第36節 神鳴る雲
風を受けた帆船が全速で凍った海を滑っていく。海の上で味わったことのない疾走感に、バイオルは帽子を抑えながら告げた。
「こんな航海は初めてじゃわい……」
水飛沫の変わりに氷の粒を纏わせた船内。船員たちが驚きで目を丸くする。船首に立ったルリが杖を構えて魔法を唱えた。船体の下部を凍らせ土台を作り、凄まじいスピードで海面を氷の板に変えていく。僕が風を帆に送り、カノンが船自体を結界で守ると、バイオルの帆船は氷上を高速で滑走する氷上船へと変貌を遂げる。
「始めからこうすれば良かった。カノン、方角はあっているか?」
魔法を使いながら涼しげに告げるルリ。彼女の型破りは今に始まったことではないが、尽く常識を破壊することに長けているようだ。
「うん! このまま真っ直ぐ、ハーフェンの方向だよ」
竜骨の笛を握りしめながらカノンは答える。
「しかしまさかバドが隠れていたなんてな。あの時、もう少し警戒すべきだった」
そうルリが苦々しく告げるのは、背の高い肌を隠した怪しげな船員を目撃していたからだろう。魔法で姿を変えていた彼は、カノンが結界を張ったことで化けの皮を剥がされ、どこかへ飛んで逃げてしまったという。
「魔力を誤魔化すスキルだったんだ」
僕はそっと呟く。そして運河の街でのことを思い返す。魔力探知が働かなかった原因はバドのスキルによるものだった。大ゴブリンやブレストに使われていた魔導具の存在に気を取られ一番疑うべき存在を失念してしまっていた。まんまと、僕らは魔神の気配を秘匿され、トキウラを鬼として討伐しそうになった。教団は彼を御言葉と知っていて僕らとの同士討ちを企んだというのだろうか。教団の情報網は僕らの想像以上だ。カグヤが警戒するのも、無理はないのかもしれない。
「見えてきた。ここまでくれば私たちにも分かる……あれが、鬼だ」
ルリが見つめる方向、灰色がかった空の真ん中に、黒い雲が浮かんでいる。風が湿り気を帯び光が見えた。天から降り注ぐ白い亀裂、唸り声に似た雷鳴と激しい雨粒の乱舞。波が立ち、氷の上の船を揺らす。船体を維持するために怒号が飛び交う船内。
バイオルは叫んだ。
「帆を畳んで錨を下ろしたら船内に駆け込め! 巻き込まれるぞ!」
枷の解かれた大きな錨が海中に沈む。雨に叩かれる甲板の上を船員たちが慌ただしく走った。
轟く咆哮、再び雷が落ちる。
見上げた先、船のマストの上に黒い魔神が姿を現した。
閃光とともに火花を散らしながら、長い手足で体を支えている。まるで水に濡らした猫のような細長い四肢と、山のように大きな体。
纏わせる青白い電流が黒い本体を際立たせ、頭蓋骨が突き抜けていくような二本の角が、暗雲の下、双眸とともにギラリと光った。
影に呑まれた鬼の姿が雷の光に照らされ、次の瞬間には隣のマストに移動する。
電撃を振りまきながら影の中を移動するように接近するその姿は、まさに獰猛な獣を連想させた。
雲から放たれる稲光が容赦なく僕を狙う。素早く躱して甲板の縁を掴んだものの、強烈な衝撃が体をのけぞらせた。
飛び掛かる鬼に、すかさずカグヤが剣を叩きつける。しかし、鬼の体に纏わりつく雷が、銀色に光った刀身の行く手を阻んだ。電撃は剣を伝って仄明るくカグヤの顔を照らし、体中に攻撃を浴びせる。
「カグヤ!」
ルリは吹き飛ぶカグヤの体を氷で包み込む。体中を痺れさせたカグヤは片目を閉じつつ告げる。
「……本体は、強力な電気のバリアで守られてる……近付いたら、結構キツいからわよ……!」
氷で気を逸らされた鬼の標的はルリへと向かっていく。彼女は杖をから氷壁を作り出し、表面を突き出して棘を生んだ。硬く尖った氷の盾が鬼の突進を迎え撃つ。
風と雷の衝撃で船が大きく傾いた。
僕は甲板からマストへ一足飛びに移動し、両手を構える。鬼が氷壁にぶつかると同時に、激しい雷があらゆる方向からルリを襲った。
中空から巨大な氷の結晶が出現し彼女の身を守る。氷壁は雷撃をしっかりと受け止めたが、漏電する執拗な攻撃が氷を貫通していった。
「ッ……!」
焼けるような痛み。内側から体を焦がしていく熱がルリを襲う。
魔神の雷を完全に防ぐのは不可能だ。これは、古代の雷魔法を使うブレストとは格が違う。のこぎりで魔力ごと引きちぎられるような暴力的な雷。一度補足されてしまえば、どこまでも追いかける貪欲な怪物。
妖精の羽を背中に召喚し、空に上がったルリは体を庇いながら魔力を練る。
彼女に狙いを定めた鬼が身を硬直させた瞬間、僕は光の槍を放った。雷の結界を突き抜け、光の衝撃波が鬼の体を引き裂いた。後ろ足を貫通した光が、甲板に触れて消滅する。鬼は体の向きをそのままに、頭だけがこちらへ向けた。
死の予感が頭に駆け巡った。
全身が鳥肌を立てて筋肉の動きを遅くする。僕の瞳に光が差し込む。映し出されたのは、鬼の口から輝きを放つ電撃の塊。
二度の点滅。辺りの落雷が収まり、船を闇の中へと落としていく。
そこに、鬼の輪郭だけが見えた。
モーガンスの奔流魔法にも通ずる、絶対的な嗜虐性。必殺の強度だけを高めた非人道的な魔術。
「あぶない!」
力強く引っ張られた僕は揺れる帆船の甲板に体を強く打つ。駆け巡る雷鳴に掻き消えていく周囲の音。
世界は一筋の光に吸い込まれ、目を閉じていなければ眼球が焼かれてしまう。
僕の背中を引っ張ったのはトキウラだ。彼は叫ぶ。
「おい! あんなのに近付けるわけねぇだろ! 一瞬で灰になっちまうぜ!」
「トキウラ、御言葉の力で雷撃を絶てないの?!」
「か、考えてみてくれ、電気を切るなんてできるわけがなかろう! これは言葉の力だ。拙者たちが頭で造った言葉で表現できないことを、どうして現実で叶えられる!」
彼の芯食った言葉に歯噛みする。そうれはそうだ、人を照らすという言葉が消滅させるという言葉だったら、僕はどんな怪物でもたちどころに消滅させられる。だけどそうはならない。それがこの力の有効範囲でもある。御言葉の力は絶大だけど、言葉の範囲を超えることは決してできない。
世界がもう一度暗くなる。鬼の口から光が漏れ出して、今度はルリの方に狙いを定めた。
もたもたしている場合じゃない……!




