめるジジは、窓を開けながら何でもないように言ってのけた。
僕はそれをぽかんと見つめたまま、これはまだ夢なんだと思い込んでいた。
「ほれ、いつまで寝ぼけている。体は何ともないんだ。起きなさい」
僕は薄い毛布の敷かれたベッドから起き上がり、座ったまま告げる。
「も、もう一度言って」
聖堂内の掃除を言い渡された僕とカーリアは、ろくでもない二人組と言い合い、取っ組み合い、もといリンチに遭って、僕は仕返しに魔法を使いそうになった。カーリアがいなければ、今頃どうなっていたんだろう。
その言葉に眉を顰めたジジは、僕の頭に手をあてがった。
「頭をぶつけたわけではないのだが……耳が悪くなったか?」
すぐに首を振って手を払う。
「違う! そうじゃなくって、カーリアはどこへ行ったのかって」
不思議そうな顔から一転、ジジは視線を逸らした。
「そなたが寝ている間に、あの子は引き取られたと言ったのだ。何度かここへ、そなたの様子を見に来ておったよ……」
硬い石が頭の上から落ちてきたみたいだ。凹む頭蓋骨。残された、小さな気持ち。
カーリアが、引き取られただって?
「で、でもカーリアは――」
「差別は良くない……カーリアは他の子と違って大変な努力家で、文字も読むことができれば気配りもできた。ユーモアもあって素直な明るい子だ……それを知っているのは、私だけではないはずだが……?」
押し黙る僕に、ジジは不思議そうに尋ねる。
鳥の鳴き声が窓の外から聞こえてきた。
「とある貴族があの子を欲しがり、あの子も貴族に仕えることを拒まなかった」
僕はジジを睨んだ。貴族なんかが、耳の聞こえない彼女を欲しがるとは思えなかったから。
「なに、別に金欲しさでカーリアを売り払ったわけではない。耳が聞こえない使用人というのは、貴族にとって都合がいいこともある」
そう言われても、僕には依然として納得ができない。ジジがゆったりとベッドに腰かける。
「あの子の未来はあの子が決めることだ。役に立てると、力になれると、あの子はそう思ったのだ」
干し草の香りが部屋にまで入ってくる。僕の心の隙間にも、小さな穴が開いているみたいだった。
ジジの言葉を、うまく咀嚼できない。
「カーリアは、そなたのことをずっと庇っておったよ。意気地のない自分がすべて悪かったと……」
僕は手を握りしめた。
そんなわけない。僕が石板を持って帰りさえしなければ、カーリアがあんな目に合うことはなかった。あんなに殴られることも、蹴られることも、泣き叫ぶこともなかったんだ。
「おかしい、おかしいよそんなの……」
本が読めて魔法が使えて、知識があって計算ができて……結局それが何だというのか。僕は自分が、何でもできて何でも知っていると、そう思っているだけのただの傲慢な子どもじゃないか。
本当はずっとそんな気がしていた。彼女が僕よりも不遇な思いをしていることも、足りないものを補うために一生懸命だったことも。
呟いた言葉は、震えていた。
「カーリアは僕より小さくて、気が弱くて、耳も聞こえない、言葉も満足に喋れない……それなのに……それなのに……」
俯く僕に、ジジは言葉を返さなかった。
口から漏れ出る息を懸命に整えて、それでも抑えることができなくて、くしゃくしゃになった声で言った。
「……ジジ、僕に魔法を教えて……僕、強くならなくちゃ……」
ぽたりと雫が落ちる。
僕はこんなにもたくさん持って生まれたのに、なんて中途半端なんだ。
彼女の方が、ずっと立派じゃないか。
彼女の方が、ずっとずっと強いじゃないか。
さよならも言わなかったカーリア。
彼女は魔法を使おうとした僕を止めてくれた。力の使い所を知っていたから。
弱い僕を、守るために。
袖口で目元を拭う。
強くならなくちゃ。
泣いてるばかりじゃ、カーリアに笑われてしまう。