第38節 上陸する獣
腰を上げた国主は窓の外に広がる暗雲を見つめた。一粒、二粒と雨がガラスを叩き、大きな塊となって埠頭国に降り注ぎ始める。
「陛下、御言葉様は失敗なされたのでしょうか……」
大臣の言葉に振り向きもしない国主は、溜め込んだ息を吐き出し立ち竦んだまま告げる。
「魔神が来ればこの国は滅ぶ。彼らの帰還を願うしかないじゃろう」
暗くなった空に、電気の灯る家々。国主の背後にある国宝雷宝玉が、透明な外殻の内側に激しい色を讃える。
カタカタと机の上の物が音を立てた。天井についた装飾のついた電灯が揺れ動く。地面が震え、建物全体が恐怖に怯えるような叫びを上げた。
「な、なんじゃこれは!?」
壁に手をつき大臣は声を荒げた。
高波を起こす海を指さし、国主が告げる。
「あれは……!」
国主の住まう館は埠頭国の山側、小高い丘に建てられていた。海側についた出窓が二つ。一つは大臣が齧りつくように目を張っている。国主はつられるように、もう一つの窓を遠巻きに見た。
豪雨に近い雨量。その隙間から溢れるように雷が降る。空を割るような破壊の音。まるで天変地異の前触れ、埠頭国の景色が一変している。交易船が数隻転覆し、海岸沿いの建物を押し潰す。黒い姿が国主の目に入った。雷を纏い、真っ直ぐにこちらを見つめる魔物。その息遣いが、耳元で聞こえた気がした。
「兵士に湾民の避難をさせよ!」
そう言い放ち、国主は部屋を飛び出した。魔物による脅威がこの国に訪れるのはまだ先だと思っていた。音に聞く御言葉が現れたのだから、猶予は引き伸ばされてもよかったはずだ。締め切られた扉を重々しい音とともに解き放つ。山のように積まれたその一つが床に落ちた。漆黒が艶めく質感。魔力を込めると同時に、刻まれた魔法陣が起動した。蠢く幾多の瞳が、わらわらと動き始める。
「見つけたわ!」
カグヤは船首の先を向いて告げる。雨は少しずつだが固体に変わりつつあった。冷たい闇夜に吹きつける雪は、灰のように霞んで見えた。
「手筈通りいくよ!」
「応!」
僕の声に返事を重ねるトキウラは、覚悟を決めた声で応える。
海上を駆け抜けた船が氷の板の切れ目と同時に浮き上がった。重力から解き放たれた感覚。激しく船が着水すると、海面の水飛沫がメインマストよりも高く舞い上がった。
飛び出した御言葉たち。咥えた葉巻をくゆらせ、帽子を頭で抑えたバイオルは、その背中をしっかりと見送る。
陸に足をつけた僕とカグヤは同時に走り出した。傍で雷が音を立てて地面に落ちてくるのを横目に見る。光を身に纏った僕と、カノンの防護魔法を纏ったカグヤは、できるだけ接地しないように鬼の元へと跳んだ。電気は風と同じく、圧力の高い方から低い方へと向かう。地面に触れている状態だと、人の体は電流の影響を受けやすい。
雷撃に家が叩き潰され瓦礫が飛び交う。破片を吹き飛ばしながら進む僕らの目の前で、行進を続けていた鬼の顔がこちらを向いた。首の骨などないような動きだった。
口を開ける。あれがくる。
古代の文字をジジに習った時、古い時代にはどんな魔法が使われていたか聞いたことがあった。雷の魔法は、純粋さを追い求めた古代魔法の中でも最も強力なものだ。嵐を表す記号。雷哮……そういえば、あの時カーリアも一緒にいたっけ。雷とはどんな音がするのか、彼女はそれを尋ねていた。僕とジジがそれを表現するのに、どれだけ苦労したことか。今も彼女は、元気にしているだろうか。
眩しさに包まれる。鬼の放つ雷哮が音よりも早く空気を震撼させた。カグヤの影が立ち塞がり、直撃をもろに食らう。火花舞う体を中空に仰け反らせる。
だが僕は止まっていられない。
掛け声とともに聞こえてきた笛の音。カノンは次の音を鳴らし、カグヤに集中していた守りの魔法を僕の体に追い縋らせる。
魔力を両腕に集中させて限界まで光を溜め込む。輝きが暗雲の影を払いのけ、鬼の姿がハーフェンに晒されていく。
鬼は右手を振り下ろし、石畳の地面に亀裂を入らせた。頭上から光来する雷の道筋が鬼の右手に注ぎ込まれ、轟音と同時に凄まじい魔力が地面を穿った。駆る雷撃が辺りの家屋を破壊し尽くす。
カノンの魔法は優秀だ。襲い来る雷のすべてを弾き返し、無理やり鬼の体の下に僕は体を滑り込ませることができた。
溜め込まれた光の暗転。腹の下で超高濃度の魔力が青い光を放って雷撃ごと押し返す。
『雷が高威力なのは基本属性での話だ。それより強い魔法がいくつかある』
『……もしかして』
『うむ。そなたの光だ』
ジジの言う通り。光より早いものは、この世にはない。
「……哀色の光!」
曇天を駆け抜ける一筋の光線。
埠頭国の方角に、太く青い柱が立ち昇る。それが何を意味しているのかはすぐに分かった。だが、目前で捉えられないもどかしさに、頭を狂わされそうだった。
「さっさとその魔族を殺せ!」
魔法が森を焼き払う。地面がめくれ上がり、荒々しい岩石が露出している。数十人がかりでこれだ。ヘルメルの怒りは頂点に達していた。
ドン、と行く手を阻んだ見えない壁を叩く。強力なスキルによって第五師団長を留めているのはたった一人の魔族。体中に傷を負い、長い尾をゆったりと揺らす。頬についた血を拭って、彼女は告げた。
「全然、余裕。順風満タン、ですわよ……」
短剣の切っ先が落雷の光を反射した。




